英領インドの貿易統計について



杉原 薫




1.主要資料概観

本稿の目的は、英領インドの貿易統計の刊行状況と、その利用上の主な問題点を解説することである。インドは、アジアの中ではもっとも早く、17世紀初頭から貿易統計に関するかなり体系的な資料が存在する国である。イギリスの支配が本格化してからはますますそうなった。19世紀初期の統計としては、Alexander Prinsepの推計があり、1828―29年からの12年間についてはベンガル、ボンベイ、マドラスの税関の報告をK.N.チャウドリ氏が修正した数字がある(K.N.Chaudhuri ed., The Economic Development under the East Indian Company, 1814-1858, Cambridge University Press, Cambridge, 1971)。

19世紀初頭から中葉にかけての英領インドにおける年次貿易統計の収集は、Presidency, Provinceなどと呼ばれる行政単位(以下州単位と略)で行われていた。各州の貿易統計はさまざまな資料に断片的に現われるが、定期的な刊行物としては、ベンガルの1840―42年を最初に、マドラス(1841―42年)、ボンベイ(1848―49年)、英領ビルマ(1854ー55年)、シンド(1858―59年)からそれぞれ刊行されるようになったものが最初である。これらの州単位の統計は、すべて1930年頃(ビルマは1948ー49年)まで継続して刊行されており、当然のことながら港別の統計や各州単位での貿易概況に当たるものなど、全インド・レベルの刊行物よりも詳しいデータが掲載されている。

しかし、1866ー67年分からは、これがカルカッタのインド政府によってさらに英領インド全体の貿易統計として編集、発行されるようになった。1869年に発行されたAnnual Statement of the Trade and Navigation of British India with Foreign Countries, and of the Coasting Trade between the Several Presidencies, in the Year ended 30th April 1867; together with Miscellaneous Statistics relating to the Foreign Trade of British India from Various Periods to 1866-67(published by order of the Governor General in Council, Office of Superintendent of Government Printing)(以下Annual Statementと略。タイトルなどに変更があるが、1950―52年まで続いた)がそれである。この資料の刊行によって、従来から進んでいた外国貿易と沿岸貿易の区別が確定した。すなわち、ベンガル、ボンベイ、シンド、マドラス、英領ビルマの五つの州の外国貿易の合計が英領インドの貿易額として認定された。五つの州の間の海上交易、およびそれらと英領以外(フランス領、ポルトガル領)のインド港との交易は、沿岸交易として別に計上され、それ以外の旧東インド会社の管轄下にあった地域(たとえばシンガポール)との交易は、外国貿易に含められた。1937年におけるビルマの分離を除けば、この時期以降1947年の印パ分離独立にいたるまで、これがインド貿易の基本的な概念となるのである。もちろんこのような意味での「外国貿易(foreign trade)」のなかで、さらにインドの対外国貿易(これが狭義の外国貿易である)と対英領植民地貿易とはしばしば区別されてはいたけれども。

さて、このようにして成立したインド貿易統計は、まもなくイギリス議会文書にも収録されるようになり、それによって大英帝国の貿易統計の中でも特別の地位を占めるようになった。イギリス議会文書として1875年に提出されたTables relating to the Trade of British India with British Possessions and Foreign Countries(以下Tablesと略)は、いわば前掲Annual Statementのイギリス議会文書版だといってよい。それ以前の時期には、インド政庁が直接に州単位での貿易統計をロンドンで編集し、これが商務省をつうじて議会に提出されていた。それは、イギリス議会文書では、Statistical Tables relating to Colonial and other Possessions of the United Kingdomというシリーズの中のEast Indiaの項目に収められている(初出1856年。ただしそれ以前にも一回きりの報告は散見される)。しかし、Annual Statementの登場によってインド貿易の統計は植民地の貿易統計一般から分離し、Tablesとしてイギリス議会文書の中で特別扱いされるようになったのである。両刊行物の登場は、インド貿易統計の収集・刊行体制が制度的に確立したという点で、一つの画期をなしたものと考えられる。

Tablesは1913‐14/1917‐18年版(1920年刊行)で終結する。第一次大戦後イギリス議会文書は量的に縮小し、インド貿易統計も、他の系列の資料に出ている要約表のみになるが、それでもだいたいのことはわかるので、実際には研究者でもイギリス議会文書を一次資料として利用することが多い。歴史統計を本格的に研究するのでなければ、それでとくに支障はない。またこのほか、インド史家にはおそらくもっとも良く知られている統計集にStatistical Abstract relating to British Indiaがある。1867年に1840―65年のデータを編集したものが刊行され、その後年次統計化した。貿易だけでなく、あらゆる分野の統計を要約したもので、個々のデータは単なる再録であるが、全体像をつかむのにはたいへん便利である。しかし、Annual Statementが正規の刊行物として存在する以上、貿易統計に関してはこれが基本資料であり、イギリスでの刊行物は基本的にはすべて簡略表だと理解するべきであろう。

ところで、上記のTablesには、Annual Statementから編集した統計表に加えて、年々の貿易概況が付されていた。最初は前年と対比した量的な変化や新しい動向などの叙述が中心の小冊子だったが、しだいに量的にも内容的にも充実し、Review of the Trade of Indiaと呼ばれて、広く読まれるようになった。統計の中で特に注目に値する数字は、商品別・国別の動きの解説とともに要約的に示されている。著者は、カルカッタで貿易行政を管轄する部局の担当者であった。日本でいえば、大蔵省『外国貿易概覧』に当たるものだと言えよう。言い換えると、Tablesは単にAnnual Statementの要約版だったのではなく、解説編ともいうべき、もうひとつの系列(以下これをReviewと呼ぶ)を含んでいたのである。Reviewは、インドでは独立して発行されていた。しかし、イギリス議会文書では、1895年まではTablesの一部として統計表の冒頭に掲載されていたので、議会文書のリストには現われない。1895―96年を扱う巻(1896年発行)からいったん独立の系列となるが、2年後には逆戻りし、両者が最終的に分離するのは、1899―1900年(1901年発行)からである。本来のTablesは1917―18年を扱う巻(1920年発行)まで、Reviewは1918―19年を扱う巻(1920年発行)まで、続いた。


2.貿易表の体裁とカヴァレッジ

Annual StatementとReviewで採用されている貿易表の体裁は、基本的にはイギリス本国のそれを踏襲していた。ここでは年次統計のみを取り上げたが、この他に月単位の貿易統計も刊行されている。年次統計の収録期間は、1865―66年までは、5月―6月であった。1866―67年にこの年だけ5月ー3月の11ヵ月とし、1867―68年以降4月ー3月のパターンが定着した。ただし、1870年代にはたとえば1873年と略された場合には1872年4月ー1873年3月のことをいう場合があるので、注意を要する。しかし、1880年代には1885―86年という表記が定着し、しだいにたとえば1885年といえば1885年4月ー1886年3月を指すようになった。

記載単位は公式価額および量(品目によって単位が異なる)である。前者の表記はポンドになったり、ルピーになったりするが、換算率は明瞭に示されているので、とくに問題はない。要約表につづいて、主要品目の貿易額が国別構成とともに示される。その後、今度は主要国との貿易が品目別に掲載されている。貿易は、商品と貴金属に、またインド産品の輸出と外国製品の再輸出とに、区別されている。関税のかかる品目についてはその率も示されている。本国のスタイルにあわせようとしたというのは、後の時期における商品分類の導入などの場合にも当てはまる一般的な原則である。

貿易総額としてよく使われるのは、海上貿易のうち民間の商品貿易額で、輸出については再輸出を除いたインド商品の輸出額をとるのが通例である。政府貿易のデータは1870年代から分離して掲げられるようになった。厳密に言えば、データとしての統一性を欠くわけであるが、初期について政府分を分けることはむずかしいであろう。

なお、Annual Statementの最初の巻の付録として、1834ー35年から1866ー67年までの33年間の総括統計(商品、貴金属別の輸出入額)、および1850ー51年以降の主要相手国別構成、主要品目別構成が付されている。ただし、1866―67年版ではまだ収録が不完全なので、1870ー71年版あたりを利用するのがよいであろう。1834―35年から1839ー40年までの数字を上記のチャウドリ氏の修正値と比べると、輸出価額に相当な過小評価があったことが窺える。1841―42年以降についても修正を施す必要があるかもしれない。

19世紀前半は、イギリスの領土拡大が急速に進んだ時期であった。領土が拡大すれば、当然貿易の捕捉範囲が拡大する。たとえば、英領ビルマの貿易統計は1854―55年にスタートし、最初はベンガルの統計に入れられていたが、1861―62年から独立する。シンドのそれは1857―58年にスタートした(1862―63年頃から独立)。しかし、パンジャブと下ビルマが併合され、1858年にイギリス東インド会社の支配からインド政府による直轄支配に変わってからは、貿易統計に直接影響するような大きな変更はない。こうして上述の五つの州、すなわちベンガル、ボンベイ、マドラス、シンド、英領ビルマが基本単位となる体制が成立したわけである。1886年の上ビルマの併合はあったが、ほとんどの貿易はその後も下ビルマで行われた。こうして19世紀のイギリスのインド支配は、カルカッタ、ボンベイ、マドラスの三つの港市を核とする拠点型支配から、広大な亜大陸を鉄道などで結ぶ開発型の支配に発展した。貿易は、まさにそのエンジンの役割を演じたのである。

もちろん貿易統計からだけでは、その過程を追うことはできない。そもそも外国貿易と沿岸交易との区別は、本来イギリスの植民地支配の都合で決定された人工的な区分にすぎず、必ずしも各地域の歴史や文化、経済単位としてのまとまりなどを反映したものではない。たとえば、ビルマをインドの一部として扱うのがよいかどうかは大いに議論の余地があろう。インドの対セイロン貿易が外国貿易で、対ビルマ貿易が沿岸交易である経済的理由を見つけるのは容易ではない。沿岸貿易(交易)統計も、外国貿易と並行して収集・刊行されていたので、両者を有機的に結びつけて分析する必要があろう。なおこれに関連して、鉄道および河川による交易の統計が別に存在することを指摘しておきたい。鉄道史ではデータを加工した研究もあるが、これらの関連統計を全体的に結びつけて、インド経済の世界市場への統合の過程を論じた研究はまだ現われていない。

また、上の紹介は、すべて海上貿易の統計についてであるが、それとは別に近隣諸国との陸上貿易の統計が存在する。北西部の辺境などでしばしば捕捉の範囲や程度が変化したはずなので、あまり確実なことは言えないが、わかる限りでも、額にして海上貿易の1割を超えていた時期がある。外国製品の陸上貿易による再輸出も重要であった。この点についても、全体を概観した研究はない。インドとネパールとの貿易など一部に個別研究があるにとどまっている。また当時のインド亜大陸には英領化していない藩王国と呼ばれる広大な地域が存在したが、領土全体のほぼ三分の一を占めるこれらの地域と英領インドの交易も、ここでの貿易統計には含まれていない。さらにアデンとの貿易など通常の統計とは別扱いになっている海上貿易も若干ある。このように見てくると、インドの貿易統計が本来欧米、とくにイギリスとの遠距離貿易を記録するものとして成立したという事実があらためて想起される。そういうものとしての信頼性はきわめて高いが、近隣諸地域との交易関係の処理や捕捉度にはかなり深刻な問題があるということである。近年盛んになりつつあるインド洋貿易の研究が示唆するように、19世紀のウエスタン・インパクトでインド洋貿易が衰退したかどうかには確かに検討の余地がある。少なくとも既存の統計から簡単に答を出すことはできないのである。


3.工業化型貿易の発展と挫折

従来のインド貿易史研究ではイギリスとの関係に圧倒的な比重が割かれてきた。19世紀初頭に、インドからの綿製品輸出が減り、逆にランカシャーの綿製品がインドに流入するようになったこと、そしてインドがイギリス綿業の原棉供給基地となり、それがまた鉄道建設、イギリスの投資、鉄道や都市建設のためのイギリスからの資材の輸入などにつながったことは、よく知られている。また19世紀中葉のアヘンの中国への輸出、および19世紀末から第一次大戦前における第一次産品の工業ヨーロッパ、日本への輸出が、いずれも多角的貿易決済機構の形成に貢献し、イギリスを中心とする世界経済の円滑な発展に寄与したことも、世界経済史の常識である。

19世紀のインドの貿易では、棉花、綿糸、綿布、アヘン、米など概して数種類の主要品目が大きな比重を占めていたので、これらを抜き出して品目別に議論することが慣行化している。しかし上記のようなかたちでの発展は、インド貿易の構造が、工業化の世界的普及の影響をもろに受けて、それまでの奢侈品を中心とするディマンド・プル型の貿易から、食料や原料などの第一次産品を工業国に輸出し、工業品を輸入する、発展途上国型の貿易へと、変わっていったことを意味している。いわゆる工業化型貿易の一翼に組み込まれたわけである。それは統計表にどのように現われているであろうか。

Annual StatementとTablesでは1887年頃までは、単純に金額の多い主要商品の価額と量の一覧が掲載されている。だが、1880年頃からそれと並行して、次のような分類が登場する。Reviewによれば、イギリスやフランスで発達し、イギリス商務省で採用されるようになった以下の分類が、インドでもしだいに適用されることになった(Review, 1884-85, p.xli, および1888, p.3)。分類は以下のとおり。

   I	  Animals, Living
   II	  Articles of Food and Drink
   III  Metals and Manufactures of
   IV	  Chemicals, Drugs, Medicines and Narcotics, 
 	  and dyeing and tanning materials
   V	  Oils
   VI	  Raw materials and unmanufactured articles
   VII  Articles manufactured and partly manufactured

ただし、III、IV、Vは工業品または半工業品である。Reviewの1884―85年版には、輸出については1879―80年から、輸入については1880―81年から、この分類に加工した表が掲載されている。以降この分類がしだいに食料、原料、半工業品、工業品などのヨリ抽象的な分類に重点をおいたものに変化していく。こうした編集作業を基礎にして、第一次産品輸出と工業品輸入という上に述べたインド貿易の構造把握が成立した。

貿易品目の分類は、国際的には1913年のブラッセル分類、1938年の国際連盟によるMinimum List of Commodities for International Trade Statisticsの作成、第二次大戦後の国際連合によるSITCの作成と進んでいった(P. L. Yates, Forty Years of Foreign Trade, George Allen and Unwin, London, 1959, pp.208-10)。日本について試みられたように(行沢健三・前田昇三『日本貿易の長期統計』、同朋舎、1978年)、19世紀における品目別構成の変化を、一つの統一した基準で表現できれば、歴史的な構造変化についての理解が深まるであろう。そのためには、原資料を後の分類基準にしたがって合計しなおす必要がある。もっとも、そもそも工業化型貿易の確立とともに成立した分類を、19世紀前半のディマンド・プル型の貿易の様相の強い時代にまで遡って適用することには大いに問題があろう。工業化型貿易になってからも、既存の分類には問題が多い。茶、砂糖、米などの加工業の発達度は、第一次産品経済の工業化にとって重要なポイントであるが、これらの商品は加工度にかかわりなく、いずれも第一次産品に分類されている。にもかかわらず、アヘンが上記の分類でIVに、すなわち工業品に含まれているのは、少なくともインド史の側から見れば奇異な印象を拭えない。統一的な分類基準を設けることには、比較を可能にするという大きなメリットがあるが、既存の基準をそのまま前提してよいわけではない。ある程度柔軟な解釈をすることが不可欠である。

しかし、いまかりにこの種の分類の意義を認めたとして、発展途上国型貿易と工業化とはどのように関係するのであろうか。インドが第一次産品輸出経済として世界市場に組み込まれたことを強調するインド貿易史の通説的理解だけでは、この問題を明らかにすることはできない。周知のように、インドはアジアで最初に近代工業を発達させた国であり、綿業や鉄鋼業ではある段階までは日本に先行していた。そして第一次大戦前には、インドは一方では欧米・日本に対して第一次産品を輸出し、工業品を輸入する発展途上国型の貿易構造を維持しながら、他方では東南アジアや東アフリカには工業品を輸出し、第一次産品を輸入する先進国型の貿易構造を作り出した。両大戦間期に東アジアの工業化が進むまでは、インドは明らかにアジアにおける中進国としての役割を果たしていたのである(拙著『アジア間貿易の形成と構造』、ミネルヴァ書房、1996年、第6章)。イギリスが金融・サービス利害に特化したことは、インド貿易の拡大をイギリスが望ましいものと考え、ある程度まではインドに工業化を許す根拠を与えた。

第一次大戦後のインドは、一方で宗主国イギリスの停滞に影響され、他方で東アジアの工業化のインパクトを受けて、輸出主導型の工業化路線を歩むチャンスを失った。1920年代中葉までほぼ順調に拡大しつづけたインドの貿易総額は、その後減少傾向をたどる。経済発展のエンジンとしての第一次産品輸出の役割はいちじるしく減退し、かといって工業品市場で日本に対抗できるほどの競争力もなく、しかも自由貿易体制の基本的な枠組はイギリスによって維持させられた。世界大恐慌後には、内向きの工業化がある程度進む。しかし、工業化のための本格的なプランが多少とも実行されるのは第二次大戦中のことであった。独立後のインドでは国家主導の重化学工業化が試みられたが、成果は必ずしもはかばかしいものではなかった。現在、独立以来の産業政策が見直され、インドは自由化の方向に向かいつつある。しかし、その行方を見定めるのに、1930年代以降の内向きの工業化の展開と挫折の過程を批判的に総括するだけでは決定的に不十分である。インドはかつて輸出主導の工業化に成功した歴史的経験を持つ国であることが改めて想起されてよい。英領インド期の工業化型貿易の発展と挫折の歴史からどのような教訓を引き出すかという問題がいま新しい意味を帯びつつあるように思われる。

最後に、貴金属(treasure)貿易の扱いに触れておこう。19世紀のインドでは、金銀は単に貨幣としてだけではなく、装飾品など商品としてもさまざまな用途があり、しかもそれらは退蔵貨幣としても機能した限りにおいて、ゆるやかな関連をもっていた。時期によっては貿易総額の1割を優に超え、とくに輸入において重要であった。膨大な貴金属の輸入・退蔵がインドの経済発展を阻害した、という考え方は現在でもなくなってはいない。しかし、チャウドリ氏は、19世紀前半の国際収支表を考える際に、貴金属の輸出入を商品の輸出入とは逆の項目に入れている。筆者も、貿易統計としては、商品貿易のみをとって主系列を作るのがよいと考える。


4.むすび

ところで、以上で紹介した資料は他にもいくつかの貿易関連情報が含まれている。これらについて簡単に触れておこう。一つは、関税率と為替レートの趨勢である。植民地下のインドは、強制された自由貿易の体制下にあったといわれる。インドの工業化を促進するような関税政策をとるべきかどうかは、植民地政府にとってもナショナリストにとっても、大きな論点であった。為替レートの切り下げもまたナショナリストの重要な要求の一つであった。それは、特に1920年代以降、主としてインドの工業化に有利なようにルピーを切り下げるか、イギリスの投資を守るために高いレートを維持するかという問題として議論された。

いま一つの注目すべき項目は、海運関係の統計である。19世紀のインド海運史は、端的にいえば伝統的なインド船の事実上の消滅と、それにとってかわるイギリスなどの欧米船・日本船の進出と競争の歴史であった。その帰趨は、一方では貿易構造の変化と密接に結びついているが、同時に軍事的・政治的考慮も強く反映していたと考えられる。20世紀初頭以降、とくに1930年代には、アジアの海運市場の覇権をめぐる角逐は、イギリスにとっても重要な問題であった。

これらのテーマに関しては、いずれも王立委員会の報告書などのイギリス議会文書の中に、詳細な聞き取り調査や対立意見が収められており、研究史的にもしばしばそこでの議論が出発点になってきた。しかし、それらはあくまでイギリスの植民地支配の枠組の中での政策決定を目的とした文書である。これに対し、本稿で取り上げた年次統計や概況などの刊行物には、上に指摘したようなさまざまな制約にもかかわらず、統計の収集という制度的枠組に守られて、政策的関心とは距離のある情報がいわば機械的に、大量に集積されている。それだけに、そこから自由な解釈や新しい枠組を考えるヒントが得られる可能性も残されているといえるであろう。

(すぎはら・かおる 大阪大学経済学部教授)