植民地期インドにおける農業の土地生産性の変動をめぐって

柳沢 悠

1.植民地期農業の面積当たり収量についての論争

(1)G. Blynの研究

植民地期にインド農業の面積当たりの生産性がいかに変動したかという点は、イギリスのインド支配が農業生産にいかなる影響をもったかという問題とも関係して、インド経済史上の重要な論点の一つであった。

この時期の農業生産の変動の統計的研究として最も体系的なものはジョージ・ブリン(George Blyn)によって行われた(Agricultural Trends in India, 1891-1947: Output, Availability, and Productivity, Philadelphia, 1966)。植民地期の農業生産に関する統計としては、重要作物の作付け面積について Agricultural Statistics of India が1884年から発表されるようになり、面積当たりの収量についてEstimate of Area and Yield of the Principal Crops in Indiaが1891年に始まっており、各州レベルの統計は、Season and Crop Reportsとして刊行されてきた。

これらの統計の中で、インド政府による農業生産量の推定は次の計算に基づいて行われた。すなわち、[ある作物の生産量 output]=[県標準収量 district standard(または、average, normal)yield per acre]×[作付け面積crop acreage]×[作柄指数 seasonal condition]である。最初の「標準収量」は、各県で作物ごとに決められている。その正確な規定は与えられていないが、平均的な質の土地における平均的な気候条件の時のその作物の収量であると想定される。この「標準収量」は、5年ごとに行われる坪刈調査crop-cutting experimentsの結果に基づいて改訂されるべきことが決められていたが、5年ごとの坪刈調査が行われない時期があったことは後に述べる。「作付け面積」は、作物が刈り入れられたかどうかにかかわらず、作付けされた面積である。これは村役人の報告に基づくが、おおよそ現実を正確に反映した数値であるというのが、多くの研究者の判断である。「作柄指数」は、平均的天候の時のその村の平均的収量を基準にして当該年の収量がどの程度であるかを、村役人が判断して県に報告したものを基礎に、県の行政官が県のその年の作柄をパーセントやアンナという単位で表示した数値であるが、その正確さについては、強い疑問が提出されてきた(後述)。

ブリンは、こうした統計の分析を通じて、食糧作物の生産高の年間成長率は1891年から1947年の間でわずか0.11%にすぎず、1人当たりの食糧作物の供給量は減少したこと、非食糧作物の生産は全体としては増大したが、作物間の差異が大きいことなどが示された。

(2)Alan W. Hestonの研究とそれへの批判

ボンベイ地方の農業生産の変化をたどったアラン・W. ヘストン(Alan W. Heston)の研究は、1人当たりの食糧作物収量の下降を示したブリンの見解に修正を加えようとするものであった。ボンベイ管区では、「標準収量」が1897年から1946年の長期間にわたって改訂されず、したがって、この間の単位面積当たりの収量の変化は、専ら「作柄指数」が変化した結果で決まった。ヘストンは、これらの収量データは徴税行政上の副産物であって、それをそのまま現実として解釈してしまってはならない、という。その根拠として、「作柄指数」の変動が、降水量など天候の年次的変動と相関していないことを指摘する。この指数が低下傾向を示したのは、初期の行政上の理由と、後期には政治的圧力やナショナリストの運動の結果である。さらに、「標準収量」にもバイアスがあり、特に1886年と97年の間には高めに設定されていた。それは、行政官僚が実際の収量について十分知識をもっていなかったことと、総生産量に占める地税の負担率が大きく表示されないようにするためであったという。ヘストンは、1886年から1947年の期間に面積当たり収量が低下した、あるいは逆に増大したという、いずれの主張についてもそれを裏付ける証拠はない、と結論づけた('Official Yields per Acre in India, 1886-1947', Indian Economic and Social History Review 10, 4 [1973])。

このヘストンの議論には、いくつかの反論が寄せられた。例えば、シュミット・グハ(Sumit Guha)等は次のような批判をしている。まず、降水量の変動と相関がないから「作柄指数」は実態を反映していないというヘストンの主張に対して、「作柄指数」と降水量とはある程度相関しているし、降水量はその年の作柄に影響する複数の要因の一つにすぎないのだから、それとの相関がなくても「作柄指数」が実態と関係しないとはいえない。農産物価格の上昇の結果、1907年以降にはすでに地税の生産物に対する比率は随分と低くなっていて、あえて「作柄指数」を引き下げなくてはいけないという行政上の必要はない、地代反対運動を行った小作人にとって地主が支払っている地税を引き下げられても何の利益にもならないのだから、小作運動の影響で「作柄指数」が下ったというヘストンの主張は根拠がない、などである。

グハはさらに、各地における異なった年次間の坪刈調査の結果を比較して、食糧作物の面積当たり収量が低下してきたことを改めて主張している(Sumit Guha ed., Growth, Stagnation or Decline? Agricultural Productivity in British India, Delhi, 1992)。

2.タミルナード地方における稲の面積当たり収量の変動:   1870年代――1950年代

(1)1870年代から1918年まで

南インドのマドラス管区については、ブリンの研究でも、食糧作物の面積当たり収量は全体として上昇したことが示されている。Season and Crop Reportもそうした動向を示している。これに対して、グハはマドラス管区のいくつかの県の稲の坪刈調査のデータを比較して、この地方でも稲の面積当たりの収量が低下したと主張している。かれが比較に利用した3回の坪刈調査は、第1に、1870〜80年代に行われた各県の地税査定に際して、当該県内の多数の箇所で行った坪刈(以下「1870年坪刈」と呼ぶ)で、第2は1944〜49年に Indian Council of Agricultural Research(ICAR)の行ったもの(「1944-49年坪刈」)、そして第3は1955年から1957年のSeason and Crop Reportsに記載された坪刈の結果としての収量データ(「1955-57年坪刈」)である。

Season and Crop Reportsの「標準収量」や「作柄指数」が現実を正確に反映していたかどうかに疑問が生じている現状では、坪刈調査のデータを利用しようというグハの考えは、妥当である。ただ、マドラス管区では、彼が利用した3つの坪刈調査以外に少なくとも3回の坪刈調査が、1870年坪刈と1944-49年坪刈の間に行われている。すなわち、1901/2年に終わる5年間(「1901年坪刈」)、1906-1911/12年の間の5年間(「1911年坪刈」)と、1917年のもの(「1917年坪刈」)である。この3つの坪刈と土地査定時の1870年坪刈、すなわち1917年までの坪刈調査は、後に述べるように基本的には同一方法によってなされているため、ある程度はその相互比較によって稲の生産性の変動を推定することが可能であろう。

第1表で示されているように、1870年、1901年、1911年および1917年の4回の坪刈の結果をタミルナード地方の10の県についてみると、データのない県を除いてすべての県で1901年と1917年の間には稲の面積当たり収量が増大していることが分かる。1870年代のデータの存在しない2県を除いた8県のうち5県では、1870年代から1917年の間に面積当たり収量が増大していることも分かる。

前述のように、「標準収量」は5年ごとの坪刈調査の結果によって改訂されることになっていた。事実、これらの坪刈調査の後に各県の「標準収量」は改訂されて、坪刈が行われなかった1919年と1954年の間には、「標準収量」の改訂が行われず1918年と同一の数値が継続的に掲げられていた。1905年以前については、Season and Crop Reportsに「標準収量」の数値はないが、1892年に標準収量と同様な性格の数値がマドラス政府によって計算されている。この数値は、土地査定報告書など、さまざまな統計を判断した結果として出されたものである。この1892年の「標準収量」値とその後の「標準収量」の数値も、以上の坪刈調査の結果に対応して1890年代から1918年にすべての県で増大しており、この間の稲の面積当たり収量の増大を示唆している。

(2)1919年以降

1919年以降のマドラス管区の稲の面積当たり収量の推定には、大きな困難がある。前述のように、1917年の坪刈を最後に1954年までマドラス政府による坪刈調査は行われなかった。他方、1944-49年にICARによる坪刈調査は以前の方法とは非常に異なったものであった。ICARの調査は、ランダム・サンプリングの方法によって調査地点を選定したのに対して、それ以前では調査地点の選定は担当役人の判断に委ねられていたからである。1918年以前のサンプリング方法に欠陥があることは、調査の時点でも認識されていた。それらの坪刈調査の結果についての徴税局の報告書自身が、坪刈に選択された地点の土地の平均的な徴税率は管区全体の徴税率より高いこと、つまり、調査地点は平均的な土地よりも収量のよい土地が選ばれる傾向があり、したがって、坪刈の結果を直ちに県全体の平均的な収量とみてはならないと、明確に述べている。つまり、1918年までの坪刈の結果には明らかにバイアスがあり、それをランダム・サンプリングによって調査地点を選定された1944-49年坪刈と比較してこの間の収量の変化を判断することは不適当である。この点、グハが、1944-49年と1870年の坪刈の結果とを比較して、面積当たり収量が低下したと結論づけているのは、不適切である。

1944-49年の坪刈調査の結果をそれ以前のものと比較することが不適当だとすると、何を手掛かりとして収量変化を判断したらよいだろうか。ある作物のある年次の面積当たり収量は「標準収量」と「作柄指数」との積から計算されるが、「標準収量」が改訂されなかった1919年と1954年の間では「作柄指数」がただ一つ残る時系列のデータとなる。この点は1907年以降独立までの時期のボンベイ管区と同様である。しかし、「作柄指数」の信頼性には大きな疑問が提出されている。そこで他の若干のデータと比較することによって、この指数の信頼性を検討したい。

まず、1944-49年の坪刈調査データと、当該1945-49年に関するSeason and Crop Reportsのデータ、すなわち「標準収量」と「作柄指数」との積を比べてみると、両者がかなり近似していることが分かる(第2表)。多くの県で前者の数値が後者より高めであるが、1県を除いて両者の差異は前者の10%以内である。また、「作柄指数」から計算した1953-54年の面積当たり収量は、特に水田地帯の諸県では、1955-57年の坪刈調査の結果と近似している。1944-49年のICARの坪刈はランダム・サンプリングによって調査点を選定しているので、その調査結果は現実の収量に近い数値となっているといってよい。1955-57年の坪刈調査におけるサンプリングの方法については十分な情報はないが、1944-49年の場合と同じくランダム・サンプリングによるとみてよいから、実際の収量に近い結果になっていると考えられる。つまり、1940年代と50年代については、「作柄指数」と実際の収量との間に絶対的には差異があるが、両者はほぼ同方向に同一程度変動していることが分かる。

こうした比較によって、Season and Crop Reportsの「作柄指数」は、タミルナード地方に関しては、現実の収量の変動をかなり反映しているとみてよい。この推定が正しいとすると、「作柄指数」の変動から判断して、タミルナードにおける稲の面積当たり収量は、1920年代と30年代には停滞し、40年代半ばに急落し、50年代前半には戦前の水準を回復したとみることができる。こうした1920年代からの変動の推測は、他の記述的資料の示唆するところともかなり符合している。

以上の検討をまとめると、タミルナード地方の稲の面積当たり収量は、1870年代から1910年代までは全体として上昇し、1920年代と30年代には停滞し、40年代に急落するが、50年代には回復すると推定される。

しかし、この推定には大きな問題があることも留意する必要がある。1918年以前の坪刈調査のデータが相互に比較可能であるという我々の仮定は、ランダム・サンプリングの不採用の結果、いずれの調査結果もその平均値は実際の平均収量より高い数値となったことに基づいているが、そのバイアスの程度は年次によって異なったかもしれない。したがって、1918年以前についても、坪刈調査データがどの程度に相互比較が可能であるかという点に疑問は残る。1919年以降の我々の収量推定は、1944-49年と1950年代にかけて「作柄指数」と坪刈調査による収量とが近似した動きをしていることに基づいているが、これら坪刈調査の結果がマドラス政府による「作柄指数」の発表前にこの政府に伝わり、「作柄指数」はその情報に合わせて修正されて発表されていた可能性もある。そうだとすると、タミルナード地方における「作柄指数」が一般的に現実の変動を反映しているという我々の判断は根拠を失うことになる。我々の結論も、今後の研究によって確認される必要が大きい。


第1表 タミル諸県における坪刈調査による米(rice)のエーカー当たり収量(ibs.)

第2表 米(rice)のエーカー当たり収量(ibs.)

(やなぎさわ・はるか 東京大学東洋文化研究所教授)