成長の計測

インドネシアにおける国民経済計算の発展

ピエール・ヴァンデルエング

インドネシアは、インドおよび日本とともに、アジアではもっとも長い国民経済計算の歴史をもっている。その国民経済計算の歴史上で経験された諸困難をふりかえることにより、『アジア長期経済統計データベース・プロジェクト』が今後直面しうる技術的問題が提示され、過去の国民経済計算を再構成する際の一助となるであろう。


1.初期の国民経済計算

最初の総所得の推計は、インドネシアの中核をなすジャワ島について、貨幣流通量の上限を計測するために、総知事メルクスによって1840年になされた。その計測手続きの詳細は報告されておらず、単に伝聞による推定がおこなわれたものと思われる。より最近の、1900・1904・1913・1920・1922・1924の各年における推計は、より詳細な情報にもとづいていたが、依然として不完全なものであり、対象もジャワ在住インドネシア人の所得にかぎられていた(Baga 1954; CEI 1979: 16-17)。

全インドネシアのすべての人口グループの総所得を推計しようとする最初の本格的な試みは、1926年から1932年にかけてのあいだに関するもので、オランダ領東インド総財務官L.ゲッツェンによってなされた(Go¨tzen 1933)。かれはインドネシア人、ヨーロッパ人(日本人とアメリカ人をふくむ)および「外国東洋人」(中国人とインド人)のそれぞれについて総所得を推計し、インドネシア人が他の民族グループ出身の所得取得者にくらべてより重い税負担にたえうるか、また、1929年以降の恐慌によってその税負担が増大したか、といったことを判断しようとした。インドネシア人の総所得の推計は、登録された農場生産の粗価値、外資および国営企業の賃金と土地に関する領収書、および土着の商工業における利潤と賃金の恣意的な推定にもとづいていたが、その目的にとっては十分なものであった。

1942年から1943年にかけてのあいだに、オランダ領東インド亡命政権によって、インドネシアの国民所得の推計を委嘱された、プリンストン大学在職のオランダ人経済学者J.J.ポラックによる、より包括的な推計は、ゲッツェンの業績をその基礎としている。

ポラック(Polak 1943)は、アメリカ合衆国で入手しうる資料にたよらねばならなかった。かれは、1921年から1932年にかけてのあいだについて、ヨーロッパ人と「外国アジア人」の総所得を推計するために所得税データを用い、土着インドネシア人の総所得を推計するためには工業部門の産出高と賃金のデータを用いた。ポラックの業績がただちに完全なかたちで公表されることはなかったが、そのおもな理由は、ヨーロッパ人の平均所得が土着インドネシア人のそれの50倍にも達することが明らかとなり、そのことが、「(調査を)委嘱したがわの刊行意欲をなえさせた」(ポラックの筆者あて書簡、1996.5.13.)ことであった。1947年にオランダ語の要約が出版され、1950年代にインドネシア大学が謄写版印刷をおこなったのち、その報告全文は1979年に刊行された。

ポラックによる、入手しうる統計データの独創的な利用の成果の有用性は、オランダ中央統計局が、1938年のインドネシア経済全体をモデル化するために広範な流れ図を利用した際に、確認された(CBS 1948)。戦後で最初のGNP推計は、1950年に、マーシャル・プラン担当のアメリカ政府機関である経済協力庁の極東計画分局によってなされた。これに関する詳細は不明であるが、より最近の推計と比較してみると、31億米ドルという推計値はたしかに低すぎるようである。D.グレンベルトは、数量的な指数を用いて、1948−49年度から1952−53年度に関して、ポラックの推計を外挿した(Baga 1954)。


2.体系的な国民経済計算

上記の結果をえるために採用された方法のすべてが、当時、国際連合によって国民経済計算体系(SNA)として確立された計算規則にしたがっていたわけではない。国連は1953年に、アメリカの経済学者D.ノイマルクを、国家計画局(Biro Perancang Negara, BPN)の国民所得顧問としてジャカルタに派遣した。ノイマルク(Neumark 1954)は、1951−52年度の国内純生産(NDP)を、産出高(または付加価値)アプローチをもちいて推計した。かれは、入手しうる基本データの不足、断絶および不正確性を克服するために、大胆な仮定をもうけることを余儀なくされた。当然のことであるが、かれの推計は当時、論争のたねになった(Bakker 1954; Hollinger and Tan 1956, 1957)。

BPNは、そのかぎられた資金を、1956年から1960年にかけての第1次5カ年計画に集中的に投入した。1958年に国連が、BPN内部に経済信用局(Biro Ekonomi dan Keuangan)を特に設置させ、そこで、ムルジャトノ・シンドゥダルモコとL.バランスキーとが、ノイマルクの推計を改訂し、より近年についてのそのおおまかな外挿をおこなうようになるまで、国民経済計算データのそれ以上の改善は、優先的にはおこなわれなかった。ムルジャトノの論文(Muljatno 1960)には、1951年から1955年にかけてのNDPを推計するために用いられた方法についてのくわしい説明がふくまれている。1953年から1958年にかけての別の推計は、のちに、BPNの出版物のなかで、まとまったかたちで用いられた(BPN 1959: 112)。それらはまた、Yearbook of National Accounts Statisticsで公表するために、国連統計事務所にも提出された。

1962年に、統計調査開発センター(Pusat Penelitian serta Perkambangan Statistik)が、インドネシア中央統計局(Biro Pusat Statistik, BPS)の内部に設置されると、国民経済計算の発展はさらに刺激された。国民経済計算の実行がBPSの管轄に移されたのち、国民経済計算体系を改善することがセンターの職務のひとつとなった。小規模工業やサービス業など、公式統計においては十分な調査がおよんでいなかった部門の生産高に関する特別調査がおこなわれ、計算体系の改善がますます期待されるようになった。原材料使用と価格づけとをより正確に追跡するための、さらなる調査も計画された。

インド人統計家K.N.C.ピライは1963年に、依然として産出高アプローチを採用することにしたものの、最新のデータを用いてあらたな計算体系を確立しようとしたが、この作業は、1965年にインドネシアが国連を脱退したときに妨害された。ピライはインドネシア人の同僚たちへの指導から身をひいたが、かれの指導は、1958年から1962年にかけてのあらたなNDP系列が、最新のデータをもとにして、作成・公表される際の基礎となった


3.現代的な国民経済計算

BPSは、GDP推計のあらたな系列を作成し、1967年に出版した。その翌年に国連の技術的支援が再開されると、その系列は改訂され、のちには1973年にまで拡張された。このときはじめて、工業を源泉とするGDPの推計と、GNPの支出面の推計とが公表されたが、個人支出は、他のすべての項目が計算されたのちに、単に残余として計算された。SNA指針に適合する、包括的な国民経済計算に必要とされるデータは入手可能になっていたが、その信頼性の水準には、依然として、大きな改善の余地がのこされていた(Arndt and Ross 1970: 48-54)。調査がおよんでいない部門での値増し率や商業利幅などについては、恣意的な判断がなされていたため、改訂とさらなる改善とが必要とされたのである。

インドネシアの国民経済計算は、基準年の変更にともない、3回の主要な改訂をへている。改訂がなされるたびに、新旧の推計がかさなる時期のGDPの推計値は、相当高めに修正された。そのような相違が生じたのは、計測手続きがかわって、産出高や投入財使用量の計測値、それに価格づけの方法に変化がみられたことと、調査対象が、以前には調査されていなかった部門をもふくむように拡張されたこととによっている。しかし、そのような変化は細部にまでおよんでいるため、相違が生じた理由を簡潔に指摘するのはむずかしい。そのうえ、1950年代と1960年代のデータの大部分は、付表と、採用された計測方法と仮定の説明とをともなって公表されていたのに対して、それ以降の国民経済計算に関する刊行物においては、そのような情報はまばらにしかあらわれていない。

しかしながら、数次にわたっておこなわれた各種の国民経済調査(農業、工業、鉱業、家計支出など)の結果が、計算のなかにくみこまれていたことは明らかである。なかでも特に重要なのは投入産出(IO)表である。

最初のIO表は1969年に試験的に作成された。各特定部門における、原材料投入と、投入物および産出物の価格づけとに関する相当詳細なデータを基礎とする、より精密なIO表は、東京のアジア経済研究所の助力をえて、1971年に完成された。この業績は、1975年、1980年、1985年および1990年にBPSによって作成された、より最近のIO表の範型となった。国民経済計算の最近の2次の改訂は、ますます複雑になってきているIO表作成手順にもとづいてなされている。

国民経済計算についてこの間になされた改善は、計測手順の改良だけにはとどまらない。BPSはいま、四半期ごとにGDPを推計している。BPSはまた、インドネシアの27州のそれぞれについて、場合によっては1966年にまでさかのぼって、GDPデータを再構成している。(Kerr 1973)実のところ、BPSは最近になって、県(kabupaten)ごとのGDPをも、曖昧にではあるが推計している(2)(BPS 1996)。その種のデータは、量的には不足しているものの、GDPの地域的なひろがりについて相応の印象をあたえているが、その総計が全国のGDPに達するところにはまだいたっていない。


4.結  論

これまでの議論からわかるように、インドネシアの総生産と国民所得に関する入手可能な歴史統計系列は、定義の変更と、過去における相当程度の過小推計とのために、一貫性を欠くものとなっている。それらの推計を単純に接続して、1921年から1994年におよぶ時系列を作成したりすれば、そのような不一致が無視され、成長率は実際よりも高く出てくることになる。それよりもむしろ、定義は一貫させられなければならないであろうし、また、産出高の過小推計がある時点でみつかったならば、それ以前の系列においてもそのことは考慮されなければならないであろう。


(1)ムルジャトノ、BPN、国連およびBPSの4者によって公表された、1951年から1962年にかけての時期に関するデータには、重大なくいちがいがみられる。スハルトノ(Suhartono 1967: 100-145)は、この時期のインドネシア経済をモデル化しようとする試みのなかで、11部門のNDPを推計するために、そのようなくいちがいを調整しようとした。


(2)たとえば、ジャカルタの一人あたりGDPは290万ルピアで、ジャワのインドラマユやシカラプのようないくつかの農村県と同程度となっており、また、東ジャワのケディリやイリアン・ジャヤのファク・ファクの一人あたりGDPは、630万ルピアという極端な値を示した。



参考文献

Arndt, H.W. and C. Ross (1970) 'The New National Income Estimates', Bulletin of Indonesian Economic Studies, 6, No.3, pp.33-60.

Baga, M. (1954) 'Pendapatan Nasional' [国民所得], Buku Peringatan Dies Natalis ke-4, Fakulet Ekonomi, Universitas Indonesia, 4, pp.26-35.

Bakker, C. (1954) 'Some Remarks about Dr. Neumark's Estimation of the National Income of Indonesia in 1951 and 1952', Ekonomi dan Keuangan Indonesia, 7, pp.597-602.

BPN (1959) Laporan Pelaksanaan Rentjana Pembanunan Lima Tahun.[5カ年計画の進行に関する報告]Jakarta, Biro Perancang Negara.

BPS (1966) Pendapatan Nasional Indonesia menurut Lapangan Usaha (Industri) 1958-62. Methode Penghitungan dan Sumber Data. Jakarta: Biro Pusat Statistik.

BPS (1967) Pendapatan Nasional 1960-1964 menurut Lapangan Usaha. Jakarta: Biro Pusat Statistik.

BPS (1996) Produk Domestik Regional Bruto Kabupaten/Kotamadya di Indonesia, 1983-1993. Jakarta: Biro Pusat Statistik.

BPS, Pendapatan Nasional Indonesia, 1970-(定期刊行物)

CBS (1948) 'De Nationale Rekeningen voor Nederlandsch-Indie, 1938'[オランダ領インドにおける国民経済計算、1938年], Statistisch-Econometrische Onderzoekingen, 4, pp.61-146. (CEI 1979: 103-129に翻訳・転載。)

CEI (1979) Changing Economy in Indonesia. Vol. 5: National Income. The Hague: Nijhoff.

Go¨tzen, L. (1933) 'Volksinkomen en Belasting'[国民所得と課税], Koloniale Studien, 17, Vol.2, pp.449-484.

Hollinger, W.C. and A.D. Tan (1956, 1957) 'The National Income of Indonesia, 1951-1952: A Critical Commentary on the Neumark Estimates', Ekonomi dan Keuangan Indonesia, 9, pp.785-798 and 10, pp.2-33.

Kerr, A. (1973) 'Regional Income Estimation in Indonesia: Historical Development', Ekonomi dan Keuangan Indonesia, 21, pp.216-224.

Muljatno (1960) 'Perhitungan Pendapatan Nasional Indonesia untuk Tahun 1953 dan 1954'[1953年と1954年のインドネシアの国民所得の計算], Ekonomi dan Keuangan Indonesia, 13, pp.162-211.

Neumark, S.D. (1954) 'The National Income of Indonesia, 1951-1952', Ekonomi dan Keuangan Indonesia, 7, pp.348-391.

Polak, J.J. (1943) The National Income of the Netherlands Indies, 1921-1939. New York: Netherlands and Netherlands-Indies Council of the Institute of Pacific Relations.(CEI 1979: 25-102に転載。)

Polak, J.J. (1947) 'Het Nationale Inkomen van Nederlandsch-Indie, 1921-1939'[オランダ領東インドの国民所得], Statistisch-Econometrische Onderzoekingen, 3, pp.104-108.

Suhartono, R.B. (1967) The Indonesian Economy: An Attempt in Econometric Model Analysis.(博士論文)Wayne State University, Detroit (Michigan).

(Pierre van der Eng オーストラリア国立大学) [訳・杉野 実]