エジプト統計事情余話

加藤 博


エジプト的性格

  中東のほとんどの国家は、第一次大戦後、欧米列強が自分たちの国益を思惑として設定した、人工的な国境をもつ。そのため、中東の国家について、その国民国家、国民経済の未成熟が指摘されている。そのなかにあって、エジプトは例外的に歴史的国境をもち、19世紀以降の近代において、「国民」意識を成熟させるのに適した歴史環境にあった。実際、「国民国家」エジプトの形成において、まず「エジプト人」―それはナイルの水を共有する人々である―ありきであり、ついで政治体としての「エジプト国家」が問題とされた。この点において、いまだ国歌、国旗問題に決着をみないまま「日本人」論、「日本国家」論が云々される日本と似ていなくもない。

「エジプト的性格」という言葉がある。エジプト人はこの言葉を日常生活において頻繁に使う。このことが示すように、エジプト人は自分たちについて語り、語られるのが好きな国民である。語られる内容は否定的なもの、さらには中傷的なものであっても構わない。いや、気の効いた言い回しならば、自分たちが悪く言われることの方を好む。この点についても、日本人に似ているかもしれない。そして、この一見すると被虐的な精神の背後にあるのは、外国人には自分たちの社会、文化を理解することはできないとする、傲慢とさえ言える自分たちに対する自信である。この自信は、自分たちの身の回りの生活環境が劣悪になっていく現実を前にしても、決して揺らぐことはない。


早すぎた明治維新

日本の近代国家形成が、明治維新以降、異例の速さで達成されたことは周知のことである。しかし、エジプトの近代史は、この日本の近代史に増して波瀾に富み、厳しいものであった。それは、非西欧世界が、迫り来る西欧列強の進出のなかで、自立的な近代国家建設を目指した最も早い試みの一つであった。それも、70年という短い期間のうちに、1840年を境に、全く異なる経済体制のもとで二度試みられ、ともに華々しく散ったのであった。

第一は、開明的絶対君主ムハンマド・アリ−(在位1805-48)による試みである。彼は、保護貿易体制下にあって、農業からの利益を国家に集中させる経済独占政策をとり、その利益を強大な軍隊の創設、国営近代工場の開設に振り向けた。エジプトの国力の充実は目覚ましく、宗主国オスマン帝国を軍事的に凌駕するまでになった。エジプトは、海外に市場を求め、アラビア半島、ス−ダン・エチオピア、クレタ・キプロス、シリアに進出した。それは、中東・アフリカでのオスマン帝国に代わる新たな現地帝国の出現を予感させるものだった。

実際、当時(1831年)におけるアレクサンドリア港からの輸出入統計をみるに、輸出入国の上位5ケ国はともにトルコ(輸出入それぞれ46.8% 、33.2%)、オ−ストリア(17.5%、25.2%)、トゥスカナ(17.1%、11.6%)、イギリス(8.1% 、13.5%)、フランス(5.8% 、11.3%)となっている。このうち、トルコとはオスマン帝国であることは言うまでもないが、オ−ストリアとトゥスカナについて、現在のオ−ストリアという国家、トゥスカナというイタリアの地方を単純に想定してはならない。

というのも、当時の文献によれば、アレクサンドリアに居住していた外国人のうち、オ−ストリア人と登録されていたほとんどは、―当時ウィ−ンを首都とするハプスブルグ帝国の統治下にあった、おそらくベネチアを中心とした地方の―イタリア人であり、トゥスカナ人と登録されていた大部分は、フィレンツェの外港にして、中世以降、特権的自由経済地区であったリヴォルノのユダヤ人であったからである。これに、上位5ケ国に続く貿易相手国としてマルタ、ギリシア、サルディニアが挙げられるのを勘案した時、われわれは19世紀前半における、エ−ゲ海、アドリア海を内海とした東地中海貿易圏の存在を想定せざるを得ない。

これはアレクサンドリア港、つまり地中海方面についてだけの貿易事情である。もし、これに、統計が存在しないためにその数量を把握できないが、リビア、ス−ダン、シリア方面への陸上貿易、紅海を介したアラビア半島、インド洋方面の貿易を加味したならば、当時のエジプトの国力の増大が中東・アフリカでのオスマン帝国に代わる新たな現地帝国の出現を予感させるものだったと述べても、決して誇張的な表現ではないだろう。 しかし、19世紀前半の中東をめぐる国際政治環境は、このような新たな現地帝国の出現を許すものではなかった。1840年、西欧列強は、武力介入を含む圧力によって、エジプトにロンドン四国条約の受入れを迫った。この条約は、ムハンマド・アリ−一族によるエジプト総督の世襲を条件―以後、1952年のエジプト革命まで、ムハンマド・アリ−王朝が続くことになる―に、ス−ダンを除く征服地の放棄と不平等条約のもとでのエジプト国内市場の開放を要求したものであった。エジプトはこの要求を飲まざるをえなかった。以後、エジプトは、ナイル峡谷の領域国家として歩むことになる。


挫折した「鹿鳴館時代」

かくて、ムハンマド・アリ−による近代国家建設の試みは挫折した。しかし、ナイルの水によって保証されたエジプトの農業資源は豊かであった。そこで、この豊かな資源を背景に、ムハンマド・アリ−の後継者たち、サイ−ド(在位1854-63 年) 、イスマイ−ル( 在位1863-79 年)、とりわけ後者の治世において、エジプトは、今度は自由主義経済体制のもとで、第二の近代国家建設の試みを行うことになる。

それは、極端なまでの欧化主義に基づく近代化政策であった。当時は、西欧のものであれば何でも良い時代であった。30年代にはマルセイユ・アレクサンドリア間、スエズ・ボンベイ間の蒸気船ル−トがすでに開設されていたが、55年にはアレクサンドリア・カイロ間に、次いで58年にはカイロ・スエズ間に鉄道が敷かれ、地中海と紅海・インド洋はエジプトを結節点として、海路、陸路とも繋がった。幕末にヨ−ロッパに渡った日本人が必ずエジプトを通過したのはこのためである。

そして、こうしたインフラ整備はすべて、ヨ−ロッパ、とりわけイギリスの綿工業向け、原綿の栽培、輸送拡大を目的としたものであった。かくて、エジプトは、綿作モノカルチャ−経済に特化した「ランカシャ−の綿花農場」の様相を呈するにいたる。アレクサンドリア貿易統計によれば、すでに60年代後半において、輸出額の76.7% 、輸入額の42.2% がイギリスを対象としたものであり、輸出の大半は綿花であった。当時のエジプト支配者イスマイ−ルは言ったものである。「エジプトはすでにヨ−ロッパの一部である」と。

そして、この時代を象徴する事業、それが69年に完成したスエズ運河である。それは、エジプトの夢であるとともに、ヨ−ロッパ、とりわけフランスの夢でもあった。というのも、この事業は、19世紀の前半から中葉にかけてエジプトの国政に最も大きな影響を与えた、アンファンタンを中心とした後期サン・シモン学派の思想の落とし子だからである。スエズ運河の建設者レセップスも、東洋に産業社会の建設を夢みるこの時代の思想の子供であった。

エジプト政府はスエズ運河の完成を祝うために、パリのオペラ座を模した大歌劇場を建設した。そのこけら落としのために、ベルディにオペラの作曲を依頼した。その曲名は「アイ−ダ」。古代エジプトを舞台とした悲恋物語である。もっとも、実際には、作曲はスエズ運河の完成に間に合わなかった。そこで、代わりに「リゴレット」が上演されることになった。また、スエズ運河の完成を祝う儀式に参列した来賓を泊まらせるために、カイロ近郊のギ−ザの大ピラミッドの真正面に壮大なホテルを建設した。現在のメナハウス・ホテルであり、第二次世界大戦末期には、ここで連合国側のカイロ会談が開かれた。現在でも、ピラミッドと対面する部屋は、「チャ−チルの部屋」と命名されている。

しかし、こうしたどんちゃん騒ぎのツケは大きかった。ムハンマド・アリ−の時代、エジプトには外国からの負債は一切なかった。エジプトの最初の外債発行は1862年である。しかしその後、外債はまたたくまに累積し、なんと14年後の76年には、エジプト財政は破綻し、列強による国際管理のもとに置かれたのである。その10年後、不平等条約改正を目的とした「鹿鳴館」外交を展開した井上馨は、外務大臣を辞するに際し、盟友伊藤博文に対して書いた。「日本はイヒジプト(エジプト)のようになっては困る」と。


国政の近代化と統計

1881年、ヨ−ロッパ列強の国内政治への介入が深まるなか、近代エジプト最初の民族主義運動が発生する。指導者の軍人の名前をとって「オラ−ビ−革命」と呼ばれるこの運動は、翌年のイギリス軍のアレクサンドリア上陸でもって挫折し、以後、エジプトはイギリスの軍事占領下に置かれ、実質的な植民地行政が展開されることになる。そして、エジプトにおいて、統計が整備されるのは、この時代以降においてである。

76年のエジプト財政破綻後の、領事報告書など、西欧列強行政当局が作成した文書を読むと、そこでは、それまでのエジプト行政がいかに前近代的であり、非能率なものであったかが繰り返し述べられている。国民を把握し、効率よい行政を行うための基礎デ−タである統計についても、またしかりである。

しかし、だからといって、それ以前のエジプト行政が国民を捕捉する情報をもたずになされたのではないことは言うまでもない。そうでなければ、これまでに指摘してきたような近代エジプト史の展開などありえなかったであろう。反対に、研究から窺われるのは、エジプト政府は国民支配のため、実に細かな情報の収集に努め、それに基づいて国民を支配していたという事実である。

たとえば、19世紀の50年代において、エジプトの農民は、世帯ごとの家族構成を示す「住民簿」、死亡者の報告台帳である「死亡登録簿」、徴兵された農民の名前と徴発日を記した「徴兵登録簿」―エジプトでは1822年の早い時期に、一般農民の徴発という意味での徴兵制がしかれた―という三つの帳簿によって管理されていた。これらの帳簿は村単位に作成されたが、そのもとになった統計デ−タが、1847年に実施された全国規模での人口調査―そのアラビア語は ta`dad al-sukkan であり、この用語はその後、人口センサスを指す言葉として用いられた―によって得られたものであることはほぼ間違いない。当時、この調査は砂漠オアシス地方の遊牧民にまで及んでいた。

したがって、違いは細かな統計デ−タに基づいて国民支配が行われていたか否かではなく、統計デ−タを収集し管理する体制の違い、具体的にはそれらを中央集権的になすか否かの違いであると言える。そして、その背景にあるのが、結局のところ、国家観の相違であることは疑いを入れない。

かくて、統計デ−タの中央管理体制への移行は、19世紀を通じてのエジプトにおける全般的国家機構の近代化(西欧化)、集権化の進展と軌を一にした。時間の経過とともに、統計デ−タへの関心は確実に高まった。このことを示すのが、アリ−・ムバ−ラク( `Ali Mubarak 1824-94n年)に代表される、公文書を中心に百科全書的に情報を収集した文人官僚の歴史家たちの台頭である。たとえば、アリ−・ムバ−ラクは、「地誌」( khitat )と呼ばれた、エジプトに伝統的な地誌、年代記、伝記を総合した文学様式の著作、『新地誌』( al-khitat al-tawfiqiya al-jadida, 20 vols., Cairo, 1888-89 )を刊行したが、彼はそのなかで、政府諸機関に分散して所蔵されている多くの統計デ−タを引用している。

このように、国家機構の近代化、集権化にともなう統計デ−タの重視は、突然に西欧から持ち込まれたものではなく、「国民国家」エジプトの成熟度に応じて、行政上の必要からエジプト官僚のなかで生じたものであった。しかし、この傾向がドラスティックな形で進行する契機となったのは、1876年におけるエジプト財政の破産と国際管理であった。というのも、この事件は、西欧列強のエジプトに対する露骨な帝国主義的な干渉以外のなにものでもなかったものの、その結果の一つとして、それまで未分化であった王室財政と国家財政を切り離し、計算上では合理的な国民経済への道を開いたからである。


植民地行政と統計

エジプト財政の破産後、債務を清算し、債権者の利益を守るため、「エジプト債務委員会」( la Commission de la Dette Publique d'Egypte)が設立された。さらに、エジプト財政の収支をそれぞれ監督するために、財務大臣と公共事業大臣にそれぞれイギリス人とフランス人が送り込まれた。毎年発行される「エジプト債務委員会」会計報告書には、債務を清算するための担保とされた、土地税を含む財源に関する情報が掲載された。

こうして、諸官庁に統計局が設けられ、そこで集計された関連統計デ−タは財務省に送られた。私の手元にある資料だけに基づく推定であるが、たとえば、Ministere des Finances Egyptiennes, Statistique agricole et animale de l'Egypte. Pour l'annee cophte 1590( Le Caire, 1876 ) と、Ministere de l'Interieur, Direction Generale de la Statistique, Le commerce exterieur de l'Egypte pendant les annees 1874, 1875, 1876, 1877 et 1878 ( Le Caire, 1879 )は、それぞれこうして体系的に集計された最も早い時期の農業統計、貿易統計デ−タの刊行物であろう。

また、エジプトがイギリスの軍事占領下に置かれた1882年には、最初の人口センサスが財務省統計局の監督下に実施された。これは、いわば準備段階での人口調査であり、事実上の第一回人口センサスとなる本格的な人口調査は、1897年になされた。以後、1907年、1917年、1927年、1937年、1947年と10年ごとに人口センサスが実施された。 こうしたイギリス当局主導の調査が、当局自身が誇らしげに語るように、それまでのエジプトで実施された調査とは比較にならぬほど精密で徹底したものであったことは疑いない。近代化政策の後発国ではあるものの、20世紀初頭には帝国主義列強の一翼を担うまでになった日本は、こうしたエジプトの近代史を反面教師とし、そこに植民地行政のモデルをみた。具体的には、イギリスによるエジプト支配が、日本の台湾、朝鮮支配のモデルとなったのである。

たとえば、1911年に日本が朝鮮で開始した土地調査事業は、19世紀末にエジプトで実施された、「科学的」土地調査をともなう土地税改正事業を詳しく検討し、これをより徹底させて実行したものであった―中村哲ほか編『朝鮮近代の経済構造』(日本評論社、1990年)所収、宮嶋博史「比較史的視点からみた朝鮮土地調査事業」を参照―。

多くの統計関係の専門家、研究者が財務省統計局を中心とした政府官庁のほか、半官半民の研究機関にも集められた。こうした研究機関の一つに、1909年に設立された「エジプト政治経済・統計・立法協会」( Societe d'Economie Politique, de Statistique et de Legislation, al-jam`iya al-misriya li-l-iqtisad al-siyasi wa al-ihsa'wa al- tashri` )がある。現在にまで続く、この協会の紀要、L'Egypte contemporaine( Misr al-mu`asir)には、エジプト経済史研究にとって貴重な統計デ−タが掲載されている。


エジプトにおける国民所得概念の導入

こうして、1897年の人口センサス時に、人口調査に合わせて、人口以外の統計を収集することになる。おそらく、A. Boinet, Geographie economique et administrative de l'Egypte, Basse-Egypteワ, ( Le Caire,1902 ) は、その成果の一端である。そこには、村単位で、村民の生活に係わるさまざまなデ−タが記載されている。ただし、この著作は下エジプト・デルタ地方の3県だけを対象としており、続巻が予告されているにもかかわらず、他の県については、同様な著作が刊行されることはなかった。

さらに、1907年の人口センサス時においても、それに合わせて、村単位での村民の生活に係わる経済、社会統計が収集された。財務省から刊行された、Nizarat al-Maliya, ihsa'iya `umumiya `an al-muhafazat wa al-mudiriyat li-l-qutr al-misri, ( 『エジプト行政区別一般統計』 Cairo, 1909 )は、その成果である。また、その後の時系列分析の起点となるような、詳細な教育統計が取られたのもこの年であった。

両大戦間期は、本格的に経済、社会統計が収集されるようになる時代である。たとえば、経済統計を取り上げてみるに、1927年、最初の農業センサスが、さらに、1937年、最初の工業センサスが、人口センサスに呼応する形で実施された。

かくするうちに、経済政策担当者の間に、国民所得分析が普及するようになる。1942年、財務省のなかに、1937年から1945年にかけてのエジプトの国家収入・支出に関する研究委員会が発足する。この委員会での成果を取りまとめたのが、M. A. Anis, A Study of the National Income of Egypt( Cairo, 1950 ) である。このおそらくエジプトについて最初の国民所得分析をおこなったマフム−ド・アニ−スは、ロンドン大学で博士号を取った経済学者であり、上記研究委員会のメンバ−の一人であった。

この著作のなかでアニ−スは、当時において国民所得分析を困難にしている統計事情として、土地と不動産の賃貸料、農業賃金と農業利潤、商業・工業利潤、1942年以前の工業賃金、給与・賃金一般、国際収支、雇用について信頼に足る統計デ−タがないことを指摘している。以後、経済政策担当者は、国民所得分析に必要であるにもかかわらず入手できない、これらの項目に関する統計デ−タの整備に努めることになる。


中央統計局の設置

そして、それを実行する機関は、第二次大戦直後の1946年に新設された「中央統計局」( Central Agency for Public Mobilization and Statistics、通称 CAPMAS )である。これは、統計デ−タの集中管理を目的に設立された官庁であり、エジプトのすべての機関、大学、研究所、個人、国際機関に対して、統計を中心とする、必要な公式資料を提供することを任務とする。

1952年、エジプト革命が起き、ナセルを指導者とする革命政権は計画経済を採用したが、そのためのデ−タ提供を義務づけられたのも、この機関であった。70年代後半以降の開放経済体制下にある現在においても、在庫があるかぎり、われわれはこの機関から必要な統計デ−タを入手することができる。なお、 CAPMAS 中央行政ならびに統計部の組織図は次の通りである(出典 CAPMAS, Informative Bulletin, 1993 )。こうした中央局の下に、県別に地方支部が組織されている。


(かとう・ひろし 一橋大学経済学部教授)