経済史統計の三つの落とし穴


梅村 又次




1.自家消費に廻る生産物

 国民経済計算では食料の自家消費だけを計上することになっています。しかし、この措置は市場経済が十分に発達した状態を前提にしたもので、経済発展の初期段階にある社会では大いに問題のあるところです。

 そこでは衣料や住居の調達が市場を経由することなしに行われていて、生産統計からも事実上落ちていると考えるべきでしょう。調査の最前線にある町村役場の統計係は他の職務の傍ら統計調査も担当させられているというのが実情であり、統計調査の仕事は今日でも重要性のごく低い仕事と役所や企業では受け取られています。そういう彼が面倒な自家消費の衣料などを調べる余裕などあるはずがありません。

 また、同じ食糧でも自家用の野菜やミルクや鶏卵のように必要な時に必要なだけ取ってくるものでは、その年間の累計は農家の主婦でも把握していないでしょうし、またその必要もないわけです。当然、これも生産統計から落ちます。したがって、消費統計と生産統計を突き合わせてみると、両者の間には大きな差が出てきます。米麦のように圃場で一度に収穫して、販売用と自家用とを分けておくものとは根本的に違うのです。

2.副業統計の重要性

 経済発展の初期には職業の分化は進んでいませんし、毎日が手から口への生活です。こういうところでは、一家の生計を支えるためにはなんにでも手を出して、収入を稼がなければなりません。そこには本、副の区別なんかもともとありません。いわば、合わせて一本なのです。それを外から蚤取り眼で選り分けて、お前の本業はこれで、他は副業だとするのが統計調査です。人口センサスの産業別就業者の統計はこうして出来上がります。それは人口の職業的特性を描くものではあっても、産業別の労働投入量を代表するものではないのです。そうして、前者がどの程度まで後者を代表できるかは副業の統計によってのみ検討できるのですが、そのステップを飛ばしてしまうところに、とんでもない錯覚の原因が潜んでおります。

3.度量衡の問題

 わが国で度量衡法が制定されたのは実に明治24年3月24日のことです。幕府が度量衡を公定したというが、幕令がそのまま諸藩を規制したわけではありません。地方には市場経済が成立する以前からそれぞれの地方的慣行があって、その慣行に基づいて年貢が徴収されてきたわけです。度量衡もその慣行の一つです。したがって、権力者が度量衡に手を加えるということは、庶民の側からは増税になるおそれが多分にあるわけであす。だから人々は度量衡の改訂に対しては強く抵抗するでしょう。度量衡の改訂は実は政治問題なのです。メートル法がフランス革命の真っ只中で行われたのはそのことを最も雄弁に物語っています。明治5年に始まる地租改正の実質的な内容は5年後に税率を3%から2.5%に引き下げた以外、手を加えていません。他方、約20年の間に米価は上昇したし、農業生産も増大しました。その結果として、地租の実質的な負担は軽減されたに違いありません。それを見越して、ようやく度量衡の法定となったわけです。

 それ以前の時期の統計には、地方慣行的な度量衡が使われていたと考えるべきでしょう。そうして長い時間をかけて地方的な度量衡から法定された度量衡へと移行したと考えるべきでしょう。経済統計はその影響下にあるわけです。高名なJ. Nakamuraのわが国農業生産統計の批判はこうした度量衡の漸進的移行の事実を見落としていると思います。

(うめむら・またじ 一橋大学名誉教授)


*COEプロジェクト諮問委員、梅村又次先生より寄せられたコメントを掲載させていただきました。