書生(S) 5年間にわたるプロジェクトもいよいよ幕切れですね。いったい、初期の目的を達成したのですか。
老師(L) はなから鋭い質問だね。客観的に測るのは難しいけれど、やりたかったことの4〜5割というとこかな。
S 4〜5割だったら、学期末試験でいえば落第するかしないかの瀬戸際じゃありませんか。そんなことで、血税を使ったプロジェクトとして申し開きがたつんですか。
L ますます厳しいね。でも、「やりたかったこと」の4〜5割って言ったんだよ。5年でやれることを分母にとれば、その9割くらいは仕上げたと思うな。
それに、ヴェトナムのように、予定外の領域に手を拡げた場合もあった。蓋を開けてみたら資料の発掘から始めなくてはならんありさまで、ごく最近、ようやくどんな資料がどのくらいあるかの見当がついてきたところ(極東ロシア)もある。
S もう一度、元来の目的を聞かせてください。
L 広義のアジアを対象に、19世紀後半から1990年までを対象に、統一的基準に準拠したマクロ経済統計のデータベースを作る。略称でASHSTAT(Asian Historical Statistics Data Base Project)っていうんだ。
S 以前から不思議に思っていたんですが、データベースを作るのがなぜ一人前の研究として成立するんですか。
L 君のように理系の訓練を受けた人には、その疑問があるだろうね。
でも人文社会系では、雨量を測るような具合に誰がみても同じに読めるという意味で「客観的」なデータは、むしろ例外なんだ。僕らのプロジェクトでは、人文社会系の「意味の濃い」データを集めてきて、それを体系的なデータベースに仕立てようというんだから、いわばフィルターで二回濾していることになる。
S もっと具体的に説明してください。
L たとえば、人口統計。
人口統計には、静態統計(国勢調査、戸口調査)と動態調査(出生・死亡統計)とがある。静態と動態とはあい補って人口の時系列統計を構成するはずだ。ところが実際には、この両者から得られる情報は必ずしも一致しない。
人口の静態調査は、治世者が、自分の支配力の安定を誇示する目的で実施することもある。そのような場合には、十分な準備もないまま、素人同然の調査員を動員して、記載漏れの多い不精確な調査を実施するかもしれない。
動態調査の側にも、しばしば問題がある。出生記録がないのは論外としても、社会・文化的な理由から、出生届けを怠ったり、わざと時間をずらせて届けたりするとか・・・。死産が登録から洩れることも多い。
ともかく、いろいろな理由から発生する原資料の不備は、できるだけ補正するのが原則だ。しかし補正するには、資料の背景にあるさまざまな事情を配慮した仮定を設けることが必要になる。
S データを読む側の解釈まで付け加わる・・・。
L 実際には、静態統計か動態統計かのどちらかがあればまだいい方で、昔に遡ると両方ともないこともしばしばある。
そのときは、まったくお手上げかといえばそうでもない。推計の道具を外から、つまり人口理論から借りてくる手もあるんだ。でも、うまい推計結果が得られるかどうかは、当然、使用した仮定が時代や地域の経済社会を適切に反映しているかどうかに依存する。
それだけじゃない。出来上がった人口系列は、国際比較に耐えるように、性別はもちろん、世帯構成とか就業状態など、国際基準に照らして分類・整理したい。しかし、そのような国際基準は、特定の時代の地域の事情にはそぐわないことがあるかもしれない。
要するに、人口統計は、数値の背景にある文化的な意味を解釈する余地のある数値の集まりなんだ。そこに、専門家の出番もある。
S なるほど。
L 実をいえば、自然観察にもとづくデータだって、観察するのは人間だ。だから[ヌケ]の人間の社会文化的背景が観察結果に大きな影響をもつことがある。雨量の測定でも、毎日やるのを怠って適当に記入するとか、測定器の設置場所を間違えるとか、ね。しかし人文社会系の場合は、対象が人間とその社会だから、被観察者がもつ社会文化的状況も考慮する必要がある。それで一層ややこしくなるんだ。
S 地域やテーマ別の成果は、いったいどの程度完成したのですか。
L 取り上げた地域は13、テーマは8つ。データベースの作成が一番進んでいるのは台湾、まだまだなのは極東ロシアだろうと思う。
まったく個人的な評価だが、究極的な到達点に照らして評点をつけてみようか。5段階評価で、ざっと上の表のような具合かな(完成度が高いほど小さい評点)。複雑になるのでこの表には書いてないんだが、第二次大戦中のデータベース作成は、東アジアと東南アジアではとりわけ困難だ。これは、この期間中のデータが極めて乏しいという、しごく単純明快な事情による。
S それにしても、目標までまだまだですねぇ。
L でも、本音ベースで、どうやら折り返し地点に辿り着いたってとこじゃないかな。その意味では、トンネルの出口がほのかに見えてきたと言ってもいい。
S それなら、そろそろ完成したデータベースを語ってもいいわけですね。
L うん。それに、夢はふくらませるほどいいって言うじゃないか。
S では伺いますが、そんなに苦労して作ったデータベースは、いったいどんな役にたつのでしょう。
L アジアの経済発展のありさまを、国際比較の視点から、時間の経過を追って観察する基礎資料を提供するのさ。
これは、その道の専門家が、かねがね欲しいと思ってきたものなんだ。生のデータをそのまま並べただけじゃ十分でない。細心の注意を払って資料批判したものでなくてはならない。
S でも、さっきの説明だと、資料批判の過程で原データに手が加えられることがあるわけですね。そんなデータベースじゃ、いやだっていう人もあるかもしれない。
L その場合には、原データを吟味すればよい。この必要に応ずるため、原資料そのもの(またはそのコピー)の保管はもちろん、その由来、調査方法、精度、刊行時期、所在、などの情報をきちんと整理して蓄積するよう心がけてきた。
S 情報化時代だというのに、なんだか古色蒼然とした話ですねぇ。
L 便利に精確で早くはなったけれど、根本は変わっていないよ。
S 書庫のスペースが足りないってこぼしておられましたね。これも、この情報革命の世の中で不思議な現象なんだな。
データをCD‐ROMなどに入れれば、原資料をとっておかなくたっていいわけじゃないですか。そうすれば、パソコンですぐに使える。古文書や古い手書きの法令集だって、デジタルカメラにおさめれば絵情報としてパソコンに簡単にとりこめるし。
L それは、思慮が浅いというものだ。
S なぜですか。
L もちろん、それもやるさ。せいぜい四、五年程度使う情報ならそれでもいい。でも、電子媒体は進歩が激しいだろう? 旧式のフォーマットで書き込んだ古いディスケットなどは、古い機器やソフトを残しておかないかぎり、簡単には解読できなくなるおそれがある。だから、永久保存したい資料や統計の保存には、いまのところ、冊子とかマイクロフィルムなど、昔ながらのやり方にまさるものはどうもまだないようだ。
S ふーん。
L それとね、歴史統計の場合、原資料をそのままインターネットなどに載せるのは、ごく限られた場合だけだと思うよ。
S どんな場合ですか。
L 不特定多数の人が使いたいと思う種類の情報さ。時間と手間がかかるのに、せいぜい5人や10人の専門家が、それもたまに使うって程度では、とても採算に合わないよ。
S なるほど。昔ながらの経済原理ってやつが働くわけだな。
L 逆に、電子媒体に入力した場合、広範囲の利用がかえって妨げられるという場合もあるかもしれない。
S え? よくわかりませんが。
L 著作権がからむ場合があるのさ。公共のデータでも、入力するのに費用がかかった場合などには、高い使用料を請求されることがある。
ASHSTATでも、国連が作成した貿易データ(詳細分類別)の磁気テープを単独で使うことはついに出来なかった。
S それは、国連の台所が苦しいからじゃないんですか。
L たぶんね。
S それで思いだしたんですが、このプロジェクトの成果は誰でも使えるんですか。
L うん。最終成果は、インターネットに載せて公開したい。できるだけ詳しいデータの解説や、作成手続きの説明を付けてね。
ただ、一つだけ例外がある。ASHSTATは、その途中で、たくさんの先行研究の恩恵を蒙ってきた。その関係で、先行業績の著作権を尊重する必要上、ごくわずかだけれど公開を控える部分はあるかもしれない。
S 原資料や中間生産物はどうですか。
L 原資料は、文書館に納めた部分は、司書による整理がすみ次第、原則として研究用に公開される。でも、成果を作る途中のワークシートは、汚くて簡単には読めないだろうし、もともと公開する性質のものでないな。
S インターネットで読む統計資料は有料ですか。
L その予定はない。最近聞いたところでは、料金徴収業務を請負ってくれる民間企業があるそうだね。でも、国立大学では、いまのところそれは無理だろう。独立行政法人になればまた話は別かも知れないけれど。
S 老師ご自身は、プロジェクトの成果をどのように活用するつもりでおられますか。
L いい質問だね。エコノミストの立場から、近現代アジア比較数量経済史(quantitative economic history of modern Asia)を書いてみたいな。
S「わざわざ、エコノミストの立場から、と断るのはなぜですか。」
L 本来なら、それぞれの地域の事情や歴史をよくわきまえてから挑戦すべき分野だからさ。
でも、地域研究家は、専門家であるだけに、自分の分野を知るほどには知っていない他国との比較からは足が遠のく。歴史家は、史料の制約や欠点を知悉しているだけに、おっかなびっくりで慎重になり易い。比較経済発展を論ずるとしたら、まずは経済史をかじったエコノミストが率先してやるしかないだろう。
S いつもの勢いに似ず、やけに遠慮深いじゃありませんか。
L 冷やかすな、いつもだって慎み深いんだ。
S どんなテーマが登場するのでしょう。
L まず、比べるという作業の意味を論じたい。見方によっては、あらゆるものが独自で、比較は無理だともいえるからね。これは、個別(→歴史学)と一般(→経済学)との対立ないし調和という、社会科学方法論争にも通ずる。
S 比較には意味がある、と論じたいわけですね。
L そうだね、もちろん条件つきでだけど。
S 時系列データを整理するとなると、長期間にわたって統一した商品分類や産業分類を使うことになります。このプロジェクトでは、1960年がいちおうの標準年次だそうですね。でも、それにはずいぶん無理が伴うと思います。新しい商品はたえず登場するし、古い商品は淘汰される。技術も変わるから、同じ化学産業といってもその内容はガラリと変貌を遂げる。
L 経済発展の原動力は企業家精神にあるといったシュンペーターが正しいとすれば、たえず革新を繰り返すところに近現代経済史の著しい特徴がある。それなのに、それを測る物差しを固定しておくのでは、そもそも根本から矛盾している。
S まったくその通りですね。これは大問題だ。
L しかし、共通の尺度がなければ比較はできない。いいかえれば、違うなかにも共通性があるというのが比較の前提なんだ。
もし、ときとところは違っても、企業家精神が工業化の原動力だという一点は変わらないとするなら、変わらないもの、つまり企業家の行動を軸に分析すればよい。共通点の多い時代をひとまとめにくくって、時代々々の物差しは変えないで使うというのも一つの解決方法だ。西欧経済史で、古代、中世、近世、近代と区切るのは、この考え方にもとづく。でもこれも、時代区分(periodization)が適切だという強い前提のもとでだけ正しい。
S それは分かりましたが、商品分類や産業分類など、さきほどの分類の標準化をめぐる問題はどうなりますか。
L「時代区分と同様に、全体の時期をいくつかに区切って、それぞれに適切な分類を採用し、その相互間を微調整して接続する、という方法はあり得るだろう。でも、究極的な解決法はない。むしろ、固定した尺度がうまくあてはまらない理由を突っ込んで調べることこそ値打ちがあるし、興味も湧く。
S 失礼ながら、強弁というか、やせ我慢というか、・・・・。
L まぁ、ちょっと聞けよ。
たとえば、20世紀初頭の台湾の人口センサスには、「本業ナキ副業」という分類項目がある。今では考えにくい概念で、もちろん現代の職業分類には影も形もない。しかし、そうであればこそ、逆に現地の当時の労働取引きの性格を知る鍵になる。
S それはわかります。まぁそれはともかく、本論ではなにが取り上げられるのでしょうか。
L 共通の視座として設定するのは、工業化の初期条件、工業化を促進した(あるいは妨げた)要因、それに経済開発の成果とその評価など。
これらのテーマを軸に、地域と時代とが織りなす特殊と一般の文様を描き分け、その文脈のなかで日本経済発展の意味を探りたいな。
S 大きな夢ですね。ご成功を期待します。
L ありがとう。
●ここで、プロジェクトの進行を支えてくださった多くの方々にお礼を述べたい。 なににもまして、百人に近い研究分担者と国内外の研究協力者の方々が、それぞれに多忙な研究生活のなかを、時間と労力を割いて特段の学術的貢献をしてくださったことに感謝し、深甚の敬意を表したい。
●裏方を支えてくださったたくさんの人たち、すなわち、文部省国際学術局、一橋大学学長、そして同大学本部庶務部、一橋大学経済研究所助手と事務職員の方々(とくに、庶務係、会計係、資料室のみなさん、そして統計情報サービス係と日本経済統計情報センター)、同研究所COE作業室の常連の面々、同研究所非常勤研究員と研究支援推進員、日本学術振興会特別研究員(COE付きPDF)の諸氏、それに国内外の多くの大学や研究機関(とくに、アジア経済研究所と通産研究所)関係者のみなさん、ご協力をどうもありがとうございました。
■一橋大学経済研究所COEプロジェクトの幹事会は、プロジェクトの終了後もしばらくは、残された課題をとりまとめるべく努力を続ける。その連絡所は一橋大学経済研究所におき、電話、ファックス、電子メール・アドレス、およびインターネット・ホームページは、当分の間継続する。
■本誌は、本号をもって完結する。2号以来、編集の労をとってくださった大瀬令子さんにお礼申します。読者のみなさんも、応援をありがとうございました。またどこかで、本プロジェクトの成果がお目に触れる機会もあるでしょう。それまでは、どうかご機嫌よう!
(おだか・こうのすけ 法政大学教授、一橋大学名誉教授)
(2000年2月現在)
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