COE国際ワークショップ:参加者からの報告(1999年度)


ベトナムの数量経済史について


J-D. ジャコメッティ



 1999年6月18、19日に、「アジア長期経済統計データベース・プロジェクト(一橋大学経済研究所)は「ベトナムの数量経済史」と題するワークショップを開催した。このワークショップの主旨は、本プロジェクトのベトナム班に参加する各研究者の研究を統合し、比較することである。各論文では、データ・ソースの概説と推計、さらに主な研究結果が提示された。報告者は国際的で、さまざまな学問分野からの参加者を迎え、非常に刺激的であった。

 参加者は、ベトナム、日本、アメリカ、ドイツ、オランダ、ロシア、そしてフランスの学者であった。参加者にはベトナム専門家ではなく他の地域の研究者も多く含まれていた。これはベトナムと他の国のケースとを比較するという意味あいいもかねている。発表やコメントを通じて、国際機関の代表者、政府関係者、民間の研究所の人々によって価値ある貢献がなされた。ワークショップのプログラムは以下のとおりである。

The Workshop on Quantitative Economic History of Vietnam

June 18(Friday)-19(Saturday), 1999

Program


01 報告者 高田洋子(敬愛大学;コーチンシナ史), 「コーチンシナにおける農業経済史」
討論者 Jean-Pascal Bassino (Paul Valery University, Montpellie;経済学)
02 報告者 Ta Thi Thuy (Institute of History of Vietnam, Hanoi;歴史学),「トンキンの農業経済史」
討論者 馬 徳斌(一橋大学 ;経済学)
03 報告者 Jean-Dominique Giacometti (歴史学),「アンナンの農業経済史」
討論者 黒崎卓 (一橋大学経済研究所;インド経済)
04 報告者 Jean-Dominique Giacometti 「価格と賃金:長期トレンドと解釈」
討論者 高田洋子
05 報告者 中川浩宣 (一橋大学経済研究所;経済学),「ベトナムの為替レートと為替政策」
討論者 Frederic Burguiere (Indocam Asset Management)
06 報告者 Maks Banens (Amiens University;人口学), 「ベトナム史における人口と労働力」
討論者 斎藤修 (一橋大学経済研究所;経済史・人口学)
07 報告者 David Del Testa (University of California, Davis ;歴史学),「鉄道運送業に関する歴史経済学」
討論者 菊池道樹(法政大学)
08 報告者 Jean-Pascal Bassino, 「ベトナムの財政史」
討論者 田近栄治(一橋大学;経済学)
09 報告者 Bui Thi Lan Huong (University of Economics, Ho Chi Minh City), 「ベトナムにおける国際貿易の推計」
討論者 深尾京司 (一橋大学経済研究所;経済学)
*この報告は、データをもとに、中国の役割といった重要な問題にまで言及。
10 報告者 Thomas Engelbert (Humbolt University, Berlin ;歴史学) 「ベトナムにおける華僑の経済活動」
11 報告者 Vu Quang Viet (国連統計局), 「MPSデータからSNAデータへの変換:ベトナムの国民経済計算」
討論者 久保庭眞彰(一橋大学経済研究所;ロシア経済)
12 報告者 Nguyen Quan (General Statistic Office, Hanoi), 「1946-1954年のベトナム経済と統計データについての現状」
討論者 Thomas Engelbert
13 報告者 Severine Blaise (Ph.D. Candidate in Economics (一橋大学,経済学)「1954-1975年間の、北ベトナムと南ベトナムに間する国民経済計算」
討論者 Nguyen Quan
14 報告者 Tran Van Tho (桜美林大学),「統一前ベトナムの長期経済統計」
討論者 Alexey Ponomarenko(Statistic Office, Moscow, ロシア)




ワークショップとベトナムの経済史

 以上の論文の内容は、この会議のテーマから予想されるよりも多彩なものであった。その理由は、これらのものは、約75年間に及ぶ非常に長い期間を扱っているからである。他の国々に比べ、20世紀のベトナムの歴史は植民地時代、国家の分裂、戦争などによって、それぞれの期間が明らかに異なっている。このワークショップでは、ベトナム史におけるこれらの主要な転換点をふまえて論じられているのである。 近代史の幕開けは、19世紀後半におけるフランスの征服によって始まり、そして強力な総督府が設立された1902年に終わりを告げる。総督府に財源を供給するために、ベトナム総督のPaul Doumerは、全面的な新しい間接税制度を導入した。その際、とくに重要なのは阿片であり、また最も悪名高いものは塩や酒に対する税であった。これらの新しい税金は、ベトナム経済の崩壊をもたらすような影響を及ぼした。フランスの植民地支配の最も顕著な特徴の一つは、上記のような財政システムのための新しい税金を導入したことにあった。社会を混乱させる酒や塩などに対する重税が、1907-1908年における有名な反乱の原因となった。この税制は、フランス植民地すべてに適用させる政策の変更であったが、うまく機能しなかったのである。「旧体制の」税制度が、フランスの植民地支配にとって大きな問題として残った。

 Jean-Pascal Bassinoは、仏領インドシナの財政に関し詳細な分析を提示した。彼は、今世紀はじめの期間を通じて、総督府の財源に対する貢献度の割合が、北(トンキン)では減少し、南(コーチンシナ)では増加したことについて、分析した。地方予算についてみると、トンキン地方は、今世紀初頭には最大規模であったが、1930年代になると、コーチンシナ地方の予算に追い越された。トンキンの人口がコーチンシナのそれを上回りつづけたことから、トンキンの経済発展が比較的緩やかな速度であったと推測される。この点はまたのちにベトナムが南北に分かれたことに関係していると考えられる。

 1910年代、20年代におけるベトナムの繁栄と発展は、おもに新しい社会資本によるところが大きかった。David Del Testaは、ベトナムの地方に導入された鉄道網の拡大や経済発展に関してそのことを明らかにした。彼は以前には使われなかった一次資料やその鋭い分析をもとに、その地域の住民が、みずからの目的のために、最新の輸入された技術をどのように活用したかを明らかにした。

 Thomas Engelbertは、ベトナムにおける華僑の経済活動について発表した。非常に多様な職業や社会的地位を有する華僑は、ベトナムに長期間定住し、すべての地域や農村に浸透する商業ネットワークを有しているために、ベトナムとその他のアジア諸国の間に、常に強いつながりを持ちつづけている。もしベトナムの繁栄が、ベトナムとアジア諸国との関係を取り巻く環境との結びつきをもとにしているならば、それは大部分こうした人々の活動によるものであると結論づけている。

 次の時期は1929年の金融崩壊によって始まる。マクロ計量経済学の手法を用いて、中川浩宣とBassinoは1929年におけるベトナム通貨危機の衝撃を分析した。彼らの研究は、ベトナムの銀貨である「ピアストル」が、世界大恐慌のはじめまでは、極東の国々における通貨情勢の中で効果的な通貨であったこと、つまり、ピアストルは20世紀のベトナムの繁栄をもたらしたのであるとする。

 1929年の危機への対処のため、総督府は、フランス市場へベトナム製品の輸入を促進しようとして、フランに対するピアストルの固定相場制度を導入した。この決定はアジアのほとんどの地域で急速な景気回復がおこったことによって、好ましくない状況をもたらした。中川は、フランに対して固定されたベトナム通貨は過大評価され、人口的、社会的及び政治的危機を迎える困難な時期にはベトナム発展の足枷となったと結論づけている。この結論は、新しい視点ではないが、これまでの推測に確証を与えたものといえる。

 中川の結論は、ベトナムの外国貿易に関するBui Lan HuongとBassinoの論文によってより明確なものとなった。Buiは、ベトナムに対する極東をとりまく経済環境の重要性を強調している。こうしたアジア諸国の経済的結びつきによって、フランスがベトナム経済を本国のみと関連させようとする閉鎖経済の試みは、最終的に失敗におわった。Buiは、広範囲にわたるデータをもとに、1930年代初頭の危機が、ベトナムの外国貿易の構造をどのように変化させたかを提示している。1930年代初頭になって初めて貿易における後退がおこり、それ以降非一次産品の輸出と輸入代替へと移行していくのである。

 つづく4つの報告論文は結果的にベトナムが南北に分断される独立戦争の時期を扱っている。これらの論文から、一国において異なる政治体制が存在する場合に、2つの体制にどのような相違点があるのかということも比較が可能になる。

 この時期については、以下の3つの断絶の時期をつなげなければならない。第1に、二つの異なる政治体制(それに伴う統計システム)、つまり共産主義の北と、民族主義の南を、つなげる必要がある。第2に、この期間を通じて国境の変更にともない、(すなわち1954年分裂以前と以後、そして1975年再統一以前と以後の)データをつなげるための大幅な修正が必要となる。第3に、調査が行われた地理上の範囲の変化を考慮する必要がある。例えば、中央ベトナムの大部分とアンナン、およびコーチンシナ西部の大半が、Viet-Minh(および他のベトナム人による植民地に反対する組織)によって、支配されるようになったことである。

 ベトナムの分裂は1954年に始まったわけではなく、むしろフランス統治からの独立を宣言した1945-46年にまでさかのぼることができる。Nguyen Quan と Severine Blaiseによって提出された論文は、この歴史的背景を強調している。彼らが2つの異なる期間、1946−1954年と1954-1975年に関するGDPの推計を行ったことにより、その結果の比較が可能となった。これらすべての論文は長時間にわたって討議された。一橋大学のAlexei Pnomarenkoからは旧ソビエトの統計制度に関して貴重な参考意見が出された。



数量経済史と歴史家

 ベトナムの経済に関連した研究は以前から行なわれてきたが、本プロジェクトのベトナム班における研究とは、目的も視点も異なるものであった。第1の違いは地理的な対象範囲である。すなわち20世紀全般にわたって、今日のベトナムの国境を適用するということである。従来一般に、20世紀前半の研究においては、「フランス領インドシナ」(カンボジアとラオスが含まれている)を分析対象として扱い、南北分裂の期間に関する研究は、事実上比較不可能な手法と資料を用いているため、ベトナム国土の半分に限られている。

 従来の研究とCOEプロジェクトの第2の違いは、「経済」という言葉の定義の問題である。ベトナム経済の問題に関して試金石となった研究の一つは、Martin Murrayによって行なわれたものである。これはいくつかの興味ある仮説を唱えているが、それは詳細な歴史研究というよりも、むしろイデオロギー的先入観から導き出されたものであった。ほかの研究は、フランス大都市部からの投資の流入や地域社会に対するその影響に焦点を置いたものである。マルクス主義の歴史研究は経済自体の分析をおこなうよりも、もっぱらベトナム革命の変遷とそれに続く戦争の原因を説明するためにとりあげる傾向がある。他の研究は、フランス大都市部からの投資の流入や地域社会に対する経済的要因を分析している。社会経済に関するその他の研究は、大半がベトナム農民やプランテーションで働く労働者の生活水準を、データをもとに描写することにかぎられていた。

 これらは、「経済史」というよりもむしろ「経済の歴史」(Rawsky)に関する研究といえる。つまり、かれらは元データを分析するにあたり、経済学の手法や概念を使用していないのである。これらの学問分野の違いについては、このワークショップを通じて問題となった。Daniel Hemeryはベトナム近現代史における主導的な歴史家であるが、彼が言うように、歴史家は公文書館で資料を見つけるであろうが、しかし、何かが示されるまでは、資料に疑問を投げかけたり、処理することも必要であると述べている。歴史家にとっては、経済学における合理的個人と「他の事情が一定ならば」という基本的な仮定を用いる経済学者が、膨大な資料をあたかも支配したかのようにうつるであろう。

 データの信頼性に関して、植民地時代や独立初期の南側の資料や、同様に北側の資料の信憑性が、ワークショップで問題となった。歴史家は不正確な数字を作成し続けた制度的問題についてしばしば指摘をした。つまり総督府はベトナムの経済の実情に疎く、現地の役人に情報のほとんどを頼り切っていた。しばしば不正確で不完全であり、たえず偽造されたため、歴史家は現存する統計データのほとんどを使用しないままできている。歴史家はまた、これらの数字を再推計したり再計算することすら嫌がってきた。歴史家のこういった姿勢は、データとは、信憑性が高く、欠損値がない「正確」なものであり、さらに統計局の役人が承認したものでなければならない、といったものにみえる。実際には、彼らが言うような正確な表や数字の多くは、しばしば実際の数字と推測による数字が含まれているのである。

 計算手法を使うことに不慣れな研究者にとっては、ベトナムの外国貿易の「なまの」数字を使って卸売物価指数の時系列や、外国貿易や海運業、保険業に関するサービス総額を推計できるということを想像するのは難しいであろう。実際にはさらに、非一次産品に関する輸入及び輸出量の系統的なデータによって、製造業や家内工業の産出量およびベトナムのGDPを推計できるのである。

 そのような推計をすることに対する歴史家のためらいが、農業と稲作に焦点を当てた、最初の3論文に見うけられた(高田, Ta Thi Thuy, and Giacomettiの論文)。ベトナムのGDP全体にかかわる米の生産に関しては重要性であるため、この分野では、注意深く綿密な研究が要求される。3つの論文は歴史的な方法を用い、植民地行政機関から発行された資料の中から、米の耕作面積、収穫高および産出高の数字を提示した。しかしながら、この論文で用いられた「推計方法」は、不十分なものであり、基本的には非公開の公文書の中でみつけたデータと公開されたデータとの照合であった。実際この種の試みは実りの多いものである。例えば、アンナンのケースでは、1930年代半ばの農業生産に関する公表された数字が、総収穫高が過小評価されていたことを照合によって明らかにした。しかしながらこの過小評価は、植民地時代においてさえ知られていたのである。植民地政府の行政官はしばしばこのことを問題として、再三再四、実際の耕作地の概観と米の生産高は、地方行政から提出された数字よりも25-30%高いものであったと、記している。

 さらに踏み込んだ歴史的研究においては、フランス植民地行政における2つの機関、すなわち中央統計局と各地方の農業省の結びつきについて歴史研究家が説明することが必要とされる。さらに言えば、私たちは地方農業省が、過小評価であると広く知られていた数字を記録し公表しつづけていたのかを知る必要がある。歴史家にとっては、これらの問題が明らかにされるまで、もとの数字を修正することに意味があるとは思えないため、1900年から1954年にかけての54年間についてこれを行ってこなかったのである。

 Maks Banensは、このワークショップで最も注目された論文の一つを提出した。人口統計学者である彼の研究は、20世紀におけるベトナムの人口について扱っている。この研究は高度な専門的知識を用いて、膨大な関係資料をもとに、説得力のある議論を行った。Banensは1989年の最も正確な人口センサスをもとに計算をし、さらに死亡率と出生率に関する最も信用できる数字を加えたのち、人口統計学一般に関するものと、ベトナムに特定したものに関しての両方にいくつかの仮説を提唱した。そして彼の導いた数値を、今世紀初めのデータや、他の研究者の推計結果(これも1989年のセンサスを基にしている)との比較をおこなった。

 データの不足や時代をかなり遡ったデータに直面したにもかかわらず、彼はこの仕事を投げ出すどころか、さまざまなタイプの資料を結びつけ、現存するデータで価値ある分析ができることを示した。この種の研究には多くの努力と専門的技能が要求されるが、しかしながら最も注目すべき学問上の結果を生み出すものである。さまざまな仮説が、他の学問からの研究者を受け入れることによって、検証され、そしてその結果が、たとえば食料消費やGDPの推計といったような、他の計算結果に適用できるほど十分正確な結果であるかどうかも検証された。

 Banensが作成した数字では、第一次世界大戦中と1930年代後半に、ベトナムにおいて2度の出生率の落ち込みがみられた。かれははじめの減少は、ベトナムからフランスへ兵士と労働者を送ったことと、1918-1919年のインフルエンザの流行にあると説明づけた。しかし2番目の落ち込みについて、Benensははっきりとした回答を見い出せずにいたが、人口学の研究に基づくいくつかの示唆を提供した。

 以前は、この問題に関しては、一般的な見解があったのみである。それはベトナム農村における共同体が貧困家計のために保有する水田に結びつくような、農村社会の慣例に影響を与える、ベトナム農村の共同体や社会制度の崩壊に関したものである。しかしながら、Banensの仮説とは異なり、これらは膨大な人口統計学の研究にもとづいているものではなかった。

 ベトナムのワークショップは、一国の経済史研究の試みが、さまざまな学問分野からの研究方法によって、最善なものを作り上げられるということを、明らかにしたのである。それぞれの学問分野は他の分野の技術や手続きを導入しなければならず、分野間の対話には困難が伴う。しかしながら、そのことによって、新しい資料を発見し、また新しい洞察を加えることができるようになるであろう。アジア長期経済統計プロジェクトの強みは、本当の意味で、多様な学問分野のもつ特質に基づいているところにある。


付記

 アジア長期経済統計データベース・プロジェクトによって組織されたワークショップは、フランス大使館文化事業部から、ベトナムからの参加者の旅費を、French Centre National de la Recherche Scientifiqueからは、食事の提供などの支援を受けた。東京の日仏会館(Maison Franco-Japonaise)からは会場と作業場の提供して頂いた。

 東京のフランス大使館文化部参事官は、今回のような多国間での共同研究は、標準的な二国間によるものより、効果的である、と開会の辞で述べられた。

(Jean-Dominique Giacometti 一橋大学経済研究所)

(日本語訳・比佐優子)