タイ鉄道および商品流通関係


資料収集顛末記


柿崎一郎



 私は過去4年間にわたり、戦前期タイの鉄道と当時の商品流通に関する研究を行ってきた。当然ながら日本では資料は入手できないため、主にタイで資料収集を行ってきた。タイでの資料収集はタイ国立公文書館(National Archives of Thailand)を中心に、通算して1年間くらい公文書館での作業を行った。ここでの資料収集には膨大な時間と労力を費やしたが、様々な資料を「発見」することができた。ここでは公文書館での資料収集を中心に、これまで行ってきたタイの鉄道と商品流通に関する資料収集を振り返ってみようと思う。



 1 朽ちつつある鉄道局年報

 タイの鉄道局の年報(Annual Report on the Administration of the Royal State Railways)は、当時のタイの鉄道事業や経済状況を把握するうえで非常に重要な資料である。

 年報は1897/98年に最初の官営鉄道が開業した年から、少なくとも1947年まで毎年作られていた。内容は会計、営業報告のほか、新線建設、保線、車両修繕など多岐に渡るが、その中でも私が最も注目したのは、貨物輸送統計であった。この貨物輸送統計は、輸送品目別に各駅の発着トン数を示したもので、例えばある年に米がどの駅からどの程度発送されていたか、またどの駅にどの程度到着していたかが一目瞭然に理解できる。これを時系列的に並べれば、鉄道が開通後約40年間の貨物輸送の変遷を把握することができるのである。

 この資料については、以前少し使用したことがあるのと、先行研究が出所を明記していたので、公文書館にあることは知っていた。ところが、公文書館には各年度のものがすべて所蔵されているわけではなかった。おまけに、1920年代後半以降は1冊が厚くなるためか製本が壊れているものが多く、統計のコピーを許可されないものが続出した。公文書館の所蔵資料は、とくに本の形で製本されているものの破損が激しく、コピーが許可されないことが多い。このため、どうしてもコピーをとれないというものについては、手書きで写すことにした。例えば1927/28年の分は、貨物輸送統計だけで約50品目、駅数は約300駅ある。この作業を5年分くらい行ったが、それでも見ることができただけ幸運であった。

 私の後にこの年報を見ようとした人が言うには、破損状況が激しいため閲覧もできなくなってしまったとのことであった。私がコピーを頼んで、無理にとったものの破損状況が悪化したのが理由らしい。公文書館では、年報も含めて破損を理由にコピーができなかったり閲覧ができない資料が年々増えている。マイクロ化するなり、資料の保存状況を向上させなければ、やがてみな朽ち果ててしまうであろう。予算や資材・人材の制約から、公文書館が自力で資料の保存状況を大幅に改善するのは難しい。日本は今「新宮沢構想」などといって、タイへも資金の「ばらまき」を行っているが、少しはこのような危機的状況にある公文書館にも資金を「ばらまいて」ほしいものだ。

 鉄道局の年報は、タイの公文書館だけではなく実はイギリスの大英図書館(The British Library)にも保管されていた。タイの鉄道における技術形成を研究されている東京大学社会科学研究所の末廣昭教授は、大英図書館でこの鉄道局年報を入手されていた。先生の所蔵されているコピーを見せていただくと、タイのほうで欠落している年のものもイギリスに存在していることが判明した。先生は私が必要とする統計部分のコピーはとられなかったため、私も同じものを見るべくロンドンに向かった。ところが、苦労して所蔵先は突き止めたものの、資料の大掛かりな引っ越しの最中に行方不明になったとのことで、とうとう実物を目にすることはできなかった。その後の消息は分からないが、今度訪英する機会があれば、もう一度挑戦してみようと思う。

 紛失は破損とともに資料にとっての大敵である。実は最初に鉄道局年報に遭遇したのは、当時の鉄道局を継承しているタイ国鉄(State Railways of Thailand)の広報部の戸棚であった。「古い年報はない」と言いながらも係員が探してみてくれた結果、1934/35年から1936/37年までの3年分、そして1947年の年報が発見された。その時は貨物輸送統計だけをコピーさせていただいたのであるが、その1〜2年後に残りの部分もコピーしようと思い、同じ棚を調べてもらったが、結局見つからなかった。1936/37年と1947年の年報はここでしか存在が確認されなかったため、誠に残念である。とくに、1947年の年報の表紙には「第51号」と書かれており、1936/37年版が「第40号」となっていたことから、この間、戦争中も含めて毎年年報が出されていたことが確認された。これ以上の破損や紛失が起こらないことを祈るとともに、幻の10年間分の年報がどこかに眠っていて、いずれどこかでその姿をあらわす日が来ることを期待している。



 2 宝探しの地方報告

 鉄道に関する資料は、実はその所蔵場所が先行研究等で明かされている。公文書館の資料は大きく分けて、所蔵していた省庁別に分類されている。その中でも、最も頻繁に用いられる文書が、王室秘書局(Krom Ratchalekhathikan)文書及び内閣秘書局(Samnak Lekhathikan Khana Ratthamontri)文書である。前者は1932年までの王政時に、後者は1932年の立憲革命後に設置されたもので、いずれも各省庁から国王や首相への報告や申請、およびそれに対する返答から構成されている。前者はラーマ5世王期からラーマ7世王期まで王の在位期間によって3つに分けられ、さらにそれぞれが出所の省庁別、局別に分けられる。このため、鉄道関係の文書については、各王期の鉄道を管轄した省庁のファイル(例えば運輸省ファイル)を見れば鉄道局関連の文書が見つかるのである(ただし、鉄道局年報は旧所蔵先の関係上、全く関係ない大蔵省文書に含まれている)。

 しかしながら、もう一つの私のテーマである商品流通に関する資料は、どこに所蔵されているのか分からない。それ以前に、そのような資料が存在するかどうかも分からない。とくに地方における商品流通の状況を知りたかった私は、とりあえず王室秘書局の内務省ファイルの中の、地方都市からの報告書(Bai Bok Huamuang)をあたることにした。この報告書は、発信元の都市ごとにまとめられており、都市により量は大幅に異なる。そして、各年ごとに分類されてはいるものの、その先は事実上分類されていないのである。年ごとにまとめられている場合もあるが、あとはその都市からの文書が届いた順に並んでいるだけである。このため、とりあえずすべての文書を見てみないと、私が探しているような資料があるかどうかは分からない。

 これまでの先行研究でも、地方史を扱う人は必ずこの資料を用いていたが、すべての都市の分を見た人はタイ人でもおそらくあまりいないであろう。もちろん、こちらはお目当ての資料を探すのであるから、各資料を熟読するわけではない。しかし、都市の数は85もあり、大部分が各都市1箱(文書の入ったケース)であるが、中にはぎっしり詰まった書類箱が7箱という都市もある。しかも、多くは手書き資料であり、しかも紙を上からコーティングして保存してあるため(原物を閲覧する)、字は極めて薄くぼやけてしまう。この時間のかかる作業は、長期間滞在したからこそ、すべてを見ることができたのであった。

 それだけの努力をしても、お目当ての資料はなかなか出てこなかった。まるで、砂の山で1粒の砂金を探すような作業であった。報告の多くは、地方の盗人に関するもの、罪人の裁判に関するもの、バンコクへ送る税に関するもので、商品流通に関する資料はなかなか出てこない。それでも、見ていくうちに、面白いものも出てきた。

 1885年にラーマ5世が内陸の国境の都市に対して、バンコクと同じ税率の輸出入税を徴収し、税の徴収表を作成してバンコクに送るようにとの命を出した。この命に従った都市が、詳細な輸出入税徴集表を作成してバンコクに送付していた。例えば、当時タイの属国であったチャムパーサックは、配下にあるストゥントレン(現カンボジア領)の輸出入税徴収表を送っていた。ストゥントレンはメコン川畔の都市で、タイの東北部やラオス方面とサイゴン方面を往来する物資は必ずここを通り、輸出入税を支払っていたはずである。このため、この資料はメコン川を往来する商品流通の状況を示す貴重な資料となった。

 同様の輸出入税徴収表は、マレー半島の沿岸部の都市でも行われていた。さらに、内務省ファイルの税金に関する区分の文書でも、同じ徴収表がいくつか見つかった。鉄道建設前のバンコクとタイの領域内周縁部との商品流通が制限されていたことを立証したい私としては、地方とタイの領域外との商品流通状況を把握することは極めて重要であり、これらは貴重な資料となった。輸出入徴収表が見つかった主な都市は、ルアンプラバーン(現ラオス)、ストゥントレン(現カンボジア)、タクアパー(南部)、クランタン(コタバル、現マレーシア)などで、どういうわけか当時のタイの領域の周縁部で、その後タイ領から離れたところに多くなっている。クランタンからの徴収表は、アラビア文字で書かれており、タイ文字の翻訳がついていた。北部や東北部からの文書も時には現在のタイ文字とは異なる地方文字で書かれたものもあり、当時のタイの領域がいかに統一されていなかったかを物語っている。

 この時代に徐々にタイの領域が狭くなっていったため、ラーマ5世王期の文書の中には、現在タイの領域を離れた都市から送られて来た文書も当然ながら存在する。ルアンプラバーンやストゥントレンからの文書がその例である。しかし多くの場合、これらの現在では他国の領域下に入っている都市に関する文書は、「マル秘」文書として見ることができない、いや正確には見れなくなったのである。文書目録にはこれらの都市に関する文書名も掲載され、登録番号が印刷されているにも関わらず、赤いボールペンで「マル秘文書、閲覧中止」と書かれている。明らかに、後から「マル秘」となったのである。

 現在これらの都市は、完全にタイの近隣諸国の支配下に治まっており、今さら何の問題があって「マル秘」となったのかは分からない。しかし、私としてはこれら周縁部の状況はまさに一番知りたいものであった。もちろん、探しても欲しいような資料が見つからない可能性のほうが高いが、少なくとも探してみて存在しないことが分かるまでは、あるのではないかと期待を抱くものである。いまでも、この「マル秘」文書の中には興味深い文書が眠っているものと確信しており、いつの日か見てみたいと思う。



 3 意外な発見――農業省文書――

 上述のように、公文書館の資料の中で最も頻繁に用いられる文書は、王室秘書局文書および内閣秘書局文書である。これ以外にも内務省文書、教育省文書、農業省文書など、各省庁から直接納められた文書が存在する。これらの資料は分類が大雑把であり、どのような文書が含まれるのか分かりにくく、目録からして手を付けたくなくなるためか、あまり利用されてこなかった。しかし、今回は滞在期間が長かったこともあり、これらの文書を見る時間が得られた。そしてその中から、非常に重要な資料が多数見つかった。

 私が目を付けたのは、農業省文書である。この文書も下位区分が少なく、目録を見るとある区分の下に1,000近い文書が入っていたりして、見るからにやる気をそがれる。このため、とりあえず関係のありそうなものの目星を付けて、根気よく見ていくことにした。この文書には、様々な文書が入り交じっていたが、私はその中で各県の米の価格の報告に関心を持った。各地の米の価格は、1912年頃まで官報に記載されていた。そこで私は北部と南部で米の価格が著しく高かったことを知っていた。鉄道によって商品流通が加速すれば、当然米の価格の平準化が起こるはずであるから、それを証明する資料を探すことにした。

 しかし、目論み通りにことは運ばない。確かに各地の米価格をまとめた表は出てくるが、そこに含まれるのはチャオプラヤー川流域の中部各地の数値のみで、肝心の北部や南部の数値は出てこない。表には毎年同じ用紙が使われ、そこには「幾内6州及びピッサヌローク州稲作報告書(Raingan Kan Thamna Monthon Channai 6 Monthon kap Monthon Phitsanulok)」と印刷されていることから、それ以外の地域の報告は重要でなかったのかも知れない。それでも、作付け面積、収穫量の報告は7州以外からもなされていたようである。どの年の分を見ても全く手ごたえがないため、このままどの年の分も同じであろうと思われた。

 ところが、なぜか1925年3月の記録のみ、通常の7州以外の数値が記載されていた。後にも前にも全国各地の米の価格を集めた資料は他に見つからなかったことから、まさに偶然の産物といえよう。なぜこの年のみこのような資料が残っていたのかは分からないが、この資料が北部と南部での米の価格の低下を示していたため、不完全ながら私の価格平準化の議論は取りあえず後ろ楯を得た。北部では鉄道による米のバンコクへの発送が可能となったことで米の生産が増加したことが、南部では従来ビルマなどからの輸入米に代わってタイ米が鉄道により輸送されるようになったことが、両地域での価格低下の理由であると思われる。南部の米輸入量については、実は通関統計でも判別しなかったが、1920年代後半の南部での米輸入量を示す資料が、1つだけたまたまこの農業省文書内から発見された。私の研究の大半は、まさにこのような偶然の産物であった。

 もう1つの発見は、チャオプラヤーデルタの運河網での米輸送に関するものである。これは、チャオプラヤーデルタの運河に設置されていた各水門を通過した船に積まれていた米の量を、発地別に示したものである。この資料も存在する年数が限られ、1930/31年と1931/32年の分しか存在しないが、当時運河網でどれくらいの米がバンコクへ運ばれていたかを示す貴重な資料である。現在集計を行っている段階で、いずれ1つの論文にするつもりであるが、鉄道だけでなく運河による米輸送の状況を把握することによって、当時のタイ国内の米の流通状況がさらに解明できるはずである。



 正直に言って、これだけの資料を見つけることができるとは当初は全く思っていなかった。「見込みがあって資料収集を行ったのか」と多くの方から尋ねられるが、実は全くそのような見込みはなかった。研究計画としては、非常に杜撰な計画であったが、結果としてはとりあえず必要最低限ではあるが重要な資料を多数入手できた。しかし、これだけ予定外の多くの発見があったことから、今となってはまだまだ新しい発見があるのではないかと期待している。研究者としては資料の所在がはっきりしているほうがはるかに有り難いが、個人的にはこの「宝探し」的な資料収集の魅力に取り付かれてしまった。次はどこでどのような資料を探してみようかと、新たな資料との出合いを楽しみにしている昨今である。

(かきざき・いちろう 横浜市立大学国際文化学部)