中央アジア人口の歴史的展望

バフティオル・イスラモフ




 中央アジアの五つの共和国――カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トゥルクメニスタン、そしてウズベキスタン――が1991年ソビエト連邦の崩壊と共に独立国として地図に描かれることになった。これらの国はロシア、中国、アフガニスタン、イランに囲まれたカスピ海の東側に位置し、西ヨーロッパの約2倍もの広さで5500万以上(1999年1月1日現在)の人口を擁する。

 これら中央アジアにおける人口の包括的研究を追求するためには、中央アジアの豊かな歴史を四つの時期区分に分けて考察することが重要である。

 1. ロシア統治以前

 2. ロシア帝国時代

 3. ソビエト時代

 4. 独立以降



 中央アジアの歴史的な人口変動の分析は、たしかに困難ではあるが、しかし、多様な民族的背景を持つ人々が、今日、21世紀に向かって直面している問題の背景を深く理解するためには必須のことである。このような研究にあたって、大きな壁となるのが緻密で精確な歴史学的データの欠落である。

 残念ながら、人口の変動に影響のある様々な要素(戦争、飢饉、革命、鎮圧など)についての精確な記録が殆どないので、民族移動は大量ではあるが、たとえ近代についてさえも、中央アジア人口の系列算出に人口遡及推計法を機械的に適用するだけでは適切な方法だとはいえない。度重なる地域の様々な変化や統治境界線の変更、センサスデータや統計資料の歪みなどを考慮し、比較研究をするには更なる研究とデータ収集が必要とされている。

 さて、多岐にわたる国際交流に関連する学術機関の設立に伴って、以前は情報公開されていなかったロシアの公文書、及びその他の諸国の資料へのアクセスが可能になってきた今、中央アジアの歴史におけるそれぞれの時代特有の問題点の指摘と人口変動の分析が必要とされている。



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 残念なことに、19世紀半ばまで中央アジア民族についての連続性のある人口学的、もしくは統計的データはない(とはいえ、古代中央アジア諸国のなかでもサマルカンドに首都を置くソグディアナの文書に、古くは8世紀からの人口センサス等が断片的ではあるが存在することは知られている)[3]

 したがって、この地域でシルクロード貿易に従事していた古代および中世の民族に関する新しい人口データを発掘することが重要になると考えられるが、話は簡単ではない。しかし付加的もしくは間接的な情報(例えば、ペルシャ、ギリシャ、アラブ、中国、ウィグル[オルクホン]、モンゴルなどの古文書)の利用は可能であろう。これらの史料から得られる直接ないし間接的情報の収集は、今日の中央アジア民族の、人口的経緯と民族的起源のより深い理解へと繋がるだろう。トルコ人の起源場所(現在のアルタイ、北モンゴル、マンチュリア一帯であると言われている)から中央アジアへの移動の規模を追跡し、確認するために利用できる史料の一つに、中国とオルクホン−モンゴルの古い記録が挙げられる。しかし、これらの史料を解読するために必要な言語力を有する専門家は、日本国内には何人かいるが、中央アジアの諸共和国にはいない。こういう状況から、アジア研究において中央アジアと日本の研究者が互いに協力しあうことは、北東アジアから中央アジアへの人口の流れを追う新たなデータ探索において有益であると思われる。



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 ロシア帝国時代の中央アジア人口については、いくらかのデータが見いだせるが、全期間にわたる適切な時系列を再構成することは明らかに困難である。

 ステップ地帯とトルキスタン総督府の二地域は約二百年間(18世紀初期から19世紀末頃まで)植民地化されていた。ステップ草原地帯にはウラルスク、トルガイスク、アクモリンスク、セミパラティンスクが含まれ、現在のカザフスタンの約三分の二を占める。トルキスタン総督府は1867年に設立され、当初はサイルダリャとセミレッヒェを含み、後にサマルカンド、フェルガナ、ザカスピェスク地方も加わっている。1896年までにブハラとキーバ地方もロシアの保護領となり、現在のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トゥルキメニスタン、そしてウズベキスタン全てを含んだ領域となる。

 断片的ではあるがその植民期の統計データは利用可能である。公文書によると、1856年から1864年にかけてキーバ地方はサイドムクハマード・カーンの統治下、独自にセンサスを行ったとの記述がある[4]。しかしながら、ステップ地帯やトルキスタン、ブハラ地方に概当するようなセンサス形式での人口資料は見いだせなかった。特にステップ地方は植民期から一世紀以上遡ったデータがあるが、人口の大部分が遊牧生活様式をとっており、土着の民族人口の系列推計という目的には、充分なものとはいえない。このうち最も古い統計は、1858年に収集されている[11]

 1897年センサスを始めその他の公的史料から、1897年から1913年にかけては、より多くの詳細な情報が得られた。ソビエト時代以前の資料のなかでは最も良い統計と言われてきたが、この期間には二つの問題がある。第一は主に境界線の問題である。前ブハラ帝国とキーバ・カーネト(後にウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンとなる領域である)が一貫してロシアの公的データから除外されているという事実である。第二に、現存する史料によると、対象地域人口の自然増加に関する数値データがない、ということである。この地域には、教会による出生や死亡の動態情報に類似するものもない。1909年から1910年にかけて、この時代において最良の史料の一つと言われる“ロシア領アジア”("Asiatic Russia")でさえ、「トルキスタンのムスリム人口については出生や死亡の満足な統計はなく、(数量的な記述の)動態文書もない」と強調している。当地域全体の人口は、ザカスピェスカヤとセミレチェンスカヤ県(oblast)の土着民族の自然増加のみを基礎として推計されている[1]。最も人口が密集しているシルダリアとサマルカンド県についても同様で最悪の状況と言わざるを得ず[4]、前者は後にウズベキスタンとカザフスタン、後者はウズベキスタンとタジキスタンに分かれる地域であることは特筆すべき点である。

 したがって、保護領での時系列の比較が十分にできないことや、ステップ地帯とトルキスタン地方における土着民族の動態統計の欠如等により、包括的な人口変数の推計は困難を極める。この時代においてさえ、中央アジア全体の、完全で精確な統計データがないのである。ロシア帝国時代やソビエト連邦時代の統計も、統治区域の違いや調査対象の違いから、データの不一致が存在するという状況である。しかし、区域の問題は地域の変化を地図と突き合わせて、それぞれの地域の指標を総計することによって扱うことが可能かも知れない。公文書については、1897年と1913年のデータがあるが、これはソビエト時代に再計算されたものを中央アジア諸共和国が公的統計に取り入れたものである。また、トルキスタン総督府の古文書を基礎に遡及推計法を適用し、1865年まで遡って、ウズベキスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタンなどの全人口推計がウズベクの人口学者によって試みられた[4 及び 7]。しかし、他の先行研究での1897−1913年中央アジア人口変動の推計値とは大きくかけ離れており、今後の徹底的な解明が求められるのである[4, 5, 6]

 その後の10年間については研究がさらに困難である。1914年以降、データ収集のシステムや統計出版物が一部ないし完全に、処分されていたのである。この時期には第一次世界大戦、2月革命・10月革命、その後の内戦などが起こっているので、緻密な推計が必要とされている。中央アジアにとって激動のこの時期、土着人口、または登録されていない人口の移動・増加に関するデータが極めて乏しい。1926年のセンサスは比較的信頼がおけるとされるが、当地域に動態統計がないことから、このギャップを完全に埋めるには不十分である[2a]

 初めてのセンサスが実施された1897年以降のロシア帝国の国境地域と保護領の境界線は、現在のものと一致するが、中央アジア諸国の精確な時系列を作成するのはロシア連邦よりも難しい。



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 五つの共和国の直接的な原点は、ソビエト連邦の成立に深く関連している。ウズベク、トルクメン、タジク、カザフ、キルギス共和国は民族統合を経て1924年から1936年にかけて正式に区別された自治領となった。現在、中央アジア諸国の民族人口構造などの統計的基礎の再構成は、境界線の変化だけでなく人々の自己認識(民族意識)などの変化などもあり、簡単な作業ではない。また、ロシアやソビエトの史料と同様、中央アジアの新たな独立国(NIS:Newly Independent States)の公文書類も、特に国境が決まる以前の期間は、極めて慎重な扱いが必要である。

 中央アジアへは他にも、100年以上にわたって、他には例を見ないスラブ民族の人口流入、さらに、第二次世界大戦直前・直後と戦時中にドイツ、韓国、チェチェン、カラチャイス、メスケテイ・トルコ、クリミアのタタール人など強制移住による人口流入があった。そのような歴史的事実は1980年代半ばにゴルバチョフによる民主化政策の下で明らかにされたものである。しかし彼らの多くは国の安定について適切な解決策を見出せず、新たに独立した国の状況を困乱させるものとなった。

 ソビエト連邦では、第二次世界大戦によって被害を受けた日本やヨーロッパの国々とは対照的に、センサスは実施されなかった。結果として10年以上もの間に失われた人口や人口変動を追跡するのは容易ではない。ソビエトで失われた人口について、これまで言われていた約2,000万人に代わって、最近の推計値では2,530万人だとされている[2]。推計値の修正には中央アジア諸共和国全てのこの時代の人口データを解明することが必要である。

 1950年代末からは、規則的に比較的安定して4回のセンサスが実施され(1959、1970、1979、1989年)、その間も年間ベースで人口統計の出版物が出されるなど、多少なりとも包括的なデータが発表されるようになった。しかしながら、人口の変動など、これらのデータの分析は主に社会主義の目的にそった視点から操作されている。出版物の殆どが全連邦国家の動向についてであり、地域の多様性よりも地域の近似性を証拠づける報告となっている[5]

 さて、中央アジア諸国のほとんどがこの期間大きな人口爆発を経験したが、その勢いは今日もつづいている。1897年の最初のロシア・センサス人口から1959年のセンサスまでに、中央アジア人口には1,050万人から2,470万人に増加をした。最新の1989年のソビエト・センサスによれば、中央アジアの人口は4,950万人と更に倍増している。中でもタジキスタン、トゥルクメニスタン、キルギスタン、ウズベキスタンは人口倍増に30年もかかっていない。



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 独立以降、中央アジア人口の増加は、ロシア語を話す人々の大規模な人口流出があったにもかかわらず、約10パーセントとなっている。ソビエト連邦の崩壊は、特に、旧ソビエト連邦の非登録住民が人口の大部分を占めていたカザフスタンの人口増加率に影響を与えた。しかしながら、スラブ諸国(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)とその他の中央アジア諸国の人口変動には格差が生じている。前者では急激な死亡率上昇により、人口増加率が俄にマイナスに転じている。一方、後者では高い出生率と人口増加が続いている。全体の社会経済的変革と人口転換の相互作用は、特に中央アジア諸国でほぼ伝統的なパターンで伸びてきた土着の人口の研究にとって複雑だが大事な研究課題である。

 新たに独立を果たした中央アジア諸国からのロシア語人口の流出と、本国の経済不安などから逃れるために移動せざるを得なくなった人口の流入により、独立以降から今後にかけて、民族紛争の懸念が最も緊急の関心事となろう。したがって、人口移動の緻密な考察は研究対象地域の統計学的分析の緊急の課題であるといえる。

 旧ソビエト連邦の崩壊以降、中央アジアにおける猛烈な人口的変化の真の特徴と規模は、今後、各国で新たに実施されるセンサスから追跡されるだろう。カザフスタンの統計庁は、独立後初めてのセンサス(1999年2月25日−3月4日)の速報結果を発表した。そこでは例えば、人口が1989年の16,199,000人から14,951,000人まで、百万人以上、率にして7.8%低下したことなどを示している。この減少は主としてロシア、ウクライナ、ドイツ、ユダヤ、その他のロシア語人口の流出によるものとされている。またカザフ民族の占める割合は、1979年センサス(この時の全人口は14,684,000で、現在よりも僅かに少ない)での36%に対して全人口の53.4%となっている。1989年センサスから10年間、それぞれカザフスタンの都市部人口は8.4%、農村部人口は6.8%減少した。今日、830万人(全人口の55.9%)が都市居住者である。西ヨーロッパとほぼ同じ面積をもつ中央アジア最大の領国は、今や世界でも有数の過疎地域の一つとなってしまった。センサスの最終結果は、今年の末にはまとめられる[12]。これには過去10年と今後のカザフスタンの主な人口動向が、将来予測も含めて詳細かつ充分検討可能になるものと期待されている。

 さて、今後中央アジアにおける人口の研究は、少なくとも20世紀について、それぞれの時代(ロシア帝国、ソビエト連邦、そして独立以降)に特定して、これまで不透明だった統計やその分析を進めてゆくことが極めて重要である。

 ここでは包括的分析を目指して、公的に出版された資料を含め、存在する資料の限界を検討することにより、中央アジア人口の研究における問題点と課題を概観した。以上から、中央アジア諸国の歴史学的データの研究は、最近公開された公文書を集めより洗練された計量的方法を適用することにより得られる付加的データを蓄積して、より精確な推計と意図的でない視点からの更なる解析が必要とされている。このような研究が、中央アジアにおける各時代の人口変動の歴史のより深い理解と、現在及び将来のよりよい政治的政策決定に繋がるよう望まれるものである。

(Bakhtior Islamov 一橋大学経済研究所)




 

参考文献

 [1] Asiatskaya Rossia, tom pervyi, Ludi In poriadki za Uralom. Izdanie pereselencheskkogo upravleniya Glavnogo upravleniya zemleustroistva I zemledelia, S-Peterburg, 1914.


 

 [2] Andreev E.M., Darskiy L. E., Khar'kova T. L. Naselenie Sovetskogo Soyuza: 1922-1991, Moskva, "Nauka" , 1993.


 

 [2a] Andreev E. M., Darskiy L. M., Khar'kova T. L. Demographicheskava istoriya Rossii: 1927-1959, Moskva, "Informatika", 1998.


 

 [3] Boyarskiy A. Ya., Shushurin, Demographicheskaya statistika, Gos,stat,izdat, Moskva, 1955.


 

 [4] Brachnost', rojdaemost', smertnost' v Rossii I v SSSR. Pod redaktsiey Vishnevskogo A. G., Moskva, "Statitika", 1997.


 

 [5] Demographicheskayastatistika, Otv. Rrdaktor T. V. Ryabushkin, Moskva, "Nauka", 1986.


 

 [6] Jiromskaya V. B., Kiselev I. N., Poliakov Yu. A., Polveka pod grifom "Secretno": Vsesoyuznaya perepis'naseleniya 1937 goda, Moskva, "Nauka", 1996.


 

 [7] Karakhanov M. K., Necapitalisticheskiy put' razvitiya I problemy narodonaseleniya, Tashkent, "Fan", 1983.


 

 [8] Naselenie Rossii za 100 let (1897-1997), Stat. sbornik, Goscomstat Rossii, Moskva, 1998.


 

 [9] Rashin A. G., Naselenie Rossii za 100 let (1811-1913), Pob redaktsiey akademika Strumilina C. G., Gos.stat.izdat, Moskva, 1956.


 

 [10] Tatimov M. B., Razvitie narodonaseleniya I demographicheskaya politika, "Nauka" Alma-ata, 1978.


 

 [11] Vodarskiy YA. E., Naselenie Rossii za 400 let (XVI-nachaio XX vv), Moskva, "Prosvetshenie, 1973.


 

 [12] BBC Monitoring: Inside Central Asia, N 270, April 12-18, 1999; Interfax April 13 and May 15, 1999; Renters April 14, 1999; Radio Free Europe/Radio Liberty, April 15, 1999; BBC April 15,1999.