フィリピン統計制度の歴史


野沢 勝美


 

 フィリピンにおける統計制度の変遷を、19世紀末以降の100年間を中心に経済開発政策の展開との関連でまとめてみよう。ここではフィリピンの統計制度が集権型、分権型との間を大きく振幅してきたことが明らかである。これは、開発方式が内生的あるいは外生的要因で変更され、その政策対応の結果であるといえる。

 

1. アメリカ植民地期:統計制度の確立


 人口調査

 スペイン植民地期のフィリピン(1571−1898年)では、その末期を除いて全国規模の人口調査は行われなかった。エンコミエンダ制(徴税権等の委託制度)のもとでは、スペイン人の関心は原住民からのトリブト(貢税)の確実な徴収と賦役であり、絶対人口数は必要としなかったからである。1903年のバローズ調査として引用されることの多い1591年推計では、全トリプト数を166,903、貢税人口を667,612人としているのは、貢税単位を4人としたためで、実際の人口数とはいえない。

 スペイン政府による最初の人口センサスは、王室令により1878年に行われた。同様のセンサスが別個の王室令により1887年、1898年に実施されているが、1898年センサスは米西戦争の最中であり、未完に終わっている。

 これより先、18世紀半ば以降はカトリック教区ごとに原住民の洗礼、婚姻、葬式の記録から、各種の人口推計が可能となったが、これはキリスト教徒のみを対象とするものであった。

 スペイン植民地期の統計制度は、1889年にスペイン民法が施行され民生局に中央統計部が設置されたのが最初である。この人口動態登録制度では、神父が所属教区内の出生、婚姻、死亡をマニラの中央統計部に報告することを義務付けていた。1895年には、月刊のBoletin de Estadistica de la Ciudad de Manila(マニラ市統計公報)が発行され、最初の人口動態調査が発表されている。

 

 センサスの開始

 米西戦争の結果、フィリピンはアメリカの領有となる。アメリカ植民地期(1898−1946年)には、3度にわたり全国規模でセンサスが実施されているが、センサス実施機関はそのつど異なっている。

 まず、第1回の1903年センサスは、植民地統括機関であるフィリピン行政委員会の指示で、公共教育省に設けられたセンサス局が実施し、集計は米国センサス局が行った。このセンサスは、1918年センサスと同様に人口統計以外に農業、工業統計も含んでいたが小規模のものであった。

 その後、1916年ジョーンズ法により、フィリピンの早期独立の方向が示された。政府主導で1916年にフィリピン国立商業銀行(PNB)、1919年に半官半民の国営開発会社(NDC)が設立された。統計制度に関しては、1918年に商業通信省の下に商工局統計部が発足し、1932年まで13年間にわたり統計情報を集約することになった。

 こうした状況下で、1918年にフィリピン諸島センサス部により第2回センサスが実行された。これにはフィリピン人の全面的参加があった。

 各省個別統計に関しては、1902年に農業局、1908年に労働局が創設され各統計部門が設けられたが、1932年には商工局の農商務省への改組に伴い、農業局農業統計部を吸収して農商務省統計部が発足し、統計解説がThe Philippine Statistical Reviewに発表された。

 フィリピンの独立は、1934年タイディングズ=マクダフィ法を受けて1946年7月4日と決まり、コモンウェルス期(1936−46年)は経済基盤の構築が目指された。1936年には経済政策の諮問機関として国家経済評議会(NEC)が創設され、また同年には先のNDCの政府持株会社化、PNB融資の投入による政府企業が増大した。経済界に政府介入が強まったわけである。

 この時期、統計制度も集権化に向けて大きく進展した。まず、センサス委員会により1939年センサスが実行された。ここでは人口以外に林業、運輸、漁業、電力なども対象とされた。さらに、統計機構が整備統合され、1940年には法律第591号により大統領府にセンサス統計局(BCS)が創設された。現在の国家統計局(NSO)の前身である。この時点で、これまでの農商務省統計部、労働省労働統計部、公共教育省保健局生命統計部、関税局統計部、1939年センサス委員会の機能が一括してBSCに移管された。かくして、農工業生産統計、労働力統計、人口統計、貿易統計が一元的に管理されることになった。これらの成果は1941年にBCSによる最初の統計書となるYearbook of Philippine Statistics, 1941, Journal of Philippine Statisticsとして刊行されている。

 ここで特記すべきは、アメリカ植民地期に戸籍登録制度が確立し、今日まで継続されている点である。1901年にフィリピン行政委員会による各ムニシパリティ長が登記官に指定され、その後、戸籍登録は1922年に国立図書公文書局、1930年に国立図書館に移管され、1940年センサス統計局(BCS)設立に伴い、BCSに移された。今日では、後述の国家統計局(NSO)の所管となっている。

 

2. 戦後復興期の統計制度


 1946年7月に独立したフィリピンは、第二次世界大戦による壊滅的な打撃からの復興が最大の課題となった。戦後復興期(1946−55年)をみると統計制度は、基本的には植民地期に構築された制度が引き継がれ、センサス統計局(BCS)による戦後最初の1948年センサスが取り組まれた。

 

 国民所得統計の登場

 この時期の特色は既存の統計制度に国民所得統計が登場したことである。

 フィリピンで最初に公式な国民所得統計が登場したのは1947年の米比合同財政委員会報告書に記載された1938年と1948年の国民所得推計である。同委員会はフィリピン政府要請の戦後復興融資審査に派遣されたもので、同報告書は中央銀行の設立なども勧告している。

 フィリピン中央銀行は1949年に設立され、同行経済調査部は1950年に国民所得推計の作成に着手した。当初は1947年推計と同じく1948−50年の国民所得推計が、財・サービスの最終価額をベースに作成された。1952年には複式記入が採用され、最終的には、国民所得推計は1946−57年まで作られた。また、国民所得分析がなされたものの、主として金融財政政策の評価との関連においてであった。

 戦後経済復興、経済計画策定などに際しては統計専門家の存在が必要となった。このため初期には人材育成のため米国への人材派遣などがはかられ、その後のフィリピン統計制度の発展に大きな貢献をもたらした。フィリピン統計学会(PSA)の設立と、PSAの提言による統計研修センターの発足にその結実が見られる。

 フィリピン統計学会(PSA)の設立は1952年であり、発起人18人のうちに2人の米人統計専門家が含まれていた。PSAの統計理論誌The Philippine Statisticianは1952年以降今日まで継続して刊行されており、高い評価を受けている。

 統計研修センターは、1953年にフィリピン政府と国連の協定により5ヵ年計画で政府統計改善を目的に設立され、フィリピン大学に付置された。初代所長はエンリケ・ビラタ(セサール・ビラタ元首相の実父)である。国連からは首席顧問としてベンジャミン・ヒギンスなどが派遣された。ヒギンズは後述の「5ヵ年計画」の策定に参画し多大の貢献をなした。

 

 開発計画とOSCAS

 輸入代替工業化期(1956−71年)をみると、マグサイサイ政権期(1953年成立)が統計制度の大きな転機となっている。まず、1936年の国家経済評議会(NEC)を1955年に改組して、国家計画部、外国援助調整部、統計調整基準部(OSCAS)を設置し、経済計画策定に関する権限を付与した。これをうけてNEC国家計画部が、本格的な計画を目指し、1957年に策定したのが、「経済社会開発5ヵ年計画」(1957−61年、以下「5ヵ年計画」)で、国家機関による正式な手続きを踏んだ計画書として発表された。また、国民所得推計作業が、1957年に中央銀行経済調査部から新設のOSCASに移された。国民所得推計の経済開発計画への活用が企図されたのである。事実、「5ヵ年計画」には計画期間中のGNP目標値が掲げられている。

 これ以後、OSCASのもとで国民所得推計の信頼度を高めるべく各種の改良がなされた。1968年には1946年−67年国民所得統計の全面的改定がなされた。これまで残差とされてきた民間消費支出を直接に計算することで、従来の付加価値ベースの推計のチェックが可能となった。また、NECのシカット長官指示で1971年には、国民所得推計方法に関するマニュアルが策定された。

 これに先立ち、OSCASは産業連関表の作成にも着手している。最初の1961年産業連関表はフィリピン大学教養学部(後に一部が経済学部)と共同で65年に完成させた。引き続きOSCAS独自で1965年、1969年産業連関表を完成させている。

 以上の国民所得推計などの成果はOSCASの季刊誌The Statistical Reporter (1959年より刊行)に随時発表された。同誌は政府統計に関する開発問題の情報普及を目的としたが、国民所得分析以外にも投入産出分析、外国援助問題など多岐におよぶ開発課題を取りあげた論文が掲載されている。

 しかしながらこの時期、当時のデコントロール政策を反映して、統計制度における分権化が図られたのも特徴的である。すなわち、OSCASが統計情報の集約を担う一方で、1951年にセンサス統計局(BCS)は大統領府から商工省に移管されていたが、56年にBCSの所管であった各種統計のうち、農業、天然資源、銀行金融、労働力統計、生命統計、教育統計については各省庁に分散し、BCSは残された人口センサスなどを継続して実行することになった。

 

3. マルコス政権期:集権型統計制度への転換


 フィリピンにおける戦後の分権型統計制度は、マルコス政権期半ばに集権型統計制度期(1972−86年)へと大きく転換した。マルコス大統領は1972年9月に戒厳令を布告、議会を停止し、周辺アジア諸国と同じく、輸出指向工業化政策の導入と政府主導による門戸開放政策に重点を移した。これらは「開発4ヵ年計画」(1974−77年)に反映している。この政策の実行機関の中核に位置するのが、1973年設置の国家経済開発庁(NEDA)の発足である。これは国家経済評議会(NEC)を改組したものである。NEDAはこれまでのNECとは異なり、委員長である大統領の直接指揮のもとでテクノクラートによる開発計画の策定が進められたのである。これに伴い統計機構も当然集権化がはかられた。

 NEDAの主要な機能、権限、任務のうち、統計事業に関しては次の3点が重点項目であった。すなわち、@全省庁の統計事業の調整、A統計基準手法の策定とその普及、およびB国民所得計算の策定である。このため統計調整局(SCO)を設定してOSCASの機能を吸収し、その下に統計計画基準部(SPSS)と国民所得部(NAS)を置いた。

 かくして、政府主導開発において計画策定や政策上の意思決定に不可欠となった国民所得推計は、NEDA国民所得部の所管となった。各省を横断的に連携するNEDA統計諮問委員会が設けられ、基準年を1967年から72年に変更し(1976年)、国連が勧告する1968年新SNA体系への適合がなされるなど、国民所得推計の信頼度が高められた。1978年には国民所得推計方法に関する第2次のマニニュアルも作られている。こうした成果に加え、本格的統計年鑑として1974 Statistical Yearbook が刊行されている。

 一方、基礎統計としてのセンサスを担ってきた商工省センサス統計局(BCS)は、1974年3月に国家センサス統計局(NCSO)に再編成され、NEDAの行政監督下におかれることになった。

 

4. アキノ=ラモス政権期:分権型統計制度の再構築


 次に、アキノ=ラモス政権期(1986−92年)をみると、1986年2月にピープルパワーによって成立したアキノ政権下では、マルコス政権のとった政府主導型の開発手法は失敗であったとして、民間活力導入、規制緩和、分権的手法を経済政策の基本方針とした。そして国際金融機関、ドナー国の資金支援のもとに経済再建を優先課題としたのである。これら改革路線は同政権の後継者であるラモス政権に踏襲されている。

 これらの基本方針は統計制度にも反映し、分権型統計制度が再び構築された。暫定政権下の1987年1月「フィリピン統計制度の再編強化など」を命じた政令第121号が布告された。同布告は分権的な統計制度の必要性を明記し、統計関連機関を開発計画策定機関から独立させたとの点である。具体的には、次の3点をあげておこう。

 第1は、国家統計調整委員会(NSCB)の設立である。NSCBを統計に関する政策策定と調整に関する最高意思決定機関と位置付けた。その運営理事会は、NSCB委員長にはNEDA長官が、副委員長は予算管理省次官が、委員にはその他の省次官が就任して構成された。しかもNSCBは直接には1次データの収集はせず、調整役に徹することとなった。また、NSCBは専門職集団の機能を持ち、これに統計計画人材部(SPRMO)と経済社会統計部(ESSO)の2部が置かれている。後者は国民所得統計、産業連関表作成などを担当している。

 第2は、国家センサス統計局(NSCO)を国家統計局(NSO)と改称し、国家経済開発庁(NEDA)からの独立機関とした点である。NSOは、総合目的統計の収集、各種センサスと国家統計調整委員(NSCB)による指定調査を実施する統計機関と位置付けられている。

 第3に、分権的統計制度の編成に必要な専門家の育成のための、統計研修研究センター(STRC)の設置である。STRCには政府機関統計業務担当者などの研修、および政府統計の開発に関する研究の2業務を担うことになった。

 上記のNSCBの設立に前後して、他の統計機関においても再編が進んだ。その主要なものについて挙げておこう。

 農業統計に関しては1987年1月に農業統計局(BAS)が発足した。これは1963年に再編された農業経済局(BAECON)を引き継いでおり、また水産局の統計業務を吸収するものであった。これで農業省傘下の統計が一元化された。

 労働統計に関しては、同時期1987年1月に労働雇用統計局(BLES)が設立されている。これは62年に再編の労働省労働統計部(LSS)が発展的に格上げされたものである。

 また保健統計に関しては1987年1月に、保健情報部(HIS)が発足しているが、これは61年に再編の疾病情報センター(HIC)の発展的廃止に伴うもので、総合的な保健情報整備を企図したものである(図参照)。

 

5. 今後の課題


 以上、今世紀中に展開されたフィリピンの統計制度を中心に概観した。今日では、貧困、環境、ジェンダーなどフィリピンが直面する諸課題に対処する基礎的情報提供機関としての統計制度の確立が課題となっている。今後、これに対応するための統計制度として、分権型、すなわち国民各層のニーズに対応できる組織を構築していくことが有効であろうと考えられる。

 しかしながら、今日の統計関係省庁においては、こうしたニーズに対応するための人的、物的資源は充分とはいえない。とりわけ統計データ、資料、出版物の刊行の遅れは深刻な状況にある。フィリピン統計制度は新たな役割にむけた挑戦を実現するための国際協力、支援を必要性としている。

 

 

(のざわ・かつみ 亜細亜大学国際関係学部)