1910−40年代の中国農業生産統計   牧野 文夫

 

 

 昨年、「アジア長期経済統計プロジェクト」の全体会議終了直後、私は羅歓鎮氏(日本大学)および馬徳斌氏(一橋大学)とともに約2週間、中華民国期の農業統計の収集と専門家からのヒアリングを目的として訪中した。今回は南京、上海にある大学、研究機関、図書館等を中心に訪問した。まずは前半で資料探索の経緯にふれ(中国図書館事情)、後半で農業統計それ自身について解説する。

 

資料探索の旅

 最初の訪問先は、北京の社会科学院経済研究所図書館である。本プロジェクトの仕事で中国に来る時は必ずここに寄る。まず必要な資料のコピーを依頼し、帰国直前にそれを受け取るパターンが定着している。ここ数年では、日本の国立国会図書館よりも利用頻度が高い。司書の人たちともすっかり顔馴染みになって、目指す資料の検索も素早くなってきた。これには早く資料を探さないとすぐに昼休み(11時から14時くらいまで)になってしまい、無駄な待ち時間を過ごさねばならないという事情も与っている。

 次の訪問地は南京である。まず南京農業大学経済貿易学院の図書室を訪ねた。一昨年ここを訪れた羅氏が、後に紹介するバック(J.L. Buck)の調査に関する調査原本らしきものを発見したので、それを確認することも目的の一つであった。結論から言うと、それは出版されたLand Utilization in China, Vol.3 Statisticsの最終段階の原稿(ワークシート)であった。このバック原稿は棚の上に埃をかぶっており、極めて保存状態が悪かった。部屋自体も資料室というよりは物置という感じで、普段は施錠されているので人が利用した形跡はほとんどない。せっかく開かずの部屋に入れたので、ついでに室内に保管されている他の資料も検索してみた。目録が作成されていないので、一つ一つ手にとって見ないと何があるかわからない。ランダムに探しているうちに『四川省農情報告』(後述)なる資料を偶然見つけた。謄写刷であるため傷みが非常にはげしく、日本であったらコピーは当然不許可となっていただろうが、羅氏による巧みなアプローチによって幸いにもコピーすることができた。一部解読不能なところもあるが、資料の乏しい1930年代から40年代にかけての時期を埋める貴重な発見であった。この資料については、その後3月に馬氏が再度出張した際に、1938〜42年のデータを収めた保存状態のよい『四川省農情月報』と『福建省農情月報』を入手することができた。

 経済貿易学院の隣の建物が中国農業遺産研究室で、中国農業史研究の中心の一つだ。学会機関誌の編集部がここにおかれている。若手研究者たちと話し合う機会を得た。経済貿易学院の所蔵資料について話したところ、彼らはまったく知らなかった。中国における史料の整理と情報開示が不十分なことを痛感した。

 その翌日は南京第二歴史档案館(公文書館)を訪問した。ここには中華民国期の档案が多数収められているので、資料の発見を期待していたが、成果については後に述べるが、短時日の訪問の割には合格点をつけてもよいだろう。

 一般的に言って档案館と名の付く場所への入館は非常にチェックが厳しい。私は訪中前に在職証明書をファクシミリで送って入館許可を得なければならなかった。また職員の応対が非常に悪く気分を害した。ただし膨大な所蔵資料から必要なものを発見するためには、とても数日の訪問では時間が足りない。数ヵ月腰を据えてかからないと、満足すべき成果は得られらないだろう。この档案館では偶然別の日本人研究者(島根県立短期大学の貴志俊彦氏)と会った。われわれの調査目的を話したところ、既にインターネットを通じて本プロジェクトのホームページにアクセスされており、中国班の活動成果についてもご存じのようであった。昼食を共にしてその日は別れたが、その後正月を挟んで上海図書館で再び邂逅した時は正直互いにびっくりした。

 次の訪問地は杭州の浙江大学である。ここは羅歓鎮氏の母校であり、氏の同級生が多数歓待してくれた。ここでは二人の民国史の専門家と会談をもった。経済史が専門の金普森教授によると、われわれが探している資料は重慶や成都にも残されているらしい。類似のことは元国家統計局の岳巍先生も述べていたことを、同僚の劉氏から聞いていた。しかし後日に行った上海や北京でのヒアリングでは、重慶にあった資料は日中戦争後再び南京に戻されたから、そこにはほとんど資料は残されていないだろうとの反対の意見も聞いた。いずれが正しいかは、われわれ自身が調べなくてはならない。またもう一人の郭世佑教授は政治史が専門で、私の名刺を見て中村義先生(東京学芸大学名誉教授)を知っているという。これだけなら別にどうと言うこともないのだが、帰国した時成田空港で、そのご本人中村先生と偶然お目にかかったのにはこれまたびっくりした。

 杭州を離れ上海に向かった。ここで先発の馬氏と合流し上海図書館と上海社会科学院を訪問した。さすが上海だけのことはあり、図書館は建物が新しいだけでなく、利用システムやサービスも近代的で、日本の図書館に比べまったく遜色がなかった。社会科学院では、『上海近代工業史』の共著者である黄漢民研究員から工業統計についてのヒアリングを行った。ただし、ここの図書館が現在改築中で閲覧できなかったのが心残りであった。

 その後再び南京に戻り第二档案館で先日依頼していたコピーを受け取りに行ったが、ここでトラブル発生。コピーが濃すぎて字が読めない。やり直しを依頼したものの全く埒が空かない。結局筆写する羽目になった。午後は民国期の蔵書コレクションがある南京図書館分館を訪れた。入り口にはカンバンがかかっておらず、見た目にはそれが何であるかまったくわからない。しかも利用に際しては、紹介状が必要で、先日訪問した農業遺産研究室のスタッフの世話になった。ここで驚いたのは、コピー代金である。内外の利用者を問わずA4用紙1枚が何と8元=1ドル。これには絶句した。

 最後にまた北京に戻ってから、中国農業博物館研究所長の曹幸穂博士と面会する機会をもてた。博士は全国政治協商委員会のメンバーでもある優れた学者で、後に述べるJ.L.バックの孫弟子に当たる人である。バック調査に関して当事者でなければ知ることのできない貴重な情報を得ることができた。また最近中国では民国時期の歴史に対する関心が非常に高まっており、2000年には日本、中国、アメリカ三ヵ国の民国史研究者を糾合してシンポジウムを開く構想を聞かされた。COEの作業についても意見交換を行ったが、農業班の作業に関しては、ミクロの農村調査の結果をできる限り有効に使った方が良いというアドバイスを受けた。

 今回複数の専門家と話す機会を持てたが、共通しているのはミクロ重視の研究スタイルである。曹博士ばかりでなく南京農業大学の若い学徒たちも異口同音に同様の事を言っていた。この点については日中のギャップの大きさを感じた。

 

農業統計資料について

 さて次に今回の資料収集の成果をもとに本題の農業統計の話に移ろう。調査対象時期の順にしたがって紹介する。

農商統計表』  まず1912年から1921年の期間をカバーする資料として中華民国政府・工商部(後農商部)『農商統計表』がある。この統計は日本の『農商務統計表』に相当するもので、農業のみならず鉱工業も含んでいる。同統計については、同じ中国部会の関権氏が工業データを事例にして、ディスカッションペーパー(「1910年代中国工業生産額の推計:『農商統計表』の評価と推計」Discussion Paper No.D97-16)で、その問題点を既に詳細に論じているので、ここではそれを繰り返さない。ただカバレッジやデータの質に大いに問題があることは、農業データの場合も同様である。

江蘇省農業調査録』  江蘇省のいくつかの県を対象に1921年農業調査が実施された。その結果をまとめたのが『江蘇省農業調査録』(全3冊)である。これは羅氏が南京図書館で発見した。比較的資料の乏しい20年代の貴重な情報源として期待できる。しかも調査対象の江蘇省は中央政府の首都が置かれていた省であるから政府の影響力は強く、そこでの調査の信頼性は相対的に高いはずである。

Chinese Farm Econony  南京大学教授ジョン・ロッシング・バック(John Lossing Buck)は、1921〜25年にかけて華北・華中の7省17県の2,866農家を対象にして、農業経営に関する調査を行った(Chinese Farm Economy, 1930;東亜研究所訳『支那農家経済研究(上・下巻)』同所)。この調査は後に紹介する本格的な『中国土地利用』の試行的調査として行われたものと推察される。ちなみに、日本語タイトル『大地』で知られるノーベル賞作家パール・バックはこのJ.L.バックの妻であった(1917年に結婚し34年に離婚している)。

各省農業概数估計総報告』  中華民国期の政府公式統計として認められているのが、1932年に公刊された立法院統計処・主計処統計局『各省農業概数估計総報告』である(『統計月報』1933年5月農業専号収録)。立法院統計処(1929〜31年)および主計処統計局(1931〜32年)が、各県市政府、各地の郵便局あるいは農民などからの報告を元にまとめたもので、農家戸数、耕地面積、主要作物の平常年の作付面積、同・産出量などが調査内容となっている。対象となった地域は、東北4省を含む25省(1781県)でカバレッジも非常に広い。本報告は、東亜研究所『第五調査委員会編輯資料1・東亜食糧問題研究彙纂第一部 支那農業基礎統計資料1 満州、蒙疆、支那各省各県別の網羅的估計の総結果』同所、1940年に収録されているので、日本語でも利用可能である。ただし後にも述べるように、この統計は、課税を逃れるため耕地面積や生産量がかなり過小に報告されている、との評価を受けている。

Land Utilization in China  1929〜33年にかけてJ.L.バックは東北地方を除く22省308県16,786農家を対象に、極めて膨大な量に達する包括的な農村調査を行った。この調査の目的は、学生に中国土地利用研究のための訓練を施すことと、中国農業にとって有用な資料を収集すること、の二つであった。バックはロックフェラー財団からの資金援助を受け、彼が所属した南京大学農林学部の卒業生に専門的訓練を施し調査員として使った。調査結果は、Land Utilization in China(全3巻:第1巻本論、第2巻中国土地利用地図、第3巻統計)として1937年に公刊された(不思議なことに第1巻部分の邦訳は2種類、しかも同じ年に出版されている。三輪孝・加藤健訳『支那農業論−支那に於ける土地利用(上・下巻)』生活社、1938年;塩谷安夫・その他訳『支那の農業 : 1929-1933年 支那22省 168地方 16,786農場 38,256農家家族の研究』改造社、1938年)。バックの『中国土地利用』調査は、次に紹介する『農情報告』と並び、中華民国期の代表的農業統計であるため、共産党政権初期の1950年代に発表された農業統計の精度を吟味する際の基準としても用いられている。

 このバック調査の精度については、サンプル誤差が大きいことがかねてより指摘されていた。サンプルに選ばれた県や農家は、調査員の判断に委ねられていた。したがって調査員にとって好都合なサンプルが選ばれたことは言うまでもない。しかも既に述べたように調査員は南京大学の卒業生で、当時大学生を送り出すことができた家庭は富裕階層に属していたから、サンプルにバイアスが存在したことは、バック自身が率直に認めている。したがって、1960年代に民国時期の農業生産推計を行った、T.C.Liu & K.C.YehあるいはD.Perkinsなどは、このバック調査をあまり高く評価していない。しかしバック自身は戦後に刊行した著作の中で、農産物の生産・消費両側面から判断して、30年代に資料としては自らの調査が最も信頼性が高いとしている。

農情報告』  1930年代のマクロの時系列農業統計として有用な資料は何と言っても実業部中央農業実験所が公表した『農情報告』(月刊)である。それは、全国20省各県に在住する農情報告員からの報告をまとめたもので、全県のおよそ60%から報告を受けていた。第1巻第1号は1933年1月刊で最終の第7巻5/6合併号が39年6月に公表された。調査内容は1931から38年までの期間をカバーしている。報告された内容は、主要農作物の播種面積・生産量、地価、小作料、家畜保有、副業状況、労賃・物価および消費水準などこれも多方面に及んでいた。この『農情報告』については、再編整理されたものが、東亜研究所『第五調査委員会編輯資料2・東亜食糧問題研究彙纂第一部 支那農業基礎統計資料2 「農情報告」(1931-36年)−蒙疆、支那各省累年統計総輯』同所、1943年に収録されているので、日本語での利用も可能である。また原本ついては、東大東洋文化研究所にアメリカ議会図書館所蔵本から作成したマイクロフィルムが所蔵されている。われわれはそれからコピーを作成したが、実はそのマイクロ版には欠落号がある。そこで南京農業大学と社会科学院経済研究所の所蔵本から欠落分を補って完全収録版を作成し、それを一橋大学経済研究所資料室に納めた。有効に利用されることを期待する。

 既に述べたように、98年12月末に南京農業大学経済貿易学院を訪問した際、まったく偶然であるが、四川省農業改新所統計室編『四川省農情報告』9巻5期(1946年5月)なる資料を発見した。対象地域は四川省に限定されるが、主要作物の播種面積と生産量については、中央農業実験所『農情報告』とほぼ同一のフォーマットで、1938から45年までの期間の最終推計結果と46年の第二次推計結果が記されている。30年代後半から40年代にかけての時期は、日中戦争や国共内戦の影響で資料が乏しいだけに有効に活用したい。

 また南京第二歴史档案館では、1940年代半ばの時期における『農情報告』関連資料が多く所蔵されているのを確認できた。たとえば「○○農情報告」という資料名で(○○は地域名)、1944年については広西省、45年については浙江省はじめ延べ11省分を確認できた。この他、「○○農情通訊簡報」、「○○農情統計表」、「○○農情」というタイトルを確認できた。この中の一部について内容を確認したが、各地域からの報告の原資料であるため公刊された『農情報告』のスタイルになっておらず、解読にはかなりの時間がかかりそうな印象をもった。

 

農業生産高の推計作業について

 以上現在利用可能な農業統計について紹介した。最後に農業生産高の推計作業状況について簡単に述べておく。

 まず基本的な資料として以下の4点を使用する。1910年代の『農商統計表』、1930年近傍の立法院統計処・主計処統計局の『各省農業概数估計総報告』、同じくバックの『中国土地利用』統計、1930年代の中央農業実験所『農情報告』である。羅氏は『農商統計表』、馬氏は『農情報告』、私が『各省農業概数估計総報告』とバック調査を担当する形の分業体制を組んで、当面それぞれが割り当てられた資料の分析を通じて推計作業を行っている。中国全体の農業生産高をいかにして推計できるか述べてみたい。

 先行研究を調べてみると、ほとんどが次の式にもとづいて生産高の推計を行っている。

 i作物の生産量=耕地面積×i作物の作付比率

        ×i作物の土地生産性

 したがってわれわれもこの推計式を用いる。各省別にこの作業を行い、それを最終的に集計して中国全体の生産高を求める。

 こうして求めた生産高に輸出入量を調整して国内供給量を求め、それと消費量(農村の1人当たり消費量については、バック調査や『農情報告』からわかる)、人口とを比較することによって、農業生産・消費量と人口推計との整合性を図ることができる。私はこのような作業をバック調査を使って行った。その結果は別途ディスカッションぺーパー(「バック『中国土地利用』による農業生産高の推計」)で公表する予定である。

 

 

(まきの・ふみお 東京学芸大学教育学部)