開発経済学とデータベース


 

プロジェクト拡大幹事 黒崎 卓

 

去る7月27日、28日の二日間にかけて、アジア経済研究所 ( 以下、アジ研 ) において 「 開発経済学:データの取り方・使い方 」 という夏期公開講座が開催された。全講義を通じて大勢の出席者があり、このテーマへの関心の高まりを感じさせられた。小稿では、この講座を題材に、開発経済学におけるデータベース利用の新しい傾向を紹介し、アジア長期経済統計データベース・プロジェクトへのインプリケーションを考えることにしたい。

 

1.経済発展分析のための統計データ

アジ研の講座は 「 国民所得と生産 」、「 貿易 」、「 多国籍企業と直接投資 」、「 人口データとその利用 」、「 農業と家計 」、「 福祉と環境 」 の計6講義から構成された。筆者が担当したのは、このうち 「 農業と家計 」 である。各講義内容は、同研究所発行の 『 アジ研ワールド・トレンド 』( 1998年11月号 ) に特集が組まれているのでそちらを参照されたい。全講義に共通した視角は、途上国のデータはどのように手に入れればよいのか、それをどう開発問題の分析に使ったらよいのかという現実的なアプローチであり、これは本プロジェクトにも共通するものといえよう。

この講座でカバーされた項目のうち、国民所得、工業 ( 製造業 ) センサス、貿易統計、人口センサス、農業センサス・農業生産統計などはアジア長期経済統計データベース・プロジェクトでもおなじみである。途上国におけるこれらのデータは、かつては先進国に比べて精度が落ち、使用にあたり細心の注意が必要なものであったが、近年は精度も改善され、さまざまな指標がほとんど全途上国について作成・公表されるようになっている。したがって、アジア地域の最近のデータの場合には既存の統計がかなり使えるというのが、アジ研の地域研究者の間でもおおむね合意となりつつあるようである。ただし、貿易データなど、分類項目の変化などのために、近年の統計であってもその利用には注意が必要となる統計もある。

その反面、少し時代を溯った場合のデータベースは質的にも量的にも非常に限られてしまう。新しい経済成長理論においても注目が集まっているのが初期条件の違いであるが、にもかかわらず、初期条件の差異を示す統計ははなはだ心もとない。本プロジェクトの貢献が、まず第一にこの点にあることが、アジ研の講座からも再確認させられた。

一方、本プロジェクトで独立したテーマとして収集されていないのが、「 多国籍企業と直接投資 」 および 「 福祉と環境 」 に関する統計であろう。この二つにそれぞれ一講義が当てられたことからわかるように、途上国経済の今後を占う上での現実的な鍵として、あるいは開発経済学理論における究明されるべき課題として脚光を浴びているのが、これらのテーマである。アジ研の講座では、実態の正確な把握すらいまだ不十分なこと、国によって定義や概念が大きく異なるために国際比較が困難であり、既存のデータベースの利用にはまさしく細心の注意が必要なことが強調された。また、この分野への関心が高まったこと自体最近であるために、より長期の情報をデータベース化することはかなり難しいと感じさせられた。

したがって、これら二項目を本プロジェクトで独立して取り上げないのはやむを得ないといえよう。ただし、次善の策として、現存の枠組の中である程度これらの情報を取り上げることは可能であり、そのニーズも大きいと思われる。例えば、国際収支統計の中でできるだけ国際資金移動としての直接投資統計が捉えられるような集計を試みる、農業生産統計に国土の質などに関する情報を取り込む、社会統計部門を充実させる、などである。

 

2.大規模標本調査の個票データの利用

人口データと農業データは、集計値としては最も古くから統計が集められ、したがって本プロジェクトでも重点が置かれている項目であるが、この分野での近年のデータ利用は急速にミクロ分析指向を強めており、我々の統計との違いが大きくなっている。

人口データで特筆すべきは、USAIDの資金協力の下にアメリカの調査機関マクロ・インターナショナル社が行っている 「 人口保健調査 」( DHS : Demographic and Health Survey ) である。これは、1984年に開始され、現在も継続中の標本調査で、途上国約60カ国、標本数3000から2万の人口学的調査である。調査結果は個票のデータベースとして提供されている。また、この前身ともいうべき 「 世界出生力調査 」( WFS : World Fertility Surveys ) も個票データの利用が可能である。DHS や WFS データの利用により、出生、死亡、人口移動などの詳細を個票ベースで分析することが日常的に行われるようになってきている。

農業・農村経済の分析においても、標本家計調査にもとづく個票データの利用が盛んになってきている。特に、農家の生産面・消費面の両方をカバーした総合的なパネルデータに注目が集まっており、インドのデカン高原にある国際半乾燥熱帯作物研究所 ( ICRISAT : International Crops Research Institute for the Semi-Arid Tropics ) が集めた約10年間にわたる村落調査データがその先駆けとして有名である。家計内部、家計のダイナミックス、家計間の三つの側面の相互関係に焦点を当てる新しい開発経済学、それも実証と理論が密接に結びついた開発経済学を育てたのが ICRISAT データだったとすらいえるかもしれない。

総合的な家計調査のデータベースとして、近年大いに注目を集めているのが、世界銀行の生活水準指標調査 ( LSMS : Living Standards Measurement Survey ) データである。これは、1979年に開始され、現在も進行中のプロジェクトである。生活水準、貧困、不平等問題などに関する総括的な情報が、国民所得計算 ( SNA ) にそった国際比較可能な形態で、それもできればパネル・データとして収集されている。これまでに20数カ国がカバーされ、それぞれの国で数千から時には万を超える数の家計が調査されている。詳細かつ高質のデータがまだ十分に分析されることなくアクセスを待っているという意味で、LSMS データはこれから途上国経済のミクロ分析をやろうという研究者にとって、宝の山なのである。

LSMS プロジェクトは現地政府の統計機関との共同研究で進められることが多く、これを通じて、それまで大規模標本家計調査をあまり実施できなかった途上国においても、そのノウハウが移転・蓄積された。その直接的成果が、LSMSデータベースの高い信頼性に現れている。加えて、間接的成果として、大規模標本調査の定着によって当該国の国民所得統計、特に消費推計などマクロ統計の質が改善することが期待される。

基本的にマクロ統計を対象とした本プロジェクトの中に、これらの個票データベースを取り入れることは現実的でないかもしれない。しかしながら、統計の解説部、あるいは統計制度班の成果などの中でこれらを積極的に紹介することには大きな意義があろう。また、国民所得統計や農業生産統計、人口統計などとこれら大規模個票データとの整合性をチェックする作業も有望と思われる。

 

3.データへのアクセス

以上紹介した途上国の新しいデータベースの特徴は、インターネットや CD-ROM で簡単に大量のデータへのアクセスが得られ、パソコンで十分に使うことができることである。例えば、世銀 LSMS データの場合、個票データのままでの公開が原則になっており、LSMS ウェブ・サイト ( http://www.worldbank.org/lsms/lsmshome.html ) にインターネットでアクセスすると、データの整備状況、調査方法・項目などの詳細、個票での公開を受けるための手続き等が、最新版で簡単に分かる。国によってはその場でデータをダウンロードできる。DHS の場合、ほとんどの個票データがインターネットでダウンロード可能である ( http://www.macroint.com/dhs)。

途上国からの有益なデータベースには、他にも、RAND コーポレーションによる家計調査、マクロ統計でペン・ワールド・テーブルなど多数見られる ( アジア途上国のデータベースへの便利なリンク・サイトに、http://chaka.sscnet.ucla.edu/dev-data/data.htm がある )。 これらのウェブ・サイトは、本プロジェクトの最終成果をどのように公開したらよいか、という点に関しても様々な示唆を与えてくれる。

 

 

(くろさき・たかし 一橋大学経済研究所)