マレーシアの金融・通貨危機と構造的問題



首藤 恵





1.通貨危機と構造的問題

1997年7月にタイで表面化した通貨危機は、ただちに周辺諸国に飛び火し、韓国や香港にまで波及し、先進諸国への深刻な影響が懸念された。今回のアジア通貨危機は、これまで類を見ない規模の大きさと伝染の速度から、「 21世紀型危機 」と呼ばれている。

タイに関しては、急速な自由化によりバンコク・オフショア市場や金融機関を通じた短期資金流入が拡大したことから、すでに一年前から実効実質為替レートが低下し、危機の可能性が指摘されていたし、インドネシアもまたドラスティックな自由化政策による資本流入のもとで国内銀行の不良債権問題が懸念されていた。

マレーシアは、ASEAN 諸国の中でも持続的成長と安定性の両面で高い評価を受けてきただけでなく、他の諸国に比べて短期対外債務は少なく、銀行部門経由の資金流入は厳しく管理されていた。それにもかかわらず、急激な資本流出とリンギ売りによる通貨価値と株価の下落にみまわれたのである。

通貨危機に直面したアジア諸国に共通の要因として、ドルに過剰に依存した「 外国為替政策 」と、民間資金の急激な流出入を引き起こした「 自由化の手順 」の誤りが指摘されている。それに加えて、金融セクターの脆弱性 ―― 金融機関の経営基盤の弱さ、銀行部門の保護的規制と監督システムの未整備、情報開示制度や倒産手続きの不備など資本市場の基盤構築の遅れ ―― が共通の「 構造的問題 」として指摘され、金融危機が通貨危機と表裏一体をなしているという見方も浸透している。

マレーシア政府は、通貨危機に対処して次々と緊急対策を打ち出し、経常収支赤字の縮小と財政引き締めに加えて預金保険制度の導入を公表し、経済安定と市場の信認回復につとめた。だが、マレーシアの金融システムもまた、ただちに取り組まなくてはならない固有の構造的問題を背後にかかえている。すなわち、社会政策としての「 ブミプトラ政策 」( マレー人優遇政策 )に関連する金融問題である。ブミプトラ政策はこれまで、所得分配の平等化と社会的安定を維持し経済成長を支えるうえで、決定的な役割をになってきた。それが、金融セクターにおいてさまざまな矛盾を生み出しているからである。

 

2.ブミプトラ政策と経済成長

マレーシアは多民族国家である。その中で人口の6割をしめながら経済的基盤が弱いマレー人の社会的地位の向上は、1971年に始まる第二次マレーシア5カ年計画で明確な政策目標とされ、いわば国是となっている。東アジア諸国の中でもマレーシアのユニークさは、成長のための「 貯蓄基盤の確立 」と社会的安定のための「 所得と資産保有の平等 」を明確な目的として、独立後の比較的早い時期から金融制度構築に着手した点にあると考える。

全国規模の銀行ネットワークをベースとする「 自発的貯蓄動員 」と、社会保障基金をベースとする「 強制貯蓄動員 」を二つの柱として、零細な国内貯蓄の動員に成功した。それによって、驚異的ともいえる貯蓄率の上昇と、マレー人の社会的地位の向上に成功したのであった。国内貯蓄率は、1970年代前半までは徐々に、後半からは急速に上昇し、1990年代前半には平均34%という高い水準を達成している。高貯蓄率に支えられて、GNP成長率と1人当たり所得のいずれの指標で見ても、マレーシアは1960年代を準備期間とし、1970年代にはテイク・オフの段階に入ったといえよう。

経済発展プロセスにおける効率と安定のトレード・オフが、途上国が直面する最大の課題であることを考えれば、マレーシアの選択は金融制度構築の面で注目すべきものがある。反面、国内銀行育成のための徹底した競争制限と、マレー系企業への優遇貸付およびマレー人家計に対する住宅所有支援のための貸付制度は、金融仲介の非効率を生み、マレー人の資産形成を目的とした年金基金や国営投資信託へのさまざまな優遇措置が資本市場の成長を歪め、金融セクターの脆弱性を生んでいる。

 

3.国内貯蓄率を支える要因

国内貯蓄を支えてきたのは家計貯蓄である。その中でも最大の項目は銀行預金であり、零細な家計貯蓄の動員に対する国内銀行部門の貢献は大きい。しかし、家計所得が上昇し消費が浸透するとともに、1970年代末から民間貯蓄率は不安定化した。それは主として自発的貯蓄部分である預金の変動に起因し、強制貯蓄部分である年基金基金への拠出金は、家計貯蓄の「 ビルト・イン・スタビライザー 」として貯蓄水準の安定化に貢献してきた。

さらに、家計貯蓄の動員に加えて、政府貯蓄が民間貯蓄を補完する役割を果たしてきた点も注目に値するだろう。政府貯蓄が民間貯蓄を補う形で、長期的な国内貯蓄の高位安定が維持されてきたのである。政府貯蓄は主として公的部門余剰、すなわち政府一般会計余剰と非金融公営企業の営業余剰である。1970年代末から1980年代初頭には、主要一次産品の国際価格の上昇と、石油採掘など公営企業の営業余剰の増加が政府貯蓄をふくらませた。また、1980年代後半から90年代前半の上昇は、一次産品価格の低下と財政削減に対応して、公営企業の民営化や業績改善のためのリストラ措置、経営監視機関が功を奏したと指摘されている。

だが、政府部門のリストラと公営企業の民営化が一段落すれば政府貯蓄は縮小し、政府部門に国内貯蓄の下支えを期待することはできなくなるだろう。一方、今回のアジア金融危機の大きな教訓は、海外資金への依存が金融システムの不安定性を高めるということである。マレーシア経済が引き続き高い水準での安定成長を維持しようとすれば、国内民間貯蓄とくに「 自発的貯蓄 」をいかに動員するかが、これまで以上に重要な課題となろう。

 

4.銀行政策のターニング・ポイント

マレーシアの金融制度構築でもっとも注目される点は、早い時期からの積極的な「 国内銀行部門の育成 」である。1959年に中央銀行が設立されて以来、健全で強い国内銀行システムを確立すること、また、広く貯蓄習慣を植え付けて貯蓄基盤を拡充するために全国的な銀行ネットワークを整備することが、安定的かつバランスのとれた経済社会成長に不可欠と認識されてきた。一連の銀行育成政策

    1. 政府出資による「 大規模商業銀行の創設 」、

    2. 「 地方展開 」に対する優遇措置、

    3. 店舗行政による「 地域市場の競争制限 」、

    4. 厳格な「 外国銀行規制 」  がしかれ、国内商業銀行優位の金融システムが構築された。

 

こうして、1970−95年に国内銀行預金は約48倍、商業銀行預金は94倍に伸び、国内商業銀行は一貫して金融セクター資産の40%前後をしめる存在となった。また、国内商業銀行の市場集中度は高く、少数の大銀行とその他との規模格差はきわめて大きい。1995年現在、預金残高では上位2行シェアは23%、上位5行で48%を占める寡占構造である。しかも上位2行の主要株主は、1965年末現在も政府系機関である。

一連の競争制限的措置は、銀行部門に「 レント 」を保証し、それを支店網整備や業務拡大に再投資させることが主眼であったといえる。全国規模での支店ネットワークを拡大するには、大きな投資コストと収益の不確実性を覚悟しなくてはならない。支店設置に際して税制上の優遇措置や支店認可の容易さといった「 事前的な条件 」を整えるのみでは不十分であり、厳しい参入規制・店舗規制といった「 事後的な条件 」を整え、支店ネットワークに一定のレントを保障して「 フランチャイズ価値 」を高めることが必要であった。

ところがマレーシアでは、厳しい参入規制を行う一方で、1970年代の比較的早い時期に、預金インセンティブを与えるために「 預金金利の自由化 」が実施された。手厚い保護政策のもとで銀行監視システムが整備されないままに預金金利を自由化したことから、預金獲得競争とリスク投資への放漫な融資が行われ、70年代末には多く金融機関が経営危機に陥った。金利自由化は一時凍結され、1980年代後半には銀行経営の健全化を求めて規制が強化され、金利自由化が再開されるという経緯をたどったのである。

固定金利から自由化、そして自由化の凍結と再自由化といった政策の変更にもかかわらず、商業銀行の預貸スプレッドは、1980年代初頭の一時期を除いて長期的に見ればかなり高い水準に維持されてきた。銀行経営に厚く配慮した、いわば慎重にコントロールされた自由化政策が一貫してとられてきたのである。

マレーシアは、早くから金利自由化が進められて政府の金融部門への介入の範囲は小さかった国の例であり、1980年代後半に一時的な政府の介入が行われただけとする指摘がある( 世界銀行『 アジアの奇跡 』 1993年、邦訳、p.229−230 )。こうした見方は、いささか疑問であると言わなくてはならない。

一連の競争制限的規制のもとで、1960年代から銀行部門は安定したレントを享受しつつ、自発的貯蓄の動員機構として民間貯蓄を吸収してきた。反面、拡張戦略が経営健全性への努力をはばみ、1970年代末以降は銀行経営破綻の形で問題が表面化した。また現在に至る銀行部門の寡占構造は、自由化による競争促進と金融仲介システムの効率化を遅らせる要因となったと見るべきであろう。

 

5.年金基金の変質

すでに指摘したように、被雇用者年金基金( EPF )を核とする社会保障機関が、家計の長期資金を安定的に政策金融に動員する上で決定的な役割を果たしてきた。ところがEPFの実質的な機能は、1980年代に入って大きく変わった。

第1に、「 金融仲介機能 」の変化である。1970年代まで、EPFの投資資金の実に90%以上が政府証券に投資され、政策金融の原資となった。1980年代半ばから、民間主導型成長へ転換し政府部門が縮小されると、EPFに課せられた投資規制は徐々にゆるめられ、1995年末現在、政府証券への投資比率は33%にまで低下している。だが、必ずしもこれを運用規制の自由化と受け取ることはできない。公営企業民営化の受け皿としての役割を担わされたからである。このとき優遇的価格で株式が提供されたから、公的企業から年金基金への所得再分配という側面も強いと思われる。

第2は、「 長期資金動員機能 」の低下である。社会的安定の一つの手段として政府は個人の住宅所有を奨励し、EPFに対しても退職前の引出を認めてきた。その結果、引出額は拠出額の30−50%をしめるまでになった。家計にとって預金と類似的な資産としての性格を強め、退職後の年金ベースは縮小して貯蓄手段としての機能に問題が出てきている。

第3は、企業負担の増加による「 モラル・ハザード 」である。拠出金比率( 対賃金支払い )は、当初は被用者・雇用者の等分負担であったが、1975年から雇用者負担を増す形で引き上げられてきた。その結果、被雇用者負担に耐えきれず、安易に支払い不能に陥る企業が増加していると指摘されている。

 

6.証券市場を介した貯蓄動員の必要

銀行部門と年金基金を柱とするこれまでの貯蓄動員機構は、明らかにターニング・ポイントにさしかかっている。民間主導成長への方向転換のなかで生じた金融システムの矛盾を縮小するための一つの解決策は、資本市場を介して自発的貯蓄を吸収することである。そのためには、「 ファンド・マネージメント産業 」の活用が要となる。その代表的なものが、投資信託である。

投資信託の導入は比較的早く1959年にさかのぼるが、定着し始めたのは1980年代に入ってからである。ブミプトラ政策が開始された1970年代末に、国営投資信託会社が設立され、ブミプトラの資産形成と資本所有のための手段としてマレー人向けファンドが設計された。その目的は、

    1. ブミプトラ社会を証券保有によるリスク投資になじませる、

    2. 動員した貯蓄を企業株式所有に向ける  という2点にあった。

 

ところが、広く零細貯蓄を動員し株式を保有させるために、株式ファンドの形をとってはいるが固定価格でいつでも買い取りが行われ、高い配当や税制上の優遇措置が付けられたプレミアム・ファンドであった。また、公企業の民営化に際しては、年金基金と同様に、優遇的な割引価格で割り当てを受けた。まさに、政府保証付き高利長期債ともいうべき資産として設計されたのである。

民間主導経済への移行にむかう大きな流れの中で、マレーシアの年金基金と国営投資信託は、証券保有比率から見れば市場の代表的プレーヤーであり、機関投資家として行動することを求められている。ところが、年金基金は投資規制緩和によって長期投資のリスク分散効果が期待される一方で、社会保障機関として退職前給付の弾力化にも対応せざるをえないのが実態であり、国営投資信託もまたマレー人への所得再分配手段としての役割から抜け出せない。

 

7.社会的融和政策と金融制度改革の方向

投資信託のリスクを実質的に国が肩代わりするスキームや、年金基金に実質的な短期融資機能をもたせたせるスキームは、健全な資本市場の育成をはばんでいる。1990年代に入って、民間投資信託の振興に力を入れ、「 社会的融和政策 」の一環として新たに非ブミプトラも購入できるファンドを売出した。それを契機に民間投資信託も成長を始めた。

マレーシアは、銀行部門の信頼性確保のための基盤整備に加えて、資本市場経由の長期資金動員機構の確立に取り組まなくてはならない。そのためにも、これまで社会的安定を支えてきた「 マレー人優先政策 」から徐々に脱却しなくてはならない段階に入ってきたといえよう。民営化をふくめて国営投資信託の抜本的改革は避けられないだろうし、年金基金運営の効率化に、より積極的にとりくまなくてはならないだろう。

年金基金および投資信託を含むファンド・マネージメント産業の成長は、資本市場を経由する長期資金動員の手段として重要であるだけではない。これらの機関が機関投資家として合理的な行動をとることが、証券市場の厚みを増し資本市場としての機能を高め、資金調達と運用の両面で銀行部門との競争を促進し、金融セクターを強化する条件である。しかしながら、構造変化には時間が必要である。この点を十分に考慮しつつ、マレーシアの今後の金融制度改革の方向を見守りたい。

 

 

(すとう・めぐみ 中央大学経済学部)