シンポジウム「統計で見る日本の経済格差」を聴講する

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2006424

 

419日に、日本学術会議主催のシンポジウム「統計で見る日本の経済格差」が開催され、聴講しに行った。基調報告が京大経済学部の橘木さんと阪大社研の大竹さんで、その後、一橋経研の高山さんを加えてのパネルディスカッションとなった。

面白かったのは、ジャーナリズムでも橘木さんと大竹さんは並らんで紹介されるが、橘木さんは「弱者の見方」、大竹さんは「市場原理主義者」という対立図式で取り上げられるらしい。しかし、二人ともその図式に対して不満を表明された点である。互いに「そんなに違っていない」、「ほとんど同じ事を言っている」と強調されていた。

確かに二人とも、日本の経済格差の拡大現象が統計的にも裏付けられると言う点では一致している。ただ、実証的分析としては、大竹さんのほうがはるかに緻密だ。彼の議論は現在、売り上げ大ヒット中の『日本の不平等』での主張のサマリーだったが、180年代の所得格差拡大は人口分布の高齢化に伴う見せ掛けのものとして説明できる、2)他方、90年代後半からの格差拡大は20代などの若年層での所得格差の拡大の要因もあり、高齢化問題とは必ずしも位置づけられない、3)若年層での所得格差の拡大はこの年代での失業率の増大やニート問題、及び非正規雇用の拡大などを反映しているが、それは不況が主要因であると考えられる、というものだ。格差の拡大を景気循環要因と診断する点には必ずしも納得いかなかったが、概ね隙のない明晰な論証をされていたと思う。

他方、橘木さんは、OECD諸国において、日本は相対的貧困率(貧困の定義は中位所得の50%以下の所得者)で評価して、メキシコ、米国などについで貧困率が高いというデータを示された。また、生活保護基準以下の所得しかない人の割合の増加や、生活保護受給世帯の数の増加などのデータを示して、絶対的貧困度も上昇していると説かれた。橘木さんの議論は、実証的な話以外にも広範囲に及び、格差拡大をどう見るかという規範的評価の話や、結果の不平等と機会の不平等の区別の問題、結果の不平等自体が機会の不平等を生むことで階層固定化につながる可能性への言及など、幅広く格差拡大の問題点を指摘し、これらを景気循環を要因とするのみではなく、むしろグローバル化や労働市場における規制緩和政策の影響など、構造的な要因を強調するものであった。構造的な問題となると制度の変換に関する政策提言的な話が関わってくる事になるが、その点はアングロサクソン系の新自由主義路線ではなく、北欧流の福祉国家路線で行くべきことを示唆する話の流れになっている。しかし、これらの議論は、この種のテーマに多少とも関心のある者にとっては概ね既知の話であり、アカデミックに深められた議論とは言い難かった様に思う。

実証的な議論でも橘木さんが提出した相対的貧困率の尺度(バーナード係数)は、所得分布が中位所得水準の周辺に集中しているような所得不平等度の小さいケースでも相対的貧困率が高い数値になりえるという意味で、日本の数値の高さは実態の反映とは言いがたいと言う反論が大竹さんや高山さんからも出されていたし、絶対的貧困率でいうと、日本はOECD諸国で一番低いという最新のデータが大竹さんから提示され、かなり詰めの甘い議論であるという印象になってしまっていた。また、格差の拡大の要因として労働市場における規制緩和政策を取り上げた議論も、大竹さんはそれを不況が原因と診断し、規制緩和がなければむしろ失業が増えていたとの診断を出していた。

このように統計実証的な議論では、大竹さんの描くロジックが圧勝したという印象であったが、橘木さんも大竹さんの実証分析に対して異論があるわけではないとの事であった。また、大竹さんも、今後、日本の景気が回復していく中で、では現在の若年層の格差問題がどこまで解消され得るのかについては、確定的な見解を持っているわけではなく、技術革新やグローバル化などの構造的要因によって、今後、格差拡大が構造化する可能性を否定してはいない。また、累進税制の緩和や相続税の改正、あるいは成果賃金制の導入など、格差を構造化する制度的要因も存在するし、消費支出の格差拡大や、所得階層間移動の低下という傾向は単なる景気循環要因では説明がつかないであろう。

では、構造的要因による格差問題に対しては、どう受け止め対処すべきであろうか?橘木さんは、機会の不平等を拡大させないためにも所得の不平等を拡大させるべきでないという立場であるが、そこで関わってくるのが、経済効率性と衡平性のトレードオフの可能性である。橘木さんは、しかしながら、北欧のように、経済競争力を高水準で維持しつつ、所得の平等性を実現している例として北欧福祉国家を挙げ、日本もその路線で行くべきことを示唆している。では、そのためにはどうすればよいのか?とりわけ、グローバル化の下で、北欧福祉国家路線は果たしてどうすれば生き残れるのか?こういう問題が当然、出てくるわけで、フロアからの質問として私はこの点を質問してみた。彼の回答は、教育政策を重視すること、という標準的見解であり、その理由も既知の議論を超えるものではなかった。

所得分配の平等度が高いと言うことは、大雑把に言えば、資本収益率が低くなることを意味する。にもかかわらず、資本が海外逃避しないためには、収益率の低さを収益量で補うしかない。国民の教育水準が高く、質のよい労働力がそろっているということは、単位時間当たり労働量が高いことにつながると考えられる。とすれば、収益率の低さを労働量の大いさ(生産量の高さ)による収益量の大きさで補う事が可能になる。だから福祉国家が、グローバル化の下で資本の海外逃避による国際競争力低下を引き起こすことなく、存続できるためには、人的資本投資政策としての教育政策に力を入れるべきであるというのは、確かに理に適った主張である。しかし政策の現場により近いところにいる経済学者としては、もう一歩、具体的に踏み込んだ議論を期待していたのであるが、どうやらそれ以上の話はなさそうであった。大竹さんも、教育政策に力を入れるべきことに関して同意されていたが、おそらく多くの経済学者はこのレベルの一般論に関して反対はしないであろう。

結局、この先に必要な議論は、いかなる将来社会を目的とするかに関わる社会的厚生関数として、どういったものが考えられるか?そのような目的関数の最適解となるような実行可能な資源配分メカニズムを適切に制度設計できるか?という、厚生経済学およびメカニズム・デザイン論の知見を必要とするような議論であるように思う。たとえば、福祉国家路線を目指す限り、教育政策に力を入れるべきことはそのとおりであるが、教育政策自体、資源の配分問題が関わるのであって、それは国民国家総体としての資源配分メカニズムの中で適切に機能するように制度設計されなければならないだろう。政策意思決定により直接的に関与する立場にある社会科学者・経済学者たちがより、こういう理論的パースペクティブを持って議論するようになる事を期待したい。