14回現代規範理論研究会「シンポジウム:アナリティカル・マルクシズムの可能性」について

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

200644

 

1.      はじめに

14回現代規範理論研究会「シンポジウム:アナリティカル・マルクシズムの可能性」を2006316日に一橋大学国立東キャンパスマーキュリータワーにて行った。このシンポには、パネラーとして磯谷明徳氏(九州大学大学院経済学研究科)、佐藤良一氏(法政大学経済学部)、及び橋本 努氏(北海道大学大学院経済学研究科)3人をお招きし、新刊間もない『マルクスの使いみち』(稲葉振一郎・松尾匡・吉原直毅)について、論じていただいた。また、著者サイドの稲葉、松尾両氏もディスカッサントとしてお招きした。パネラーをお願いした御三方には、公刊後わずか10日ばかりの間で急遽、著作に目を通してコメントを突貫工事的に準備していただき、本当に感謝に絶えない。

また、当日のシンポには予想に反して多くの視聴者が集まり、広い教室で行ったにも拘らず、全然「スカスカで寂しい」という印象にはならなかった。私は、このシンポの開催直前まで、一橋大学佐野書院でCOE/RESプロジェクトB班企画の国際コンファレンス『Rational Choice, Individual Rights, and Non-welfaristic Normative Economics』の開催に関わっていたのであるが、このコンファレンスの一日あたりの最大出席者数を上回るほどのシンポの参加者であった。周到に準備期間を費やした国際コンファレンスよりも突貫工事的に急遽、開催したシンポの方に人が集まったということで、ちょっと複雑な思いもあったほどだ()。もちろん、両者の会議の性質は全く違っており、そもそも国際コンファレンスはそのタイトルの研究テーマ(合理的選択理論、自由主義的権利論、非厚生主義的規範経済学)に関する専門の先端的研究者たちからなる少数精鋭の会議であるし、他方、シンポの方はより一般向けに開かれたスタンスで行った。参加者も社会学、思想・哲学系の研究者・大学院生の比重が多く、森村進氏(一橋大学大学院法学研究科)や大川正彦氏(東京外国語大学)などの大物政治哲学者も出席されていた。森村氏の出席は稲葉効果であろうし()、大川さんはパネラーの佐藤さんとコンタクトがあるようであった。

パネラーの選出は、私の独裁的意思決定で行った。稲葉さんからは、少し気色の違うマルクス系政治学者の名前をご推薦いただいたりしたが、今回は見送らせて戴いた。一つは、そのご推薦の方とは面識が一度も無く、それでいて急遽企画したシンポに、短期間のうちに突貫工事的にコメントを用意せよという図々しいお願いをいきなり切り出すには躊躇があったからである。逆に今回来ていただいた3人は、以前から親しくしていただいた先輩・友人たちであり、こうした急なお願いをしても許されるという点があったのも事実であるが、それ以上に、こうしたテーマの著作にはぜひこの3人の方々のコメントを聞いてみたいという、私自身の強い選好があったのが何と言っても一番の理由である。

磯谷さんは、私も副ゼミとして参加させて頂いていた高須賀ゼミ関係の先輩に当たり、現在でも亡き高須賀義博先生のもっとも王道を行く理論的継承者の一人と言える方であろう。最近でも『制度経済学のフロンティア』(ミネルヴァ書房)という著作を出版されており、高須賀―ラディカル派―レギュラシオンに連なる経済学的テーマを一貫して追求しておられる。同じく高須賀先生の王道的理論的継承者である海老塚明さん及び植村博恭さんとの共著『社会経済システムの制度分析』(名古屋大学出版会)には、いろいろと啓発を受けること大であったが、『制度経済学のフロンティア』はそこからさらに一歩、制度の経済学的分析に関して、洞察を深めかつ広めている。方法論的アプローチは違えど、重要問題として関心を寄せる領域には大いに重なりがあると言える。今回の『マルクスの使いみち』が高須賀先生の『マルクス経済学の解体と再生』その後版という狙いを以って企画されたということもあって、高須賀先生13回忌で先生の研究についての総括報告をされた磯谷さんからは、ぜひコメントをいただきたいと思ったのである。

佐藤さんは、ラディカル派―レギュラシオン関係の研究会を通じて、やはり私が大学院生の頃からお付き合い戴いてきている方である。元々は神戸の置塩門下出身の方で、かつてMarx-Goodwin modelに関する論文をJournal of Economicsに掲載したりされていたが、私が最初お会いした頃はラディカル派―レギュラシオン学派に関心を寄せる研究者という感じであり、ボールズ&ギンタスの抗争的交換理論の紹介論文などでも知られている。その後、アナリティカル・マルクシズム研究会が高増・松井の両氏のイニシアで開催されるようになると、そちらにも参加していただいていた。その研究会で、後に『経済研究』誌に掲載される「マルクス派搾取理論再検証 〜70年代転化論争の帰結〜」の原型である論文を報告した際に、佐藤さんから批判的コメントを戴いたと記憶している。労働価値説や搾取論の理解に関しては、昔から概ね一致していたと思うが、他方それらの意義付けに関しては、当時からすでに見解が違っていたわけで、今回の著作での私の立場はその当時の見解の延長線上にある。そういう事もあり、また、ラディカル―レギュラシオン学派などの最近の欧米マルクス派の展開にも詳しくかつ、置塩信雄の学問の系統者としても、やはり佐藤さんにコメントを戴かないわけにはいかないと思われたのである。

橋本さんは、私の北大勤務時代に同僚としてお付き合いいただいた同世代の畏友である。すでに衆知の通り、現在に到るまで、もっとも活発に執筆活動を展開されている思想家の一人であり、日本の代表的なオーストリー経済学派の研究者の一人であろう。最近、『思想』に分析的マルクス主義についての論文を掲載している事もあって、今回、お越し戴くことを思いついた。マックス・ウェーバーの研究者としても知られるが、橋本さんというとやはりハイエクを中心とする自由主義思想の研究者というイメージが、自分には強い。しかし、『思想』誌での論文では、ハイエクの思想の発展系として提唱される「成長論的自由主義」の観点から、分析的マルクス主義をむしろ積極的に肯定する論調を展開されていた。私の見る限り、ジョン・ローマーはハイエク派には批判的であったが、しかしその批判はそれほど説得的ではないという印象があったし、私自身はハイエクの進化論的観点からの構成主義批判(この批判は、社会的選択論的アプローチを取るAM派にも妥当する)は、むしろ積極的に受け入れてより包括的な理論体系を志すほうが良いようにも思っていたので、橋本さんがいかなる理由で分析的マルクス主義を積極的に肯定するのかについて、もう少し詳しいところを伺ってみたいと思っていたのである。

 

2.      磯谷明徳氏のコメント

磯谷さんは、1).全体の印象; 2).第一章についてのコメント; 3).方法論を巡って;

という構成で、発言された。まず、全体の印象としては、稲葉Overviewによる「極めて片寄っている」という見解について、「主流派経済学のアプローチを取ることで一貫している」という意味で全くその通りである、と同意した。また、同じく稲葉発言の「もう一つの経済学としてのマルクス経済学には未来がない」に関しては、むしろ「もう一つの経済学」という位置づけは悪くないだろう、とした。つまり、教条主義的なスタイルから解放され、等身大のマルクスについて語る事が可能となったのであり、むしろ歓迎すべきことであろう、という見解を述べた。また、本書全体としての印象としては、「新古典派経済学の土俵上でまだまだやることがたくさんある」(吉原)という評価に対しては、違和感を表明された。新古典派の土俵上でなぜマルクスに拘らなければならないのか?という疑問を呈されたのである。

また、1章については4点ほどコメントされた。まず、高須賀『解体と再生』を取り上げてくれた事は嬉しく思う、と述べられた。高須賀『解体と再生』の88年増補版に関する一般的な書評は、「解体の話はあるが、再生の話はない。欧米のマルクスルネッサンスに希望を抱きながら再生の方向性を示すべきであったが、それが出来なかった」というものであったことが紹介された。そして『解体と再生』における論調として、稲葉が指摘するように「実証研究があまりされていない」という批判が確かにあり、他方、高須賀自身、「生産性上昇格差インフレ論」や「調整インフレ論」の提起に見られるような実証的仕事をしてきてもいるが、にも拘らず、高須賀のスタンスはあくまで最後まで理論家であったと強調された。そして、理論家としての高須賀が志していた研究テーマとして、2点が具体的に挙げられた。一つは「マルクスの基本定理」を巡ってのものであり、この定理は生産価格と労働価値、利潤と搾取との対応性を示すものであるが、これはモデルの設定を厳密に考えれば考えるほど、怪しい話に確かになってくる。高須賀はこの直面する問題に当たって、あくまでも労働価値説に基づく搾取理論を何とか救い出そうとするスタンスで一貫していたが、それは果せずして亡くなられた、と。第二に、マルクスの生産価格体系を生み出す構造として産業循環を位置づけ、産業循環論から生産価格論及び搾取論を導こうとするのが、高須賀の志した下降の経済学であったが、この点は結局、十分に成功しないままで終わったと。

さらに、方法論についてのコメントとして、以下の点が述べられた。オールタナティブの志向として、それを今日の『反経済学』的潮流とは区別し、既存の経済学をより良いものに改定していく方向性としての整理の仕方には同意する。方法論的個人主義に関しても便宜的に採用しているという点は、社会科学の場合はとりわけ、理解できるのであって、自然科学における様な要素還元論的な話と同様に捉える必要は必ずしも無い。他方、新古典派への異議を立てるのはそれが「過度にヒューマニスティック」だからではない。それが批判されるのは、人間一人ひとりが普遍性を以って主体性を発揮する存在として捉えている点であり、その普遍性の中身とは、経済人としての人間性の仮定を意味する。主体性の中身も経済人としての選好充足的選択行為の担い手という側面でのみ捉えており、その点が批判されるべきである、と。また個人の選好は外生的に与えられており、その内生性への認識を欠いている点である、と。むしろ選好は内生的に生成するものと考え、個人の選好と社会制度の共振化――すなわち、フィードワーク・ループが存在する――として捉えたほうが良い、と。

また、ラディカル派については以下のようにコメントされた。60年代後半及び70年代に見られた資本主義の現実の諸問題に直面する下で、ラディカル派による分配のコンフリクト理論が誕生し、具体的には生産の場でのドミネーションが論じられてきたわけであるが、さらに重要な論点は以下の問題であろう。すなわち、利害の対立を含んでも尚、経済社会の秩序が成立するのはなぜかを問うべきであり、利害の対立及び利害の調和、この双方を伴う経済社会の秩序の再生産のメカニズムを明らかにすることである、と。ここで経済社会の秩序の捉え方として二つの見方がある。一つは、孤立した経済人と市場を通じた均衡としての秩序であり、市場の競争的メカニズムによる秩序付けという見方である。もう一つは、制度や慣習、信頼の形成としての秩序という見方である。ラディカル派にせよ、磯谷さん自身にせよ、この後者の立場に立つとされる。さらに言えば、コンフリクト理論からガバナンス論へのラディカル派自身の変化という近年の動向もある、とされる。

さらに方法論を巡って、著者たち3人に対して、以下のような質問を向けられた。第一に、大理論、一般理論になぜ拘らなければならないのか?むしろそのようなグランドセオリーではない、「中範囲の理論」をどうして考えてはいけないのか?むしろ自身(磯谷さん本人)は「中範囲の理論」を試みたい。なぜならば、異なる社会経済現象は、異なる理論を必要とするからである。第二に、現在においては、制度、慣習の問題など、新古典派も非新古典派も取り上げる課題はかなり共通してきているだろう。とすれば、マルクスに拘らなければならない理由は何か?制度や慣習の説明などに新古典派の議論を徹底していいのではないか?さらに、マルクスにおいて、今でも使えるものと使えないものとの区分をどう考えているのか?第三に、19世紀資本主義と20世紀以降の資本主義の歴史性の差異を無視しているのではないか?以上が、磯谷さんの報告の要旨である。

 

3.      磯谷コメントへのリプライ

以上の磯谷コメントに関して、対する私自身のリプライを簡単に記しておこう。このリプライの一部は実際にシンポの場で私自身が喋ったことに基づいているが、当日は時間の制約もあり、全ての応えるべき質問に対応できなかった。その意味では、ここでのレスはその補完を兼ねている。ただ、「中範囲の理論」の話と、資本主義の歴史性については、特に議論すべきトピックではないと考えるので、ここで簡単にレスするに留める。「中範囲の理論」の理論が重要であるのはもちろんであり、その意義を私も積極的に認めるものである。今回の本では、方法論、搾取論、代替的経済システム論などのトピック(磯谷さん流に言えば「グランド・セオリー」)に限られたが、これは出版社が選好する紙数の限界があったからであり、他方、我々がこのプロジェクトに投入できる時間の制約もある。歴史性についても同様である。これらの問題意義を無視しているわけではない事は、稲葉の『あとがきにかえて』を読んで頂ければ十分であろう。

まず、磯谷さんの「新古典派への異議」であるが、ここで挙げられている大部分は、現在の標準的な現代経済学の枠組みで為される先端的研究においては克服されている・ないしは克服されつつあると言える。磯谷さん自身、良くご承知のように、Doglas Northに啓発された現代の「制度の経済学・制度の経済分析」は、制度や慣習の生成という問題、その経路依存性という性格の分析などに取り組んでおり、いわゆる「新古典派経済学」の体系を普遍的な主体的個人の存在からなる社会という社会観・人間観一色で特徴付ける事はもはや適切とは言えない。いわゆるワルラス的一般均衡理論も、資本主義経済の一般理論というよりも、市場的経済取引の側面での人々の相互依存的関係の社会的帰結に関して探求するPartial な理論に過ぎないと見なす事がより妥当な解釈となっている。人間を合理的経済人としてのみ捉えている、という批判に関しても、高須賀が晩年強調したところの、そうではない「社会人」としての人間像の側面が関わる経済学の発展の契機はすでに存在している。その一つは、アマルティア・センの問題提起に触発されつつ進展している厚生経済学の分野での非厚生主義的アプローチであろう。また、公共経済学でも、NPOなどの経済活動の意義を従来の費用・便益分析のフレームを超えて評価する研究の動向があり、これなども人間の非経済人的社会人的側面への着目に基づいている。

「個人の選好と社会制度の共振化」という視点は、海老塚・磯谷・植村の新古典派批判における一つのキー・タームであると思うが、現代の主流派経済学の動向は全体としてそれを見れば見るほど、「個人の選好と社会制度の共振化」という視点が抜け落ちているという理由で批判することの困難性を悟ることになるのではないだろうか?進化ゲーム理論の普及以降、慣習の生成、制度の生成、ノルムの生成、選好の生成などのテーマが研究の俎板に乗る様になったし、最近のBehavioral game theoryは人々の利他的行為やフェアネスに基づく行為が生じるゲーム的コンテキストについて論じている。また、実験経済学の成果によって、とりわけ「市場の失敗」問題の論脈では、単純な経済人的諸個人モデルによる合理的選択のフレームワークでは問題を解決できないことが、議論されるようになっている。そういう現状の研究の進展動向を前提すれば、一般均衡理論における人々の合理的経済人としての行動モデル(例えば、所与の価格の下で与えられた予算制約下で自分の選好を最大限に充足できるような消費財ベクトルの購入活動を選択する)にしても、完全競争的市場という一つの制度的論脈において少なくともレレバントな行為体系であり、人間像であると理解するのが最も妥当的となろう。必ずしも、制度のコンテキストとは独立に人々の行動原理が措呈されるような社会観を前提している、と考える必要はないのである。

「個人の選好と社会制度の共振化」という視点自体は重要であり、私も同意する。ジョン・ローマーも「Raional Choice Marxism: some issues of methods and substances」という論文において、ある種の個人と社会制度との「共振性」について語っている。問題は、「共振性」について言及するのは難しい事ではないし、現状の主流派経済学の枠組みで行われている研究の多くが「個人の選好と社会制度の共振化」というパースペクティヴを満足させるような性質のものでない事を指摘し、批判するのも難しい事ではないであろう。要は、ではどこが実際に、そうした問題意識に沿う研究を推進してきているのか、であろう。明らかに、そうした実践において成果を生み出してきているのは主流派経済学の枠組みで行われている研究であり、「反新古典派」のスローガンを掲げるグループなり人たちではない。この点においても、『マルクスの使いみち』第1章の結びでの稲葉の最後の発言は、現在においても尚、妥当であると言わざるを得ないであろう。

それから、経済社会の秩序の捉え方に関する磯谷さんの分類は極めて不適切であろう。これでは、「新古典派」は市場の経済分析しかしていないかのようであるが、組織の経済分析の発展によって、ガバナンス論を近年、発展させているのもいわゆる新古典派と括られる主流派経済学の方である。また、制度や慣習、信頼の形成としての秩序などのテーマは、Peton YoungRobert Sugdenなどの研究を一つの契機に、かなりの程度分析的な枠組みが整備されつつある。

では、こうした新古典派経済学の発展にも拘らず、マルクスに拘る理由は存在するのか、について。私自身は、一般に多くの古典的研究が現在においても尚、大きな洞察力なり示唆を与えることによって、現在のより精緻化した研究技法を用いつつも、研究の進行にあたっての道標となり、価値ある研究へと導いていってくれる糸として機能するのと同様に、マルクスの古典もそうした導きの糸としての機能を果してくれると見なしている。例えば、現在における現代経済学の到達点から省みれば、必ずしも理論的には成功していないものの、マルクスの古典ほど資本主義経済というものがその資本蓄積プロセスにおいて階級間の分裂とその固定化(再生産)、そして貧富の格差の拡大といった傾向を絶えず伴う可能性があることを体系的に論じたものはないであろう。こうした傾向性は、現代においても、格差社会の進展やそれに伴う「人生選択の機会の不平等」の拡大・階層間移動の固定化という問題として、存在している。

また、資本主義経済を決して所与の自然的社会経済システムとは捉えず、人々の民主主義的な意思決定次第では変革可能な、一つの社会的選択の対象(すなわち社会的選択肢)と見なす思想の源泉の一つに、マルクスが位置するのは間違いないであろう。資本主義を代替可能な対象と見なすその伝統は、ある意味、現代の正統な厚生経済学にも継承されていると解釈しても差し支えないであろう[1]。鈴村興太郎が「制度の理性的設計と社会的選択」(鈴村・長岡・花崎編『経済制度の生成と設計』第1)で述べているように、アロー=ハーヴィッツ=マスキンの系譜に連なる現代の社会的選択理論及びメカニズム・デザイン論の研究は、社会経済システムを市場的なそれを含めて、一つの代替可能な人々の社会的選択対象と見なす点において、いわゆる自然的社会経済システムとしての資本主義経済観とは趣を異にしているのである。

我々が継承すべきはマルクスの古典によって啓発されるこうしたパースペクティヴであり、マルクス自身の発展させた理論的展開や体系的枠組みそのものである必要はない、と考える。磯谷さんは、なぜ今尚、あえてマルクスに拘るのかと批判するが、他方、「アナマル派はマルクス主義とは言えない、マルクスの『資本論』体系のダイナミズムなり総体性を理解せず、マルクス主義を分配の規範問題のみに矮小化させようとしている」、という類の批判も相変わらず根強い。いずれも、「マルクスの知的遺産の継承」=「マルクスの理論体系・フレームワークの何らかの継承」と暗黙裡に考えている点で共通しており、また、この点で、我々の考える「マルクスの知的遺産の継承」とは異なっているのである。我々は、マルクスの資本主義に対する問題意識や切り口なり視点なり、社会の歴史のダイナミズムを捉えようとする際の切り口なりで学べるものは学び継承しようというものであって、それはマルクスが『資本論』なり『ドイツ・イデオロギー』なりで展開した理論体系やフレームワークそのものを継承・発展させなければならないと見なす立場とは必ずしも一致しないのである。

 

4.      佐藤良一氏のコメント

佐藤さんは、置塩門下出身の研究者として、あえて「置塩原理主義的」に行動してみたいとの断りを入れた上で、以下のようなコメントを展開された。まず、ボールズ&ギンタスの著作に基づく、ラディカル派のポリティカル・エコノミーと新古典派経済学の体系の特徴づけを以下のように紹介した。ラディカル派では経済に対するThree Dimensional Approachを取る。すなわち、水平的経済関係、垂直的経済関係、及び時間軸という観点であり、水平的経済関係は経済主体の競争的関係を、垂直的経済関係は経済主体間の支配関係(労資関係など)を、そして時間軸によって、経済構造の変化を捉えようというアプローチである、と。そこでは経済主体の選好の内生性と時間を通じた可変性という側面が重視される、と位置づける。他方、新古典派の体系では、競争的市場関係オンリーであり、選好も外生的でかつ固定された取り扱いを受けている、と。以上は経済学の「どうなっているか」(Facts)に関する問題へのアプローチの比較であるが、経済学には他方、「どうあるべきか」(規範的価値)という問題もある。これに関しては、新古典派は専ら「効率性」に焦点が当てられるが、ラディカル派はむしろ「公正性」や「民主性」という価値理念をも重視する、というわけである。こうした整理の仕方を紹介した上で、3人の著者たちは自分たちの新古典派像なり、その上での自分たちのポジションなりについてどう考えているのかを伺いたい、というのが佐藤さんの第一の質問であった。

また、「マルクスの基本定理」をどう捉えるかについても問われた。すなわち、「一般化された商品搾取定理」(GCET)は本当に「マルクスの基本定理」(FMT)の意義を否定するものなのだろうか、という疑問を呈示された。佐藤さんの理解に基づけば、FMTによって労働の搾取の存在が解ればそれで十分ではないか?「労働搾取が正の利潤の唯一の源泉」とまでは主張しなくても良いのではないか?FMTの意義とは、我々は「人々の労働の協働関係としての社会の編成」という見方を得ることが出来るのであって、それで十分ではないだろうか?・・・という疑問を呈示された。また、資本主義経済の理解に際してのFMTの役割という観点から、以下のような言及もあった。すなわち、実質賃金の決定論が論じられる景気循環論を媒介しなくては、FMTの本当の意味での証明は完結したとは言えないであろう。置塩信雄の議論はそこで不均衡累積過程の話をするのであり、そこでは資本主義の成長経路の不安定性についての関心があるのであるが、ローマー流の搾取と階級の理論では関心は不平等の問題に向けられていって、不均衡累積過程の話は抜け落ちている、と。

また、主体の行動についての特徴づけとして以下のようなコメントがあった。いわゆるホモエコノミカスに変わる主体の特徴づけについてどう考えるか?生産を巡る主体の人間と人間との関係であるとか、あるいは人間の行動原理としてのレシプロシティー(Reciprocity)等の概念について、どう考えるのか?これらの問いに関して、佐藤さん自身は、<社会的なこと>への関心への拘りについて言及された。例えば、Human Dignity等の経済学的な概念化が重要であろうし、そうした観点とも関連して、<社会的効率性>(Social efficiency)という概念に基づく研究に関心があり、それらを新古典派、マルクス派という腑分けに拘らずにやっていきたいと述べられた。その意味で、正統派versus異端派という図式をあまり排他的に考えるべきではない。方法とはどういう問題を考えるか、その対象に依存して決まってくるものであろう、と論じられた。

 

5.      佐藤氏のコメントへのリプライ

以上の佐藤さんのコメントに対しては、実は、むしろ見解の一致を見出せる部分の方が多く、あまり異論の余地がないものであった。例えば、「正統派versus異端派という図式をあまり排他的に考えるべきではない。方法とはどういう問題を考えるか、その対象に依存して決まってくるものであろう」という見解などは、まったく私自身の見解そのものであり、『マルクスの使いみち』の第一章全体として、私が伝えようとしたメッセージでもある。むしろ、正統派versus異端派という図式に拘ってきたのは、ラディカル派のポリティカル・エコノミーと新古典派経済学の体系の特徴づけなどのような分類・差異化をあえて行うことによって、自らの存在意義をアピールしようという戦略を採ってきた異端派の方ではないか、というのが私などの見解である。私自身は、市場における人々の経済的取引の相互依存関係がもたらす経済的資源配分メカニズムとしての機能の分析という研究課題においては、ワルラス的一般均衡理論が有効な分析的フレームワークを与えてくれると考えると同様に、資本主義の成長過程のある種の「不安定性」について関心を持ち、その研究として不均衡累積過程を分析することにも何ら違和感は持たない。置塩信雄自身が行ったマルクス=ハロッド・モデルに基づく不均衡累積過程の研究という手法が、現在においても尚、ベストなアプローチであるのか否かについては、議論の余地があるかもしれないが・・・。

かつてのボールズ&ギンタスによるラディカル派のポリティカル・エコノミーと新古典派経済学の体系の理解の仕方が、現時点ではもはや古い情報でしかない事は、磯谷さんへのリプライの節での議論を振り返ってみれば明瞭であろう。進化ゲーム理論に基づく制度の経済分析や、情報の経済学や契約理論などの発展に起因する組織の経済分析などを見れば、新古典派の体系を競争的市場関係オンリーであり、選好も外生的でかつ固定された取り扱いを受けている、と理解する事は現時点ではもはや不適当であり、また、新古典派的分析手法の下で進展している現代の厚生経済学が「効率性」の価値理念のみならず、「公正性」や「民主性」などの価値理念を社会的選択理論などにおいて積極的に取り上げていることも明らかである。

佐藤さん自身が関心を持つとされる、Human Dignityや<社会的効率性>の概念なども実は私自身の現在の研究対象の一つである。実際、佐藤さん自身も同意したように、私の「マルクス主義と規範理論」[2]においては、いわゆる<社会的効率性>の観点の重要性、その理論的精緻化の必要性を論じてもいる[3]Human Dignityの観点は、現代の非厚生主義的な規範的経済学の展開における大きな動機の一つであるとも言えるし、私の「福祉国家政策の規範経済学的基礎付け」(『経済研究』57 1 20061)[4]は、Human Dignityの観点にも関連する二つの公理を経済的効率性の公理の適用に優先させて適用するような拡張的社会的厚生関数の議論の重要性を説いてもいる。レシプロシティについても、例えば、最近でも元東北大学教授の堀元先生が数理経済学の手法を用いて積極的に論じておられる。このように、佐藤さんの見解に関しては私自身、同意する部分が多く、またそうした見解に基づいて、実際に自分自身の研究も展開してきている[5]

次に、「マルクスの基本定理」(FMT)の意義についてはどうであろうか?第一に、ローマー流の搾取と階級の理論では関心は不平等の問題に向けられていって、不均衡累積過程の話は抜け落ちている、というコメントに関しては、特に異論はない。「搾取と階級の理論」の主要な関心は、資本主義的蓄積過程の動態的把握の契機として搾取論を捉える(すなわち、剰余価値生産の理論としての搾取論)ものではなく、搾取の存在が導く実質的機会の不平等問題などのように、資本主義経済システムの厚生的特性を議論する事である。そこは研究対象なり研究目的が違うのだと言うしかないであろう。また、置塩風に不均衡累積過程のような景気循環論に関連付けていくアプローチとローマー風に厚生理論的にアプローチしていくのといずれが優れているかとか、いずれがマルクス主義的に妥当であるかなどの議論は、そもそも意味がないと言える。FMTの議論は実質賃金決定論の媒介によって閉じられるであろうという見解に関しても、その通りと思う。ただ、その実質賃金決定論の展開の仕方は色々な方向に開かれていると言うべきであろう。その意味で、特に置塩信雄風に不均衡累積過程論へと展開して行かなければならない、という理屈に必ずしもなるとも思わない。私が採用したような、効率賃金理論風に実質賃金率の決定=労働強度水準の決定プロセスと見なして、その決定を非自発的失業の伴う市場均衡として把握するアプローチも、それはそれで意味があろう。

第二に、FMTの意義を、「人々の労働の協働関係としての社会の編成」という見方を得ることが出来る点に見出せるという理解についても、概ね同意できる。しかし、FMTの意義はそれだけで十分であって、何も「利潤の唯一の源泉」論を論証する必要はない、という見解に関しては、そうした理解は置塩門下においては共有されているかもしれないとしても、マルクス経済学界一般にはそれでは済まないであろうと言わざるを得ない。この点は、シンポジウムの場でも発言したことであるが、いわゆる限界生産力説的分配理論への「経済学批判」としての機能という観点からFMTが意義付けられてきた点に関しては、高須賀の一連の著作[6]からも十分に裏付けられるものである。限界生産力説的分配理論への「経済学批判」としての機能は、FMTが労働搾取=「利潤の唯一の源泉」論の論証として位置づけられる限りにおいて、有効性を発揮できる。その意味での意義付けは、「一般化された商品搾取定理」(GCET)によって否定されると捉えるしかないであろう。

 

6.      橋本努氏の報告について

橋本さんの報告は、われわれの著書を基本的にサマリーした後、主に3章での議論を中心に、いくつかの質問を、ご自身の「成長論的自由主義」を積極的に呈示しつつ為された。彼の報告のサマリー部分は、基本的に我々の著書の正確な理解に基づいており、それに文句をつけたり、何らかの追加事項を論じたりする必要はないと思う。その他、ご自身の制度改革論についても色々言及されたが、ここではそれらの具体的政策論を導くグラウンド・セオリーとしての「成長論的自由主義」について論ずるに留めたい。

橋本さんの「成長論的自由主義」とは、例えば課税ルールなどのような制度に対する様々な青写真をオプションとして呈示しあい、それらがオプションとしての優劣を<自生的秩序>形成プロセスを通じて競合しあう中で、実行される制度の成長を促すというシナリオで体現することが出来る。新たな制度についての青写真の呈示を認めるという点で、一見、この思想はハイエク派の「自生的秩序」論などの構成主義批判に矛盾するように見えるかもしれないが、そうではない。ハイエクは集権主義的な計画経済のような制度には確かに反対していたが、「機会の整備」などの目的での「ゲームのルール」としての制度設定を政府が行うこと自体を反対はしていない。従って、当初は何らかの青写真に基づいて新たに設計される制度オプション間の競合を通じて、選択され実行される制度の成長を展望する橋本さんの議論は、ハイエクの思想とも整合的であり、実は社会的厚生関数などの理性的評価体系の形成に基づいた『青写真』的な制度設計による改革を試みる我々経済学者の立場とも、十分に両立的なのである。この点に関して、橋本さんはアナリティカル・マルクス派には「理性の過信」の傾向があるのではないか、と指摘しつつも、ローマーの「市場社会主義」モデルなどの構想も、実は自生化主義に位置づけられうる、という解釈を採る。「成長論的自由主義」のフレームワークにおいて、ローマーの「市場社会主義」のような青写真構想を位置づける橋本さんの見解は、制度改革の歴史的プロセスに関する優れた洞察を与えてくれる。

『マルクスの使いみち』において論じた「市場社会主義の青写真」は、依然として理論的空間の中で市場社会主義システムの極めて原理的な特性について論じているだけであり、その種の議論と、実際の現実社会での経済政策形成のプロセスにおいて、「繰り返された歴史的経験の中から自ずと誕生した自生的秩序を無視して、まっさらな紙に絵を描くような制度設計をしてみても、根無し草のような制度的枠組みが定着して維持される見込みは限りなく低い」[7]事へ十分に留意する事とは、完全に両立可能なのである。この論点に関しては、鈴村興太郎の以下の発言が示唆に富むと言えよう:

「われわれが行うべき制度改革は、歴史的進化のダイナミズムを読み解いて、現状の制度構造を理性的に改善する漸進的改革でしかあり得ないのである。言葉の上でのみ勇敢な抜本的改革は歴史の審判には堪え難く、理性的評価の挽き臼で精錬されていない自生的秩序は新たな経験に対しては盲目だからである。」[8]

アナリティカル・マルクス派においても、実は、上記の鈴村の洞察や橋本氏の「成長論的自由主義」と類似の見解を見出す事が出来る――その意味では、単純な「理性の過信」批判は当てはまらないだろう。例えばローマーは、社会主義の成功は漸進的な制度のイノベーションと人々の間でのsolidarityの文化なり慣習の成長とのダイナミックスに基づくだろうと、最近、述べている。政治的に実行可能な「機会の平等化」制度が導入され、機能されることによって、人々はそうした「平等化」がもたらす社会状態について学ぶことが出来るし、より格差の少ない、よく教育された新しい世代を生み出していく。そうしてsolidarityの文化なり慣習が根付くことによって、「機会の平等化」制度も安定的に定着するようになる。他方、「機会の平等化」制度も人々の文化なり慣習のベースのうえで、より優れた「機会の平等化」制度への漸進的なイノベーションのための「青写真」的改革が理論的に設計されうるのみならず、民主主義的意思決定を通じて、政治的にも実行可能となっていくであろう。こうした制度改革とsolidarityの文化なり慣習の自生的成長のダイナミックスを通じた、「社会主義」的社会への漸次的改革をイメージしている。そこでは政治的革命運動の介在する余地はなさそうである[9]

以上の議論を踏まえれば、実は『マルクスの使いみち』あとがきでの松尾匡の「『青写真』批判」も、結局のところ、現状では印象批判の域を出ていないと言わざるを得ない。松尾の「『青写真』批判」が印象批判の域を出ていないというのは、「青写真」=前衛党的外部注入論というイメージで専ら捉えていて、そのイメージ自体への反省が見い出されていない点である。松尾自身が許容する、裁量主義ではない一般的制度的ルールとしての政策なり制度の設計という意味では、ローマー型市場社会主義も基本所得制度も本質的違いはない。従って、基本所得制度構想も、「青写真」に他ならないのであるが、松尾の場合、市場社会主義は駄目で基本所得であれば良い、という議論になっており、そこが矛盾している。両者はいずれも現代経済学のメカニズム・デザイン論などの知見が注がれるべき対象であるが、前者は駄目で後者なら良いという事の論拠が不明瞭なわけである。

そもそも松尾の言及する体制変革を伴うか体制の枠内かという論点は、体制ないし新しい制度への「移行コスト」に関する配慮の観点であって、そうした政治的実行可能性をも関わるイッシューとは別に、資源配分メカニズムとしての経済技術的実行可能性をメカニズム・デザイン論などの知見を生かしつつ論ずるのが3章の課題であったし、また「青写真」構想の課題でもある[10]。経済制度に関してこの種のグランド・デザインを論ずるのは、経済学者の仕事として重要な責務の一つであろうし、現在の日本においても、競争政策や産業政策に関わる制度や法改正などのルール整備作業において、経済学者たちのアカデミックな経済理論の見地からの政策形成への関与を見出すことが出来る。そういう「上からの改革」的に見える経済学者の政策形成への関与の仕方に対して、「ハーヴェイロード」的な「エリート主義」の匂いを嗅ぎ取って忌み嫌う人は、いわゆる新左翼系マルキストのみならず社会科学者の中にも、少なくないかもしれない[11]。しかし、そもそも「上からの『青写真』的改革」主義versus「草の根からの実践・運動」主義というような二項対立図式に捉われた見方に陥る事は、あまり生産的であるとは私自身は思わない。後者の立場からの一元論的な社会変革論が松尾の描くシナリオであるが、それは「草の根からの実践・運動」による<自生的秩序>の形成によって新たな社会制度の編成を見出すという立場である。もっとも、松尾のように<自生的秩序>の形成を「草の根からの実践・運動」的な観点でのみ捉えるのは、そもそも<自生的秩序>概念の創始者であるハイエクの立場からしても狭量ではなかろうか?その点は、これまでの橋本、鈴村等の議論を振り返れば明瞭であろう。



[1] 直接には、厚生経済学のこのような伝統はマルクスというよりも、功利主義的基準に基づく社会改革思想に立脚するアーサー・ピグーに起因していると言うべきであろう。そこでは目指すべき社会も社会主義・共産主義というよりは、より一層の自由主義の進展を意図するものであった。

[2] http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/Japanesepapers.htm

[3]私自身は、この種の観点は、とりわけ現代におけるNPO活動や公共サービス・セクターの存在の意義付けを分析する際に関わってくると考えている。現在、その種の研究プロジェクトを進行中である。

[4] http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/Japanesepapers.htm

[5] もっとも、それらの研究成果の多くは、経済学のPure theory系国際学術誌への投稿を前提にして書かれてきているので、議論は主に数理的な分析についての説明に重点が置かれており、また、そのような分析の帰結に関するインプリケーションについての言及も、Pure theory系の論文としては比較的多く行ってきているとは思うものの、社会的選択理論やゲーム理論等の専門的研究者でない限り、なかなかそこまでの理解のアクセスは難しいであろう事も想像できる。これらの成果は近い将来のうちに、邦文の研究書という形で纏めていくことになろう。

[6] 例えば、高須賀義博『マルクス経済学研究』(新評論1979)、高須賀義博『鉄と小麦の資本主義』(世界書院1991)、高須賀義博『マルクス経済学の解体と再生(増補版)(御茶ノ水書房1988)など。

[7] 鈴村興太郎「制度の理性的設計と社会的選択」(鈴村・長岡・花崎編『経済制度の生成と設計』東京大学出版会;第1章)

[8] 鈴村興太郎「制度の理性的設計と社会的選択」(鈴村・長岡・花崎編『経済制度の生成と設計』東京大学出版会;第1章)

[9] 念のために付言すれば、ここでいうsolidarityの文化なり慣習の自生的成長という契機への注目は、稲葉が『マルクスの使いみち』で強調した「社会主義的人間」変革論批判の立場とは矛盾しない。「社会主義的人間」変革論は、人々の経済的生活・活動の場におけるフリーライダー的行動やコラプションなどを先験的に排除しうるような利他的選好を持つ人間への改造を意味するだろう。他方、solidarity的文化なり慣習の生成という論脈で語られる【選好】は、人々が経済的生活・活動の場においてフリーライダー的行動やコラプションなどを採るような利己的選好を持ち得ることを前提にしつつ、そうした行為への誘因を防止するような制度の実行に対して高い価値を賦与するものである。さらに言えば、そうした誘因両立的な制度が実現すべき社会状態として、例えば、市場原理主義的な競争社会よりも、より平等主義的かつ相互扶助的な福祉社会であることにより高い価値を賦与するようなメタレベルの【選好】として定義する事が可能かもしれない。尚、このような二つの種類の選好をベースにした、制度の社会的選択・設計及びその遂行問題の理論的定式を行った論文としては、

Suzumura, K., and Yoshihara, N. (2006) “On Initial Conferment of Individual Rights,” Discussion Paper A No. 478, Institute of Economic Research, Hitotsubashi University.

を参照の事。

[10]体制ないし新しい制度への移行のコストという観点では、両者に何らかの違いがありうる事は配慮すべきであり、その意味では、私自身は市場社会主義とは、私的所有制下の福祉国家システムが基本所得制度などの導入も伴う形で十分に成熟した後の段階で、はじめてその移行の是非が現実的論議になり得る話であろうとは思う。現在の私自身の関心は、従って、福祉国家再編に関わる制度設計の問題である。

[11] 例えば、松尾の「『青写真』批判」に「実存的」共感を寄せ、他方で吉原の「青写真」的改革論に対しては違和感を表明する加藤秀一氏(明治学院大学・社会学者・ジェンダー研究)による『マルクスの使いみち』へのコメント

http://katos.blog40.fc2.com/blog-entry-44.html

などがそうであろう。