「資本主義分析の基礎理論研究の現状及び『新しい福祉社会』モデルの探求[1]

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

初稿2011101; 現稿20111012

 

1.     はじめに

              本稿は、「アナルティカル・マルクシズム」(AM)に関する最新の研究成果の中の一部を紹介するものである。いわゆるAM一般に関する概説的入門書はMayer(1991), Roemer(1986a), 高増・松井(1999, 稲葉・松尾・吉原(2006)などが存在しており、それらで展開された議論をここで再現する意義は少ない。しかしこれらの概説書によるAMの紹介内容は概ね90年代半ばまでのAM系研究者の研究内容の紹介に留まっている。それは主に、90年代初頭に生じたソ連・東欧型集権的社会主義体制の崩壊を目の辺りにしての問題意識・動機を強く反映したものであり、他方、90年代後半以降の今日に至るまでの世界のグローバル・エコノミーの展開と主要先進諸国でのネオ・リベラリズムの動向を反映し、かつ触発された議論は皆無である。また、90年代初頭までに展開されたAM学派における経済学等に置ける基礎理論研究も、その後しばらくは大きな進展は見られなかった時期があったとはいえ、この1520年の間での新たな展開も存在している。本稿はそうした90年代半ば以降のAM派系の社会科学研究の新たな進展の一部に関して、特に経済学の分野に関して、若干の紹介を行うものである。

 

2.     資本主義経済システムに関する基礎理論

2.1. 主流派経済学の一般均衡理論と厚生経済学の基本定理

主流派経済学(新古典派経済学)における資本主義経済システムに関する基礎認識は、完全競争市場の資源配分機能について論じた一般均衡理論・厚生経済学の基本定理に基礎づけられている。一般均衡理論は、現実の市場経済に関するベンチマークの理論として完全競争市場という想定をし、その完全競争市場に関する理論分析をする。完全競争市場とは、人々が完全情報の下で完全合理的に市場での意思決定を行うと想定された理論的空間の経済世界である。そこでは市場への参入退出に関して何の規制も存在せず、市場での競争にとっての障害となる外部性や市場の失敗なども存在しない。また、何らかの形で市場の価格を操作するだけの独占力を持つような、例えば独占企業のような経済主体は存在しない、そういう世界を描いており、いわば、市場競争の究極的な状況を想定する。そこで各商品・サービスの需要と供給が一致する結果として達成される市場取引を、完全競争均衡、ないしは競争均衡配分と称する。厚生経済学の基本定理は、こうした完全競争下の市場経済というものは、すべての人々の便益・利益ないし福利を悪化させることなくむしろ改善させる方向で機能する、従って、その様な経済システムにおける究極的な帰結である完全競争均衡配分においては、全ての人々の便益・利益・福利をこれ以上の改善の余地が無いという意味で、社会的に最善な状態(=パレート最適な社会状態)が達成されると議論される。もちろん、これはあくまで市場経済に関するベンチマーク理論に過ぎないわけであり、現実の市場経済がこの完全競争市場とは必ずしも一致しないという点は十分に共通認識の上で、このベンチマークになるべく近似させる方向での制度設計なり政策立案が望ましいという思潮を生成させ、その理論的根拠に成り得る。そこでは、誰もが市場に自由にアクセスできるような政治的自由主義や形式的な機会均等の法制度というのが重視されることになる。

アナルティカル・マルクシズムの議論では、完全競争市場という概念構成、及びその前提の下での一種のベンチマーク理論の導出という新古典派の議論それ自体に対しては、肯定的にその意義を評価する。実際、資本主義経済の原理的モデルとして、一般均衡論的なモデルを想定するアプローチは、アダム・スミスやデイビッド・リカード等の古典派経済学以来の経済学の伝統的手法であり、マルクスの経済理論においてもそれは踏襲されている。しかしながら、同時にアナルティカル・マルクシズムの場合には、資本主義経済システムの基礎理論は一般均衡理論の範疇に留まるべきものとは考えられていない。

新古典派経済学的な一般均衡理論においては、それに基づいて資本主義経済システムに関するベンチマーク理論を見出そうという立場であるならば、もっぱら市場経済システムのみで存在している経済社会を暗黙裡に想定する事――すなわち「市場の普遍性」の想定――が一つの典型的なアプローチである。そのような社会では、当該社会で何らかの富を初期保有している個人でない限り、収入の糧は労働市場で自らの労働力を販売し、その賃金収入として得るしかないだろう。ここで仮に、人々が日々を生存する上で少なくとも何らかの非負・非ゼロの消費財ベクトルを消費しなければならないという想定を入れる事は、きわめて現実の社会の想定として自然である。とすると、ある低スキルの単純労働市場において、一日24時間フルに働いても上記の生存消費財ベクトルを購入するだけの賃金収入が稼げない、それくらいに賃金率が限りなくゼロに近いくらいに低いとすれば、このような低スキルの労働市場へのアクセスによってしか収入を得る術の無い貧しい人たちは、いわば「働いても食っていけない」から労働市場から撤退するだろう。そのようにしてこの単純労働市場の超過供給が解消されるという可能性を排除する事は出来ず、そのようにして完全競争市場における競争均衡配分が実現されるという事態が存在し得る。すなわち、物的富においても人的資本に関しても貧しい人たちの「強いられた市場からの撤退」(Forced non-trade)の存在を背景にして、競争均衡が達成されているという可能性である。他方、この状況で同じく、もう少しだけスキル水準が高いために24時間働いたら生存消費財ベクトルを購入できるだけの賃金を保証される物的富無き人々が居るかもしれない。彼らは市場の競争均衡において雇用され、結果的に生存消費財ベクトルを購入して生存できている。この人たちもまた、24時間フルに働かなければ生きていけないくらいに低水準の賃金であっても労働供給に応じなければ生きていく手段を確保できない故に、結果的にこの低水準の労働条件に応じざるを得ないという意味で、「強いられた市場参加」(Forced trade)の状態にあると評価できる。「強いられた市場からの撤退」が、市場に参加してもしなくても結局、生きていくだけの収入を得られないという意味で、市場への不参加による生存水準未満の存在(=死)を強いられていると言えるのに対して、「強いられた市場参加」はよりましとはいえ、尚、劣悪な労働条件であったとしても、生存消費財ベクトルを確保する(=すなわち最低限、生存する)という前提に立てば、この労働条件の下で労働供給に応ずる以外の選択肢が無いという意味で、市場への参加を強いられているのである。

このような完全競争均衡に伴う「2つの強制」現象が現実化する可能性は、市場経済がグローバル化すればするほど、また、資本による社会の包摂が進行すればするほど、高くなる事が予想される。市場のグローバル化については明らかであろう。つまり、資本の国際間移動の自由化がいっそう実質化するにつれ、一つの国民経済内での低スキル労働市場における潜在的な労働供給の増大圧力はますます強いものとなる。それはこれらの市場における均衡賃金率の低下傾向へと圧力をかけることになる。他方、資本による社会の包摂の進行とは、いわゆる資本主義的な経済法則に支配されていない非資本主義セクターの自立的存立の基盤が掘り崩されていく事態を意味する。非資本主義セクターとは、例えば田舎の農村共同体内での経済システムのようなものを想定できる。かつて、地方・田舎における農村共同体がそれ自体である程度自立的な経済システムとして機能していた時代、すなわち農村から都市への人口移動が頻繁であった資本主義の時代(例えば、1960年代までの日本資本主義)であれば、農村から都心へ流れてきてプロレタリアートとして生き始めた諸個人は、いざとなれば農村に帰って百姓暮らしに戻るという選択肢が残されていた。つまり都会で食いっぱぐれた人々を迎え入れてとりあえず食わせていくだけの自立的経済基盤がまだ農村共同体に残されていた。この時代の富無き低スキルの労働者たちであれば、資本主義セクターが「働いても食っていけない」ほどの労働条件しかないような不況下にあれば、農村共同体の経済圏に帰るという手段があった。そこでの労働市場からの撤退とは、より自発的意思決定の介在する余地のある選択行為を意味しよう。他方、現代のように、地方経済自体が著しく疲弊し、農村共同体が自立的経済システムとしてもはや事実上機能しえなくなるほど衰退化し、どこに行ってもある程度の所得を稼がなくては基本的生活手段にすらまともにアクセスできなくなっている状況では、労働市場で食っていく場を確保できない場合には、せいぜいホームレスになる以外には他に選択肢が事実上なくなりつつあると言っても良い。すなわち、資本主義経済システムで食えないからと言って、農村に帰ってそこで十分な貨幣所得が得られなくても、とりあえず生存消費財ベクトルを確保するという術――すなわち、『北の国から』の黒板吾朗の生き方である――が、存在しない。すなわち、どこに生活の根拠を見出そうとも、貨幣経済が支配的となり、貨幣所得なしでは生存消費財ベクトルにアクセスできない、それくらいに資本の包摂が進行している状況と考える事ができよう。農村共同体で農業を営む人たちも、農業で所得を稼がねば生きていけないような経済システムに組み入れられており、しかも実際に農業だけではもはや十分な貨幣所得を稼げないという状態にある。このような下では、ホームレスとワーキング・プアがより増えやすい状況であると言えるだろう。

新古典派的な一般均衡理論と厚生経済学の基本定理に基礎づけられた資本主義経済認識というのは、しばしばこうした市場にアクセスしても生存できないという人々の存在可能性を無視しがちである、という点を指摘しておく必要があろう。こうした社会的排除(Social Exclusion)の下にある弱者の可能性については、しばしば病人であるとかハンディキャップ、あるいは母子家庭などが言及される[2]が、「強いられた市場への参加」と「強いられた市場からの撤退」の議論が示すように、本来働く能力のある労働者であってもワーキング・プアに陥る原理的可能性を、資本主義的経済システムは孕んでおり、それもその完全競争市場メカニズム的機能が普遍化すればするほどその特性は強化される傾向を有している、という事への認識に基づいた理論構成が不可欠である。しかし典型的な新古典派の理論では、市場からの撤退及び参加を強いられている人々の存在をネグレクトしてしまうような理論構成になっている。すなわち、社会が資本主義的な経済システムによって一元的に包摂化される、あるいは市場の「自由化」が強化されるという事は、非市場的な経済領域というのがそもそも社会に存在したが故に、そこにおいて生存できた――本来的に市場経済の下での生存が困難な――人々が窮地に陥るという可能性があるのだが、新古典派の理論ではそういう問題に対する配慮に欠いている。実際、新古典派的一般均衡理論の諸前提を注意深く見れば、その完全競争市場モデルの世界では、そもそも全ての市民が生存可能な消費水準へアクセスできる事が仮定されている事に気づくだろう。この前提は完全競争均衡の存在定理の前提として不可欠な条件の一つ――サバイバル条件――として知られており、この条件抜きでの一般均衡理論体系の構築は困難を齎す事が知られているが、経済学的含意としてはこの条件は自然な想定とは到底言い難い事は指摘しておかねばならない。アナルティカル・マルクシズムの資本主義経済に関する基礎理論としては、サバイバル条件の仮定抜きの下での市場経済のメカニズムというものを改めて検討する余地があると言えよう。

 

2.2.労働搾取理論

マルクス派の議論では、以上の様に深刻な社会的排除の下にある人々の問題にプラスして、そもそも正規雇用の労働者においても深刻な問題がある事を論ずる。それが労働搾取理論である。この分野におけるAM派の貢献は、ジョン・ローマーの研究を中心に、著しい。実際、マルクス派経済理論においては、資本主義経済システムにおける労働搾取の問題を明らかにする事が重要な課題の1つであった。いわゆる前近代的な封建社会においては、領主−農奴の搾取関係は明瞭であり、それは身分制度に基づく領主−農民の政治的権力関係によって裏付けられた搾取のメカニズムであった。他方、「自由・平等・所有・ベンサム」によって特徴付けられた近代市民社会では、身分制度は原則として存在せず、全ての市民は平等に自由な権利を有するという建前の下、資本家と労働者の間であっても、そこに政治的な権力関係は存在しない。両者の雇用契約関係は互いに対等で自由な市民として自発的に締結されたものであり、それを強制関係として位置づけるのは難しい。マルクスの課題は、そのような自由で対等な諸市民の自発的取引によって導かれている資本主義経済における資源配分メカニズムの背景に、資本家階級と労働者階級の搾取関係を発見し、それを不可視化してしまう資本主義システム固有のメカニズムを炙り出す事にあった。

              マルクス自身の搾取理論の展開は叙述的性格のものであったが、その主張のエッセンスは現代経済学の一般均衡理論の枠組みの中でも検証する事が可能となった。そのような検証の試みの代表的なものがOkishio (1963)によるマルクスの基本定理(FMT)である。この定理は、レオンチェフ型投入-産出行列を用いて定義された一般均衡モデルの下で、資本主義経済において正の利潤の伴う経済的資源配分が行われるならば、そのような資源配分は必ず労働搾取が伴ったものになる事を論証した。換言すれば、正の利潤率の成立の必要十分条件が正の労働搾取率の成立である事を示したのである。この定理の画期性は、マルクスの元々の目的――資本主義経済における資本蓄積を労働搾取の蓄積として説明する事――を達成可能にした事にある、と位置づけられる。資本主義経済における資本蓄積を可能にする為には、資本家たちは資本蓄積の為の新投資を利潤収入から融資しなければならないが、彼等が正の利潤を獲得するような資源配分では、必ず正の労働搾取が存在するし、また正の労働搾取の伴わない資源配分では正の利潤を実現できない事が、この定理によって明らかにされたからである。資本主義経済における資本蓄積を労働搾取の蓄積として説明する為に、そもそもマルクス自身は労働力のみが価値形成機能を有する唯一の生産要素であるという「労働搾取=利潤の唯一の源泉」論を展開しており、したがってFMTもこの主張の論証として基本的に理解されてきた。[3]

FMTに関する従来の代表的課題として、レオンチェフ型一般均衡モデルの狭い制約を外して、より一般的な生産技術体系の適用を可能とするより一般的な一般均衡モデルの下で、この定理は維持されるかという課題が挙げられる。ローマーはこの課題において、非常に重要な貢献をRoemer (1981)において行っている。そこでは、従来の置塩=森嶋型の労働搾取の定式の前提の下で、より一般的な凸錘生産経済モデルにおいてFMTは一般的には成立せず、生産技術体系に関する「生産の非付属性」という仮定を満たすような凸錘生産経済モデルの下でのみ、FMTが成立する事を示した。[4] 換言すれば、置塩や森嶋の定式に基づいて労働搾取を定義し議論する限り、資本主義的資本蓄積過程のメカニズムを労働搾取の存在を媒介に説明するマルクスの経済理論が理論的妥当性を有するのは、想定する経済が単純なレオンチェフ生産経済モデルの世界のみであり、固定資本財、代替的生産技術、結合生産などが存在するより普遍的に見られる世界では、もはや理論的妥当性を有さない、という結論にならざるを得ない。

              ローマーはまた、FMTに関して、その「労働搾取=利潤の唯一の源泉」論の論証としての意義付けへの批判を展開している。それがBowles and Gintis (1981)Samuelson (1982)と共に論証したRoemer (1982)における「一般化された商品搾取定理」(GCET)である。GCETは、正の利潤の生成の為の必要十分条件は、労働搾取の存在のみならず、あらゆる任意の商品に関する「搾取」の存在でもある事を論証するものであった。この定理の結果、利潤の源泉としては労働搾取のみならずそれ以外の物的資本財の「搾取」もあるかもしれないという事になり、置塩=森嶋型の労働搾取の定式の下では、FMTは「労働搾取=利潤の唯一の源泉」論の論証を意味しない事が明らかにされた。実際に、FMTが厳密に論証しているのは、正の利潤を生成する資本主義的資源配分の背景に労働搾取が存在しているという主張に過ぎず、この主張自体は資本財による「価値生成機能」を前提しているとも言える新古典派経済学の限界生産力説とも全く両立可能なものである。他方、「労働搾取=利潤の唯一の源泉」論は限界生産力説とは互いに相容れない議論になっている。

              もっとも、以上のFMTGCETの論脈で語られてきた労働搾取の意味とは、経済システムの生産技術体系が、生産要素としての労働力を技術的に効率的に利用可能であるが故に、剰余生産を生産可能にする程に十分に生産的である事の表現に他ならない。同様に、労働以外の財の搾取も、その財の生産要素として技術的に効率的に利用可能なくらいに、経済システム全体として生産的である事の表現に他ならない。[5] 搾取という用語にはそうした意味が伴うのも確かであるが、我々が社会科学的課題として関心を持つ搾取概念はむしろ、不公正な社会関係を示唆するものとしてのそれである。だとすれば、そもそも置塩=森嶋型の労働搾取の定式それ自体が、果たしてマルクス的な労働搾取理論の展開の出発点として相応しい定式になっていたか否か自体が問われる事になろう。この問いは、置塩=森嶋型の労働搾取の定式を前提に論証されたローマー自身のFMT批判――すなわち、その理論的妥当性はレオンチェフ経済モデルを超えたより普遍的な資本主義経済モデルの下では成立しないという批判、及び、そもそもGCETの成立によって利潤の唯一の源泉として労働搾取を位置づける事は不可能という批判――の妥当性の範疇をも規定する論点である。すなわち、彼の批判は置塩=森嶋型の労働搾取の定式への批判である事は間違いないが、それがマルクス的な労働搾取理論の妥当性を反証する議論をも意味するか否か自体は、改めて再検討の余地があるかもしれない。

              この点に関して、最近になって極めて興味深い新たな議論がAM派の内部において喚起されている。例えば、Veneziani and Yoshihara (2011)は、資本主義経済モデルとして、従来の数理的マルクス経済学におけるそれらに比してはるかに一般的な市場経済モデルを設定した。そこでは固定資本財、代替的生産技術、結合生産などが存在し得るのみならず、個人の消費財選好の違いも許容し、また、個々人での労働スキル=人的資本の賦存水準も異なり得るような、もっとも一般的かつ普遍的な資本主義的市場経済モデルが構築されている。そのような極めて一般的なモデルの下では置塩=森嶋型の労働搾取の定式ではFMTは成立しない事は明らかであるが、では、それ以外の代替的な搾取の定式の場合はどうなるであろうか?Veneziani and Yoshihara (2011)は、マルクス経済学の文献でこれまで論じられてきた様々な労働搾取の定式のいずれも――ただ唯一の定式を除いて――、この一般的なモデルの下ではFMTは成立しない事を示した。他方、元々はGerald Dumenil(1980)Duncan Foley (1982)等によって提唱されたNew Interpretation学派の搾取の定式のヴァリエーションの場合には唯一、このより普遍的な経済環境の下でも、FMTが成立する事をも示した。すなわち、New Interpretation学派の搾取の定式の場合にのみ、FMT の成立は一般的に頑健である事が明らかにされている。New Interpretation学派の搾取の定式のヴァリエーションとは、所得1単位取得に相当する生産活動に社会的に必要な労働量を参照水準として、それと比較して各個人がそれぞれどれくらい多く(少なく)の労働量を所得1単位取得のために供給しているかという観点で、搾取関係を定義する。すなわち、所得1単位取得に相当する生産活動の為の社会的必要労働量よりも少ない労働量を所得1単位取得の為に供給している個人は搾取者、それよりも多い労働量を供給する個人は被搾取者として、定義される。

        興味深い事に、New Interpretation学派の労働搾取の定式のアナロジーによって、やはりNew Interpretation学派の下での一般的商品に関する搾取の定式を導出する事が出来る。この商品搾取の定式の下でも、やはりGCETが成立するであろうか?最新のYoshihara and Veneziani (2011)は、その答えは否である事を示している。すなわち、New Interpretation学派の下での一般的商品搾取の定式を前提にするならば、正の利潤と正の商品搾取関係の存在との同値関係を導き出すことはもはや出来ない。すなわち、New Interpretation学派の定式を搾取の定式として妥当と解釈できるならば、もはや商品搾取による利潤生成の可能性について憂慮する必要はないという事になり、他方でFMTの一般的頑健性より、マルクス派の労働搾取概念をキーワードとする資本主義的経済認識の妥当性も論証される事になるのである。

              同様の興味深い議論はRoemer (1982)によって展開されたマルクス派のもう一つの重要な資本主義経済認識を表わす「階級-搾取対応原理」(CECP)を巡っても見出される。この議論では労働搾取概念が、マルクス自身の定義及びFMTの議論での定義よりも一般的に定義される。すなわち、私的所有制度下での完全競争市場において、諸個人は各々の物的資本財の初期賦存の違いによって特徴付けられる状況を想定する。そのような経済環境の下での完全競争均衡的な資源配分において、各個人はそれぞれの資本保有量の大きさに応じて、相異なる所得を享受する。その所得によって購入可能な消費財の束を当該社会で生産するのに必要な労働投入量、すなわち当該個人の所得に対応する社会的必要労働量が、前提する労働搾取の定義に応じて確定する。各個人の所得に対応する社会的必要労働量よりも少ない労働量を供給する個人は搾取者、多い労働量を供給する個人は被搾取者となるのである。以上の定義に基づき、CECPは、資本主義経済の下での経済的資源配分の帰結は、富の豊かな資本家階級と富の貧しい労働者階級という階級分化の生成・再生産を意味すると同時に、前者に属する諸個人が搾取者となり、後者に属する諸個人が被搾取者となるという社会関係の生成としても特徴付けられる事を論証するものである。その議論を要約すれば、全ての個人がその所得と余暇に関する選好においても労働能力においても同一の特性をもった私的所有制度の下での完全競争市場において、個々人の市場における最適化行動の結果として、階級分化という事態が生じ、その際に、労働者階級に属する個人は被搾取者となり、資本家階級に属する個人は搾取者となる事が示される。つまり、搾取関係と階級関係の対応性が市場均衡の一つの特徴として内生的に説明される事を論じている。さらに、この対応関係が導出される為の必要十分条件が、余暇と所得に関して人々のもっともらしい選好を前提にする限り、物的資本財の不均等な私的所有状態である事を明らかにしている。

              残念ながら、この定理の頑健性もまた制約的である。例えば、結合生産や代替的生産技術の存在するより一般的な凸錘生産経済モデルを想定する場合、Morishima (1974)Roemer (1982; Chapter 5)の提唱する労働搾取の定式ではCECPが成立しなくなる事が確認されている。[6] ローマー自身は、こうした頑健性問題もあり、また、労働搾取概念が分配的不公正状態の説明理論としての規範的意義に欠けるとの判断を下す事によって、労働搾取の理論への関心を失っていった。[7] しかしこの点での彼の判断は些か早計であって、Yoshihara (2010)が示すように、より一般的な凸錘生産経済モデルの下でCECPを成立させる労働搾取の定式の必要十分条件を公理的に特徴づける事が可能である。その公理的特徴づけに基づけば、やはりNew Interpretation学派のバリエーション型の搾取の定式の場合には依然として、CECPが成立する事が確認されるのである。

              以上の議論を踏まえると、労働搾取概念に基づくマルクス派の資本主義経済システムに関する基礎理論の妥当性は、その搾取概念をどう定義するかに強く依存したものである事が了解できるであろう。すなわち、もし置塩や森嶋、あるいはRoemer (1982; Chapter 5)が提起した様な搾取の定義のみが搾取概念の妥当な定式化であると解釈せざるを得ないのであれば、そうした定義に基づいて導かれるFMTCECPの限定性は、マルクス派の資本主義経済システムに関する基礎理論のパースペクティブの限定性を意味する事になろう。他方、New Interpretation学派のバリエーション型の搾取の定義が妥当な定式として認められるのであれば、全く反対の帰結となろう。すなわち、その場合はFMT及びCECPの一般的な成立とGCETの不可能性の帰結より、マルクス派の資本主義経済システムに関する基礎理論のパースペクティブは極めて普遍的な性格を有すると見なせるのである。

この問題は、マルクス派の労働搾取概念の定式の問題のみならず、いわゆる投下労働価値説の妥当性にも関わってくる。伝統的なマルクス経済学の議論において労働搾取概念は、投下労働価値説を前提にして構成されるべきものであった。すなわち、労働搾取概念は労働者の販売する労働力商品の労働価値に基づいて定義されるのであり、また、労働価値は市場価格とは論理的に独立に定義されるべき概念として解釈されている。従って、労働搾取も価格情報とは独立に定義されるべき概念として位置付けられる事となる。置塩や森嶋の搾取理論においては、このマルクス主義の伝統的方法が継承されたものとなっている。他方、Yoshihara (2010)Veneziani and Yoshihara (2011)が明記している様に、New Interpretation学派のバリエーション型の搾取の定義は市場均衡状態における均衡価格の情報と均衡生産量の情報に基づいて定義される性質を持っている。従って、そこでの搾取概念は本質的に価格依存的なものであって、いわゆる労働価値説を前提とする従来の伝統的な定式とは大きく異なっている。従って、もしNew Interpretation学派のバリエーション型の搾取の定義が妥当な定式として認められるのであれば、それは労働搾取の市場価格からの独立性という伝統的なマルクス主義の方法論への根本的批判を意味しよう。さらに、その場合はFMT及びCECPの成立、及びGCETの不成立より、マルクス的な資本主義経済システムの基礎認識が妥当性を有する事になるので、そもそもマルクス的な資本主義経済システムの基礎認識とは投下労働価値説とは相容れないものである事をも意味しよう。

以上の論点からも、搾取概念の定式化の妥当性を巡る論争は、マルクス主義的な資本主義経済システムの基礎認識の妥当性を左右する、極めて決定的な問題である事が理解できるであろう。この問題に関して、公理的な手法を用いて一つの解答を与えたのがYoshihara and Veneziani (2009)である。Yoshihara and Veneziani (2009)は労働搾取の妥当な定式が満たすべき基準を4つの公理として定式化した。その4つの公理とは、1) 労働搾取の公理 (LES) 2) 初期保有構造からの独立性(IES)3) 連続性(CON)4) 関係性としての搾取 (RE)、以上の4つからなる。

このうち、公理LESとは、妥当な搾取概念である限り、その概念を適用する事によって、任意の経済環境の下での任意の市場均衡の下で、常に当該社会の中での搾取者の集合と被搾取者の集合を同定できる事を要請するものである。具体的には、それぞれの搾取概念の定式に対応して固有な、高々2つの参照財ベクトル及びそれぞれの財ベクトルの生産計画を、当該市場均衡に対応して、確定する事が出来るのだが、それらの情報から、当該搾取の定式の下で定まる搾取者の集合と被搾取者の集合が一意に特定化されるべき事を主張する。ここで言う高々2つの参照財ベクトルは、共に当該市場均衡の下での生存可能所得の下で購入可能であって、これらの財ベクトルを純生産するのに要する労働投入量――マルクス学派的に解りやすく言えば、社会的必要労働時間――が、各個人が搾取者であるか被搾取者であるかを同定する分岐点として機能するのである。これはいわば、妥当な搾取の定式が満たすべく最小限の必要条件であり、搾取の定式の定義域に関する条件を規定したものである。置塩=森嶋の定式、Roemer (1982; Chapter 5)の定式、New Interpretation学派の定式など、いずれもこの条件を満たす事を確認できる。

また、公理IESとは、上述したところの搾取者・被搾取者の分岐点となるべき労働投入量の大きさは、高々、市場均衡状態における価格情報と総生産点の情報にのみ依存して決定される事を要請するものである。すなわち、個々人の資本財の初期賦存状態の情報は、搾取者・被搾取者の分岐点となるべき労働投入量の大きさの決定に影響を与えない事を要請する。これは、生産に関するマクロの情報さえあれば、社会的必要労働時間は確定できるのであり、私的所有の構造自体は、誰が搾取者になり、誰が被搾取者になるかという論点には影響するかもしれないが、搾取者・被搾取者の分岐点となる社会的必要労働時間の決定には影響しない事を意味する。この性質は、やはり置塩=森嶋の定式、Roemer (1982; Chapter 5)の定式、New Interpretation学派の定式など、マルクス派の労働搾取理論の文献における主要な定式いずれも満たすものである。

また、連続性の公理CONは、経済環境の微小な変化、並びに対応する市場均衡の微小な変化に対応して、搾取者・被搾取者の分岐点となる社会的必要労働時間も微小に変化すべき事を要請する。生産技術体系がほんの僅かだけ変化し、その結果として、市場均衡状態も僅かだけ変化したときに、対応して社会的必要労働時間のみが急激に変化するとすれば、それは社会的必要労働時間概念の内容自体の変化をも含意しかねない。この公理はそうした事態を排除するものである。この性質は、やはり置塩=森嶋の定式、Roemer (1982; Chapter 5)の定式、New Interpretation学派の定式など、マルクス派の労働搾取理論の文献における主要な定式いずれも満たすものである。

最後の公理REは、任意の経済環境及び任意の市場均衡において、被搾取者が存在するとすれば、そのとき必ず搾取者も存在する事、及び、搾取者が存在するときは必ず被搾取者が存在する事を要請するものである。すなわち、社会の全構成員が被搾取者(あるいは搾取者)と同定されてしまうような可能性を許容する搾取の定式は、妥当性を有さないものとして排除される。これは、労働搾取の存在とは搾取的な社会関係の存在である事を把握するべき、と考えるならば当然の要請となろう。搾取的な社会関係とは社会のある集団ないしは個人が他のある集団ないしは個人を搾取するその関係性を意味するのであり、そのような関係性の成立の為には、少なくとも公理REの要請は満たされなければならない。つまり搾取者の存在と被搾取者の存在とが同時に確認できて初めて、その関係性について論ずることが可能となるのである。この公理REの要請は、FMTGCETを巡る論争において関わってきた、生産要素としての労働力の技術的に効率的利用可能性としての労働搾取概念の解釈の余地を排除するものである。このような解釈が許される限り、前述のように労働力以外の生産要素の技術的に効率的利用可能性としての商品搾取の問題が関与せざるを得なくなるのであったから、その意味でも公理REは尤もらしい要請であると見なす事が出来よう。

Yoshihara and Veneziani (2009)は、以上の4つの公理いずれの要請も満たす唯一の労働搾取の定式は、実はNew Interpretation学派のバリエーション型の定式しかあり得ない事を論証した。従って、上記4つの公理の要請、それぞれを妥当なものと認める限り、妥当な搾取の定義と認められ得るものはNew Interpretation学派のバリエーション型の定式でしかあり得ない事を意味する。この結論は、マルクス派にとっての朗報を意味しよう。なぜならば、New Interpretation学派のバリエーション型の定式を前提する限り、FMTCECPが成立し、GCETは不成立である事が一般的に確証されるからである。すなわち、マルクス派的な資本主義経済システムの基礎認識の妥当性はかなりの程度の普遍性を有する事が確証されるのである。他方、この事は、伝統的なマルクス主義が依拠してきた投下労働価値説の完全な放棄を要請するものである。森嶋はすでにMorishima (1973)において、価格決定メカニズムとしての投下労働価値説の棄却を不可欠な結論として主張していたが、彼は労働搾取概念は労働価値説を前提にする事、及び、労働価値の定義に限っては、価値の価格からの独立性を維持するフレームワークを主張していた。この労働価値説の最後の砦というべき部分が、今や完全棄却されるべき事を迫られているのである。それをしない事は、マルクス的な資本主義経済の基礎認識自体を放棄する事に他ならない。

 

3.     資本主義社会へのオールタナティブの探究

AM派における経済学へのもう一つの重要な貢献は、現代の新自由主義的な資本主義経済システムに取って代わり得る代替的経済システムの原理的可能性についての理論的探究である。この論点に関してもっとも著名な議論はローマーの「市場社会主義の青写真」構想である(Roemer (1994); 高増・松井(1999); 稲葉・松尾・吉原(2006))1990年代初頭のソ連・東欧型中央集権的社会主義システムの崩壊以降、市場経済システム抜きの代替的経済システムの構想は、少なくとも当面の現代資本主義からの社会変革の可能性を探究する限りでは、実行不可能であるという認識は経済学界においてほぼ共有されるものとなった。その結果として、現在では変革のオールタナティブとは、市場経済の齎す経済的資源の効率的配分機能の維持を前提とした上で、どの程度の個々人間での分配的公正性を追求できるかという点が焦点になって来ている。

 

3.1.ジョン・ローマーの「(実質的)機会の平等」論

そのような議論の枠組みにおいてジョン・ローマーが果たしてきた事は、社会主義が志すべき「人々の善き生の追及に関する(実質的)機会の平等」とは何か、それは如何なる政策関数として定式化されるかを明らかにした事である(Roemer (1998))。また、そのような政策関数は、現状の代議制民主主義の制度化で行われる右派政党や左派政党間の政治的競争メカニズムの媒介の下で、果たしてどの程度まで遂行可能であるかを分析的に論じた事である(Roemer (2006))

ローマーの主張する「(実質的)機会の平等」政策とは、「各個人の客観的境遇の違い如何を問わず、同程度に努力した個人であれば同程度の帰結水準を獲得できるようにすべきである」という基準を理想状態として、可能な限りにその状態に近づける様な実行可能な経済的資源配分の遂行を意味する。すなわち、客観的特徴上の格差によって左右される事なく、全ての個人に彼らが獲得したいと意欲するだけの良き生(well-being)ないしは帰結(outcome)の水準を実現する為の、可能な限りに均一な競技場、すなわち等しいスタート・ラインの保証を要請する規範的立場こそが「(実質的)機会の平等」論に他ならない。ここで「良き生」ないしは「帰結」の内容は、想定する社会経済問題に応じて特定化されるものと考えられている。例えば、教育的資源の配分問題を考える論脈では、「各個人」とは主に未成年層からなる子弟となり、「帰結」とはそれら子弟の獲得する学力水準、もしくは教育達成水準となる。このとき、各子弟の客観的境遇とは、彼らの出身家計の所得水準であるとか、両親の学力・学歴水準であるとか、居住環境そのもの等が関係する事になろう。これらの客観的境遇上の格差は、子弟たちにとっては運命論的要因であり、彼ら自身の自己責任を問う事が可能な選択結果というべきものではない。上述の「機会の平等」論の基本的な公理によれば、各子弟の客観的境遇の違い如何を問わず、同程度に努力した子弟であれば同程度の学力水準を獲得できるようにすべき事が要請される。これは、こうした諸個人の選択責任を問うべきでない運命論的要因によって生じる帰結上の格差に対しては、社会的補償の対象とすべきと見なす「責任と補償」[8]論的基準としての意味合いも持つ。通常、客観的境遇に関して不遇な立場にある子弟であれば、より優遇な立場にある子弟と同様の努力をしたとしても、期待される学力達成水準は低くなるだろう。したがって、両者に同程度の学力水準を達成させる事は、不遇な子弟への何らかのより厚い社会的扶助・援助政策の遂行を含意している。すなわち、「(実質的)機会の平等」論は何らかの平等主義的再分配的政策の導入を支持する議論である。[9] 

以上の議論で考慮していない点が2つある。1つは、当該社会が教育政策用に使用する予算額についての意思決定問題である。教育予算が増える事は、これは一種の人的資本投資であるので、当該社会で生産された総資源の中で現在の消費用に利用できる部分が減少する事を意味する。これは固有に考えるべき現在消費と将来消費との代替問題である。

              2に、所与の教育予算の配分政策として「機会の平等」政策の遂行は、子弟間での学力機能達成に関する効率的な配分を意味するが、彼らが成人となってその学力が人的資本に転化したときの生産性のロスの可能性を排除はしていない。例えばここで対象とする子弟の集合が全国の医学部学生の集合であり、対象とする「学力」が高等教育レベルのものであり、その達成機能が医師としての人的資本に転化するようなタイプのものであるとしよう。「機会の平等」政策の遂行は、医師としての資質の違いに関係なく、同程度の努力の下でその学力成績の最も低い学生の水準を最大化させる意味を持っているので、その分、特に優れた資質を持つ学生が特別に優遇される性質は有さない。その結果、その客観的特徴において不遇であり、かつ学力成績の最も低かった学生であっても、医師資格試験に合格できるかもしれないが、同時にそれは特に優れた資質を持つ学生の技能水準を最大化させないかもしれない。多数の比較的中庸な医師を社会的に供給する事態と、一部の優れた医師を生み出すものの医師の社会的供給量は前者より少ない事態と、いずれが望ましいかは、1つは医療サービスの消費者にとっていずれが望ましいかという視点が関係する。一部の優れた医師の存在は、先端医療研究での優れた進展が期待され、それが将来における医学の進歩に寄与するという形での社会への外部効果を期待できるが、反面、急な出産や夜間における子供の病気という日常的事態にスムーズに対応してくれる医療機関の不足という事態を齎すかもしれない。こうした論点を考慮の上で、どの段階の学力[10]に関して「機会の平等」基準を適用すべきか否か、という問題は、より包括的な観点から定義された包括的社会厚生関数による判断を要請するだろう。その判断によっては、高等教育が問題の対象の場合には、予算のある割合は「機会の平等」政策用に確保しつつ、残りの割合に関しては、優れた資質の学生への優遇政策用に使われるという、一種の折衷案が採用される事もあるだろう。

いずれにせよ、「機会の平等」基準を満たす事は決して容易ではなく、かなりの程度の平等主義的な所得再分配政策の実行を伴わざるを得ない。しかしそのような所得再分配政策自体が採用されるか否かという政治的実現可能性問題が別に存在する。すなわち、ある程度の自己利益追求の動機を持った政治集団である政党間の政治的競争 (political competition) によって、政治的意思決定がなされるという枠組みで考えるならば、「機会の平等」政策はある政治政党のマニフェストとして提示され、そしてその政党が選挙に勝利して政権を獲得する事を通じて、実現されるというシナリオとなろう。このシナリオに基づき、ローマーは政策決定に関する政党間の政治的競争を媒介に、動学的資源配分が決定される政治経済均衡を想定する。そしてRoemer (2006)において、資源配分の動学的効率性の保証を制約条件としたときに、平等主義的な再分配制度・政策の自由度はどの程度有り得るか、という問いに関る()政治経済学的研究を展開するのである。

ローマーは親と子から構成される各家計を想定し、各家計間の違いが賃金稼得力(=人的資本)の違いによって特徴付けられる経済を考える。家計とは、親の消費活動の場であると同時に、子の将来の人的資本の教育的生産プロセスであると考える。教育的生産は親自身の保有する人的資本の水準と、子への教育投資水準の増加関数として子の将来の人的資本水準を決めるものである。現世代における親の人的資本分布が与えられており、これが現世代における事前的所得分配にもなっている。この環境下で、親の集団は、所得再分配と教育予算に関する政治的競争下にある。政党が形成され、1世代あたりに1回の選挙があるという様式の下で、選挙における政党選択に臨む全ての親が共通に持つ効用関数は、親自身の消費活動水準と子の将来の人的資本水準の増加関数として与えられている。選挙の勝利政党はマニフェストとして掲げていた所得再分配政策と教育財政政策を遂行し、その結果、現世代の事後的な所得分配を決定すると同時に、次世代の人的資本分布を決定づける。次世代は再び同種の政治的競争下にある。2大政党が形成され、政策が提案され、そして2つの政党のうちのいずれかの政党が選挙で勝利する。その政党は己の所得再分配政策と教育財政政策を遂行し、それが次世代の事後的所得分配と第三期世代の人的資本分布を決定づける。そうしたプロセスが永久に繰り返されるモデルとなっている。このような設定の下で、人的資本分布は遠い将来において平等的な分布[11]に収束し得るであろうか?これがローマーの問いであった。人的資本分布が平等化しているという事は、遠い子孫の人的資本が家計の初代における人的資本に依存しなくなるという意味であり、少なくとも長期において、「機会の平等」が達成される望ましい状況と考えられる。すなわち、ここでの問いは、民主主義的政治的競争システムは、子孫の人的資本から先祖の痕跡を取り除くような教育政策を結果的に遂行できるだろうか、というものである。その結論はいささか悲観的なものであって、人々が連帯主義的な選好を持つようにならないと、実質的機会の平等を実現させるような政策は遂行され得ない、というものであった。つまり、各家計の親が自分の子供の教育投資しか関心を払わない利己的選好の社会では、極端に低レベルの人的資本をもつ人々の割合が十分に多いような初期の人的資本分布の社会を想定する限り、たとえ無限回繰り返しの政治的競争ゲームの下で左翼政党が無限回勝利して、その政治集団のイニシアティヴの下で平等主義的政策をしばしば遂行する機会があったとしても、分布は永遠に平等的にならない。言い換えれば、長期的に機会の平等が達成される様な社会は、元々、初期の人的資本分布がそれほど深刻に不平等でない様な社会のみであるという事である。すでに貧富の格差がかなりの程度に大きくなっている現代日本の場合には、ペシミスティックな結論の方が妥当しそうである。

このペシミズムから抜け出す処方箋は、巧妙な制度設計の技術力に委ねるだけでは限界があり、人々の選好がより連帯主義的に変わるしかない、というのがローマーの結論である。つまり、上述のペシミズムは各家計の親が自分の子供の教育投資しか関心を払わない利己的選好の社会であったところに起因しているという。しかし教育というのは本来、正の外部効果を齎すものであり、周りの子供たちの教育水準が上がることは自分の子供にとっても良い効果を及ぼす可能性が高いものである。各家計の親たちが教育投資のこうした正の外部効果の意義を十分に認識するようになり、その結果、自分の子供への教育投資に関心を払うばかりでなく、社会全ての子ども達への(平均的)教育投資にも十分に強い関心を払うような連帯的選好を持つようになると、完全な「ご都合主義的」均衡の政治の下でも、人的資本分布は長期的には平等化するだろう事が確認されているのである。

 

3.2.ヴァン・パレースの「ベーシック・インカム」論

            ジョン・ローマーの主張する「機会の平等」論は、言わば労働市場に参入する以前の段階における格差を均等化するという理念であり、労働市場に参入後の格差の生成、すなわち帰結上の不平等に関しては主たる関心を払わない概念構成と言える。そこにおいて帰結上の平等化に繋がる様な所得再分配が行われるとすれば、それはその世代の人々の帰結上の不平等を不公正と見做して是正の対象と考えるのではなく、むしろその世代における不平等が後継世代における機会の不平等に繋がる事を考慮しての政策であると解釈できよう。これは、いわば労働市場参入後の格差の場合は、主に個々人の自律的な選択としての労働努力の違いを反映するものであり、それは個人の自己責任の範疇であるという「責任と補償」論的な分配的正義論に基づいた考え方であるとも言える。しかし、こうした自己責任論は、仮に貧富の格差などを放置していたとしても社会が持続可能である限りにおいて正当化し得るとも言えるのであり、現実的には自己責任論を至上主義的に適用する事は社会の持続可能性の基盤を掘り崩すことにも繋がりかねないという問題を孕む。

              この点は、ベーシック・ニーズの問題を考えると明らかとなろう。ベーシック・ニーズとは、当該社会で生活する上で必要不可欠な財・サービスに関するものであり、衣類、飲食料、住居などの財、あるいは健康を維持するために不可欠な保健医療サービスへのアクセス、移動に不可欠な交通手段へのアクセス、情報へのアクセス、さらに言えば、社会生活において自律的な人格として当該社会で辱めを受けることなく生きていける為の、すなわち社会的存在としての自尊を維持できる為に不可欠な財・サービスへのアクセス、等々から構成されよう。この最後の項目の存在は、ベーシック・ニーズとは単なる肉体的・生理的な意味での生存可能性を保証する為だけのものではない事を意味する。すなわち、現代社会においては、ある程度の教育水準の達成はベーシック・ニーズを構成する。前近代的社会では文盲の人々が殆どであっても社会は機能していたから、文盲である事は自律的な社会生活上の深刻な障害とはなり得なかった。他方、現代の日本では、文盲である事はまともな社会生活を送る事はできないのみならず、職業選択の機会を著しく狭めてしまい、ひいては肉体的生理的生存の基盤すら失いかねない。このように、何をどの程度に保有できる事がベーシック・ニーズを満たすと言えるかは、当該社会における経済の発展段階に応じて変わってくるものであるが、ともあれ、そのようなものは存在する。

              そのようなものとしてのベーシック・ニーズに誰もがアクセスできて、社会的存在としての自尊を以って諸個人が生存できる為の最低限の基盤を保障する事は、国民国家の不可欠の役割であると位置づける事ができよう。この議論は、いわゆる近代国家の機能を「最小国家」の水準に抑えるべきと解釈するリバータリアン的規範的立場であったとしても、受け入れざるを得ない筈である。なぜならば、2.1節でも論じたように、資本主義的経済システムは全ての個人の生存可能性を自動的に保証するような機能をそもそも原理的には有していないからである。すなわち、当該社会の構成員の生存可能性を保証するような経済的資源配分の実現に関して、市場は失敗する。「市場の失敗」問題に直面して、その解決をもたらす補完的機能を果たすものとして近代国民国家を位置づける主流派・新古典派の立場からすれば、ベーシック・ニーズの保証も「市場の失敗」問題として、国家の役割として位置づけざるを得ない筈である。このベーシック・ニーズの保証の遂行政策として位置づけられるのがいわゆるベーシック・インカム政策である。

              ベーシック・インカムとは、通常の最低所得保証制度に対して「就労に基づく給付」の条件づけを要請するワークフェアとは対極的に、無条件給付を特徴とする。すなわち、それは当該社会の政府によって全ての社会の構成員に賦与される所得であり、(1)その個人が労働市場に参入し就労する意欲を持っているか否かに関わり無く、(2)その個人が富者であるか貧困者であるかに関わり無く、(3)その個人が誰と住んでいるかに関わり無く、そして、(4)その個人の居住地域がいずれかであるかに関わり無く、支給されるものである。これは日本の生活保護制度などの最低所得保証制度と、以下の点で異なる。最低所得保証制度における福祉受給者は、(1)疾病や何らかのハンディキャップのためにそもそも就労することが出来ないか、もしくは就労する意思を持っていながら失業などのため、現在就労していない旨を証明しなければならない(ワークテストの存在)(2)国からの受給に値するほどに、十分な所得の源泉を持たない旨を証明しなければならない(資力調査の存在)(3)受給に値するとしてもどの程度の受給に値するかは、その個人の属する家計構成、及び、その個人の居住地域の特性に依存して決定される。

ベーシック・インカム政策の強化を通じて、市場経済システムの下での実質的な機会の平等の可能性を探究するのがAM派の一人であるヴァン・パレース(Van Parijs (1995))である。ヴァン・パレースによれば、「公正な社会(just society)」とは自由な社会―

―個人的自由が保証された社会――である。[12] そこで言われる「自由な社会」の理念とは、個人的主権の下に、個人がしたいと欲するであろうどんな事であれ、行う自由(the freedom to do whatever one might want to do)をもつことである。その種の個人的自由は、いかなる他の主体が行使する強制や脅迫・暴力による個人的行為への制約からの自由としての、個人の権利――自己所有権――の確立を含意するのみならず、実質的自由(real freedom)をも視野に入れられる。実質的自由とは、個人の権利の確立・確保に言及するのみならず、個人が為したいと欲するであろう事を実際にどの程度、為す事が出来るか、為したい事の実現手段をどの程度、確保しているかにも関わる。ある個人の実質的自由は、その個人に開かれている選択可能な人生の機会集合として定式化されよう。それは質的にはその集合が定義される空間によって規定され、量的にはその集合の「大きさ」によって規定される。ヴァン・パレースに拠れば、このような意味での実質的自由を全ての個人に出来るだけ多く与える事(real freedom for all)こそが、自由な社会の条件である。それは、さらに辞書的に優先順序をもって要請される以下の3条件によって規定される。すなわち、第一に、強制や暴力などによる侵害なしに諸権利がうまく執行されるような構造が存在すること(権利に関する安全保障の確立)であり、第二に、第一の条件の制約下で、個人の自己所有権が確立・確保されていること[13]であり、第三に、以上の2条件の制約の下で、各個人は己が為したいと欲するであろうどんな事であれ、それを為すための最大限可能な機会が保証されていることである。

              この第三の条件における「最大限可能な機会の保証」は、保証される機会集合に関して最も不遇な個人のそれが最大化されるように、機会集合のマキシミン配分として定式化される。[14] ところで、一般に個々人の機会集合は当該社会に存在する個々人の才能や技能の程度、並びに当該社会の経済力(技術的生産力)や資源配分方法に依存することになる。このうち前二者は社会にとっての外生変数であるが、最後の「資源配分方法」は社会の決定変数である。したがって、実質的自由な社会の第三の条件は、適切な資源配分メカニズムの設計を要請するものとして解釈される。同様に、ベーシック・インカム制度とは、「いかなる市場活動を開始するにも有用な活動の実質的機会」を機会集合のマキシミン配分として賦与する為の経済的資源配分メカニズムとして定義されるのである。

              以上の、辞書式順序的に適用される3つの基準のうち、経済的資源配分の性質に関わる基準は自己所有権の保証と「最大限可能な機会の保証」の2点である。そのうち、自己所有権の保証とは、ここでは職業選択の自由と労働市場の存在として考えておけば十分である。そこで第三の条件と資源配分のパレート効率性の基準の2つを満たすような資源配分メカニズムの可能性を探る事が経済理論の課題となる。この点に関する詳細な議論については吉原(2009a)において詳細に展開されている。より現実的なセカンド・ベストの資源配分メカニズムとしては、既存の市場経済システムの前提の下でいわゆる「負の所得税」制度を導入する事であろう。これは事前的所得がゼロの個人であっても事後的所得が正の値になり、事前的所得の値に対して事後的所得の値が単調()増加するような累進的所得税ルールとして定義される。吉原(2009a)でも論じているように、いわゆる最適課税論のフレームワークの下では、そのような「負の所得税」ルールであって、個人の参加制約誘因両立性を満たすようなものが存在する事を確認できる。さらに個人の参加制約と誘因両立性を満たす「負の所得税」ルールのクラスの中で、結果的に実現される事後的所得再分配がパレート効率性を満たし、またそこでは事前的所得ゼロとなるような最も不遇な個人の事後的所得が最大化されるような累進所得税ルールが存在する事も確認できる。そのような税ルールを実行可能なセカンド・ベストのベーシック・インカム・ルール(FSBI)として位置づけ可能であろう。

              このFSBIの下では、ベーシック・インカムに関してなされる典型的な批判とも言える「働くインセンティヴの欠如」という言及も当てはまらない。なぜならばFSBIの下では、諸個人はその制度に自発的に参加し(参加制約)、かつ自分の持つ労働能力を正直に行使する事がサボタージュするよりもより利益に適っている事(誘因両立性)を了解できるし、その事後的な所得再分配によって帰結する実行可能配分はパレート効率的となるからである。また、最低所得保証の仕組みとしては、しばしば言及されるのは最低賃金率の引き上げ政策であるが、この政策は原理的には均衡価格からの変更を齎す事によって市場の効率的資源配分機能を歪める可能性があり、長期的にはむしろ望ましくない可能性が高い。それよりはFSBI等の下での所得再分配によって、低賃金所得の家計であっても事後的にはベーシック・ニーズにアクセスできる所得水準が保証されるようにする方が望ましいであろう。

              こうした所得再分配制度の強化は、所詮は資本主義的経済システムの枠内での福祉国家制度の強化に過ぎない、という批判がありうるであろう。確かにFSBIの遂行は、現代の福祉国家システムはすでに何らかの所得再分配の機能を果たしてきているという事からも現存の私的所有制度を脅かすような試みとは考えられにくい。そもそも「負の所得税」構想自体はネオ・リベラリズムに近い立場の人々も含め、多くの主流派の経済学者からも是認されているものであり、その事からもそれが体制変革的な機能を齎すものではないという認識がある事が了解できよう。また、FSBIが事後的に実現する経済的資源配分において、事前的所得がゼロとなるような最も不遇な人々の状態がどの程度に改善されうるかは、FSBIの誘因両立性機能やパレート効率性機能より、人々の有する選好のあり方に依存したものとなる。つまり、人々の選好のあり方次第では、最も不遇な諸個人の事後的所得は正の値になるとしてもその値は微々たるものでしかないという可能性も排除できない。しかしながら、そうした選好のあり方は、制度の導入とその試行の経験を通じて、人々が所得再分配的な社会の居心地の良さを学ぶにつれて、変わり得る事が期待できよう。いわば、制度の実行それ自体が、経験を通じて人々の意識をより社会的連帯志向的に変えていくことが期待されるし、それは「自己貢献に対する成果・市場の報酬」が他者へと再分配される可能性に対してより寛容的な選好を形成していく事によって、最も不遇な人々へのより高い水準での事後的所得の賦与を許容するような資源配分を可能にしていく事が期待されるのである。資本主義的な私的所有制度の止揚が課題となるのは、こうした経験の蓄積プロセスの先の話となろう。

 

参照文献

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[1] 本稿は、2011108日に開催された比較経済体制学会第10回秋季大会のパネル『アナルティカル・マルクシズムの可能性:現代資本主義分析ならびに将来社会の構想』において報告された。当パネルにて座長を努められた黒坂真氏(大阪経済大学)、本報告の討論者を務めていただいた守健二氏(東北大学)、当パネルの報告者として協力いただいた松井暁氏(専修大学)、当パネルの全出席者の方々、並びに当大会の事務局の方々に感謝申し上げる。

[2] 欧米諸国では、その他に移民の問題がSocial Exclusionの主要な問題である。

[3] 以上の議論の詳細は、吉原(2008)の第3章、吉原(2009)及び吉原(2010)を参照の事。

[4] 以上の議論の詳細は、吉原(2008)の第4章、及び吉原(2010)を参照の事。

[5] GCETに関しては、近年でもその解釈を巡って国内外で活発な論争が行われている。例えばMatsuo (2009), Fujimoto  and Opocher (2010), Veneziani and Yoshihara (2010), Yoshihara and Veneziani (2010)などを参照の事。

[6] 吉原(2008)の第5章を参照の事。

[7] それについては、吉原(2008)の第55.8節を参照の事。

[8] 「責任と補償」論に関しては、例えば、鈴村・吉原(2000)を参照の事。

[9] この点で、新自由主義的な経済政策を支持する論者がしばしば言及する、「『結果の平等』は望ましくないが、『機会の平等』は保証すべきである」という論脈で語られる「機会の平等」と、ここでの「(実質的)機会の平等」論とは規範的に全く異なった立場にある事に注意されたい。「均一な競技場の保証原理」としての後者の議論は再分配的政策を一般に要請するのに対して、前者の議論は「-差別原理」としての「機会の平等」に過ぎず、それは必ずしも再分配政策を含意するものではない。「非-差別原理」とは競技場に入って競技に参加する意思ある者を出身階層・エスニシティ・ジェンダー等の違いを理由に強制的に排除する事を禁じはするが、競技の参加者間でのスタート・ラインの格差には無関心な立場である。他方、「均一な競技場の保証原理」は、「非-差別原理」を満たす事も前提条件として要請するものである。

[10] すなわち、初等・中等教育段階の学力か、高等教育の学力か、という話である。

[11] すなわち分布の変動係数がゼロとなるケースであり、そのとき、全員の人的資本水準は人的資本水準の平均値に収束している。

[12] Van Parijs, P. (1995Chapter 1)

[13] ここでヴァン・パレースの主張する「自己所有権」とは、ジョン・ロックやロバート・ノージックの規範理論体系における「自己所有権」概念とは異なり、ジョン・ロールズの「正義の第一原理」[Rawls (1971)]が規定する内容に近いものである。例えば、Van Parijs (1995; p. 235; NOTES Chapter 1, 8.)を参照せよ。

[14] ヴァン・パレース[van Parijs (1995)]の定式では、厳密には機会集合のレキシミン配分であるが、ここではレキシミンとマキシミンの違いは無視して構わない。