吉原直毅『労働搾取の厚生理論序説』(岩波書店, 20082月刊行予定)について

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所 20081

 

              OECD(経済協力開発機構)2006年報告によれば、1984年の段階で7.3%であった日本の相対貧困率(国民の中位所得に比して50%以下の層の割合)2005年の段階では15.3%となり、OECD諸国内で5位、先進諸国内では米国についで2位であった。その理由として、人口高齢化が一因となっている事を指摘しつつも、主な要因は派遣労働等に典型される、非正規労働割合の拡大に起因する市場の二極化の拡大にあると、報告は指摘している。他方で、グッドウィルによる労働者派遣法令違反問題が、現在、世相を賑わしているが、いわゆる「ワーキング・プア」等の貧困化問題の温床として、「日雇い派遣」における「ピンハネ」の実態についてのレポートも少なくない。しかし、カール・マルクスの『資本論』を読めば、資本主義経済においては、生産活動における労働コスト低減の目的で派遣労働がしばしば利用され、かつ派遣斡旋者によるピンハネ等の中間搾取の仕組みが容易に作り出される傾向がある事を、学び取れるだろう。

              他方で、現代の標準的な新古典派経済学は、市場経済に関する原理的特性を、所謂「厚生経済学の基本定理」に代表される様に、配分効率性の観点から主に理解してきた。様々な「市場の失敗」問題に言及する際にも、「失敗」の中身は主に配分効率性に関わる事であった。しかし、マルクスの『資本論』より伺われる様に、現代でも尚、格差拡大や貧困化という現象を生み出してしまう、そういう特性も市場経済は孕んでいるかもしれない。拙著『労働搾取の厚生理論序説』は、市場経済のこうした側面における原理的特性を、マルクスが提示した「労働搾取」概念を媒介に、現代的な新古典派ミクロ経済理論の枠組みと手法を用いて分析する事を意図する、筆者の現在進行中の研究プロジェクトに関する中間報告である。「中間報告」とあえて強調するのは、当初の予想を超えて、このプロジェクトに関連する新たに解明すべき課題を現在、発見進行中であるが故に、いまだ当初の研究課題そのものを本格的に取り組むには到っていない、という自覚故である。

              本書は、基本的には「数理的マルクス経済学」における研究書という性格を持つが、同時に本書を中間報告とする筆者の上記研究プロジェクトの性格上、それは「市場経済に関する新たな厚生理論」という意味で、広い意味での厚生経済学における研究書という性格を持っている。また、本書の主要部分(2, 3, 4, 5)は、数理的マルクス経済学における、60年代から現在に到る搾取理論の主要な議論についての大学院レベルのテキストブックとしても利用可能になる事を意図している。その特徴は、この分野の従来における典型的な数学的技法であった線形代数による定式化と代数的分析を極力排除して、現代の大学院初級レベルのミクロ経済学でより標準的な技法となっている集合論的一般均衡モデルを用い、かつ幾何的解析を可能な限り導入しながら、マルクスの議論を現代経済学の枠組みにおいて翻訳し直す事に心がけている点である。従って本書の上記主要部分については大学院でミクロ経済理論のコースワーク履修済みの大学院生や経済学徒であれば、所謂マルクス経済学の素養の有る無しに関らず、読みこなす事が出来るだろう。

             

構成

1章:今、なぜ労働搾取理論なのか?

2章:マルクス的一般均衡モデルと均衡解概念

3章:レオンチェフ経済体系におけるマルクスの基本定理

4章:一般的凸錘生産経済におけるマルクスの基本定理

5章:搾取と階級の一般理論

6章:搾取・富・労働規律の対応理論

7章:労働搾取理論の公理的アプローチに向けて