マルクス主義と規範理論 ()

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2004323日初稿

2004年4月16日改訂

 

 

1.なぜマルクス主義は規範理論を探求すべきなのか?

ここ最近、何度かマルクス主義関係者のワーク・ショップに参加する機会があった。いずれも一橋大学経済研究所内での小規模な研究会であった。一つは、今年が亡き高須賀義博先生の13回忌という事で、「高須賀先生を偲ぶ会」というものであり、高須賀先生の関係者が相当数集まった会であり、九州大学大学院経済学研究科の磯谷さんが高須賀ゼミ生を代表する形で、高須賀経済学についての報告を、そして当研究所の渡辺努さんが、現代日本のデフレ問題を解明する上での高須賀インフレーション論の現代的意義についての報告をされた。高須賀先生は、私が一橋大学大学院の修士課程時代に、数理マルクス経済学の分野で修士論文を書く際に、副指導教官という形で指導の労をお願いしていた縁もあり、またその後も、私の一橋での博士学位論文執筆の際の副指導教官としてお世話になり続けた都留康先生を始め、高須賀ゼミナールのOBの方々とは暖かい交流の機会を戴いてきている。そうした方々が多く一堂に面した懐かしい会ではあったが、一方で高須賀先生亡き後、現在に至るまで衰退の一歩を辿る我が国マルクス経済学の今後の展望や可能性を探るという観点に関しては、残念ながら前向きな発言や議論というものはほとんど見られなかった。発言や議論の多くは、高須賀先生や高須賀経済学を懐かしむ、という後ろ向きのものであり、高須賀経済学を現時点から鑑みて、そのマルクス経済理論としての位置づけなり限界なりを厳しく指摘しつつ、将来的な批判的継承の展望を探るような議論の流れにはならなかったと言える。

私自身は、つい2年ほど前に『経済研究』誌に「マルクス派搾取理論再検証」という論文を公刊しており、その後もウェブ上で久留米大学の松尾匡さんなどとアナリティカル・マルクシズムについての論争を行うなど、マルクス経済学についての一定の発言を行い続けてきている。そうした経緯もあり、また、私自身の関心もあり、「偲ぶ会」ではむしろやや挑発気味に「マルクス主義の今後の可能性」という観点からの発言をさせて戴いた。そこでの発言の趣旨は、「マルクス主義的な問題関心や社会科学的観点を人類の生きた知的遺産として将来に継承させていくためには、マルクス主義者は規範理論にもっとコミットするべきである」というものである。

ポジティブ・セオリーという観点から見れば、マルクス理論のもつヴィジョンの多くは、レギュラシオン理論やラディカル派経済学は言うに及ばず、例えば最近は経済学の主流の「新古典派経済理論」においてさえ、それなりに継承・発展されてきたとも言えるし、現在も尚、直接的にマルクスに言及される機会は少ないとしても、もともとはマルクスが関心を持ち、かつ問題提起してきたテーマ、ないしはそれに関連するテーマに取り組んだ研究は一定、存在していると言えよう。上記のような、現代における非マルクス主義的な経済学の展開――とりわけ新古典派経済学における従来の狭いパースペクティブを超えての問題関心と分析枠組みの拡張という継続的・漸進的な傾向――、そして非マルクス主義的な概念や理論的枠組みを屈指しながらの、マルクス的問題提起へのアプローチという傾向を前提すれば、もはやマルクス主義がマルクスの「資本論」体系に拘束されたポジティブ・セオリーの展開を図るのは、より妥当な社会科学の理論的アプローチとして必ずしも有効ではない様にも思われる。我々は新古典派経済学において発展してきた数理論的枠組みや分析のツールを屈指する事で、ある意味、新古典派経済学者と共通の土俵上で、その理論的展開やパースペクティブ、及び分析の方向性においてマルクス主義的な独自性を発揮するべきなのである。その為にも、マルクス主義者は規範理論にコミットする事が必要なのである。

              もっとも、「マルクス主義者は規範理論にもっとコミットするべきである」という私の発言の主旨は、何もマルクス主義者が倫理学・法哲学・経済哲学などの分野にシフトして規範理論研究者になるべきだというものではない。そうではなく、ポジティブ・セオリーのメソッドとしては、新古典派経済学などと共通の土俵に乗って議論しつつ、その事実解明的分析帰結の評価の仕方に関しては、マルクス主義的、左翼的な規範的価値観に立脚した独自性を発揮すべきであるというものである。さらに言えば、こうしたマルクス主義的、左翼的な規範的価値観に整合的な政策的提言を試みる事で、その独自の存在意義を発揮すべきなのである。マルクス主義のアイデンティティとは、既存の資本主義的社会システムを、人類が存続する限りにおいて永久不滅な「自然」的社会経済システムと見なす立場に飽き足らず、現状からの「よりまし」な社会経済システムへの改革の展望を社会科学の理論によって基礎付け・裏付けする事、そしてさらには現状からの代替案となりうる新しい社会経済システムの構想を、理論的裏づけをもって提示する情熱を持ち続ける事、そのスピリッツにあると言えよう。そのスピリッツを論理整合的に言語表現・整理する事によって理論的基礎付けを与える作業こそ、規範理論的役割なのである。

              例えば、資本主義経済システムを労働搾取の再生産システムであると評価し、批判するマルクス主義の論理展開そのものが、ある特定の規範理論を暗黙裡に前提しているといえるのである。つまり、労働者の提供する労働時間よりも労働者が賃金収入を通じて取得する必要労働時間の方が短いという現象がなぜに「搾取」という批判的含意を伴う言語で定義付けられるか、という事から、マルクス主義の搾取理論がロック主義的な労働所有権思想――労働に基づく自己所有権思想――を思想的起源に持つ事、換言すればマルクス主義はロック主義的な労働所有権思想を前提にして資本主義批判理論を展開している事が伺われるのである。この事に無頓着なまま、搾取の存在をもって資本主義の本質的特性としての分配的不公正の証拠であると主張しても、限界生産力説的分配理論を妥当と考えている新古典派経済学者に対しても十分に説得的な、洗練された議論を展開する事は出来ない。「搾取、搾取というけれど、いったい何が悪いの?」という疑問に対して、説得的な返答を出来るための規範理論的基礎付けが、マルクス的労働搾取論にとって必要なのである。

              さらに言えば、マルクスが人類の理想社会における資源配分基準を「能力に応じて働き、必要に応じて取得する」と定式化したことに見られるように、マルクス主義の分配に関する本来の規範的基準はロック主義的な労働所有原理ではなく、「必要原理」である。マルクス以来の伝統で、マルクス主義は「必要原理」を適用できる人類の理想社会を、生産力が無尽蔵に発展した豊かな社会として描き、将来の人類の課題へと棚上げする事で、「必要原理」の規範的含意についての独自の探求をも棚上げしてきたといえる。しかし、現代の福祉国家システムや社会福祉制度をどう評価し位置づけるかという問題を考えても、生産力の無尽蔵な発展を前提する事無くとも適用可能な形での、つまり現代の生産技術水準の下でも実行可能な資源配分に関して言及できる「必要原理」の定式はいかように構成されるべきかという問題は、きわめて今日的な課題なのである。現代的な課題に適用できるような「必要原理」に関する十分に吟味された規範理論的基礎付けが与えられたならば、マルクス主義は現代福祉国家システムや社会福祉制度を巡る評価の問題に関して、より積極的な発言なり提言が出来たであろう。

 

2.マルクス主義が今後、現代的な社会科学の理論として生き残る道

              私見に基づけば、マルクス主義者が今後、社会科学の世界で学問的オーソリティーを維持する形で生き残っていく為には、ある意味、「オールラウンド・プレーヤー」になるしかないであろう。つまり、経済学の分野に関して言えば、マルクス主義の古典に精通しながらも、新古典派経済学のツールを身につけ、新古典派と共通の土俵で政策論争をする力をつける必要があると思われるのである。しかし、オールラウンド・プレーヤーになるというのは、必ずしも経済学ないしは広く社会科学のどの研究分野全てにおいても知識に精通し、発言できなければならない、という意味ではない。そのような要請を満たす事は、現代経済学の広範な研究分野それぞれが高度に専門化・精緻化している状況の下では、スーパー・マンでなければ不可能であろうし、であれば事実上は何にでも口だけは挟む単なる「経済学評論家」になってしまうだけに過ぎないだろう。マルクス主義者は、そのような意味での「経済学評論家」を目指すのではなく、プロフェショナルな経済学研究者ないしは社会科学者を目指すべきであって、その為にも経済学ないしは広く社会科学の多様な研究分野の中で、とにかく一つ、自分の専門分野を設定すべきである。それは、例えば経済学の中で言えば、労働経済、金融経済、公共経済、国際経済、あるいは環境経済や開発経済等々、何でもいいであろう。その上で、自分の専門領域に関しては、主流の新古典派経済学の先端的議論に精通し、それらと共通の土俵で勝負できる事、その上で、新古典派経済学の標準的教科書の体系を超えて、もっと幅広い社会科学的素養に基づくパースペクティブを提示できる事が問われる。それは、もちろんマルクス主義の古典に立脚したパースペクティブであるのみならず、自分の専門領域に関する、経済学の隣接社会科学の議論にも関心を広げ、それらから学習すると同時にそうした隣接社会科学者とも対話することが出来る視野の広さが必要とされよう。広いパースペクティブを持ち合わせることで、新古典派経済学者の多数派にとってある意味、マニュアル化された「経済学者にとっての直観的・常識的な」諸見解に直ちに追随することなく、マルクス主義者としての独自な切り口からの議論を構想できなければならない。

その際には理論研究者であれば、新古典派が使いこなす数理的分析手法を当然ながら、マルクス主義者も使いこなせるようにならなければならない。新古典派の研究者がゲーム理論を屈指して議論して来るならばゲーム理論を用いて対応し、彼らが一般均衡理論を用いて議論してくれば、一般均衡理論を屈指して論争に応じられなければならない。新古典派経済学者が彼らの価値観に基づく社会厚生関数を背景に政策論争を展開するならば、マルクス主義者はマルクス主義の観点から妥当と思われる社会厚生関数を構想して、政策論争に対応できなければならない。実証研究者においても同様で、新古典派の研究者が使いこなす計量的手法を自らも自由に使いこなし、他の論者の実証結果を導出するプロセスを再現できる力を持たねばならないであろう。このように分析のテクニックを使いこなす上で比較劣位に陥ることなく、その上で、新古典派経済学の枠組みからは出てこないパースペクティブやインサイトに基づく斬新な議論を提示できるならば、現代社会科学の発展の下であっても、マルクス主義としての学問的存在意義を確保する事が出来よう。

私が言うオールラウンド・プレーヤーとは、以上のような性格のものである。すでに明らかなように、こうしたオールラウンド・プレーヤーとして自己を陶冶することは容易なことではない。「新古典派経済学とは違って、マルクス経済学ならば数学を勉強する必要も、英語で論文を書く必要もないから楽でよい」というような、へタレな姿勢でマルクス経済学を選択するようであるならば、今後は学問的オーソリティーを維持する形で生存し続ける事は出来ないであろう。

 

3.マルクス主義は「厚生経済学の基本定理」並びにパレート効率性基準をどう評価するべきか?
             
上述のような意味でのオールラウンド・プレーヤーとしての今後のマルクス主義者は、新古典派経済学の理論体系が提示する市場観に対して、従来のマルクス主義や左翼ケインジアンたちとは異なった見解を提示できなければならないだろう。新古典派経済学に立脚する経済学者であるならばまずは誰もが共有する事の出来る、経済的資源配分評価に関する数少ない規範的基準がいわゆる「パレート効率性基準」である。そしてこのパレート効率性基準に基づいて市場経済の資源配分機能の特性を評価した「厚生経済学の基本定理」こそが、新古典派経済学者が一般的に共有する市場観であると言ってよいであろう。

「厚生経済学の基本定理」に表れる新古典派経済学の市場観は、マルクス主義やケインジアンなどの経済学の他学派の市場観とは著しく対照的のみならず、社会思想・社会学・政治学など他の社会科学においてしばしば散見される市場観のそれとも非常に異なったものである。新古典派経済学以外の多くの社会科学の理論家たちが、しばしば、「市場がいかに暴力的で社会的弱者を淘汰するか」という観点で、例えば現代の「新自由主義的経済政策・構造改革」を批判するのに対して、「そもそも厚生経済学の第一命題によれば、市場経済はその競争均衡配分がパレート最適性を保証することによって、誰をもこれ以上改善できないところまで改善させる効果を持っている」という主旨で市場に対する基本的な信頼観から出発しつつ、実存する市場経済システムの「不完全性」に起因する様々な「市場の失敗」問題に如何に対処すべきかという問題に関する評価の違いによって、「新自由主義的経済政策・構造改革」などに対しても是々非々で対応するのが新古典派経済学者であろう。

新古典派の「厚生経済学の基本定理」に代表される市場観を承知する海外のポスト・ケインジアンやマルクス派は、新古典派のもっとも基礎的な一般均衡理論が前提する、時間軸のない経済モデルでの完全競争市場という前提そのものの非現実性を指摘することで、こうした定理に基づく市場観の受け入れを強く拒否してきた。そして対抗的に、「本質的に不完全」で、「不安定な景気変動の下で非自発的失業が恒常的に存在」する、「非効率的な経済システム」という、代替的市場観を提示してきたのである。しかしこうした対抗的な市場観を代替的に提示するだけの外在的批判に終始するだけであれば、ポスト・ケインジアンやマルクス派の今後の生き残る可能性はもはやなくなるであろう。実際、1970年代初頭の、ジョーン・ロビンソン等の新古典派経済学批判を契機に提示された、上記のような代替的市場観に立脚したポスト・ケインジアンやネオ・マルクス派ではあったが、結局、そうした市場観に立脚する新しい代替的経済理論の体系を構築する事には成功しなかったと言えよう。ポスト・ケインジアンは、ルイジ・パシネッティに代表されるネオ・リカーディアンの潮流とポール・デビットソンやポール・ミンスキーに代表される貨幣的経済理論の潮流とがあったが、前者がいつの間にか「進化経済学」に吸収・変貌して行ったのに対し、後者は80年代半ばに流行した、新古典派の「情報の経済学」や「不完全市場理論」に立脚するニュー・ケインジアンの理論枠組みに吸収された感がある。他方、アンチ新古典派の立場のネオ・マルクス派は、80年代〜90年代半ばまでのレギュラシオン学派の流行を境に、次第に尻つぼみし、ポスト・ボワイエ世代のレギュラシオニストたちは、内生的成長理論の理論枠組みに吸収された感があるのである。

以上の総括からも、マルクス主義のアンチ新古典派的な路線による生き残り戦略は、今後も決して有効な戦略足りえないであろう事が伺われる。マルクス主義者は新古典派経済学を本格的に学び、その学派が開発してきたツールを使いこなしながら、新古典派的な市場観に対抗しようと欲するならば、内在的な批判理論を提示できなければならないだろう。しかしこうした戦略は、マルクス主義に忠誠を誓いたい論者にとっては、諸刃の剣であろう。彼にとっては、新古典派を内在的に批判するために新古典派経済学を本格的に勉強するうちに、むしろ新古典派の精緻な論理構造に絡め捉われてしまいかねないリスクを感ずる事であろう。こうしたリスクを避けたい忠誠的マルクス主義者は、そもそも新古典派と同じ土俵に乗る事自体を拒否し、経済理論の世界から足を洗うなり、距離を置こうと思うかもしれない。

確かに、マルクス主義的影響の尚、強い世代の左翼的文化の土壌の中で生きてきた人間が、新古典派経済学の市場理論、とりわけ厚生経済学の基本定理を学んでその理屈を理解したときの目から鱗が落ちるような感覚は、私自身、よく理解できるものである。私自身、かつて大学院でミクロ経済学を本格的に勉強するようになり、厚生経済学の基本定理のその否定しがたい、見事なまでの頑健さに魅了されるとともに、市場を本質的に不完全で不安定な景気変動の下で失業を伴う非効率的な経済システムと把握する伝統的なマルクス主義やポスト・ケインジアンの市場観との相克を自分自身の中でどう整理するかという課題に直面せざるを得なかったのである。上述のように、新古典派の「厚生経済学の基本定理」に代表される「予定調和的」市場観を、当時のポスト・ケインジアンやマルクス派は、基本的には外在的批判を展開するのみであったのである。

しかし、あくまで資本主義経済の「現実」を分析する議論としてではなく、市場の持つ資源配分機能としての原理的特性を明らかにするという主旨で一般均衡理論を解釈する限り、完全競争市場という想定も、「厚生経済学の基本定理」に示される市場の資源配分機能の原理的特徴に関する分析結果も、有意味なものとして受け入れざるを得ないものに私には思えた。そして実際の市場経済は単純な完全競争市場の想定とは違って、様々な不完全性や市場の失敗現象があることは新古典派経済学自体が十分に承知し、かつ具体的にそれらの問題の事実解明的分析と、その療法の開発に努めてきているのである。ただ単に市場の不完全性を言葉の上だけで批判し究極的には市場経済を否定するだけの結論に行き着く議論と、具体的に市場の不完全性の分析とその対処法の可能性を論及してきている議論と、いずれが社会改革ないしは改良の実践的課題に直面した際に有効であるかは明らかであるように思えたわけである。

更に、マルクス主義の資本主義認識にとって本質的なマルクスの労働搾取論に関しては、「厚生経済学の基本定理」などが論じる資源配分のパレート効率性の議論とは論理的に互いに独立でありかつ両立可能な、「資源配分の公正性」に関わる議論として位置づけなおす事が可能であった。私自身は、置塩信雄や森嶋通夫の提示した「マルクスの基本定理」や、ジョン・E・ローマーの提示した「搾取と階級の一般理論」などの検討を通じて、新古典派的ミクロ経済理論の方法論に立脚しながら、マルクス的な資本主義的経済システムの認識のエッセンスを維持し、「厚生経済学の基本定理」に代表される新古典派的な市場認識と両立させる可能性を見出してきたわけである。つまり市場の資源配分機能の原理的特徴としてのパレート効率性の達成という見解を共有しつつ、様々な「市場の失敗」問題や、市場がそれ自身だけでは原理的には解決し得ない「資源配分の非公正性」問題に関しては、マルクス主義とも両立的な左翼的価値観に立脚した社会厚生関数の提示なり、さらに具体的な政策提言なりすべきである、というのが私自身の立脚する従来の見解である。

しかし最近、私は原理的特性という認識上の制約つきであれ、市場の資源配分機能をパレート効率性の達成として理解する事を通じて到達しうる以下のような見解、つまり効率性という観点から評価する限りにおいて、もし市場をより「完全」化すべく整備することが出来るならば、それが本来持っている機能を信頼して委ねるべきであり、問題視すべきはもっぱら分配的正義の面でのパフォーマンスである、という見解に疑問を抱きつつある。それは市場が、仮に完全競争市場の条件を満たしているとしても、尚、それがもたらす経済的効率性の実現という性質と、「社会的厚生」の最大化の実現という性質とは、従来の新古典派経済学が暗黙的に仮定していた程には一対一に対応しないと思われるからである。

もう少し具体的に言えば、完全競争市場がもたらす経済的資源配分の効率性は、個々人の私的財消費から得る満足という意味での社会的厚生を確かに最大化すると言える。しかし人々がその人生を通じて彼の厚生を高める要因は、経済的な私的財消費によって享受する満足だけではない。人々は、良き家族関係、友人関係、隣人関係の存在によってしばしば自らの人生に幸福を感ずる事に見られるように、他者とのよき社会関係・コミュニケーションを形成する事を通じて豊かな良き生を享受しているという側面があり、また、新鮮できれいな空気や水、さらには新鮮な食生活にどの程度恵まれているかという点が、個人の人生評価に大きく影響する事からも見出されるように、豊かな自然環境に囲まれる中で地球に生息する生物として健康な生活を維持する事を通じても、豊かな良き生を享受していると言えるのである。社会的厚生の達成水準を規定するこうした非市場経済的社会生活の諸側面が、経済的資源配分がより完全競争的な市場に委ねられる事を通じて、果たしてより改善される方向に進むか、あるいは逆に市場がもたらすより効率的な私的財消費の満足の達成とは代替関係にあるのかは、一概には明らかではないように思われる。少なくとも「厚生経済学の基本定理」が主張するような、完全競争市場を通じた経済的資源配分による社会的厚生の最大化という議論における「社会的厚生」の規定項目には、私的財消費による満足度は構成要素として入っていても、上記のような非市場経済的社会生活の諸側面を反映する項目も含むものであると主張する事は出来ないであろう。

こうした議論に対しては、伝統的な経済学の方法論――「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」――に基づく以下のような反論がありえるだろう。確かに「厚生経済学の基本定理」が前提する社会的厚生概念には、上記のような人々の営む社会生活の非市場経済的側面は反映されていないかもしれない。しかし、新古典派経済学、とりわけ一般均衡理論の課題は、市場の経済的資源配分メカニズムとしてのパフォーマンスの研究であり、人々の享受する社会的厚生といっても、市場の経済的資源配分機能のパフォーマンスを評価する観点のみからのものに焦点を当てているといってよい。そのような課題を前提する限りでの「人々の享受する社会的厚生」である限り、その内容は私的財消費の満足の達成度を見ることで十分なのである。人々の社会生活の非市場経済的側面に関する社会的厚生の問題は市場理論である一般均衡理論の課題ではなく、例えば社会学・社会理論などの研究課題であり、経済学における市場理論の展開においては「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」ものとして捨象されていると考えるべきである、と。

上記のような方法論的反論――それは、研究対象に関して当面の分析課題に関わる本質的諸要因・諸要素にのみ焦点を当てることで、他の諸要因は捨象して出来る限り分析対象のモデルを単純化することで、明快な研究帰結を導き出すべしという科学的方法論に立脚しているとも言える――は、それ故にこそ、十分に説得力を持つように思われる。しかし問題は、人間の営む社会生活を市場経済的生産・消費生活と非市場的社会生活とにスパッときれいに分離して、後者を「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」的暗黙的設定の下に捨象し、前者に焦点を当てるという方法論がそもそも妥当性を持つかという点にある。市場経済的生産・消費世界のパフォーマンスが、何らかの無視し得ない外部効果を、非市場的社会生活の領域に与える事は決してない、と異論の余地なく前提しえる限りにおいて、その方法論は妥当であると言える。しかしこうした前提の仕方は少なくとも現代の市場経済を見る限り、もはや妥当性を持たないと思われるのである。

例えば、地球温暖化問題に代表されるようなグローバルな自然環境悪化の問題がある。人間の産業活動がその「結合生産物」として何らかの自然環境悪化要因をも生み出しているという特性は、アダム・スミスの時代から原理的には存在していたといえよう。しかしスミスの時代であれば、そうした自然環境悪化の「結合生産」は人間の厚生という観点からはまだ無視しえる程度のものであるとも言えたのであり、その限りで市場的経済世界の領域と非市場的社会生活の領域をきれいに分離して、前者を経済学、とりわけ厚生経済学の課題として捉える方法論は妥当性を有していたかもしれない。しかし現代では、自然環境悪化という「結合生産物」は、人間の社会生活上の厚生に無視し得ない効果を及ぼしていると言わざるを得ないであろう。

かくして「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」的方法論によって、完全競争市場の想定の下、人々の経済的消費生活側面のみで評価した社会的厚生に関する、市場経済のパフォーマンスについての原理的特性を抽出する事は、市場に関する認識上のミス・リーディングをもたらすだけである。つまり、現実の市場経済は不完全であるから色々失敗もあるが、市場の制度環境の整備次第でそれがより完全競争的な条件を備えれば、それは人々の社会的厚生に正の効果を及ぼすだろうという見方自体がミス・リーディングに成り得るということだ。それは人々の経済的消費生活の享受から得る満足という面での社会的厚生の改善をもたらすであろうが、非市場的社会生活の領域での人々の社会的厚生はむしろ悪化している可能性が存在するからである。

上述したようなグローバルな自然環境悪化の問題は、いわゆる外部負経済の存在ゆえに、グローバルな自然環境悪化問題の伴う市場経済の下での資源配分が一般にパレート効率性を満たさないだろう事は容易に推論されるだろう。この結論は、厚生経済学の基本定理それ自体とは全く矛盾しない、互いに両立可能な帰結である。そして、「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」的方法論によって、完全競争市場の想定の下、人々の経済的消費生活側面のみで評価した社会的厚生概念に基づいて、市場経済のパフォーマンスについての原理的特性を抽出する事は、市場に関する認識上のミス・リーディングをもたらすという私の見解には異論を持つ方が多いであろう大抵の新古典派経済学者たちも、自然環境悪化問題の伴う市場経済の下での資源配分が、その外部負経済の存在ゆえに一般にパレート効率性を満たさないだろうという結論に対しては、完全に同意するであろう。

しかしながらグローバルな自然環境悪化の問題などは、個々人の経済活動がそれに及ぼす影響はほとんど無視してよい程度のものだと見なしてよいだろう。完全競争市場モデルが想定する場合と同様に、いわゆる「ラージ・エコノミー」を想定すれば、個々の企業もその生産規模は市場全体から見ればその影響力はほとんど無視できる程度のものとなる――さもなくば、完全競争市場ではなく、寡占的競争市場の想定を意味しよう――。したがって、ラージ・エコノミーを想定する下では、個々の企業の経済活動がグローバルな自然環境悪化に及ぼす影響についても、やはり個々人と同様にほとんど無視してよい程度のものとして扱える。しかし個々人および個々の企業の集計された経済活動はその規模に対応した大きさの結合生産物としての自然環境悪化要因を生み出していると言えるわけで、このようにして自然環境に無視し得ない影響を及ぼしているのである。

この特性は、いわゆる完全競争市場における価格の決定問題のそれと相似している。完全競争市場においては、個々の消費者も個々の企業もその経済行動によって価格の運動に無視し得ない影響を及ぼす事はない。その意味で、人々の経済活動は外部性を持たない。にもかかわらず、人々の「集計された経済行動」は、集計された需要と集計された供給に影響を及ぼす事を通じて価格の運動に無視し得ない影響を及ぼしているのである。自然環境悪化の結合生産という問題も、この競争市場価格の運動と同様の性質を持っているのである。しかしながら、自然環境悪化という「結合生産物」の水準が人々の集計された市場経済活動に対して可変的である場合には、その「結合生産物」が(負の)公共財的性質を持つ以上、もはやそれは「厚生経済学の基本定理」の前提条件を満たさなくなる。しかしこの事は、対象を単に「市場の失敗」問題のカテゴリーに移行させて済ませるべき課題ではなく、「厚生経済学の基本定理」の前提条件である「外部性のない、完備な完全競争市場」という想定自体の妥当性が問われざるを得ないだろう事を、むしろ意味しよう。なぜならば、元々は「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」的方法論の暗黙的適用によって、その妥当性が保証されていたはずの「外部性のない、完備な完全競争市場」という想定であるが、自然環境悪化の「結合生産」が人々の厚生に無視し得ない効果を持つにいたる現代社会の前提の下では、「他の事情にして等しい(ceteris paribus)」的方法論の適用自体が論理的にもはや不可能であり、したがってその方法論の適用を通じた「外部性のない、完備な完全競争市場」的モデル世界の理論的抽出・想定自体がもはや有り得ない状況となっているからである。

ところで、「厚生経済学の基本定理」のメッセージとして重要なのは、市場を通じた資源配分がパレート効率的であるという点の他に、以下の点がある。つまり、パレート原理に基づき、配分効率性の観点から評価する限り、互いに相異なる所得分配の下での市場均衡配分同士を比較する結果として、いずれかが他方よりも望ましいという関係が成立することはない。つまり、配分効率性の基準で見る限り、あらゆる所得分配下での市場均衡配分に対してその評価は中立的になるのである。それゆえに、従来の新古典派は、所得分配の問題を、純粋に道徳的・規範的課題として経済理論の主要テーマから外す事を正当化できたのである。しかしそのような効率性と分配的正義の問題を分離する方法論自体が再検討を要するのである。

市場を通じた経済取引が社会に生きる人々の非市場的社会生活において負の影響を及ぼしうる下では、配分効率性基準も、非市場的社会生活上の厚生をも含め、社会生活全体を通じて人々が享受できる厚生の極大化という観点で、定義されるべきであろう。そのようにしてパレート原理を定義する限り、所得分配の違いはその下での市場均衡配分の配分効率性に関するパフォーマンスにおける格差を導きうるのである。具体的には、より均等化された所得分配の下での市場均衡配分は、より不均等な所得分配の下での市場均衡配分に対して、パレートの意味でより優位な配分効率的性質を持っているケースが生じえるのである。[1]

 

4.「パレート効率性」の拡張基準としての「仮想的補償原理」に基づく政策勧告の妥当性?

以上のような「厚生経済学の基本定理」そのものへの疑念的認識は置いておいても、「パレート効率性」の達成をもって市場経済の性能に免罪符を与えかねないがごとき新古典派経済学の標準的議論には、依然として以下の留保を呈しておきたい。第一は、「厚生経済学の基本定理」の数学的定理としての理論的頑健性は疑うべくもないものの、実際の経済では市場は「厚生経済学の基本定理」が前提するような完全競争市場の特性を備えているとは言い難く、むしろ「市場の失敗」現象が普遍化しているが故に、何らかの経済政策・社会政策による「市場の失敗」の是正措置は不可欠であると考えられる事。そうした際に、いかなる経済政策・社会政策が社会的厚生改善という観点上望ましいか――ここでは従来の新古典派のアプローチに則り、社会的厚生はもっぱら人々の享受する経済的消費活動から得る満足度に基づいて評価されていると想定している――という社会的意思決定問題において、パレート効率性基準はほとんど有効な機能を果たさないという点である。なぜならば経済政策・社会政策の実行の際に直面する問題は、その多くの場合、実行される政策の内容いかんで、政策実行によって結果的に便益を得る個人とむしろ損失を蒙る個人とに分裂する事態となるからである。こうした政策の実施内容に関する人々の間での利害の対立が存在する場面での社会的意思決定こそが、政策決定が行われる場面の普遍的状況であると言える。そしてこうした個々人間の利害対立の存在する下では、パレート効率性基準はいかなる判断も下し得ないのである。社会改革ないしは改良の実践的立場からすれば、我々はパレート効率性基準の達成に満足すべきではなく、それを超えた基準を提示してこそ、改革への規範理論的裏づけを与える事が出来るのである。――もっとも、ここまでの議論ならば、多くの新古典派経済学者も何の異論の余地なく同意できるだろう。

第二に、では仮に単なるパレート効率性基準を超えて、それの経済政策判断上有効性を発揮しうる自然な拡張としての追加的基準として、いわゆるカルドア、ヒックス、スキトフスキー等、「新厚生経済学」派の「仮想的補償原理」の適用を考えてみよう。[2] 例えば既存の社会状態Xから、ある政策の実行によって社会状態がYに移行した結果、個人1は状態が改善したものの、個人2の状態は悪化したとしよう。その際に、仮に個人1から個人2への何らかの所得移転をするならば、その移転の結果として個人2が元々の社会状態Xのときに享受していた厚生水準を補償することが出来、同時に個人1の厚生水準は、その所得の一部の個人2への移転にも拘らず、元々の社会状態Xのときに比べて尚、高いままであることが見込まれるならば、XからYへの社会状態の移動をもたらす政策は実施すべきであると判断するのである。これは仮想的所得移転による仮想的パレート原理の適用による政策の意思決定に関する判断基準であり、その意味でパレート効率性基準の拡張であるといわれる所以である。

この種の判断基準に基づく政策の意思決定は、それが現実に適用される際には、理論的想定とは違って、実際に政策実施による受益者から損失者への金銭的移転が実行されなければ、十分に説得力ある政策的意思決定になるとは言い難いであろう。また、実際の政治においてもこうした金銭的移転による政策損失者への補償は、新たな改革的政策の実施の際も含め、しばしば行われてきていると言えよう。例えば、WTOに加盟して、貿易自由化政策にコミットする事は、安価な輸入農作物の国内市場への参入によって、都市部の消費者の消費選択の機会を拡大する事を通じて彼らに便益をもたらすと考えられる一方、農村部において多数を占める農業従事者たちの生業に大きな脅威を及ぼし、従来彼らが確保していた国内農産物市場の結果的な喪失による経済的損失をもたらすと言える。こうした際に政府がしばしば取る措置は、農場従事者に所得補償をするなり、政府の予算を投じて米などの一部の農産物を市場価格より高い値段で農家から買い上げる――それは消費者には市場価格で提供される――等の形で、国家予算を通じたある種の移転による補償を行う事である。換言すれば、仮説的補償原理それ自体は、政策受益者から政策損失者への金銭的移転はあくまで仮想上の計算作業に過ぎないものであっても構わないとされているものの、その判断基準を適用して実際に政策勧告なり政策の実施なりを行う際には、政策受益者から政策損失者への金銭的移転が現実的にも実行可能な政治的環境が存在していなければ、いたずらに政策受益者と政策損失者との格差を生み出すだけであろう。そうであるならば、仮説的補償原理に基づく政策判断結果は、公正な政策勧告としての機能を発揮するとは言い難いのである。

ではこうした観点に立って、いわゆる新自由主義的な経済政策、つまり民間企業の経済活動を制約していた様々な規制の撤廃や緩和による市場自由化の促進と、一方での国際競争力ある産業育成や、国際競争力を維持するための国内主要産業における主要大企業への税制上の優遇措置、他方での社会福祉関連の軒並みの予算削減という一連の政策体系がどう評価されるべきかについて考察してみよう。こうした新自由主義的政策は明らかに経済的競争力のある強者を優遇し、その競争力を強化させる為のものであり、他方、一連の規制緩和によって、市場的競争の弱者の境遇はますます市場的競争の嵐をダイレクトに浴びる傾向にあると言えよう。結果として市場を通じた経済的資源配分は、貧富の格差をより大きいものにする傾向を持つことになる。

こうした新自由主義的政策体系を、従来のマルクス主義的左翼が批判する際のお決まりの図式のように、独占資本、大企業を優遇し、庶民を冷遇するブルジョア階級国家的政策であるという主旨で批判するだけでは、もはやあまりにもナイーブ過ぎると言えよう。新古典派経済学者ならば、こうした批判に対しては以下のように答えるであろうから。

つまり、一連の規制緩和は市場の競争メカニズムとしての機能を改善させる事を通じて、経済的資源配分をより効率化させ、社会的厚生の改善に寄与しよう。また、主要大企業や機関投資家などへの減税措置や、海外投資家による国内向け投資を誘引するための優遇措置、他方での大企業でのリストラによる人減らしと同時に雇用者の超過勤務・サービス残業という実態の野放し等、国家予算の配分に関しての社会的弱者向けの福祉関連予算から国内主要産業の競争力を強化するための予算措置へのシフトは、結果的に主要大企業に先導される形で国民経済の生産性と国際競争力を維持・向上させる事によって、長期的には社会的弱者の雇用条件の改善・拡張が見込まれ、福祉関連予算についても長期的にはより絶対額を拡大させる事が見込まれる事から、結果的に彼らも長期的には改善されるであろう、と。これは新自由主義政策によって、主要大企業や機関投資家等の政策受益者の経済活動条件をより有利にする事によって、結果的に国民経済の平均的生産性を向上させる事を通じて、社会的弱者への金銭的補償の拡大可能性をも含めて、長期的には潜在的なパレート改善が見込まれると主張する点で、まさに仮想的補償原理の適用に基づく政策勧告を行っていると言えよう。新古典派経済学者が新自由主義的政策勧告をする際には、まずたいていは「セーフティ・ネット」の確保という言及もなされるが、この「セーフティ・ネット」思想こそ、新自由主義的構造改革によってその境遇が現状よりも悪化する事が予想される社会的弱者に対して、仮想的補償原理のロジックに基づいて、少なくとも彼らの境遇を現状維持に相当すると言い得る程度に、「仮想的補償」を現実的に行使する構想に他ならない、と言えよう。新古典派経済学者はさらにこうも主張しうるかもしれない。こうした一連の政策体系の導入は、短期的には貧富の格差を拡大し、社会的弱者の境遇を悪化させる方向に働くかもしれないが、今こうした新自由主義的政策を採用しない事は、長期的には日本経済の国際競争力を低下させ、国民経済全般の生産性が低下する事を通じて、むしろ社会的弱者の境遇を絶対的により悪化させるであろう、と。

こうした主張に対して、確固たる経済理論に立脚した反論を提示できるマルクス主義的左翼は、今日の日本で果たしてどのくらい存在するであろうか?新自由主義的「改革」によって社会的弱者がいかに悲惨な境遇に陥っているかの現状の実態を告発する形での批判的言説を展開する事は出来るであろうし、ケインズ主義経済学の枠組みに立脚した景気対策についての言論を展開する事も出来るかもしれないが、「長期的にはむしろパレート改善する」という、新古典派経済学を駆使した主張に対して理論的な反論を正面から行い、さらに経済理論に立脚した左翼的代替案までをも提示することは並大抵の事ではないだろう。

左翼にとっての一つの可能な戦略は、経済的強者の市場競争力をいっそう強化するような一連の諸政策の実施自体にはむしろ乗ってしまうという道である。その代わり、国民経済全体としての国際競争力強化の成果、具体的にはパイの拡大の際には、確実にその成果を社会的弱者に最大限優先的に還流するルートを制度的に確保する可能性を探る事である。これは社会的にもっとも不遇な立場の者たちの境遇を改善できる限りにおいて、経済的不平等の拡大を承認するという、ジョン・ロールズの「格差原理」テストを通じた政策勧告を探る道であると言う事も出来よう。新古典派経済学の「仮想的補償原理」を駆使した新自由主義的主張であれば、「長期的にはむしろパレート改善する」状態の達成のみを目的とするに過ぎない。つまり、社会的弱者に対しては、少なくとも現状の境遇を長期的には取り戻すまでのセーフティ・ネット的補償が為されるであろうが、それ以上を要請するものでは必ずしもない。相対的な所得格差は現状よりも拡大したままであってもOKとなる。他方、ロールズの「格差原理」テストを駆使するリベラル左翼は、長期的には社会的弱者の境遇が可能な限り最大限改善されるまでの政策を要請するのであり、その見込みと整合的である限りにおいて、強者への優遇的措置を許容するのである。

しかし上記のような左翼的戦略にせよ、「仮想的補償原理」に理論的には立脚して実際的にも社会的弱者への原状回復の為のセーフティ・ネット的措置を試みる新古典派経済学的戦略にせよ、現代の経済環境の下ではもはや実行可能な戦略である見込みは少ないように思われる。なぜならば、資本市場が国際化した現代においては、そして主要大企業が多国籍企業化している現代日本においては、機関投資家や主要大企業にとって、日本という国民経済が魅力的な投資先でなくなれば直ちに、海外のより有利な投資先へと資本逃避を図るであろうから。多国籍企業や国際的な機関投資家にとっていかに魅力ある投資先であるかを巡って各々の国民経済間での国際競争が行われている現代世界経済の下では、多国籍企業や国際機関投資家らの「買い手市場」という構造があるが故に、彼らの境遇を悪化させるなり、より大きな租税的負担を要請する等のような国民国家による国内的経済政策・社会政策の実施は、結果的には資本逃避によって、その国民経済の国際競争力の低下をもたらすものと判断されるであろう。であれば、機関投資家を魅了し、主要大企業を優遇する事で、国民経済の生産性を向上させ、そうして得た全体としてのパイの維持・拡大を、社会的弱者へのセーフティ・ネット的補償に回すことによって、社会全体の長期的改善を目指す「仮想的補償原理」に立脚した主張は、文字通り「仮想的な補償」の提示に留まってしまう見込みが高いのである。長期的にもたらされる社会状態は、より完全競争的な世界市場の資源配分メカニズムの作用によって、より漸次パレート効率的な状態が実現されうるであろう。但し、それは国際的機関投資家や多国籍企業群により経済的収益が集中した形でのパレート効率性の達成であり、国民経済内部だけに限ってみた場合、社会的弱者の境遇は劣悪なままであり、かつ市場競争力ある強者は当該国民経済よりもより魅力的な投資先が国際市場で見出されるや否や、そちらに移動していくであろうから、「地域経済社会の空洞化」問題などが一層顕著になろう。[3] こうして、国民経済内部に限ってみれば、むしろパレート改悪になる可能性すらありえよう。[4]

このような可能性を考慮すれば、新自由主義的政策体系の導入は、少なくとも日本に関しては、長期的にも社会的厚生の改善という方向に繋がらない可能性も予想されるのである。少なくとも、国際資本移動に関する国際協調的な規制の枠組みがなく、各国民国家は国民国家単位での政策実施によって、国際的機関投資家や多国籍企業の投資誘致競争を勝ち抜いていかなければならないという「ゲームのルール」が存在する下ではそうであろう。「仮想的補償原理」のテストによる政策勧告という理論的シナリオが、実際の経済改革案の提示およびその判断の際にも有意義に機能するためには、国民国家が当該国民経済に参入して活動する経済主体に対して、政策実行上のオーソリティーを有している状況が想定される必要がある。換言すれば、国際資本市場における買い手市場的構造ゆえに、「仮想的補償原理」が理論上仮想的に想定する仮想的所得移転を現実的にも実行するだけの権威を、国民国家が多国籍企業や機関投資家に対して持てない状況下であれば、「仮想的補償原理」に基づく新自由主義的政策勧告はもはや妥当性を持つとは言いがたいのである。「仮想的補償原理」に基づく新自由主義的政策勧告が妥当性を有するためには、少なくとも国民国家間での国際資本移動に関する何らかの国際協調的な規制の枠組みの存在が前提されよう。

 

5.新古典派経済学からのマルクス派搾取理論批判にどう応えるべきか?

              マルクス主義の資本主義批判理論にとってのキー・ポイントの一つがその労働搾取理論である。置塩信雄や森嶋通夫の貢献によって、マルクス経済学の主要なメッセージも、新古典派経済学とコミュニケーション可能な一般均衡理論の枠組みの下で定式化されるようになった。その結果、「マルクスの基本定理」の発見に見られるように、資本主義経済の下での正の利潤の生成とその資本家階級による取得という現象は、常に労働者階級への搾取の存在と対応付けられる事も、一般均衡理論の枠組みの中で論証されてきたのである。[5] しかしこうした到達点を踏まえた上でも尚、新古典派経済学者は問うであろう、「搾取の存在の一体何が悪いの?」と。これに対して、搾取とは労働者の労働の成果が資本家によって掠め盗られている事態を指すのであり、そうした事態を経済システムとして再生産することでシステムの維持・拡大がなされる資本主義的経済システムは不公正な仕組みとして批判されるべきだ、といういわゆる「不等価労働交換」風の説明――「不等価労働力交換」ではないことに留意せよ――による不公正性の指摘では、もはや限界があるといえよう。我々は搾取の存在の意義についての別の規範理論的観点からの説明が必要なのである。

「不等価労働交換」の存在として搾取の存在を説明し、その不当性を告発する資本主義批判では、限界生産力説的分配理論こそ市場における正当な等価交換の説明を与えると信じる新古典派経済学者を説得する事は不可能である。せいぜい互いの評価基準が違うと確認しあうだけで終わるだろう。価値形成機能を有する生産要素は労働力だけであるというマルクス経済学の議論は、価格理論としての労働価値説が十分な説得力を持たない現代経済学の到達点の下では、マルクス主義のパラダイムを共有しない圧倒的多数の新古典派経済学者から見れば、妥当な議論とは映らず、時代遅れの古典的経済学の遺物として「歴史的博物館行き」扱いを受けるに終わるであろう。それどころか、現代経済学の諸概念を屈指する事で、労働搾取は存在しないのだと論証する試みすら存在する。一般均衡理論で世界的な業績をかつて成し遂げ、最近は経済学説史の分野で経済理論モデルを屈指した先導的研究活動をされている根岸隆氏のマルクス派労働搾取理論批判がその一つである。以下では、根岸隆氏の搾取理論批判を具体的に取り上げ、マルクス主義としての社会科学の分野での学問的オーソリティーに関する将来的存続を果たすためには、根岸氏の議論に対していかような反論を提示すべきかについての私自身の試みを展開する事にしよう。

 

5.1. 根岸隆氏の「マルクス搾取=利潤説」批判

まずは長くなるが、「日経・やさしい経済学−巨匠に学ぶ マルクス」で展開された、根岸氏のマルクス搾取=利潤説批判の部分を引用しよう。

 

「今、資本家が労働者に百単位の小麦を賃金として支払うと、一年後に二百単位の小麦
を得る。マルクスは労働者が搾取されていると主張するが、それでは搾取しないため
にはどれだけ賃金を支払うべきであろうか。二百単位の小麦であろうか。

 しかし、労働者が産出するのは一年後の将来の小麦であり、資本家が支払うのは現在の
小麦である。たとえ同質の小麦でも、将来の小麦をいま入手することは不可能であるから、
同じ量なら現在の小麦のほうが価値が大きい。では、将来の小麦二百単位と同じ価値の
現在の小麦は何単位になるのであろうか。

 金融商品などの現在価値と将来価値を比較する場合、将来価値を割り引いて比べるの
が普通である。その場合、利子率で割り引くのだが、小麦と労働だけからなる単純な
経済では、利子率と利潤率は同一である。したがって、一年後の小麦二百単位の現在価
値は、利潤率一〇〇%で割り引いて、百単位であると考えられる。

 資本家は現在において百単位の小麦を前貸しすると、一年後には二百単位の小麦が手
に入るが、後者の現在価値は百単位にすぎない。つまり、労働者が生産する小麦二百単
位の現在価値である百単位を賃金として支払っているのだから、搾取は存在しない。現
在において前貸しされた小麦と一年後に産出される小麦とは、同質の小麦でも時差があ
るから、前者一単位は後者二単位に相当するのである。

 このように賃金の支払いと生産物の産出との間に存在する時間の差の問題を指摘して、
マルクスの搾取利子説を論破したのは、オーストリアの経済学者べーム・バヴェルクで
あった。」(引用終わり)

 

以上が根岸氏のマルクス搾取論批判に相当する部分である。根岸氏の議論は、一年後の生産の成果の現在価値は労働者の賃金に相当するので、労働の成果とそれに対する支払いとの間の等価労働交換が労働者と資本家の間で成立すると言える。従って、それは搾取とは言えない、というものである。換言すれば、労働者の提供した労働時間――それは生産物の労働価値をも表す――と、彼が賃金分として取得する労働時間――賃金財の労働価値――との格差の存在を搾取と定義されている限り、労働者の提供した労働時間に相当する生産物の労働価値の現在割引値が、労働者の現在取得する労働価値と一致しているならば、搾取は存在しないと言えよう、という訳である。彼の議論の枠組みにおいては、問題は、現在割引価値という概念を、搾取の定義の際に導入するかどうかという点にある。

 

5.2. 時間選好説だけで利潤の生成とその資本家的取得を説明できるか?

現在割引価値という概念が意味を持つ前提として、生産過程には一定の時間を要するという想定がある。生産過程の期首と期末とに時間の違いがあり、生活に余裕のない労働者は、生産の成果が得られる期末まで収入の確保を待っていられないので、生産期間の期首に賃金を受け取る事を、たとえそれが利潤分だけ割り引かれたものであったとしても、選好している、という話である。しかし、労働者が生産期間の期首に賃金を受けとるというマルクス経済理論における設定は、労働者への賃金支払い部分もいわゆる可変資本部分として、資本の不可欠な構成要素であることを明らかにするための理論的想定であって、現実的には賃金は後払いが通常であり、これは生産期間の期末に賃金の授受が行われていると想定しても本質的には差し支えない問題なのである。マルクス自体、賃金後払いの現象には着目しており、彼はこれを、労働者の賃金支払い部分も資本を構成するという本質を隠蔽し、賃金を純生産成果からの所得分配分として古典派経済学に理解させる機能を果たしていると、解釈している。これは言い換えれば、マルクスにとっては生産の期末に賃金が支払われたとしても期首に支払われたとしても、正の利潤に相当する部分は存在するという意味で、賃金支払い時期は搾取利潤の説明にとって本質的要素でない事を意味しよう。しかし、根岸氏の使った例での経済モデルでは、労働者が後払い賃金を受け入れれば正の利潤は存在しないことになる。これは、現実的には賃金後払い(生産期間の期末に支払う)というケースも多々見られる現象から出発する限り、にもかかわらず利潤が生成し資本家によって取得されているという現実の説明としては、根岸氏の説明は成功していない事を意味しよう。

確かに収穫まで1年を要するような農産業を例に考えれば、自分の労働力以外は原則として無所有の労働者が1年の生産期間の期末まで賃金の受理を待てるという想定はむしろ現実的ではない。しかし、マルクスが見ていた19世紀の資本主義経済においてすでに産業の主流となっていたのは、より生産期間の短い鉱工業を中心とする資本主義的生産活動であったわけである。実際、炭鉱労働などの採掘活動は、採掘対象の鉱山の生産性に依存するとは言え、生産期間は1日とおいても現実的な理論的仮定としては間違いではないだろう。そして炭鉱労働者の賃金は、資本家との雇用契約で予め決められているとしても、その受理は1日の労働活動の最後に支払われるのが通常である。さて、これらの「様式化された事実」から出発して、その上で、根岸氏の議論[6]と同様、以下の想定をすることにしよう。つまり、労働力と石炭からなる簡単な経済を考え、同質な土地が無限にあるので地代はなく、話を簡単にするためにスコップやトロッコなど、商品である石炭の生産に使用される労働力以外の商品の存在を無視する。つまり、剰余価値を生まないと言う意味でマルクスが不変資本とよぶものを捨象するのである。

このように根岸氏とまったく同様の理論的設定をした上で、しかしながら、ここでは生産物が石炭であるので労働者は生産期間の期末である一日労働の終了後に賃金を受け取る事も十分に可能である状況である。根岸氏の利潤の源泉は搾取ではないという言説に基づけば、その一日労働の成果に相当する純収入は全て労働者に帰属しなければならないはずである。なぜならば、このケースであれば労働者は前払いを選択する必然性はなく、したがって賃金は利子率=利潤率で割り引かれる形で支払われる根拠はないからである。となれば、炭鉱資本家は一日の生産期間を経て得た生産収益を全て労働者の賃金コストとして支払わなければならない事になり、利潤はゼロとなろう。しかしそれならば、資本家はわざわざ労働者を雇用などせず、自ら自分の所有する炭鉱場に入って採炭労働に従事する事を選択しよう。つまり、石炭産業では資本−労働関係の成立に立脚する資本主義的生産活動は起こりえないと言う話になる。これは明らかに矛盾する話であると言えよう。

以上の考察から伺えるのは、労働者が労働の全成果を受け取れないのは生産期間の期首に賃金を受理するが為に、利子率=利潤率分だけ割り引かれて支払われるが為であり、労働の全成果の現在割引価値として賃金を捉えるならば、それは労働の搾取とは言えない、という根岸氏の搾取=利潤説批判は一般的には成立しないと言う事である。利潤がなぜ生成し、かつそれが資本家に取得されるかについての説明は、時間選好説だけでは不可能なのである。[7]

 

5.3. 正の利潤生成とその資本家的取得を可能にするメカニズム

そもそも根岸氏の想定するモデルの下では、資本主義経済は成立しない。それは資本家が正の利潤を獲得できないからという理由ではなく、仮にゼロ利潤の下でも資本を稼動させると想定しても、そもそも彼のモデルの下では資本−労働関係が成立しないから、という理由である。根岸氏は、地代の議論を捨象したいが為に、同質な土地が無限にあるとの想定をしているが、同質な土地が無限にあるならばそもそも資本財としての土地の希少性は存在せず、土地の購入価格にせよレンタル価格にせよ、それは価格ゼロとなろう。従って土地は自由財となり、その結果、誰もが自由放任的に好きなだけの土地の占有宣言をして、その自ら囲い込んだ土地内で採炭労働なり収穫労働なりに従事すればよいという話になる。土地の生産性に格差がないから、どの土地で労働しようと、そこから得られる一日労働の成果は変わりないから、誰にとっても他者に雇われて賃金収入を受け取る事は収入の増加に繋がらないし、また、他者を雇用する余裕も生じない。つまり、資本財としての土地所有に関する不均等性が生じ得ないから、そもそも資本−労働関係が生ぜず、自己労働生産からなる単純商品生産社会しか成立し得ないのである。

              以上の考察から伺えるのは、資本主義的な生産関係が生成する為には市場経済が成立している単純商品生産社会にプラスして、以下の前提条件が必要であるという事だ。第一は、資本財の私的所有の不均等性。つまり生産性の優れた優等な資本財と劣等な資本財という具合に、資本財の質に生産性という観点からの優劣の格差が存在し、優等な資本財は社会の誰もが自由にアクセスできるほどに豊穣には賦存しておらず、それは希少性を有するものとなる。そして希少な優等資本財を所有する個人とそうでない個人という具合に、「持つもの」と「持たざるもの」との格差が存在している。とりわけ「持たざるもの」として、自分の労働力以外に生産要素となるべき資源を所有できない個人が社会の多数派となっている、という社会状況の成立である。

              第二は、優等な資本財を行使した場合の剰余生産物生産可能性。優等な資本財による生産活動を行った場合、労働の結果として、本人が生存するのに必要な収穫物を十分に上回るだけの剰余生産物も得られる。さらに、彼の資本財所有規模は、他者を複数雇用する事でその資本財をフル稼働できるくらいのものである。その結果として、他者を彼らが生存できるだけの賃金を与えながら、彼らに自分の優等資本財を稼動させる為に労働させる事で、賃金を上回る剰余生産物が見込まれ、それで十分にその資本財所有者も食べていける見込みが立つ事である。

              以上のような、優等な資本財の社会的希少性と、その結果としての資本財の不均等な私的所有関係と、優等な資本財が剰余生産物を十分に生産できるくらいに高い生産性を発揮できる事、以上の3点があって、資本−労働関係は生成可能となろう。資本財の希少性の結果として、自分の労働力以外に生産要素となるべき資源を所有できない個人は、資本財所有者に雇用されて労働を提供しながら生きていくか、ルンペンのように生存すれすれで生きていくしか選択肢は存在しない。希少な優等資本財を所有できた個人は、その資本財の生産性の高さゆえに、他者を雇って彼らを食べさせていけるだけの賃金を支払ったとしても尚、十分な剰余生産物を手元に残す事が出来るから、自ら働くよりも他者を雇って資本財を稼動させる誘因がある。ここで他者を雇って食べさせても尚、十分な剰余生産物が生産可能なくらいに生産性の高い資本財の社会的希少性ゆえに、その資本財の社会的総賦存量に比して、自分の労働力以外に生産要素となるべき資源を所有できない個人は十分に多く存在している。このような状況の下では、無所有の個人は、ルンペン生活よりも少しでもましな生活が見込まれる限り、労働条件や賃金条件を譲歩してでも、優等資本財所有者に雇用されたいと思うだろう。他方、優等資本財所有者は、ルンペン生活よりもましな生活を保障するだけの賃金率を支払っても尚、その雇用労働の結果として剰余生産物が見込まれる限り、無所有個人たちを雇用労働者として雇い入れるだろう。以上のようなシナリオの下では確かに資本−労働関係は生成可能となろうし、その結果としての雇用契約は、賃金支払い後に十分な剰余生産物を資本家の手元に残す事を可能とするものとなろう。つまり、私的所有制度と優等資本財の社会的相対的希少性、そして優等資本財稼動の際の、労働力再生産に必要な生産物を上回る剰余生産物生産可能性、以上の3条件が利潤の生成とその資本家による取得という経済システムを可能にしているわけである。

根岸氏の議論は、こうした視点が欠けている点において、不十分なのである。賃金が利子率で割り引かれた現在価値なのか否かというのは、利潤の生成とその資本家による取得の説明の際には本質的な問題ではないと思われるのである。とりわけ、優等資本財の社会的相対的希少性やその剰余生産物生産可能性という要因は、自然条件や社会の到達した生産力に関わる技術的要素であるという側面が強いが、生産手段の私的所有制度は資本主義経済を生成ならしめている本質的要因であるといえる。市場経済は生産手段の私的所有制度がなくても存続しえるが、資本主義的生産関係は生産手段の私的所有制度がない下では成立し得ない。

 

5.4. では、搾取の存在の何が不公正を含意するのか?

以上のシナリオの下では、搾取があるかないかという問いに関しては、それはあると言うのが正しい解答であろう。搾取の定義とは、労働者の提供した労働時間と彼が取得した賃金に体化されている必要労働時間との正の格差であり、その格差は労働者に帰属しない正の剰余生産物が存在する限り、必ず生じえるからである。正の利潤が資本家に取得されている限り、搾取は存在しているのである。しかしその事と、正の利潤の生成および資本家による取得の論拠を搾取の存在に求めるか否かという議論とは区別されなければならない。正の利潤の生成および資本家による取得は、先に議論したように、優等資本財の社会的相対的希少性やその剰余生産物生産可能性と生産手段の私的所有制という前提条件の下での市場的メカニズムによって成り立たしめられているのであって、それはたとえ「マルクスの基本定理」によって正の利潤と正の搾取の同値関係が証明されていたとしても、そうなのである。むしろ、「マルクスの基本定理」を成り立たしめているのこそが、優等資本財の社会的相対的希少性やその剰余生産物生産可能性と生産手段の私的所有制という前提条件の下での市場的メカニズムなのである。

              このように考察してくると、資本主義経済システムの問題として、マルクス主義が批判し、告発しなければならない点は、「不等価労働交換」という搾取の存在それ自体であるべきではないように思われる。資本主義経済システムを単なる市場経済システムとは概念的に区別させる本質要因こそ、先に見たように生産手段の不均等的私的所有であったのであるから、批判されるべきは生産手段の私的所有制でなければならないであろう。では、生産手段の私的所有制のいったい何が悪いのであろうか?現代の市民社会に存する多くの市民は、私的所有制を個々人の不可侵な自然権の体現であるとするロック主義的社会契約論を受容する教育を受けてきているのである。

              私は、生産手段の私的所有制の存在は、生産手段の所有者と無所有者との間での、いわば個人の生き方の選択に関する実質的機会の不均等を導くが故に、それは不公正な制度であると考える。先の議論を振り返り見れば解るように、優等資本財を偶々所有する事が出来た個人は、その所有資本量の大きさに応じてであるが、自分自身、労働者として働く生き方も選択可能であるし、自分の所有資本をフル稼動できる限りまで他者を雇って、彼らが生み出す生産成果のその利潤部分を自己の収入の主要源泉とする事で、自分の時間のより多くを遊んで暮らす生き方も選択可能である。あるいは、資本家としての研鑽をさらに積んで、より事業の拡張を図るべく、マネージメント戦略に時間を費やす生き方も選択可能である。あるいは、彼が特別の趣味人であれば、自分の所有する資本財を全て売り払ってその全収入を慈善団体に寄付した後、自分は街灯下のルンペンとして怠惰で気楽な人生を送ることすら選択可能である。他方、こうした資本財を所有しない個々人は、街灯ルンペンとして生きるか、さもなくば何とか資本家に雇用される事で、労働者として生きていくしか選択可能な道は存在しない。

              このような生き方の選択に関する機会の不平等は、生産手段の不均等的私的所有さえ存在すれば直ちに生じてしまう。たとえ全ての個人が全く同質に優れた労働能力を持ち、同程度に人生設計に対する勤勉な選好を有していたとしても、そして人生に伴う様々な運・不運という不確実性要素が一切ないと想定した下であっても、生産手段の私的所有の不均等だけで上記のような生き方の選択機会の不平等が生じる。一方は資本家にも、労働者にも、ルンペンにもなろうと思えばなれる、そのいずれを選ぶかは全く本人の選好に基づく自己選択の結果に委ねられるのに対して、他方は、ルンペンに陥る危機感を常に背負い込みながら何とか労働者として生きる道しか選択できない、その意味で強いられた選択の結果としての労働者なのである。生産手段の私的所有の不均等という事象は、道徳的に任意裁量的な現象であって、こうした確率的偶然事象によって人生の選択可能なパスが決まってくるような社会のあり方は道徳的に許容できるとは言えないであろう。しかし、資本主義経済システムが資本主義として確立するためには、資本−労働関係が成立・再生産されなければならず、そのためには生産手段の私的所有制という道徳的に任意裁量要因を切り捨てる事は出来ないのである。つまり資本主義的経済システムは、原理的に個々人の人生選択の機会の不平等――これをアマルティア・セン風に表現すれば、「福祉的自由の不平等」と呼ぶ事も出来よう――を拡大再生産する特性を有しているのであり、また、こうした不平等の存在をこそ、そのシステム生存・発展の本質的契機としている、この点にこそ、資本主義的経済システムが批判されるべきキー・ポイントがあるといえよう。

             



[1] この点のより詳細な議論は、当該論文の続篇「マルクス主義と規範理論(2)」にて展開する予定である。一言、注意を喚起すれば、上記の議論は、所得分配の平等化がパレートの意味での配分効率性の改善をもたらす状況がありうること自体が重要である、というよりも、そういう事態そのものが「厚生経済学の基本定理」から導かれる含意を否定しているその論理関係をこそ、まずは抑えるべきだろう。配分効率性の改善そのものは、人々のもつ厚生の特性次第で、変わりうるものであって、「所得分配の平等化がパレートの意味での配分効率性の改善をもたらす状況」がありうると同様に、「所得分配の不平等化がパレートの意味での配分効率性の改善をもたらす状況」もありうるのである。

[2] 以下の議論は、厳密に言えば、カルドア補償原理の適用についてのものである。カルドア、ヒックス、スキトフスキー等、「新厚生経済学」派の「仮想的補償原理」の全般にわたる説明及び、評価に関しては、奥野正寛・鈴村興太郎『ミクロ経済学II(1988年、モダン・エコノミックス・シリーズ2、岩波書店)の第34章が依然として、和文テキストとしてはもっとも詳しいだろう。

[3] 「地域経済社会の空洞化」問題などは、市場の自由化が結合生産的にもたらす「負の公共財」の一例であろう。ここにも、「厚生経済学の基本定理」風の外部性のない完全競争市場の前提という議論の方法の非妥当性を見て取れる。

[4] もちろん、人々の享受する効用の源泉を純粋に私的財の消費だけに限るならば、より完全競争的な世界市場への参入は、少なくとも社会的弱者の効用が改悪するという事には、理論上はならないであろう。つまり、消費者としての人々の効用面での改善はなされるであろう。しかし、人々は消費者であると同時に、何らかの産業に従事する生産者としても存在している。生産者としては、生業を結果として喪失する農業従事者や、産業予備軍に投げ込まれる結果に陥るであろう零細企業の経営者・従業員のように、その効用の悪化という事態はむしろ普遍的である。さらに、こうした市場の自由化は「地域経済社会の空洞化」問題なども伴うわけで、それらのもたらす負の効用の増加が、人々の消費者としての私的財消費の効用改善効果を相殺して有り余る事は決してない、と言明できる根拠は何もない。

 もっとも、以上の議論を踏まえたからといって、国際市場への参入を規制すべきだという政策的含意を導くとすればそれは早計であろう。それは例えば、資本市場の国際化に関して、長期的資本の取引と短期的資本のそれとで区別した規制政策を実施すべき事と同様、より精密な取り扱いを要するのである。

[5] 一般均衡理論の枠組みでのマルクス経済学の展開に関しては、拙稿「マルクス派搾取理論再検証 〜70年代転化論争の帰結〜」(『経済研究』20017月 pp.253-268.)を参照のこと。

[6]「労働力と小麦だけからなる簡単な経済を考えよう。同質的な土地が無限にあるので地代はなく、話を簡単にするために、小麦の種子や肥料、スキやクワなど、商品である小麦の生産に使用される労働力以外の商品の存在を無視する。つまり、剰余価値を生まないという意味でマルクスが不変資本とよぶものを捨象する。」(根岸隆:日経・やさしい経済学−巨匠に学ぶ マルクス その3)

[7] 注意すべきは、上記の議論をもって、生産過程における生産期間の存在それ自体をも、正の利潤の生成にとって本質的に関わりの無い要素であると解釈するならば、それは誤りであるという事である。もし生産期間がゼロであるならば、資本家は生産に投下した資本を瞬時に回収できるから、もしその資本投下によって正の利潤が見込めるならば、それを直ちに再投下して繰り返し利潤を獲得しようとするだろう。つまり、この場合、資本家は時間ゼロのうちに無限に投下可能な豊富な資本財を得たに等しい状況となる。となれば、この後の節で論ずるような資本財の社会的希少性は消失し、生産技術の収穫一定の下での正の利潤の生成は見込めなくなる。一定の生産期間があり、不可逆な時間の構造をもつという前提が、生産期間の期首において社会的に賦存する資本財の量が有限稀少となるような状況を可能にしているのである。

 付言すれば、伝統的な新古典派経済成長モデルにおいて、資本ストック水準をKとおく数量制約設定もまた、不可逆的時間構造の暗黙的導入を意味する。この種のモデルでは、生産技術は一次同次型生産関数として表現される事に見出されるように収穫一定であるが、資本と労働という二つの生産要素間の滑らかな代替性を仮定し、利子率と賃金率の相対価格は、資本と労働との技術的代替率に一致する形で決定される。ここで語られる利子率は資本ストックのレンタル・サービスに対する価格であり、それは資本ストックの数量がKという制約の存在ゆえに相対的稀少性を有する結果、正の価格として成立しうるのである。

 他方、ミクロ経済学の価格理論における、財の長期均衡市場価格がその財生産に要する平均費用水準によって規定されるという議論は、やはり生産技術の収穫一定を前提していると伴に、資本財の労働に対する相対的稀少性が喪失し、資本家が資本財コスト以上のものを回収する事が不可能な状況を想定している。対して、生産技術が収穫逓減であるならば、資本財の再投下がいくらでも可能な時間構造の無いモデルにおいても、正の利潤の最大化を可能にする生産水準に対応する資本財投下量が自ずから有限な値として定まるのである。