15回現代規範理論研究会:後藤玲子「正義と公共的相互性」について

 

吉原直毅

一橋大学経済研究所

 

2006424

 

 

15回現代規範理論研究会は422日土曜日に開催され、立命館大学の後藤玲子さんをお迎えして報告してもらった。この研究会は、毎度、幅広いスタイルの研究者・大学院生が集まってくる。後藤さんの今回の報告は、近年の生活保護制度見直しの動向の中で、老齢加算、母子加算などの段階的廃止が検討されてきているのであるが、そうした動向を規範理論的に批判するものだ。厚生労働省の社会保障審議会福祉部会「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」でそうした議論が為されてきており、後藤さんは委員の一人だった。制度見直しのこうした動向には、近年の高齢化や不況などもあって、生活保護受給者の人数も、またその受給期間も増えており、将来的な財政的負担の懸念という側面もある。また、現在の制度は生活保護受給者の自立支援という観点からすればむしろマイナスになっているのではないか、という見解もあり、むしろ自立と就労を促すような制度的仕組みに変更すべきであるという声が出てきている。母子加算の廃止案なども「就労インセンティブの促進」という観点から出されているという流れがある。

こうした見解は、どうやら経済学系の委員から提示されているようで、後藤さんは――彼女も経済哲学専攻という意味では経済学出身なのであるが――むしろ「就労による自立」という価値観とは別の「基本的人権」の観点に基づいて加算制度を守る立場で、それらの動向と闘ってきたという経緯があるようだ。そのせいか、何時になく、反経済学的発言が多く、「後藤さん、ちょっと熱くなり過ぎ!」という感じで、冷えたお水をやかんで頭の上に注いだら、たちまち熱湯に変じて「ジュワッ!!」と蒸発してしまいそうだ。

生活保護制度の理念や現状の仕組み、及び、見直し論議の議論の動向など、問題を分析する上での現状の制度に関するファクトを色々知る上では、良い勉強になったが、後藤さんの報告自体はおそらく多くの経済学者からすれば、「その理念が大事なのは解るし、後藤さんが熱心なのは感心するけれど・・・」という印象になってしまうだろう。実際、経済学者は自分と自分の指導する院生たちだけであり、残りは社会政策・思想系という、後藤さんにとってもっとも話しやすいオーディエンス構成であるにも拘らず、その議論に関する経済的資源配分メカニズムの実行可能性という観点からの懐疑的質問が頻発していた。

なぜか?「就労による自立」論は、一つは現状の現金給付に基づく生活保護制度では、人々の労働インセンティブを損ない、ひいては財政上の問題の深刻化など、制度それ自体の実行力を損なうという問題意識がある。他方、「就労による(経済的)自立」の実現を目指すこそが、規範的にも受容可能で保護制度への予算配分に関する国民的理解も得れるだろう、という認識がある。「就労による自立」論とは、労働市場動員のための福祉制度という理解のされ方もあり、現状の生活保護制度との関わりで言えば、「自立支援」策の導入が、従来の現金給付と代替的に導入される流れの中で提出されているというきらいもある。これに対して後藤さんの見解は、労働市場に参入することだけが自立的で価値ある生のあり方ではない、という観点から、人それぞれが「価値ある生」と思う生き方を追求する事を尊重しつつ、そうした生の追及上の困難を抱える人々への公的支援としての公的扶助制度を構想するものだ。そこでの支給は「必要原理」に基づくのであり、かつ、いかなる生の追求上の必要性に対してどれだけの扶助をするか自体は、公共的意思決定に委ねられるとする。こうした構想を規範的観点からは賛成できる人たちであっても、しかしながら果たしてそれが本当に実行可能な構想か否かという点は、別個の検討すべき課題であろう。この点、残念ながら、後藤さんの議論は、構想の実行可能性という観点において、十分に説得的ではない。だからこそ、多くの懐疑的コメントが出たのだ。

私自身は、「就労による(経済的)自立」を追求すべき規範的価値とする考えよりもむしろ、後藤さん流の規範的価値によりシンパシーを抱いている。しかし、現行の生活保護制度を守ることが果たして、後藤さん流の規範的価値を実現する上でより優れていると言えるのかどうかは、別個、検討してみなければならないだろうと思う。例えば、もっとも不遇な生活状態にいる人々であっても、彼らが己にとって価値ある生を、可能な限り最大限追求できるような社会を実現するためには、市場とそれを補完する一連の社会福祉制度から構成される経済的資源配分メカニズムが、そのような目的に適うような資源配分を実現できなければならない。その際には、やはり人々の働くインセンティブという側面を考えざるを得ないのであって、とりわけ、むしろ高い労働能力のある(一般に高所得の)人々の労働インセンティブを安易に損なうようなものであってはならない。その種のインセンティブを考えると、直ちに生活保護受給額なりを徒らに増やせばよいという単純な話ではなくなってくる、という点に留意しなければならない。

私のこのような見解は、人々は制度の達成すべき社会的目的に関しては十分に正義論的・公正的に考え得るとしても、所与の制度の下での経済活動では、規範的理念とは独立に自己利益追求的に行動し得ると想定して、そうした利己性を読み込んだ上での誘因両立的な制度を考えていかなければならないとの観点に立つものである。他方、後藤さんの議論は、人々は制度の達成すべき社会的目的・規範的理念に関して合意すれば、そうした規範的理念に即した行動原理で日常の経済活動にも従事するだろうと想定してしまっている――だから、私が懸念するようなインセンティブ問題は、そもそも解決済みというロジックになろう――。むしろ、自己利益追求的に行動する人々を想定して誘因両立的な制度を考えるという論点そのものを、克服すべき「市場原理主義」の変種と見なしているようですらある。しかし、これは規範的論議と事実解明的分析に基づく想定とを混同させている議論であって、非常に拙いだろう。「人はどのように行動すべきか」という問いと、「人はどのように行動するだろうか」という問いの違いを良く踏まえておかねばならない。制度を実行した結果、どのような資源配分が実現されるかという問題は、「人はどのように行動するだろうか」という問いに関わるのであって、「人はどのように行動すべきか」という問いに関する一定の見解に基づいて、結論を出す事はできない。なぜならば、我々は人々が各々採用しているであろう行動原理を我々の都合で勝手に変更する強制力も権限も持たないのであるから。

自分のこうした批判を受けて、後藤さんは「以前はもっと話が通じたのに・・」とちょっと嘆いておられたが、確かにその通りである。そもそも上に記したような方法論は、我々が共同論文を書いていたときの共有していた見解であったのだから。自分はそのときのその方法論から変わってはいないし、「市場原理主義者」に転じてもいない。もし私が「市場原理主義者」に見えたとすれば、それは規範的価値としての「就労による自立」論と、制度の遂行プロセスで考慮すべき人々の労働インセンティブへの配慮の観点とを共に「克服すべき論理」と考えているからであろう。しかし規範分析と事実解明分析の区別に留意する者からすれば、規範的価値としての「就労による自立」論は批判しつつ、制度の遂行プロセスで考慮すべき人々の労働インセンティブへの配慮の観点を持つ事が十分に両立的である事は自明のはずである。もしその認識がある上での、私の批判を検討に値しないとの却下であれば、「人々は公共的討議の場で、ある規範的目的に関する合意に達した場合、日常的経済活動の場においても自発的に規範的目的に整合的な行動原理を採り、決してフリーライダー問題などは生じない」事を事実解明的命題として証明しなければならないであろう。