From Atlanta

 

2005127

    6月以来、再びアトランタにやって来た。今回もジョージア州立大学のYongsheng Xu教授との共同研究の打ち合わせの為の出張だ。Xuさんとは協力的交渉ゲームの公理的分析に関する研究を進めている。標準的な設定での論文を2本書いた後、新しいフレームワークでの交渉解の分析についての研究が進行中だ。6月の段階で、その進行中の研究も、概ね主要な定理の証明を完成させることが出来た。その後、その成果を、まだ論文として完成原稿にはなっていないものの、阪大社研の西條さんの私的なワークショップで報告する機会があり、その準備の際に、定理のモチベーションをどう与えるかの概ねのアイディアを作り上げた。

    しかし、その後は、そちらの研究には全く手付かず状態だった。この半年あまりの間は、レフリー・レポート、依頼原稿、鈴村さんとの研究論文、稲葉・松尾さんたちとの著作のための準備作業、等々で知らぬうちに時が過ぎ去っていった感じだ。鈴村さんとの共同論文は、7月、8月の時期に特に主要定理の証明に手こずって、何度も考え直しを繰り返していた。その結果、一時期、体調を崩した程だ。9月以降は、論文としてどう纏めていくか・解り易く簡潔に仕上げるかで、相当、時間を費やしていたが、その間、阪大社研、一橋、東工大などのセミナーで報告する機会を戴き、そこで得たコメントや質疑などを参考にすることが出来た。

    しかしともかく一番のウエイトは依頼原稿の処理だった。9月末までに、昨年度まで行っていた科学研究費の特定領域研究プロジェクトの成果出版物のための原稿を仕上げねばならず、これらはすでに一度書き上げた原稿を編集者やレフリーの指示に従って改訂すれば良いだけであるが、心理的には非常に負担な作業であった。10月以降は、今回の出張間際まで、結局3本ほど、日本語の依頼論文を書いてきた。しかし、これはある意味、自分のこれまでの純理論的な厚生経済学での仕事を、福祉国家論という政策論的なコンテキストで位置づけをし直す良い契機になったように思う。頭の中で描いていた解釈や思想的なアイディアも、いざ文章としてアウトプットしようとすると、やはり相当の時間を費やさざるを得なくなる。しかし自分の考えを整理した形で展開する、良い契機であっただろう。

    自分の考えを整理する契機、という意味では、稲葉・松尾さんたちとの著作『マルクス経済学の逆襲(仮題)』用の原稿作業も同様である。こちらの方はマルクス経済学のトピックになるが、第一部は方法論的な話であり、経済学の様々な潮流について言及する話の流れに為ったため、作業は非常にたいへんなものとなった。ポスト・ケインジアンの「ケンブリッジ資本論争」やらレギュラシオン理論の潮流やらについてもコメントする必要上、「昔とった杵柄」であるこれらの分野の文献を一応、勉強し直した。それから、「反経済学」の潮流についても言及する必要上、塩沢由典やら進化経済学会やらの本も一通りフォローした。また、結果的にこの著作の原稿には反映されなかったものの、九州大学の磯谷さんの『制度経済学のフロンティア』も一通り、眼を通した。磯谷・植村・海老塚著『社会経済システムの制度分析―マルクスとケインズを超えて』については、『逆襲』の中でも若干、言及しているが、あまり議論を整理した中身に踏み込んだ話には出来なかった。しかし総じて、これらの著作に共通する「スミス=ワルラス的市場観」=「新古典派的一般均衡理論」への批判というものが、自分には大変に不満な内容であった事もあり、『逆襲』第一部の論点はそれらへの反論にかなりウエイトの入ったものとなった。第二部は「搾取と不平等」についての議論ということもあって、これは自分にとってはそんなに時間の負担なく書ける部分だが、このテーマに対する自分のスタンスを明瞭に整理した形で展開する良い契機にはなっただろう。

    しかしこんな事に従事しているうちに、いつの間にか半年近くが発ってしまっていた。一応、これらの作業は一通り、決着をつけてきたので、とにかくこちらでは本業の研究論文の仕上げに集中したいと思っている。

 

2005128

    今日はXuさんが子守の日らしく、ミーティングをする時間を作るのが難しいということで、自分も一日、時差の調整のためにもゆっくり休むことにした。『キャンディ・キャンディ』の続編を載せているファン・サイトを久しぶりに眺めてみた。以前見つけたファン・サイトでの続編ストーリーは、なぜかキャンディとテリュースが復活してゴールする(当然、スザナは身を引く)という、リアリズムの観点からは納得しがたい展開であったが、このサイトは作者がアルバート・ファンということで、アルバートさんとゴールするというストーリーになっている。作り手の好みのヒーローによって、話の展開が変わるところが面白いが、原作の流れから行ったら、やはりアルバートさんという路線が自然な話の流れというものだろう。テリュース編を読んだときは、特にハッピー・エンド一色と化してきた後半の方は背中のかゆい部分に手が届かないかのような気分であったが、こちらの方は納得が行くストーリー展開だと思う。それに、原作では完璧人間アルバートだったのが、実は押しが弱く根暗なところのある人間に描かれている点も、リアリティが増してグッジョブと言ったところだ。

    こういうサイトを作っているのは、少女時代のアニメ放映時に夢中になって原作を読んできた、今は良いお母さんになっているご婦人の方々のようであるが、年齢と共に登場人物のヒーローへの選好が変わって来ているらしい点がなかなか興味深い。どうやら少女時代は圧倒的に、皆さん、テリュースのファンだったそうで、他方、アルバートさんは単なるオジサンにしか思わなかったとも。それが、大人になった今では、「アルバートさん、ステキッ」となったり、アーチーの「誠実さ・一途さ」に轢かれたり、「結婚するならステアよネッ!」となるのだそうだ()。そう言えば、比較的長きに渡る同世代の友人も、「昔はテリュースがやっぱり良いと思ったけど、今だったら、アーチーが一番いいと思う。」と以前、仰っていた。ついでに、「吉原さんはアーチー・タイプよね!」と一応、褒めてくれたわけだが、まあ「ステア・タイプ」と言われなかったのは良かったとして()、アーチーというのはキムタクのポジションにはなれないゴローチャンみたいで、あまり褒められた気がしないかも()。それに性格的には、オシャレで物腰も洗練されたアーチーというよりは、体制の型に嵌められるのを嫌うアルバートさんや、好きな事に没頭するステアの方がずっと近いように思うが、どうか?

 

2005129

    今日から、Xuさんとの研究打ち合わせが本格的に始まった。非凸ゲームにおける交渉解の公理的研究はすでに学術誌に掲載が決まったが、凸ゲームにおける交渉解の話の方は、論文を改訂しなければならない。その打ち合わせと、それから新しい論文になる予定の「機会に関する交渉問題」については、原稿をファイナルに仕上げていくためのブラッシュ・アップのための方針を相談した。この週末の間に、作業の進展を図ることが出来るだろう。

    夕方、打ち合わせ終了後、ホテルの部屋に戻るが、どうやら時差ぼけの最悪状態からは脱したようで、まだ眠くならない。それゆえ、一時間ほどジョギングをすることにした。日本と違って、道路も広いし人通りも少ないので、米国では気軽に周辺を走って廻ることができる。だから米国に出張で滞在するときは、たいていジョギング・シューズを持っていくし、出来る限りほぼ毎日、走るようにしている。日本では、ジムのマシーン上でないとなかなか走る勇気が出ないが、こちらでは人目を気にする必要がないし、景色も広々としているので外で走るほうが良い。また、こちらの食事はとにかくオイリーなので、毎日走りでもしない限り、たちまちカロリー・オーバーになるので、ジョギングは必需なのだ。

    日本にいるときは、週一回、ジムでスカッシュを一時間位する事は最低限、ずっと続けているが、今年の夏は、例の権利論の論文で手こずっていたこともあり、ストレス解消のためにも眠る前に毎日のようにビールを飲んでいた。その影響か、スカッシュの最中も打ち始めてすぐに息が上がることが多かったし、盆休みに実家に帰ったときは、半年振りに顔を合わせた毒舌家の妹に「オメーも(太って)顔がでかくなって、いよいよオジサンぽくなったな()」と。「アッ、コイツー!(ヤナ奴!)」と思ったが、「今度会うときには再生しているからなっ!!」と啖呵を切って帰ってきたところだ。その後、日本の真夏の炎天下をジョギングしたら、たちまち体調をおかしくしてしまったが()、それ以降、寝る前の飲み食いを止めるようにしたお陰か、スカッシュでも息が切れなくなってきたし、汗も以前のようによく出るようになったから、新陳代謝力も回復しているのだろう。メイトの奥島さんも最近はかなり腕が上がって、ものすごいパワー・ボールをガンガン打ってくる程だが、こちらも一時間、フルに打ち合っても脚の動きが落ちなくなった。体力が維持できているのと、集中力が落ちないので、どこにボールを落とされても拾いに行く自信がある。

ついでに付け加えると、動体視力は大学時代で一番卓球が強かった次期に匹敵するくらいに改善されているのではないか、と主観的に自己満足している。集中力と動体視力があれば、ボールをどこに振られても、早めに反応できるので、全力で走る必要性がある状況も少なくなる。息が上がらなくなったのは、そうした技術力の向上で、体力の消耗度が減っているせいもあるだろうが、しかしいずれにせよ汗の量は以前より増えているので、カロリーの消費度は高まっていると期待したい。

まあそんな具合で、せっかく日本にいる間に、順調に体力再生が進んでいるので、こちらにいる僅かばかりの期間で台無しにしないようにしたい。「無尽蔵のスタミナ、オーッ!」と誇っていた10年前の頃のようにはさすがに行かないだろうが、それをreference pointとして出来る限りにそこに近づくようにしたい。そのためには、まめに走るしかないのだ。

 

20051213

    今朝方、Xuさんにメールで送った、「機会に関する交渉問題」の原稿を読み照らしながら、彼と議論。自分としては、論文のモチベーションに関する大まかな方向付けをしておけたので、後は細かい論点を詰めていけばよい。結果的に、今日の打ち合わせによって、テーマのモチベーションをより豊かに出来るようなExampleをいくつか考え付くことが出来た。特にWTOの紛争処理機関の機能を、我々の提示する「機会集合に関する交渉モデル」のフレームワークの中で、うまく位置づけることができそうなのが良かった。今日の議論の成果を踏まえた改訂稿を、今度はXuさんの方が準備してくれることになったので、自分としては気分が楽である。彼は自分よりも原稿を書き上げるスピードがずっと速いので、おそらくすぐに改訂稿を送ってくるに違いない。何とか、自分がアトランタに滞在する間に、ワーキング・ペーパーとして公表できるまでの完成度に持っていく見通しが出来てきたように思う。

    他方、『逆襲』第二部のために書いた自分の原稿を巡って、若干、松尾さんや出版社の編集担当の落合さんとやり取りが続いている。学術誌でやり取りするような性質の出版物ではないので、あまり細かいテクニカルな話に行くのは本意ではないが、しかし一般読者向けの啓蒙本であっても、理論的に不正確な記述に対しては、やはり指摘しないわけにはいかない。そんなこんなで、結構、入念な説明のために時間を費やしている。しかし、稲葉さんを入れて3人の中でもっともいわゆる「新古典派経済学」の枠の中にはまり込んだ仕事をしてきているのは、もちろん自分であろうが、思想的な意味で一番「新古典派」的な思想にクリティカルな見解を持っているのもまた、自分の様に思える。稲葉さんは、社会学の反経済学的思潮と距離を置くためなのか、ややもすると新古典派経済学の市場へのポジティブな評価を過剰に強調する傾向があるように見える。松尾さんは、3人の中ではもっともマルクス主義の伝統的な概念やフレームワークに対してシンパシティックなスタンスを取っているが、同時に、新古典派経済学の枠組みを躊躇なく、マルクス主義固有の概念に適用したりするのは、面白いところだ。自分から見れば、あくまで完全競争的市場経済という制度的枠組みの下において意味を持つような、セルフインタレステッドな主観的消費選好に基づく効用関数を使って、マルクス主義の意味での「疎外の超克された社会」についての規範状態を定義するのは、自分のセンスとしては受け容れがたいのであるが・・。

    自分の場合、マルクス主義的な規範理論の現代的発展系は、アマルティア・センなどの非厚生主義的規範理論に見出すことが出来ると考えてきている。特にセン、コーエン、ヴァン・パレースなどの議論は、マルクスの古典に若くから慣れ親しんできた自分にとって、すんなりと受け容れられる部分も多く、また、マルクスの影響を感じ取れる概念や理論構成も散見する。労働価値説や剰余価値説など、古典的マルクス主義の枠組みは批判され、また却下されてきても、マルクス主義の思想的心髄はこうした現代の規範理論に受け継がれている事を踏まえれば、そうした伝統的理論への批判に対しても何ら動揺する必要はないし、伝統的な枠組みや概念に拘泥すべき必要性も感じない。

 

20051215

    昨日までは毎日のように晴天続きで、昼間は暖房無しでも十分暖かい日々の続くアトランタであったが、今日から本格的に雨が降り出して、気温もグッと低くなった。メキシコ国境からもそう遠くなく、東京に比べて緯度がずっと低いはずのアトランタといえども、やはり冬のシーズンらしく寒くなるときもあるのだと実感。

    今日で凸ゲームにおける交渉解の公理的分析の論文作業はほぼ終了。「連帯性」という観点から交渉解を整合的に位置づけ直した、というのがこの論文の売りだろう。それにしても、Xuさんの反応は早い。

    他方、日本から持ち越したいくつかの論文の見直し作業も平行して行っている。そのうちの一つは、だいぶ前にこちらが改訂したものがまた古いバージョンの証明に戻っているのをいくつか発見して、激怒!おそらく原稿に手を加えた部分についてのコミュニケーションの齟齬があったのであろうが、本来、こういう事は起きない筈だ。

その他、早稲田大学政治経済学部COEのコンファレンス・ヴォリューム(藪下・須賀・若田部編『再分配とデモクラシーの政治経済学』、東洋経済新報社から20063月に公刊予定)に収録される分配的正義論のサーベイ論文も、どうやら最終稿と言って良い段階になった。これは、10月の早稲田のGLOPEワークショップで報告した論文がベースになっているが、当初はもっと分量が多かったものを、須賀さんからの数式の部分をなるべく減らして30ページくらいに収めて欲しい、との指示に従って書き直したものである。当初は自分自身の分野への研究の貢献についても紹介する予定だったが、なるべくジョン・E・ローマーの貢献の包括的紹介を中心にして、後は削れという編集方針であったので、そうした部分も全て削除した。それでも50ページに達してしまう。まだ長過ぎるとクレームがつくかなと思っていたのだが、何も再改訂の要請をされずにすんなりと受理された。

 

20051216

    今日はずっと雨続きの一日であり、またXuさんとミーティングをする予定もないので、ずっとホテルに缶詰になって、しばらく手付かずにしていた論文の改訂作業に一日を費やして過ごした。論文は札幌大学の山田君との共著のメカニズム・デザインに関する研究で、今年の春の日本経済学会でも報告したものだ。現在、ゲーム理論系の専門誌から改訂要求を受けていて、レフリーの反応から判断するに、次の再投稿のラウンドで受理される見込みは高いと思っている。この改訂作業に際して、William Thomson教授が非常に丁寧かつ具体的なアドバイスを送ってくれているので、これらを全て反映した形で書き直さないといけない。彼の字は薄い鉛筆で小さくごちゃごちゃと書かれているので、解読にまずは時間がかかる。しかし指摘された通りに直していくと本当にすっきりときれいに改訂されていく。Williamから証明の文章の書き方に関してだいぶ文句をつけられたが、ここの部分を主に最初に書いたのは山田君の方だったと思う()。しかし、その後で自分は何度も手を入れているわけだから、その段階でちゃんと改訂しなかったという意味ではやはり自分に批判される責任があると言わざるを得ない。

    しかしこの種の作業は、精神的にはそれほどきつくはないが、肉体的には結構きつい。精神的にきつくないというのは、アイディアを練ったり証明を考えたりという意味での創造的な頭の使い方をしないからという意味であり、逆に言えばやや退屈な作業でもある。それだけになるべくまとまった時間に一気にやってしまうほうが良いのだが、ずっと缶詰になってやっているとさすがに肩が張ってくる。ここ最近は、根を詰めて仕事をしても肩に激痛が走る状態にはならなかったのだが、どうも今回はやばい。今までの経験では、米国ではあまり肩が張らないと思っていたのだが、体力的な限界が段々と早まっているのかもしれない。ここのところ雨続きで、ジョギングに出かけられないのも何ほどが影響しているのかもしれないし、こちらに来て以降、ウエイト・トレをすることが出来ないのも、肩の筋肉をほぐす機会がないままにしているのかもしれない。

 

20051217

    自分の手元を離れた『逆襲』の原稿が、松尾さんのところでストップしているようだ。彼の発言部分は最も十分な説明を付け加えないと解らない議論になっているのだが、また、最も簡単にジャスティファイするロジックを見つけ出すのが難しいような主張でもある。『逆襲』第二部の論点は、自分がこの秋に発売された『季刊経済理論』第423号に掲載している論文「再論:70年代マルクス派搾取理論再検証」を巡っての論争の話に流れてしまった。この論文はかなりテクニカルなものなので(とは言っても、近代経済学で純粋ミクロ理論を専攻している研究者・院生からすれば、全然難しい話ではない)、『逆襲』のような啓蒙本で論点にするのは適切かどうか疑問に思うのだが、稲葉さんと松尾さんの二人の対談の中で主要なトピックに取り上げられてしまったので、とりあえずこちらとしては向けられた疑問や批判に対して対応せざるを得ない、といったところだ。

    『季刊経済理論』での自分の主要な定理は、労働者個々人の消費選好が互いに相異なり得る様な、一般的な資本主義経済モデルの下でマルクスの基本定理が成立するための必要十分条件を明らかにしたものだった。数理マルクス経済学の伝統的なモデルでは、労働者の消費選好は全員一致したケースを想定しており、そうした想定下では「資本主義経済における正の利潤の存在の必要十分条件は、労働者階級全体としての搾取率が正であることである」というマルクスの基本定理は同時に、「正の利潤の存在の必要十分条件は、任意の労働者一人ひとりの搾取率が正である」という主張の成立をも意味する。しかし、労働者個々人の消費選好が互いに相異なり得る場合、労働者階級全体としての正の搾取率は、直ちに任意の労働者一人ひとりの正の搾取率を意味はしない。マルクス主義の観点からすれば、正の利潤の必要十分条件として意味を持つのは当然、賃金率・労働時間・労働内容が同じ全ての労働者の一人ひとりの搾取率が正であるという状況である。しかし、自分はそのような同値関係が成立するのは極めて特殊なケースのみであることを明らかにした。これはマルクス主義の搾取理論の頑健性に疑問を投げかける含意を持っているため、マルクス主義の搾取理論を擁護する立場にある松尾さんによって、この困難が正面から受け止められている。

    ちなみに、「労働者個々人の消費選好が互いに相異なり得る場合、労働者階級全体としての正の搾取率は、直ちに任意の労働者一人ひとりの正の搾取率を意味はしない」事を最初に証明したのは、もう10年以上前の自分の修士論文の中でであった。自分はその後、博士後期課程に進学してからは、数理マルクス経済学から社会的選択理論やゲーム理論の方に研究の関心をシフトさせた為、その修論の結果は抛っておかれたままになった。鈴村さんは、博士課程進学当初、その結果を独立のノートにまとめて、学会報告→『季刊理論経済学』(Economic Studies Quarterly)への投稿という進路を歩ませようという方針だったが、自分は数理経済学やゲーム理論がようやく本格的に面白くなり始めていた時期だったから、そちらの勉強に集中したいという理由で従わなかったのだ。当時、「一橋の学生は志しは壮大だが、なかなか論文を書こうとしない」と鈴村さんが西條さんに向かってしばしば嘆いていたらしいが、おそらくその嘆きの対象の一人に紛れもなく自分は入っていた()

    その後、阪大社研の助手時代に「マルクス派搾取理論再検証〜70年代転化論争の帰結〜」の初稿を書き上げるのだが、日本語で書いたという事もあり当初は特にどこに投稿するとか公刊するとか考えたわけではない。最終的には、一橋大学経済研究所の『経済研究』誌に掲載する機会を得たわけだが、幸いにしてワーキング・ペーパーの段階から一定の注目を以って読まれてきたようだ。マルクスの搾取理論や労働価値説に関して70年代に精力的に展開された数理的アプローチの研究成果を、本格的に批判的に総括した論文は日本ではこれまでなかったからであろう。利潤の源泉は、生産性の高さと資本の労働に対する相対的稀少性、及び私的所有制から説明できるという論点は、マルクス主義に関心を持つ経済学の非専門家からも注目されたのであろうか、ウェブ上でこの見解を、私の論文を参照文献として言及することなく、さもウェブ作成者本人の考えた説明であるかのように、しかも半分ちゃらけた調子で紹介しているものすらあった()!!

    今回の『季刊経済理論』上での論争の契機は、この『経済研究』誌に掲載された論文の中で論じていた「労働者間で消費選好が異なり得る場合のマルクスの基本定理の反例」にあった計算ミスを松尾さんが指摘したことから始まった。このミスは確かに単なる計算ミスであり、反例の含意する不可能性定理そのものの正しさを覆すものではない。自分は、彼の私への批判論文を読んですぐにそのことに気づき、2004年のゴールデンウェークの3日間で、「再論:70年代マルクス派搾取理論再検証」の初稿を書き上げた。おそらく松尾さんもこのミスが単なる計算ミスであり、「労働者間で消費選好が異なり得る場合のマルクスの基本定理の不可能性」命題そのものまで却下出来るものではない事に気付いていれば、著者である自分に直接、ミスの存在を指摘するだけで済ませたであろう。そして、自分は『経済研究』誌に短い「Correction」のノートを載せ、そこで松尾さんに謝辞する形で終わったであろう。

もちろん、ミスが単なる計算ミスではなく、命題の主張そのものを覆さざるを得ない場合は、独自の論文に仕上げて、その中で、「間違い」の指摘のみならず、命題そのものが覆される事を一般的に証明するであろうし、可能であればその解決の方向についての提案をするであろう。自分の経験してきた仕事世界におけるアカデミックなコミュニケーションとはそういう性質のものだ。今回は結果的に、そうしたプロセスを私は全て自分自身で、「再論:70年代マルクス派搾取理論再検証」において、行った。つまり「お前の反例に計算ミスがある」という論文に対して、「反例のための正しい計算」だけを記して応えただけで、それをまた独立の論文としてレフリー制の学術誌に掲載を図るのを潔しとしない思いがあったのだ。結果的に、「労働者間で消費選好が異なり得る場合のマルクスの基本定理の不可能性」の数値例が極めて普遍的に見出し得る事を一般的に示した定理までを明らかにすることによって、それを新たな成果として『季刊経済理論』上で公開する事となったのである。

「再論:70年代マルクス派搾取理論再検証」における「マルクス搾取理論に関する一般的不可能性定理」の投げかけるマルクス派搾取理論への批判的含意に関して、松尾さんは結構、悩まれたようだ。あくまでマルクス搾取理論を擁護する立場での研究を諦めないところが、松尾さんらしいと言えるのだろう。その解決方法というのも最近、彼のウェブ・ページで提案されているが、要するに「労働者階級全体としての搾取率=任意の労働者個々人の搾取率」となるという解釈を正当化するようなシナリオを巧妙に描いたものに過ぎない。マルクス本来の労働力価値の定義に基づいて導出される不可能性定理そのものは依然として解決されないままである。彼のこのシナリオに対する私の見解は『逆襲』第二部で展開されているので、興味がある人は『逆襲』の刊行を待っていて欲しい。

いずれにせよ、現在の経済理論学会の中で、松尾さんのような研究者は貴重である事は間違いない。現代経済学の手法でのスムーズなコミュニケーションが出来る点、論争がちゃんと生産的な系列として流れていける点、等々の条件を満たしている研究者とは、日本経済学会の中では当たり前のことであるが、経済理論学会となるとどうだろうか、と思ってしまう。これは単に数学的手法を知っているかどうかというだけの問題ではない。数学的手法をある程度知っている人はたくさんいるだろうが、それを経済学の理論論文としてちゃんと必要に応じた使い方が出来るかという問題はまた別だ。さらに言えば、経済学の基礎理論の理解力がどこまで深いか、自分自身の中で論理的に首尾一貫とした理解の仕方を持っていて、他人にそれを正確に説明する術を持っているかどうか、というのが経済理論家としては極めて重要である。その点、『季刊経済理論』などでも、なんで「こんなのを載せたのだ?レフリーも担当編集委員もモデルの問題性を見抜けなかったのか・・?」という類の論文も無くはない。残念ながら、それが現状だ。

ところで上記の「マルクス搾取理論に関する一般的不可能性定理」に対しては、私自身の解決案を、実は2004年の11月に英語で書いた未発表論文ですでに展開している。この論文はまだ論文としての形式を整えてないので未発表のままにしてあるが、冬休み明けぐらいにはワーキング・ペーパーとして公開できるようにしたいと思っている。本当はこのアトランタ滞在中に出きれば手がけたいと思ってもいたのだが、時間は予想以上に短く限られていて、かつ他の仕事との優先順位の関係から、後回しにせざるを得ない状態を続けている。

 

20051218

    今日でアトランタでの実質上の滞在期間は終了。明日は早朝から帰路へと移動を開始する。そして国立に帰り着く頃には来週の月曜の夜になっているだろう。とにかく移動にかかる時間は大きい。

    しかし幸いなことに、今日のミーティングで、今回のアトランタ訪問の主要な目的であった「機会に関する交渉問題」の共著論文を完成させることが出来た。これでとりあえず、ワーキング・ペーパーに出来るところまでにはなった。ディスカッションを通じて、我々が作り出した交渉ゲームのモデルが含意するパースペクティブがどの程度に広いものかについての自己認識も深めることが出来たし、それらを通じて、今後のこの系列での新たな研究課題もおぼろげながら見えてきた点も良かったと言える。当初考えていた以上に、色々なコンテキストに我々の交渉モデルのフレームワークを適用することが出来るのではないか、という見通しがついている。そのうちのいくつかを、論文の中でもExampleとして提示しておいたが、分配的正義論タイプの議論に関心を持つ一部の厚生経済学研究者たちに限られることなく、広い範疇の経済学者に関心を持ってもらえることを期待したい。

    他方、山田君とのメカニズム・デザインの論文の改訂作業も、昨日で終了できた。後は彼に部分ゲーム完全均衡の定義の書き直しの作業をしてもらうだけだ。この論文も、改訂作業をしているうちに思ったのだが、当初のもくろみ以上に面白い結果や含意を導き出せている、なかなかに良いペーパーであろう。すでに最初のレフリー・レポートで高い評価を得ているので、今回の再投稿でスムーズに決まってくれることを期待したい。

    今回の二つの完成させた論文も含めてであるが、ここ数年間取り組んできた厚生経済学の分野での研究が、全体としてまとまったメッセージを与えることが出来るような形で進行していることを、自己確認した。大学院の博士論文執筆段階で取り組んでいた論文は、なんとなくジョン・ローマーの周辺で、彼の後追いをしているような研究が多かったかもしれないが、ここ最近の数年の成果物は、ローマーの後追いの範疇を越えて、自分自身の固有のメッセージを発せられるものになってきているように思う。そういう意味では、そう遅くない時期にこれまでの成果を研究書としてまとめ、全体として一貫したメッセージを投げかける事も考えてみるべきなのかもしれない。自分の場合、単にテクニカルに面白い数理的なペーパーというよりも、やはりそうしたテクニカルな分析を通じて得られる主要定理を、いかに面白くかつ重要な社会科学的含意を持つものとして位置づけるかというところに面白みのあるペーパーであると思うが、ピュア・セオリー系のジャーナル論文として公刊されたものだけでは、なかなかそうした部分を伝えられない、というところもある。もちろん、同じ専門分野でやっている先端の研究者であれば、そうしたジャーナル論文だけからその論文の主要定理などの持っている含意やパースペクティブを導き出すことも可能だろうが、少し専門が違う研究者とかいう話になるだけで、数理的な分析による定理の導出などを通じてこちらが伝えたいメッセージは、なかなか十分に伝わらないものだ。そういう部分を補う上ではやはり、本としてまとまったものを出すのがもっとも良い戦略かもしれないと思う。

 

20051220

    昨夜、アトランタから帰国。天候のせいか、着陸前20分前からシートベルト着用義務付け状態となり、フライトサービスも一切、終了し、延々と揺れが続く飛行が続いた後、ようやく着陸した。この揺れとフライト中のまずい食事の詰め込みの結果、完全に胃が変な状態になって、ふらふらした状態で国立の自宅まで戻る。しかも成田エクスプレスでの移動中に、小岩井駅周辺のアクシデントの影響で、1時間近く電車がストップするというおまけつきで帰りはすっかり遅くなった。

    帰宅してすぐに、マッサージに直行。長期のエコノミー席でのフライトによって、肩・頸・腰がパンパンに張ってしまうし、また今回は胃の重い状態がずっと取れなかった。しかし、マッサージの人が良かったのか、いずれも受けているうちに解消。胃の状態は、足裏の土踏まずの部分(胃腸の反射区)をゴリゴリと強烈にやられているうちに、みるみると胃がすっきりとしていく実感を持った。首・肩も翌日に揉み返しが起きることなく、状態が改善された様子だ。

    翌日は夕方くらいから時差ぼけの影響で猛烈に眠くなったが、奥島さんから連絡が入り、急遽、スカッシュを打ちに行くことになった。先週は米国滞在中でずっと打てなかったので久しぶりだし、体が眠りかけていた状態なので動きが鈍いだろうと思ったが、やりだしたら全然好調!80分間プレイし続けたが、その間、フルに動き回っても脚にバテが来ないまま、最後まで切れの良いプレイを維持できた。これはアトランタ滞在中にコマメにジョギングをやっていた成果だと思う。最近はウエイト・トレ中心で、ややもすると走るのはせいぜいマシーンで15分くらいということが多かったのだが、アトランタにいたときは、1時間くらいをじっくりと走った。天候が悪くてマシーンで走るときも、40分くらい走った。そのお陰か、今回のスカッシュでは脚に粘りが出て、良いボールを打ち返せるし、前後に大きく揺さぶられても、ダッシュしてボールを拾いに行く際に脚の踏ん張りが利くため、よく拾えるし、脚の疲れも押し寄せてこない。最近、体力がやや向上しつつあるとは言っても、40分〜50分打ち続けた頃から、脚に疲労が来て思うように切れよく動けなくなるのだが、今回は80分間、ずっと動きまくっていても、最後まで動きが落ちてこなかった。やはりジョギングは体力の基本だな、おろそかにしてはいけないな、と改めて実感した次第だ。