千歳空港より

吉原直毅

 

2009221

 

昨日は、1日、札幌大学の山田玲良君のところで、広島国際大学の林行成君と共に3人の共同研究についての打ち合わせを行い、その後、夕方に北大の方に移動。経済学研究科の建物の5階に居る佐々木隆生教授の研究室を訪問した。佐々木先生はこの3月で定年となるが、今、大学執行部の行政職を色々と任されているらしく、その仕事のためにもう2年間、特認教授として北大に残るらしい。2年後に移動する私学はすでに決まっているようだ。

 

佐々木さんは私が北大教養部1年生として初めて経済学の講義を聴いたときの先生だった人だ。その意味では私の人生で最初に出会った経済学者こそが佐々木先生であり、一橋の院に進学後、数理的マルクス経済学を研究するようになったのも、学部時代に佐々木先生の研究室をしばしばご訪問させていただく中で、それらの研究分野の存在を示唆していただいたからであった。学部のうちにマルクスの『資本論』を精読して、理論的基礎をしっかり付ける事を考えて学部ゼミは唐渡先生のところにお世話になった為、ゼミ生という形式でご指導を受ける機会はなかったが、彼の講義も全て履修してきたし、北大の紀要に掲載された論文も大抵は読んだりと、学ぶ機会は多かった。また、大学4年の時点で『資本論』の理論体系は一通り理解できたかなという感じになっていた自分は、逆に現代経済学の方でどういう議論が為されているのか非常に気になり始めていて、しかし数学が全く解らなかった為に、途方に暮れていた。そういう段階にいる自分にとって、マル経の学問的背景から研究生活をスタートしながら、ポスト・ケインジアンの理論を中心として現代経済学的な議論や手法を導入されてきた佐々木先生は、マルクス経済学的な興味・関心をもつ者がどのようにして現代経済学の議論から学び、関心を見出すかという点などに関しての良き相談相手であり、見本であった。そういう意味で、重要な恩人の一人である。

 

私は高校時代からすでにマルクス主義の古典もある程度読んでいたし、マルクス経済学がどんなものであるかの知識もある程度持っていたから、大学におけるマルクス経済学の講義というものについての漠然としたイメージも、入学時点ではすでにある程度持っていた。また、佐々木さんがレーニンの『帝国主義論』などが主要な古典的文献となる「資本輸出論」などを専門にしているらしい事も、有斐閣の『資本論体系』10巻での分担執筆などを見る事からもある程度、知っていた。したがって、典型的なマルクス経済学の1年生向けの入門講義を予想して、期待に胸を膨らまして講義に臨んだ。登場した佐々木先生は、少し緊張した面持ちであったが、たいへんに若くハンサムな、あまり学者らしからぬ雰囲気ながら、スマートな話しぶりにはいかにも頭の切れそうな印象の人だった。また、講義内容は、イメージしていた典型的なマル経の講義というものとはちょっと違って、アダム・スミスやリカードなどにしばしば言及し、マルクスはOne of themという印象だった。あまり体系だった講義という感じではなかったが、妙に知的好奇心を惹き立てられた。後ほど聞いたことだが、佐々木さんにとっても、この年の講義が、新しい試みを始めた最初の年だったらしく、およそいわゆるマルクス経済学者らしからぬ、スミス、リカードから、マルクス、ケインズまで、幅広く古典に言及しながら、標準的な新古典派経済学のミクロ理論、マクロ理論とも、正統派マルクス経済学とも違う、独自の研究スタイルを試み始めたときのようだった。その当時の先生のご年齢に、ちょうど私自身が現在、到達している。時の流れは本当に早い。

 

当時の私はすでに教養部の自治会再建運動の中心的メンバーとしてInvolveされつつあったが、いちばん熱心だったのは大学の講義に出て勉強する事のほうだった。その中でも佐々木先生の講義には特に熱心にノートを取っていて、何度か質問にも行ったし、レポートも気合を入れて一生懸命書いた。先生からはたいへん高い評価と励ましの言葉が赤ペンで返ってきた。その後、経済学部に進学し、所属ゼミを決める頃、初めて先生の研究室を訪問した。彼は私の事をよく覚えて下さっていた。確か、自分がなぜ経済学に興味を持ち、勉強したいと思うようになったのかを聞かれて話したように思う。自分はもともと歴史が好きだった事や中学時代に読み耽った文学などから、社会経済問題の存在、労働者階級の貧困や社会主義の運動などを知り、興味を持って本を読んでいくうちに経済学に巡り合ったというような話しをした。佐々木先生は「吉原君のように歴史や文学から経済学に関心を持つようになる事はたいへんに良い事だ」と言ってくださった。自分は佐々木ゼミに所属する事にたいへんな魅力を感じていたし、佐々木さんも間違いなく、私が来る事を期待している風だった。しかし他方で、自分はまだ基礎理論の土台が欠けているという思いがあって、まずは『資本論』などの古典をしっかり勉強すべきではないか、という思いもあった。教養部の1年半を終了したばかりのその時点において、忙しい自治会活動の傍ら独学で『資本論』の第1巻は読み終えていたが、議論できる相手や場がいない事に限界を感じていた。それで唐渡ゼミを選ぶ事になったが、最初は唐渡ゼミでマルクスの古典を、そして佐々木ゼミで現代資本主義の現状分析の勉強をしたいというのが自分の希望だった。しかしそれは佐々木先生に断られて断念せざるを得なかった。2つのゼミは曜日が重なっている事もあり、また「二股」は中途半端になるとも言われた。先生からしたら、自分のところのゼミの勉強は唐渡ゼミと両立できる程、甘くないという思いもあったのだろう。しかし、結局、自分は唐渡ゼミでの勉強だけでは物足りなくて、浜田ゼミにも参加して『金融資本論』を読みつつ、現代資本主義の現状分析の勉強にも参加するようになった。教養部の12年次、自治会再建活動に膨大な時間とエネルギーを吸い取られていて、教養部時代には結局、思っていた程の勉強ができなかったという忸怩たる思いのあった当時の自分は、とにかく勉強に猛烈に飢えていた。今でも思うが、間違いなく自分は唐渡ゼミの勉強と佐々木ゼミのそれとを両立できただろうし、喜んで無我夢中で両立させようとしただろう。ただ、結果的にやはり学部時代、特に最初の3年次に『資本論』と『金融資本論』の古典の勉強を徹底的に集中して行ったのは、当時から理論志向の強かった自分にとって良かったと思う。唐渡さんのゼミで物象化論とか現代思想の様々な潮流の中でマルクス主義を学ぶという機会も、哲学や思想好きの自分には幸いした。

 

その後、再び佐々木先生の研究室を訪問するようになるのは、4年生になってからである。浜田ゼミの合宿で「スタグフレーション」についての多様な経済学派の分析を紹介する報告をして、たいへんに評判が良かった事、また、自分自身、本当にやりたかった事はこういう事ではないか、と思った事が契機であった。その報告では、マネタリスト、ケインジアン、いわゆる日本の正統派マルクス主義、そしてボールズ、ワイスコフなどの欧米ネオ・マルクス派のスタグフレーション論を紹介した。その頃にはそろそろ正統派マルクス主義の国家独占資本主義論には飽き飽きしていた。他方、ケインジアンや欧米ネオ・マルクス派の議論には大いなる魅力を感じて、勉強したいという思いが猛烈に強くなってきた。それまでは唐渡さんの影響もあって、現象学的マルクス主義とか構造主義的マルクス主義などの類の本を買い漁って、読みふける生活を送っていたのだが、関心が急速に変わりつつあった。佐々木先生がその頃、ケインズ経済学の議論をご自身の研究の中で取り入れておられたのはすでに承知していたし、また、あるとき、浜田ゼミの終了後の食事会の場で、浜田先生が、「佐々木先生の研究会での報告を聞いたけど、いきなり行列が出てきて『行列式がゼロ』とかやり出して、さっぱり解らんかったよ。あれのどこがマル経なんだ・・」というボヤキをされたのが、興味を持つきっかけになった。まもなく佐々木さんは『国際価値論序説』という論文を北大の紀要に掲載し、また、北海道内の経済理論学会の研究会が北大で行われた際にその論文の報告をされた。その論文ではいわゆるマルクスの市場価値論について、マーシャルの準地代概念を使った説明があったり、また、ルイジ・パシネッティの『構造変化と経済成長』からの引用があったり、そして確かに連立1次方程式の解の非自明性を保証する為に「行列式=0」という話も出て来たりと、およそ「国際価値論」というマルクス経済学の伝統的テーマとはかけ離れたようなイメージの報告が続出で、強烈な衝撃を受けたのを覚えている。オーディエンスは専ら、伝統的なマルクス経済学のシニア研究者たちであるから当然ながら、松井安信先生という、かつての北大経済学部のマルクス経済学の大御所先生からさかんな質疑やコメントがあり、「僕のようなものはオールド・マルキストで、佐々木君は新しいスタイルで・・」等々、言っておられている。対して佐々木さんはスマートに切り替えされ、誰も圧倒されて反論できない、という雰囲気であった。研究会終了後に、佐々木さんは松井先生のところに頭を下げに行っていたが、あれは「遂にマルクス経済学の世界から逸脱した研究報告を始めてしまって申し訳ありません」とでも謝っているように見えた。

 

学部生の癖に大学院生のようなフリをして、この大人たちばかりの研究会にもぐりこんで聞いた話が契機となって、自分はパシネッティの『構造変化と経済成長』を買い、また、ケインズ経済学を学ぶ目的でハイマン・ミンスキーの『ケインズ理論とは何か』を買った。しかし、ミンスキーの本は、多少の数式が出たりはあっても、何とか数学的素養がゼロの自分でも読むことができたし、院入試の英語試験対策も兼ねて読んでいたケインズの『一般理論』の内容を解かった気になる為にももっとも有益な本であったが、パシネッティの本はいきなりn本の連立1次方程式が出てきて、その行列式=0が非自明解の存在条件、という話が出てきて、現状では手がつけられないという感じだった。佐々木さんの『国際価値論序説』ではまだ、未知数2つの2連立1次方程式だから、その場合の行列式の計算の仕方も高校数学で学んでいる。しかし未知数がn個ではお手上げだった。そこで佐々木さんの研究室を訪問し、このパシネッティの2章における行列式の計算をどのように解くのか質問に行った。佐々木先生は、数学の勉強の為のテキストとしてチャン『現代経済学の数学的方法』を紹介してくれたり、青木昌彦『分配理論』の最初の章でマクロ的分配理論として新古典派、マルクス派、ポスト・ケインズ派の3つの学派の代替的モデルが紹介されてあるが、それらのモデルの数式展開をフォローする為に先生自身が行った計算プロセスのメモを見せてくれたりした。先生でも結構、苦労されているのだな、と少し安心した覚えがある。一橋の大学院の合格が決った学部4年生の10月以降、自分はいよいよ今こそ、長年の数学的コンプレックスを払拭するしかないと、経済数学の勉強に取り掛かった。大学1年次に履修要望科目に指定されていた微分積分と線形代数の文系向け教養部の授業を自分は履修しなかった。また、履修していても、当時、自治会再建運動に深くコミットしていて英語と第二外国語の授業についていくのが精一杯であった自分であれば、たぶん落としていただけだったろう。その後、経済学部に進学してミクロ経済学の講義などを受けるようになり、偏微分の演算が解らない為に理解に苦労する様になって、改めて教養部の文系数学の講義を聴講しに行ったりしてみたが、さっぱり理解できずに挫折していた。その頃はまだモチベーションが低かったし、ミクロ経済学の講義も、数式の展開は理解できない分、図を使った説明をフォローして何とか理屈を理解しようとする事で対応してきた。だが、4年の10月時点ではパシネッティの本をきちんと読める様になりたいという強固なモチベーションがあったから、本気で数学の勉強を始めた。導きの糸として佐々木先生ご紹介のチャンと、当時の月刊『経済セミナー』誌で連載されていた三土修平『初歩からの経済数学』を使ったが、高校2年次程度の数学知識を前提に書かれているそれらを読むにしても、最初はそもそも高校の数学も忘れていたので、高校の教科書を読む事からやり直さざるを得なかった。しかし幸い、線形代数に関しては、高校時代も一番得意としていた数学分野だった事もあり、三土さんの連載を勉強する事で、そのうち行列式の計算方法を学び、少なくともパシネッティの2章の行列式の計算結果をどのように導き出すかは解る様になった。その間も佐々木さんの研究室を何度も訪問し、最終的には何とか先生からも私の行列式の計算展開で間違いない事を確認してもらった。学部生が自力でパシネッティの非自明解の条件式を導き出したという事で、佐々木さんも少し驚かれたようだった。今でこそ、北大の学生ならば当然の事、私学の学生でも大学の講義で経済数学の丁寧な授業で学ぶ事が可能であるから、少し勉強している学生であれば行列式の計算くらいは当然できるであろうが、当時は経済学の為の数学の授業等はないので、近代経済学のゼミの学部生と言えども、微分・偏微分はともかくも、線形代数の入った経済モデルは最初から「難しいね!」とお手上げ感であった。確かに所謂n×nヘッセ行列を用いた最適解の十分条件の話を書いているミクロ経済学のテキストは、大学院初級レベルの扱いだったし、したがって、小野さんの『価格理論』の講義でも出てこなかった。ましてや、パシネッティのようなスラッフィアン型線形モデルは、通常の教科書でも大学の講義でもお目にかかることは無いから、近経ゼミの友人が「解からない」と言ったのも無理はない。またマルクス経済学の業界では、神戸大の置塩グループは例外として、数学的知識ゼロが普通であったので、北大の大学院生でもパシネッティを独力で読みこなせる者は、当時は居なかったようだ。まあ、ともかくそれで少し自信を持ち、数学へのコンプレックスから解き放たれつつあった自分は、以降も残り半年間の学部生活の多くを数学の勉強に費やし、他方で、卒業論文としてミンスキーとパシネッティの上記2冊を中心的参考文献として、スタグフレーション論を書く事にし、1月末の締め切りまでの3ヶ月の時間、夢中になって書いた。その頃には、よく解っていないながらも、パシネッティの1973Metroeconomica誌掲載論文も読んで、フロベニウスの定理などの存在も学びつつあった。パシネッティの『生産理論』の「数学付録」でそこら辺を勉強して、一応、フロベニウスの定理が何たるかも解ったつもりになって、卒論でも、73Metroeconomica論文をサーベイする節を書くことになった。

 

これらの時期に、本当に毎週のように佐々木先生の研究室にお邪魔に上がって、お世話になっていた。ゲーム理論について勉強しておくと良いよ、という示唆を戴いたのも彼からだったし、また、社会的選択理論の文献に初めて触れたのは、実は彼が紹介してくれた東北大学大槻幹朗教授の分配システムについての東北大学紀要論文であった。そこでは限界原理風の分配システムや必要原理に基づく分配システム等の比較分析風の話が紹介されていて、非常に抽象度の高い数理モデルながらも、何とか意味合いは理解したような気になりながらも読んで、何となく魅力を感じたのを覚えている。当時、「鈴村興太郎」の名前はすでに知っていたが、しかし鈴村先生がこの種の研究領域にいる人だとはまだ知らないでいた。結果的に、自分のその後は、この大槻先生の紀要論文で書かれていた研究内容に近いような研究を自分のコアの専門領域としてやるようになったのであるが、運命的なものを感ぜずにはいられない。実際、私が一橋大学大学院に入学して、指導教員を決めるときに最初に鈴村先生の研究室を訪問したのだが、その際には自分がマルクス経済学を専らやってきた人間で、最近はポスト・ケインズ経済学にも関心を持っていてパシネッティやミンスキー等を勉強して卒論を書いたと自己紹介したのだが、どうやら自分の専門を理解してやってきた学生ではないらしいと了解した鈴村先生は、まずは自分の著作を読んでみて、どういう研究をしているか調べてから、もう一度来なさい、と言われた。そこで先生の『経済計画理論』を生協書籍部で購入して読み始めたのだが、これはどうやら佐々木先生から紹介された大槻論文の領域らしい、と漠然と理解した私は、こういう研究をされている人であれば、指導をお願いできるのではないか、と思い、結局無理やり弟子入りをお願いする事となった。大槻論文を読んだ経験が無ければ、もしかしたら鈴村ゼミ入りを断念したかもしれない。そういう点でも、佐々木さんの研究室を学部生時代にしばしば訪問させていただいていた事は、改めて思うに、自分の人生の岐路において重要な関わりを持ってきたのだった。

 

ここ最近の数年間で、自分が学生時代にお世話になった先生達が定年を迎えられ、次々と大学を移っていかれる。自分にとっての紛れも無い研究指導者であった鈴村先生や唐渡先生には、それぞれSpringer社からHonorary論文集を出版したり、北大の紀要に寄稿したりで、長年のご指導への謝意を少しでも表す機会を持つ事が出来たが、佐々木先生には、ゼミ生では無かったせいか、北大紀要の退職記念号への寄稿募集の案内も来なかったので、謝意を表す機会がこのままでは無さそうであった。したがって、今回の来札にあたり、先生のご退職の前に何とかご挨拶だけでもと、研究室を訪問させていただいた。食事を含めて3時間ほど会談させていただいたが、以前と変わらずお元気そうで、学問的意欲も昔と変わらず旺盛であった。ここ最近は行政職三昧で、そちらの方でも実力を発揮されているからこそ、特認教授としてもう2年間残る事を要請されているのであろうが、望むらくは長年の蓄積された研究ノートなり講義ノートを纏めて体系的な著作として、後塵の為の知的公共財を是非とも残しておいて欲しいと思わずにはいられない。