フイールド調査から(2)

稲と雑穀のデカン高原

黒崎 卓

Last revision: July 24, 2000



この文章は、『季刊南アジア:構造・変動・ネットワーク』第2巻4号(2000年3月号)所収の原稿を書き改め、写真を追加したものである。


 1999年8月、インド・デカン高原の3つの農村を回ってきた。いわゆるICRISAT農村家計パネルデータが1975年から84年にかけて集められた現場を、この眼で観察してくるのが目的である。このデータを1999年11月の広島会議報告ペーパーで用いたのだが、現場を見ないで実証研究の論文を書いてはいけないという思いから、はるばるデカン高原まで行くことになった。

 ICRISAT(International Crops Research Institute for the Semi-Arid Tropicsの略、「イクリサット」と発音する)は、インドはアーンドラ・プラデーシュ州ハイデラバードのハイテク・シティーから車で約1時間弱のPatancheru村にある国際農業研究機関である。やかましいスピーカーの喧燥流れるハイデラバード=プネー幹線国道に面した門を入ると突然広がる平和と静けさ、そして緑に満ちた別世界、それがICRISATだ。このキャンパスには様々な水鳥が集まり、朝夕はそのさえずりがうるさいほど。豆や雑穀の試験圃場を見て回っていてもその自然の豊かさに驚かされる。

 ちなみにこのキャンパスで、日本でも公開されたテルグ映画「愛と憎しみのデカン高原」(Preminchukundam Ra!)のロケも行われた。左の写真に示すのがICRISATキャンパスの中の私が泊まったドーミトリー。私は映画を見ていて「あっ!私が泊まったドーミトリーの前でヒーローが踊っている」と思わず叫んでしまった。



 ICRISATでセミナー報告を行った後、パネルデータの収集に実際に関わったベテラン調査員R氏と村回りに出発。第一の村は、アーンドラ・プラデーシュ州Mahbubnagar県Aurepalle村。ハイデラバードのランドマーク、チャール・ミナールをくぐって約2時間、村への入り口の町にたどり着く。調査が始まった70年代初めには、ここから村まではひどい未舗装道だったそうだが、今は一応舗装されている。村のまわりに広がる、平らな耕地の緑から丸みを帯びた岩々の小さな山がいくつも飛び出している風景は、かなりの奇観だ(右上の写真は村の田圃から撮ったもの)。



 その日は村の地主の家に泊まり、2日間かけてたくさんの農家や金貸し、職人たちの話を聞いた。中でも印象深いのが、この村の重要な産業のヤシ酒トディー造り(ゴウダ・カースト)。トディーに適した20メートルはあろうかという背の高いヤシの木に、毎日、ゴウダの職人がするすると上っていく(写真左)。目も眩む高さまで、布をやしの幹に巻きつけただけの安全装置(?)であっという間に上っていく。てっぺんで木の幹に傷をつけ、土製の容器をセット。翌日それを集めると、適度に発酵したヤシ酒ができあがっているというわけ。
 右の写真が、ちょうどできあがったトディーを集めて木から降りてきたゴウダの男。さっそくお願いして味見したトディーは、とてもさわやかな甘さと酸味を持ったどぶろくのような味で、つい何杯もおかわりしてしまった。同行のR氏が言うには、「街で売られるトディーは様々な混ぜものをしてあるから決して飲んではいけない。とれたてをゴウダから直接買うのがベストだ」とのこと。
 この村も、ICRISAT調査の時期からはかなり変化した。半乾燥地域の伝統的農法である、バージラーやジョワールに各種の豆類を間作している畑もないではないが、農民は無理しても管井戸を掘って稲作に力を入れている。また、伝統的な農民カーストであるレッディよりもゴウダの所有する農地が相対的に増えてきた。



 この村を出て次なる目的地は、マハーラーシュトラ州Solapur県Shirapur村。ICRISATが研究対象とするインドの半乾燥農業地帯には、土の質や降雨量の組み合わせで様々なパターンがある。そこで'75-'84パネルデータを生み出した村落社会経済調査もそれらをカバーすべく、デカン高原の全域に散らばっているのだ。アーンドラ・プラデーシュ州からカルナータカ州を通ってマハーラーシュトラ州へのドライブは丸一日かかったが、その間、微妙に変化する土地の空気と作物の組み合わせの妙に、飽きることがなかった。左の写真に示したのはカルナータカ州での一枚。バージラー(トウジンビエ)3から4に対してキマメ1の割合で間作された畑を牛で耕作する農民である。見れば分かると思うが、既にある程度大きくなった作物の間を耕すのでトラクターは使えない。役牛がまだまだ健在なのがインド・デカン高原なのである。



 直接関係ないが、右に示すのはAurepalle村の付近の町に唐辛子を売りに来ていた指定部族(Scheduled Tribes)の女性の写真。田舎の緑広がる風景に原色のドレスがとてもきれい。

 Shirapur村は、'75-'84調査時に比べて最も変化した。州政府が設立した通年用水路によって自給的半乾燥農業はほとんど姿を消し、サトウキビ、綿花、果樹、野菜など収益性の高い集約的灌漑農業の村に生まれ変わっていた。ICRISATの調査が終って15年になるというのに、いまだ農民の記憶にはその興奮が残っているようだ。引っ張り出してきて見せてくれた、古ぼけた写真には、まだ若き日のその農民の姿があった。

 Shirapur村から今度は北東に進路を変え、マハーラーシュトラ州を縦断し、3つめの村、Akola県Kanzara村へ向かった。この村は同じ半乾燥地域といっても、降雨量が安定していて土の保水力も高いため、灌漑なしの綿花栽培が盛んだ。ただしパンジャーブなどの灌漑地域とは違って、綿花の単作ではなく、豆類との間作が基本。どの作物と一緒に植えるのか、それぞれの作物を何条ずつ植えるのか、畑それぞれのバリエーションの多さに驚かされる。

 この日、20世紀最後の皆既日食があり、Akola市はインド各地からマスコミなどが訪れてごった返ししていた。残念ながらモンスーンの雲で皆既日食を直接観察することはできなかったのだが、その瞬間にわかに暗闇が訪れ、人々の動きがぴたりと止まった時には、不思議な感動に襲われた。普段は朝しか水浴をしないR氏が、日食が終った夕方に神妙な顔をして水を浴びていたのが面白かった。  Kanzara村を出て、再びハイデラバードに進路を取る。ICRISATキャンパスへの帰途もやはり丸一日かかった。1週間で2000km弱のデカン・ドライブ。R氏と運転手に謝謝!


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