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マルクス主義の旗の下に (一橋大学ニュース表紙 2002 年 2 月) 

『マルクス主義の旗の下に』

(請求記号 ZVK-1, AMF-Z-10)

 

“マルクス主義の旗の下に”集まるのは- コミュニストと、全ての論理的唯物論者である。コミュニストと非コミュニストとの団結は言うまでもなく必要であり、雑誌の課題を正確に定義している。コミュニスト達の最も重大且つ危険な誤謬の一つは(概して大きな革命のきっかけを上手く成し遂げた革命家達にあるように)、あたかも革命が一人の革命家の手によって遂行することができるといった考えである。そうではなく、あらゆる深刻な革命的仕事の成功のために、革命家達は、真に生命力のある進歩的な階級の前衛であるときのみ、役割を果たすことができるということを理解し実現する能力をもつ必要がある。前衛とは、彼らが指導する大衆から離れずにいて、実際に全大衆を前進させていく能力をもつその時においてのみ、前衛の課題を遂行しているのである。

(1922年第3号、レーニン“戦闘的唯物論の意義ついて”)

1917年世界初の社会主義革命が実現し、内戦と外国干渉が絶えないロシアにおいて、1922年1月、モスクワでこの雑誌は刊行された。同年はスターリンが党書記長に任命され、第一回全ソヴィエト大会によりソヴィエト連邦樹立、一方レーニンは病い篤く再起不能となった年でもあった。死を前にしたレーニンが最も深刻に思索していた緊急の課題は、ロシアの文化的変革についてであった。

創刊号はトロツキーの手紙から始まる:「進歩的プロレタリアの若者達を、唯物論的世界観の仲間に導くためという雑誌の刊行理念は、私には非常に価値があり実り多いものであると思われる。」レーニンとトロツキーは共に若くしてマルクス主義を学び、シベリアへの流刑後国外へ出て、社会主義革命実現に向けて闘った。レーニンは思想家G.プレハーノフらと共に1900年にロシア社会民主労働党の機関紙『イスクラ(火花)』を発行した時に、トロツキーの才能を見出して寄稿者に加えた。その後両者の主張は必ずしも一致しなかったが、スターリンのグルジア共和国併合に関する強行姿勢に深刻な党組織の危機を覚えたレーニンは、グルジア人擁護の協力をトロツキーに求め、スターリンに絶縁状を書いた。

1924年レーニンの死後、スターリン主導の一国社会主義体制が加速していくなかで、創刊号に名を連ねたトロツキーは国外追放処分を受け後に暗殺、政治家N.ブハーリンと経済学者E.プレオブラジェンスキーは粛清された。36年11号以降、スターリンの全ソヴィエト大会及び党大会の報告によって、雑誌の巻頭が飾られるようになってゆく。

当資料室では1925年以後出版された数十号を所蔵し、マイクロフィルム版で全号(1922-44)を所蔵している。

また全号の目次と著者名索引は下記に収録している。
Aza-13(15) : 一橋大学経済研究所特殊文献目録シリーズ no. 15 "Под знаменем марксизма”1922-1944 総目次 (1973)