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ゴロヴニンによる二つの航海誌 (一橋大学ニュース表紙 2001 年 3 月) 

ゴロヴニンによる二つの航海誌

(請求記号 VRc.00-9, VRc.00-10)

 

ロシア海軍士官ワシーリイ・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン(1776-1831)は2回の大航海を成し遂げた。当研究所はその航海誌 『1807、1808、1809年ロシア帝室ディアナ号によるクロンシュタットからカムチャッカまでの旅』(1819, VRc.00-9)及び『勅命を受け、1817、1818、1819年カムチャッカ号による世界一周旅行』(1822, VRc.00-10) を共に所蔵している。

ゴロヴニンは1807年から1809年にディアナ号で航海した後、クリル諸島の地図を完成させた。1811年にはディアナ号で千島海域の水路測量中、国後島で日本人に捕えられた。この2年3ヶ月の抑留生活の記録を、帰国後『日本幽囚記』(1816)として著した。そしてカムチャッカ号艦長に任命された。

カムチャッカ号には3つの任務が与えられていた。まずカムチャッカ半島・オホーツク海域に海具や軍備品など必要な物資の輸送すること、次に露米会社 の植民地を視察、及び原住民に対する会社員の態度調査すること、そしてロシア領下にある島・土地の地理的位置を測定することであった。これらの任務を受けて、1817年8月26日カムチャッカ号はクロンシュタットを出港した。

1741年ベーリングのアラスカ発見以来、アラスカ、アリューシャン列島、北アメリカ北西岸は「ルースカヤ・アメリカ」と呼ばれ、多くのロシア人企業主や船乗りが海を渡った。1799年千島列島を含めたこの領地の開拓を目的に露米会社が設立された頃には、すでに最初の遺日使節ラクスマンも根室に派遣され、カムチャッカを拠点にロシアの関心は日本にも向けられていた。

カムチャッカ号の航海誌は幅広い読者層を想定して2部形式をとり、第1巻は航海日誌と寄港都市についての観察記録、第2巻は前巻で省いた航海知識・技術についての日誌から成る。ゴロヴニンは序文で、世界のあらゆる土地は先駆者たちに発見されその旅行記によってすでに周知されているため、同じ内容では読者を満足させられない、しかし人間の住む社会は絶え間なく変化するので、それぞれの旅が新しい興味深い情報を提供することができる、と語る。水夫の他にティハーノフという画家も乗船した。ゴロヴニンは、世界の果てにあるたくさんの物はそのサンプルを持ち帰ることはできず、それらの詳細な記述だけでは然るべき概念を伝えることはできないので、画家は重要であると述べている。巻末には、後に東シベリア海を探検したウランゲリの名前も載っているの乗船者名簿や、ある地点間の毎日の緯度・経度、方角、速度の表と、湾の地図、島の外観を描いた線画などが付けられている。

附属図書館には『日本幽囚記』初版と、ゴロヴニンが釈放された際日本人に贈った仏露辞書の上巻が所蔵されている。

またディアナ号による旅(VRc.00-9)には『1811年クリル諸島水路測量のための、ディアナ号による航海についての短い記録』も含まれている。