V. 存在する問題

 

ここでは中国の人口統計に内在する問題を指摘する。

 

3.1 公安部の戸籍統計と国家統計局の修正値との不一致

    1982年以降

    この時期の公表人口系列は、人口センサスと人口調査に基づくもので比較的信頼性がある。これは公安部の戸籍統計との間に大きな不一致がある。両者の差は1982年では113万人、1983年では513万人である。1983年よりこの差はますます拡大し1996年には2,843万人に達した( 表1の欄g )。この差の大部はヤミ人口、申告漏によるものであるが、一部は戸籍統計の統計システムの欠陥から生じたものであると思われる。

    1981年以前

    この時期では多くの問題がある。特に次の年次においては問題が大きい。1959−1961年の大飢饉時期の戸籍人口はそれぞれ67,207、66,207、65,859万人である。この数値は極めて信頼性に乏しいと言われている10。例えば、表2 の戸籍統計の出生人口、死亡人口のデータ( 欄c、欄d )によると、1959年の出生人数は1,647、死亡人数は970万人で、自然増加人数は677万人( 欄e )である。しかし、表2によれば、総人口データ( 欄a )による1959年の増加人口が1,213万人( 欄b )である。総人口データによる増加人口と出生・死亡人口のデータによる増加人口の差は536万人である( 欄f )。1960年の数値によれば、総人口のデータが1,000万人の減少を示しているが、出生・死亡人数のデータが304万人の減少であり、700万人の差がある。1961年では総人口が348万人減少したが、出生、死亡人数のデータによると249万人の増加である。総人口の増減と自然人口変動の方向が違うのである。この問題の原因は、地方政府が人口の大規模減少が明らかになることを恐れて、故意に死亡数を過小に申告したためであると言われている。

    1962−63年間の人口にも問題がある。1959−1961年の大飢饉以後、地方政府は中央政府から多くの救済食糧、棉布、補助金クーポンをもらうため、人口を大きく申告した。王維志氏によると、この過大申告は1962年で約900万人、1963年で約600万人にのぼるという11

    最後に、1966−76年の文化大革命時期の人口データも問題がある。この時期には統計局が廃止され人口センサスも中断したので、人口統計は公安部の戸籍統計と政府の年末公表数値に限定される。そのため戸籍統計の信頼性が低い。しかし、データ及び相関の研究があまりないので、過大申告、過少申告を訂正する方法がない。

    ヤミ人口( 黒孩子 )問題

    一人っ子政策によって、出生規制を無視して生まれ戸籍を持たないヤミ人口( 中国語で“黒孩子”と呼ばれている )が発生している。この黒孩子は公安部の戸籍統計からは抜けているが、人口センサスには含められている。したがってこの数字は、戸籍人口とセンサス人口との比較から推計できる。例えば、1994年の戸籍人口は11.76億( 表1の欄e )、人口変動調査は11.99億( 欄f )であるから、人口数値の差は2,176万人となる( 欄g )。国家統計局人口司の専門家も、我々とのインタヴューにおいて、2,176万人の大部分が黒孩子であることを認めている。

 

3.2 人口センサスの問題

最も信頼されるセンサス、特に初期のセンサスにも幾つかの問題がある。ここでは人口研究の文献と、関係者及び統計局人口司からのヒアリングによって、1953、1964年のセンサスの問題について論ずる。

    1953年人口センサス

    @ 行政区画の問題。この時期存在していた熱河( 今の河北省の一部 )、西康( 今の甘粛省の一部 )、昌都( 今のチベットの一部 )などの省は、その後の行政区画再編によって、甘粛省、チベット、河北省に編入された。そのため地域別人口動向の分析に支障がある。また省別人口数値の合計は全国人口数値に一致しない。

    A 間接調査の問題。交通不便、条件不備、言語不通および少数民族の集中ため、チッベト全体、新彊、青海、西康省の大部の人口センサスができなかった。この地域の人口数値は、地方政府と少数民族の幹部が間接的方法で人口数値を推定したものである。この人口は839.7万人となっているが、この信頼性は乏しいと思われる12

    B 人口センサスのスタート時点の問題。この人口センサスは、旧ソ連1939年のセンサスをモデルとして設計されたものである。センサスのスタート時間は、1953年6月30日から7月1日午後12時と設定されていたが、農民の収穫の時期と重なり、そのためセンサスの実施は延期され1954年7月にようやく完了した。

    C センサス結果の信頼性。1953年人口センサスの一部の数字に問題があるため、1954年追加調査が行われ、全国の人口数値は58,260万人と決定された。ただしこの数値は、中国内務部が公表した1950年の人口数値48,386万人、中国人民解放軍が公表した人口数値49,253万人および財政部が公表した1951年の数字48,300万人より1億人多い。2年間だけも1億人の増加は不可のであろので、1953年のセンサス数値が疑うと思われている13

    D 少ない調査項目。このセンサスでは男女別人口だけが調査され、年齢別人口、出生年月日、教育程度、職業等重要な情報が得られない。この結果1981年以前の人口を人口学的方法で遡及推計するために必要な生命表の作成が困難となっている。

    1964年のセンサス

    このセンサスは当時信頼性が高いと考えられていたが、今の基準では問題がある。例えば、大飢饉後地方政府は中央政府からの補助金を獲得するため、自分の地域の人数を過大報告した。そのため、1964年人口センサスの一部として人口追加調査を行った。この追加調査の結果によって、1962-1964年の人口数値を修正して発表している。しかし、この修正した数値にも疑問があるとされている。