おわりに

 

 以上のように1900年から1940年にかけての日露貿易を概観してみると、暫定的な評価として今日的な両国関係にかなり類似していることが明確になる。

 その第一は、日露貿易は政治的ファクターに大きく左右されるということである。もちろんいかなる国においても政治的要因を抜きにしては外国貿易を語れないだろう。ロシアにおいてはこの傾向がより鮮明にあらわれているのであり、とりわけ日露貿易には一段と強く作用しているように思える。このことは1984〜1940年間の日本の外国貿易が1930年の大幅減少を例外として、着実に増大し続けているのに対し、同時期の日露貿易は政治的事件の影響を受けて激しく揺れ動いていることに典型的に現れている。日露戦争期には両国間貿易は大きく落ち込んだし、逆に第一次世界大戦期には特需があった。社会主義体制の出現は、貿易の国家独占によって外国の機械・設備、技術の輸入のために輸出を行うという基本原則が貫かれた。1935年からの満州国における北鐵譲渡によって日本の輸出に弾みがついた。しかし両国間には貿易を促進させるための通商条約がなく、締結の努力も第二次世界大戦で水泡に帰したのである。

 第二は、日本にとってロシア貿易はごく一時期を除いて一貫して低い水準にあり、今日もこの傾向が続いていることである。日本の対ロ貿易依存度は総じて低く、輸出入とも0.5%から2%程度の範囲内にある。ロシアが日本と地理的に近く、広大な領土と豊かな自然資源を有する国家であることを考えれば、もう少し増えてもよさそうなものである。しかし、実際には海を隔てて日本に接するロシア極東の人口の希薄さ、伝統的な経済交流のパイプの細さ等制約要因があまりにも大きい。

 第三は100年前に比べて、今日でも日露貿易の輸出入商品に基本的な構造変化が起きていないことである。ロシアは長いこと原燃料の供給者であり続け、日本は加工品の輸出者であり続けた。かつて日本は石炭をロシアに輸出し、現在では逆にロシアから輸入しているといった違いはあるが、日本は今なお水産物、木材、非鉄金属、石油を輸入し、しかも相変わらず重要な輸入商品になっている。一方、輸出ではさすがに緑茶やたまねぎ、りんご、みかんの輸出はなくなったが、機械、鉄鋼等加工品は主力輸出品であり続けている。将来的には農産物の対ロ輸出は期待をもてる。ロシアの市場経済化が今後進めば、ロシア極東向けに北海道産のたまねぎやりんご、本州のみかん輸出の可能性は広がってこよう。

 第四はロシアが市場経済の世界に仲間入りしても依然として貿易取引に古い体質が生き続けていることである。現在では、初期のソ連時代のように駐日ソ連代表部の貿易取引窓口としての力は失われたが、自由競争の時代に入ったにもかかわらず駐日ソ連通商代表部は依然として存在し、国家貿易の発想が強い。伝統的な商品の輸出に甘んじていて、日本市場での商品開発には疎い。

 第四はソ連の条約交渉術が日露関係を通して、ある程度浮き彫りにされたことである。とくに、北鐵譲渡交渉ではソ連側は当初、過大に価格をつり上げ、交渉に臨んだ。しかし、交渉の過程で譲歩してきたが、それは基本的にはソ連にとって早く話をまとめた方が有利であったからであろう。また、通商条約締結交渉にあたってはドイツや他との協定をかなり参考にしている。もちろん、どこの国でも行われていることであるが、ここで指摘したいのはソ連との交渉は過去の事例がずいぶん参考になるということである。ここに変わらないソ連の姿がある。

 以上が1984〜1940年間における日露貿易を統計的に分析した結果得られた暫定的な評価であるが、これをさらに実証するには第二次世界大戦後の日ソ・日露貿易を統計的に分析する必要がある。そこで問題になるのは戦後期においては露領亜細亜と露西亜との貿易区分が行われていないことであり、これを前半の部分とどのように整合性をもたせるかである。