3. 対露主要輸出品動向

 

1) 茶

 ロシアは茶の一大消費国であるが、コーカサス地方の黒海沿岸で茶の栽培を始めたのは19世紀末のことであり、当時、消費量のほとんどは輸入に依存せざるを得なかった。消費量は年間平均450万布度にも達しており、主として清国、東インドから輸入され、紅茶は主に欧露及び西シベリアで、磚茶はシベリアで、緑茶のほとんどは中央アジアで消費された21。 紅茶は中流以上の飲料として利用され、磚茶はシベリア以外の地域でも庶民の飲料として、また緑茶は中央アジア以外にカスピ海や極東のウスリースク地方並びにシベリア地方に住むアジア民族の飲料として利用された22。 K・スカリコフスキーは、1883年出版の著書の中で、「日本から輸出を期待しうる品目として緑茶と磚茶をあげ、アムール河経由で緑茶の消費地、中央アジアに日本産の緑茶を輸入する可能性と、さらに日本国内で磚茶製造の道を開いた上、中国産の磚茶よりも安く輸入する可能性」を指摘している23。 日本の茶業者はロシアの市場参入を狙ってしばしばロシアを訪問したが、一人として成功しなかった。せいぜい九州の製茶会社がウラジオストクに売店を設けたり、台灣茶株式会社がロシアに売店を開き、茶の販売に従事したが、前者は日露戦争によって閉鎖され、後者もその後閉めざるを得なくなった。ロシアで茶の輸出が振るわなかったのは、両国間の政治状況によるものばかりではなく、日本茶がロシア人の嗜好や契約条件に合わなかった面も否定できない。

 「露人ノ言ニ徴スレハ本邦茶ノ缺點ハ其香味薄弱ニシテ浸液濃厚ナラサルニ在リ而シテ取引ノ際本邦茶ハ見本ト符号セサルコト多ク且ツ本邦茶業者ハ多數ノ註文ヲ受クル場合ニ於テ一定ノ期限内ニ之ヲ供給シ得タルコト稀ナリト云ウ」24。 後年(昭和5年)になって、日本の茶の品質について、「ツエントロソユーズ」の茶方シェーニング氏は「形状は申し分ない、色澤はもっと黄味を要求するが消費者が慣れてきたから人工を加へてまでも努むる必要はない、水色、香味は大體變質しなければよろしい」と肯定的に評価している。しかし、大正初期の緑茶はほとんど露領在留邦人の需要によるものであった25。 原は『茶の世界史』(角山栄、中公新書)を引用して、「日本の磚茶製造とそのロシア市場への売り込みについては、1902年にピークを記録したのち、完全な失敗に帰したことを指摘しておこう」と述べている26。 確かに、1902年に露領亜細亜向けに130万斤、約20万円を記録したのち、1903〜1904年にほとんど輸出されなくなった。しかし、『日本外国貿易年表』を見る限り、1905年から復活し、1906年には120万斤、15万円まで回復し、その後は細々と輸出が続いた。緑茶についてみると1925〜1926年には一時的な輸出がみられたが、その後は頓挫し、1935年になってから940万斤、300万円を記録し、最も重要な輸出商品のひとつに成長した。

 1930年代後半に入って日本の対ソ緑茶輸出を急増させた主因は、緑茶が北鐵代償物資取引商品として扱われるようになったことにある。1935年から1937年にかけて北鐵代償物資取引の枠内で輸出された緑茶(承認額)は合計780万円であり、同時期にソ連に輸出された緑茶は960万円であり、実に緑茶輸出の8割強は北鐵買収のお陰で輸出されたことになる27。 この時期にはソ連は日本の茶業界にとって重要な顧客であり、日本の緑茶輸出の2〜3割強はソ連向けであった。日本にとってソ連は米国に次いで重要な市場になっている。北鐵代償取引とはいえ、ソ連向けに緑茶が大量に輸出されたことは、とりわけ静岡の茶業者に大きな期待を抱かせることとなった。しかし、1938年には日ソ関係の悪化によって前年比約7割減の150万円まで落ち込み、期待はもろくも崩れ落ちた。ソ連は支那茶の輸入を復活させ、自給自足体制の確立方針のためにコーカサス産の茶生産を重視したことも日本からの取引削減を加速させることとなった。

 北鐵代償取引で生じたもうひとつの変化は、ロシアとの静岡緑茶の初期取引に介在していたアーウイン商會を初めとする外商が仲介取引から排除されたことである。茶取引に活躍したのは、岩井商店、日本茶直輸出組合、丸三製茶合資会社、栗田貿易会社、駿静製茶合資会社、若林商店、三井物産等であり、1937年までには駐日ソ連通商代表部の茶業官(買付検査官)が静岡に赴き、商談を行うのが常であった。契約は時がたつにつれてソ連の条件が厳しくなり、1938年度契約は清水港積み出しと同時に契約額の8割を支払い、ウラジオストク陸揚げ後殘り2割を支払うことで成立したが、実際にはソ連側は商品に対しさまざまなクレームをつけ、2割の値引きを要求し、結局1.5割前後で成立するのであった28。 ソ連側は価格に対してはこのようなしたたかさな商取引を行ったが、一貫していたわけではなく、むしろ買付の時期を逸して、品不足のために予定量を買い付けできなかったり、冷害による生産不足のための価格暴騰という条件下にもかかわらず安値買付に執着して、商談が進まなくなるケースが多々見られた。このような買付の失敗のためにソ連の茶業主任ジュイコフ氏が1936年に本国に召還されたのはその典型的な例であった29