3. 対露主要輸出品動向

 

2) 漁業関連用品

 漁業を取り巻く日露関係は歴史的にみて、最も深く関わりをもち、また複雑に錯綜しており、露領漁業に代表されるように日本の漁民が露領域で操業する漁業から、漁網、漁船、漁具、漁網原料としての綿糸、縄索、かます及びむしろ等の漁業用品の輸出、買魚に至るまで多岐にわたっている。日露関係のなかで漁業は共通の海を分かち合う日露双方にとって最も重要で、それだけに幾多の問題を内在しており、この基本的な構図は現在まで維持されているのである。なかでも露領漁業の問題は日露関係の歴史をみる上で極めて興味深いが、本稿の主旨ではないので触れない30。 漁業関連用品の対露輸出の花形は漁網であり、対露領亜細亜向けに輸出が開始されたのは1904年のことである。その後20年余り大きな伸びを見せることなく続いた輸出も、1928年を境にして1935年まで対露領亜細亜輸出の最重要商品として貢献することになる。その輸出額は1927年の50万円から翌年には3倍の140万円に、さらに1929年には前年比2倍の280万円を記録した。

 この額は同年の対露領亜細亜輸出額の19%にあたる。漁網の輸出額は1930年の570万円( 輸出額の21% )をピークとしてその後は年間150〜200万円の水準を維持したが、1936年になるとほとんど輸出されなくなってしまった。漁網輸出のピーク時には漁業用に利用される麻縄類や縄索、叺及筵の輸出も増大しており、これらを合わせると1931年に対露領亜細亜輸出額の3分の1占めることになる (表―4参照)。ほぼこの10年間の漁網輸出の急増はどのような背景で起きたのだろうか。

 第一はソ連の需要が喚起されたことである。漁網の輸入量の増大はソ連の漁区の拡大と直接結びついている。1928年に日ソ漁業条約が調印されるまでは北緯50度以北の北洋漁業では日本側漁業がほとんど独占に近いほど優位に操業を行っており、ソ連側漁業はほとんど太刀打ちできない状況にあった。それは、ポーツマス条約によって日本にソ連漁区での操業を認めさせたことで、ソ連側はある程度納得せざるをえなかったことや漁業技術や経営面で立ち後れ、漁具が不足していたことに起因している。ソ連側が日本人の操業に加わり、徐々に技術を習得していき、彼らが力をつけてくると、当然のことながら漁区を取得したくなる。漁業条約調印の1928年時点では日本側は239漁区であったのに対し、ソ連側はその5分の1以下のわずか42漁区にすぎなかった31。 漁業条約批准によって1929年にはいよいよ日本漁業者が出漁することとなったが、その初年度にソ連側から冷凍冷蔵以外の製魚禁止、漁労及び陸揚げの際の機械使用禁止、漁期の短縮等の出漁条件が出され、日ソ間で意見が対立し、紛糾した。この対立は、外務省通商局と駐日トロヤノフスキー大使との折衝の結果、ウラジオストクにおいて漁区を競売する形で妥結したのである。ところが、この競売で起きた日本側の漁区獲得の争いがソ連側に漁区拡大の絶好の機会を与えることとなる。競売で宇田寛一郎が優秀漁区88カ所を高値で落札したことから、日本側の内部で紛糾することとなった32。 このことがソ連側につけいる隙を与えることとなり、この事件を契機にソ連側は漁区を一挙に162漁区に拡大したのである。

 日本側は漁区を失ったが、ソ連側の漁区の拡大は、漁業用品の製造基盤が弱いソ連に日本からの輸入を促すこととなった。当時、鮭鱒網、鰮網、鰊網及び鯨網等はカムチャッカ、オホーツク及び沿海州の海域で、蟹網はカムチャッカおよび沿海州の蟹漁場で使用されていた。蟹網は蟹工船の出現で沖取りでより使用されるようになった。

 漁網の需要は極東海域のみならず欧露でも見込まれた。1929年末に最初の試みとして駐日ソ連通商代表部の注文に応じて三重県の東洋漁網商會が50万円相当の漁網を輸出したのを契機として、カスピ海を中心に瓦斯糸の刺し網の需要が増大した33

 第二の輸出増大の理由は漁業製品にも輸出補償法が適用されたことである。1930年5月に「輸出補償法」が制定された。当時、6カ月延べ払いの条件でソ連側と取引していたが、通商代表部の振り出しの約束手形は信用がなく、日本の銀行はどこも引き受けなかった。この報償法によって損失の100分の70を限度として国が銀行に対して補償することを定めたことによって、安心して輸出できるようになった34。 もちろん、このような補償は保険的な性格をもつものであり、リスクを回避する手段であり、補償される全体の金額にも限界があった。補償法による買い取り手形は、1930年度漁網32万円、1931年度漁網27万円、マニラ・ロープ57万円、1932年漁網48万円、マニラ・ロープ32万円、空罐34万円、1933年には漁網10万円、マニラ・ロープ66万円、空罐60万円となっている35 。漁業関連用品の輸出にどの程度対ソ補償額が適用されたかをみれば、1930年度には補償額全体の49%、1931年度には同じく29%、1932年度には30%、1933年度には37%であり、このシェアは総じて緑茶業者の補償比率に匹敵するほどであり、輸出業者がいかに補償法の恩恵を受けたかが明らかとなる。しかし、1934年になると漁業製品に対する「輸出報償法」の適用はほとんど皆無となった。北鐵代償物資による支払いになったために、駐日ソ連通商代表部が約束手形を振り出す必要がなくなったからである。

 第三の増大の理由は、北鐵代償物資として漁業関連用品が計上されたことである。北鐵代償物資の枠内でどの程度の漁業用品が輸出されたかは、ロープ類520万円(総額の6%)を例外として漁業関連用品として分類されていないので明らかにすることができない。船舶類としては蟹船、巾着網・流瀬網用船、綿糸類とトワイン、その他としては浮標等がかなりの金額輸出されており、北鐵買収が漁業用品の輸出にかなり貢献していることは明らかである。

 ところで、漁業関連用品の対ソ輸出の特徴は、供給元が日本各地に散らばっており、漁業に強い港が広く利用されていることである。漁網及び綿糸は、伊勢方面では平田製網會社、山本重治郎商店、網勘製網會社、三重製網合資會社、大野作左衛門商店、内外製網會社、函館では函館製網船具會社、北陸では金澤高林商店、敦賀葉加瀬商店等で主に製造されていた。函館にはこの他日本漁網船具會社、鎌重支店、岡本与三八商店、共同漁網等があり、駐日ソ連通商代表部が函館で調達した物資は主に漁業用品であり、とくに漁網、鉄製品、漁船であった。漁網だけを取り上げても、函館港からの輸出額は1928〜1930年間には対露領亜細亜向け輸出額の4割に達する。函館には駐日ソ連通商代表部支部があり、この機関がもっぱら買付を行っていた。しかし、1931年になると函館支部は手形決済期間を東京の通商代表部並の9カ月から1年に延長するように要求し、これに対し函館業者側は3〜6カ月を主張し商談が難航した。その結果、ソ連側はより有利な条件を求めて他の地域から調達するようになったために函館業者の取引は次第に減少することとなった36。 これに対して、小樽は関係官庁がなかったために函館に遅れをとっていたが、露領沿岸の漁場に近いことから次第に小樽港からの漁業用物資の輸出が増えるようになった。とくに、「北海製罐會社ノ小樽ニ設置セラシ年々八十萬箱六千萬箱個ノ空罐ヲ輸出セラレツ、アルガ如キ以テ漁業策源地トシテノ小樽ノ価値ヲ雄辯ニ語ルモノト見ルベキナリ」と、小樽は漁業資材供給基地として重要であることが指摘されている37

 対ソ主力輸出品に成長した漁業関連用品も1931年に入って減退の兆候を示すようになり、1936年になると、ほとんど輸出されなくなってしまった。1930年代初期の減少の一因は、欧露に輸出していた瓦斯網が国内で自給できるようになったことと極東海域で使用してきた漁網も徐々に国産品に転換されるようになったことである。この他、ソ連側が支払い条件で日本に不利な条件を提示するようになってきたことも輸出抑制の原因となった。初期の頃には千円未満であれば現金払い、千円以上は三ヶ月の延べ払いという条件が通商代表部の開設後は6カ月延べ払いとなり、さらに1931年からは9カ月、1932年からは12カ月になったのである。この要求はとどまるところを知らず、1934年になると駐日ソ連通商代表部はロープおよびトワインの買付にあたって15〜18カ月の延べ払いを要求してきた。日本企業は延べ払いを望まないがさりとて輸出をしたいということから業者間の抜け駆けが熾烈になり、遂に15カ月を認める結果になった38。 漁業関連の輸出減少について、ソ連側は日本側のクレジット条件が厳しいことと1932年に日本の対露輸出組合がソ連側の容認しがたい条件を設定したことにあると主張している。

 漁業関連用品の対ソ輸出は、貿易の国家独占の下にソ連側の窓口が一本化されているために、ソ連側の厳しい要求に対し、自由競争の日本業者は激しい売り込み競争を展開する余り、価格を落とし、品質を下げることを繰り返し、しまいには市場を失うという危険にさらされてきた。そこで商工省は「輸出組合法」を適用して営業上の弊害を矯正することになったのである。1932年4月には漁網( 綿糸類を含む )をソ連に輸出するものは、商工省の認可を経てから組合員であるかないかを問わず対露輸出組合事業規定の適用をうけることとなった39。 その規制内容は、支払い期限の6カ月を守ること、通商代表部の一定の指値以外には応じないこと、輸出にあたって品質検査を受けること等である。この規制措置は重要な輸出品であったマニラ・ロープおよびトワインにも適用されることになり、1935年に施行規定が実施された。このような行政指導による規制は、ソ連側の自由な価格交渉の余地を奪うこととなり、輸出の機会を縮小させることに繋がったのである。