2. 日露貿易のトレンド

 

 戦前期(1894〜1940年)の日露・日ソ貿易( 以下、日本の『外国貿易年表』に従って日露貿易、露領亜細亜あるいは露西亜と呼ぶ )を、日ソ基本条約が締結された1925年を境に大きく二つに区分できる。1925年10月にはソ連通商代表部が東京に、その支部が大阪、函館、神戸、大連に設置された。以後、日本とソ連との貿易取引はこの組織を窓口として行われることになった。つまり、日本とソ連との貿易取引形態がこれを境に全く変わり、ソ連との貿易取引を行う日本企業は通商代表部を窓口に交渉することになったのである。そのことは同時に貿易面で新たな局面を迎えることとなった。

 

1) 1924年までの日露貿易

 1894年(明治27年)から1904年の日露戦争までの日露貿易は金額的には低調であった。しかし、今日に至るまでの日露貿易の趨勢をみれば、この時期だけが不振であったわけではなく、日露貿易額が日本の貿易総額に占めるシェアは、1901年を例外としてこの時期におよそ2%の水準にあり、とりわけ悪い状況にあったというわけではない。ただ、ロシアが大国で、海を隔てて日本に隣接しているという地理的環境を考えれば、この貿易額は少ないと評価せざるをえない。約100年たった今日においてもこの貿易状況に大きな変化がないのは興味深い。1800年代末から1900年代初頭にかけてのこのような低調な貿易状況の背後には、幕末以来日本国民の間にロシアに対して警戒感が強かったこと、さらには貿易対象となる露領亜細亜(極東、シベリア)が経済的にも文化的にも欧露に比べれば遅れた地域であり、人口も希薄であるという現実があった。

 

 この時期の日露貿易は露領亜細亜との貿易が中心であり、日本の輸出よりも輸入の方が重要であった。露領亜細亜への輸出額は1894年から1900年にかけて着実に増大したが、1900年の350万円をピークとして1903年には220万円まで減少した。1900〜1903年間に露領亜細亜から日本への輸入額は570万円から830万円に増大した。その結果、日本の貿易収支の赤字額は1900年の220万円から1903年には610万円に拡大した。露領亜細亜からの輸入のほとんどは石油、魚糟および塩鮭及塩鱒であり、これら3品目で1903年には輸入額の97%を占めている。とくに、1903年には石油(灯油)の輸入が大きく、約3,000万ガロン、460万円にのぼった。ロシアの石油は品質が良く、価格面でも米国に比べてかなり格安であった7。 石油の露領亜細亜からの輸入は日露戦争を挟んで1907年まで続いており、その輸入量も1904年2,000万ガロン、440万円、1905年1,300万ガロン、260万円を記録している。戦後の1906年には露領亜細亜からの輸入量は120万ガロン、1907年には160万ガロンに激減した。

 1900年代初頭の日露貿易は日本の輸出を軸に徐々に拡大していったが、日露戦争によって1905年に輸出が激減した8。 1904年には極めて例外的に露西亜から精糖が30万タン、約200万円輸入されている。これはドイツからロシアを経由して輸入されたものではないかとみられる。当時、日本にとって最も重要な精糖輸入先はドイツであった。その輸入量は1904年に前年に比べて20万タン減少しており、代わりに露領亜細亜から28万タン輸入されているのである9

 翌1905年に精糖輸入が激減した理由として、開戦の結果最恵国待遇が失われて国定税率が適用されたことが指摘されている10

 戦争終結後の日露貿易は第一次世界大戦まで低調であったが、唯一1906年には1,200万円の大台に達する貿易額を記録している。これは、1905〜1906年の不振から立ち直って日本の露領亜細亜向け輸出が急増したためであり、この年に日本は出超に転じ、以後1921年まで貿易黒字が続くことになる。1906年の日本の輸出商品は精米、食塩、ビール、りんご、みかん、衣服および附属品、綿ブランケット、綿フランネル、タオル、石炭、革鞄、陶器・磁器、雑貨等多岐にわたった。

 

 1907年以降の露領亜細亜向け輸出は、1913年までじり貧傾向が続き、双方にとって余り重要な市場ではなくなった。とくに、露領亜細亜から日本への輸入が振るわず、わずかに大豆や豆糟の輸入が目立つ程度であった。これらの商品さえ、中華民国からの輸入であり、ロシア産のものではない。

 1916年までの日本の露領亜細亜向け輸出は低い水準にとどまっていたが、そうしたなかで注目に値するのはみかん、りんごおよびたまねぎの輸出である。これらを合わせた露領亜細亜向け輸出額は1900年代初頭から増大し始め、1908〜1909年には同地域への輸出額のそれぞれ15%、1910年には20%強、さらに1911〜1914年の4年間は毎年30%程度の水準まで拡大した。これらの輸出額をみれば、みかんは日露戦争後の1906年から増加し、その後毎年30万円程度の水準を維持し、1913年には遂に50万円の大台に達している。この時期の露領亜細亜向け単一商品としては最大である。しかし、その後は徐々に少なくなったが、ロシア革命後のシベリア出兵の時期に再び増大し、年間40〜50万円を記録した。しかし、輸出量が増大したわけではなく、シベリア出兵による特需で価格が高騰したことに起因している。りんごもみかんとほぼ同様の輸出傾向をもっており、その額は1906〜1910年の年間20〜30万円から、1911〜1915年の40〜50万円に増大し、ロシア革命時に減少がみられたが、1918年には50万円の輸出額を記録している。ロシア革命後のりんご輸出は価格の急増によるものであり、1918〜1920年にこの傾向が顕著に現れた。輸出数量は1910年代前半に比べれば半分以下に減少しており、倍以上の単価の上昇がみられた。みかんやりんごに比べればたまねぎの輸出額は少なく、最高でも1913年および1918年に20万円の水準であった。1915年以降みかん、りんごおよびたまねぎの輸出額がそれほど大きく落ち込んだわけではないが、この時期に他の商品の輸出額が伸びたために、これら商品の輸出シェアは相対的に小さくなっている。

 

 露領亜細亜向け輸出で1900年代前半に重要な役割を演じたのは食塩である。1900年代初頭には年間30万円程度の食塩が露領亜細亜に輸出されており、当時は貿易額が小さかったためにそのシェアは毎年10%〜18%に達していた。この時期には食塩の安値価格が維持された。日露戦争によって食塩輸出は途絶し、再開されたのは1906年になってからのことであった。ロシア革命期から1919年まで年間50万円程度、とくに1919年には70万円近い額が輸出された。この時期における日本の食塩輸出のほぼ100%は露領亜細亜向けであり、主として塩魚用に使用されたものであろう。革命後の混乱期に高値で輸出されている。

 

 ロシアには良質の岩塩があるが、極東水域の漁場までは供給されず、供給源をより身近な日本に頼っていた。ここに計上されている輸出量はあくまでもロシア側に輸出されたものであり、この他、露領漁業用に大量に食塩が供給されている。

 今日の日露貿易では、日本のロシアからの輸入商品のなかで石炭は重要な地位を占めているが、およそ100年前の1900年代前半には日本は逆に露領亜細亜向けに石炭を輸出しており、しかも重要な輸出商品であった。とくに、1901〜1902年間および1910〜1913年間には対露領亜細亜輸出額の10%程度を占めており、なかでも1911年には16%( 輸出量は7万3,000トン )の水準まで達していた。過去最高の石炭輸出は1919年の14万トン、290万円であり、翌1920年には6万トン、130万円と半分以下に減少した。石炭の露領亜細亜向け輸出が重要であるとはいえ、他の年は多くても年間50万円程度である。

 

 次に日本の対露西亜輸出に目を通してみよう。1900年代前半の露西亜向け輸出で最も注目されるのは生糸である。20世紀に入ってから生糸を露西亜に輸出していた時期は短く、ロシア革命後には完全に輸出されなくなった。それまでは日露戦争後の一時期を除いて毎年対露西亜輸出額の80〜90%は生糸であった。このことは生糸を除けば日本から露西亜にはほとんど輸出されなかったことを意味する。生糸輸出額は1900年の5万斤、40万円から漸次増加し、1903年には約10万斤、100万円に増大した。日露戦争による中断後、生糸輸出が復活したのは1906年のことであり、その後第一次世界大戦期の1914年を除いて、増え続け、1916年には70万斤、890万円を記録した。この数量・金額は過去最高であった。しかし、ロシアに革命の起きた1917年には40万斤、460万円に減少し、1918年からは全く輸出されなくなった。革命後の内乱とその後の生産財輸入による経済建設重視の方針のために、贅沢品である生絲は完全に市場を失ったのである。

 日露貿易史上最も注目される出来事は、第一次世界大戦後からロシア革命後の内乱期にかけて貿易額が急激に増大したことである。これはもっぱら露領亜細亜向け輸出が急増したことによる。日本と露領亜細亜との貿易額は、1916年には史上最高の1億1,950万円を記録した。

 

 1915〜1916年の対露領亜細亜輸出は日本の輸出総額からみても大きな額であり、1915年には11.5%、1916年には6.2%を占め、輸出相手国としては米国、支那に次いで第3位にランクされる。今日までの日露貿易におけるおよそ100年の歴史のなかでこのような地位を獲得したことは一度としてなく、それは第一次世界大戦による徒花ともいえる性格のものであった。1914年8月のドイツのロシアに対する宣戦によって、ロシアはそれまで最大の貿易相手国であったドイツに代わって日本に供給源を振り向けた。その結果、日本からは銅、亜鉛、真鍮、アンチモニー等の軍需物資の輸出が急増した。1913年まで全く輸出されていなかった銅及び製品( 銅塊、スラブ、板、線等 )の輸出は1914年の860万斤、280万円から1915年には5,000万斤、2,580万円、さらに1916年には5,970万斤、3,940万円に増大した。1916年のこの額は同年の露領亜細亜向け輸出額の33.5%を占めている。真鍮( 條、板、製品等 )の輸出は1915年になって急増し、170万斤、120万円から1916年には750万斤、780万円に、1917年にはさらに1,710万斤、2,100万円にまで増大した。亜鉛( 塊、スラブ )の輸出が始まったのは1916年からであるが、同年の2,020万斤、1,130万円から1917年には一転して1,230万斤、390万円に減少した。アンチモニーの輸出は1914年に開始され、ピークの1915年には800万斤、440万円、翌年には580万斤、390万円を記録したが、その後は急減している。

 上述の軍需物資は1915〜1916年に集中して露領亜細亜に輸出されており、銅、亜鉛、真鍮およびアンチモニーの4品目で1915年には露領亜細亜輸出額の39.8%、1916年には51.5%を占めている。なお、この時期に日本からの露西亜向け輸出は小包郵便物と生糸でほとんど占められている。露西亜向け輸出で興味深いのは小包郵便物であり、1913年から増えだし、同年の20万円( 露西亜向け輸出額の4.0% )から1915年には770万円(同 68.5%)、1916年には2,400万円(71.7%)にも達し、その後1917年の850万円(63%)から1918年にはほとんどゼロになっている。第一次世界大戦からロシア革命にかけてシベリア鉄道経由で商品が大量に小包郵便物として輸送されたものとみられる。

 『日本外国貿易年表』によればこの時期のロシア向け輸出はもっぱら露領亜細亜向けであり、欧露向けではなかった。ロシアは欧州からの供給源を絶たれていたのであるから、日本商品が欧露市場を埋めても不思議はない。統計上は仕向地が露領亜細亜ということになっており、実際には商品の多くが欧露に供給されたものとみられる。

 第一次大戦後の1915〜1917年にかけて軍需物資以外の商品の輸出も急増しており、なかでも薬剤、化学薬品は1916年には前年比4.8倍の1,090万円、マッチは同じく330倍の110万円、羅紗及びセルジスは1915年には前年比36倍の1,610万円、同年に靴が初めて輸出され850万円を記録した(表〜6参照)

 1918年になるとロシア革命の影響を受けて多くの商品の輸出が激減したが、それでも革命後の内乱にもかかわらず日本の露領亜細亜向け輸出額は1918年には4,000万円から1919年には7,100万に増大すらするのである。1919年にはシベリア出兵によって輸出が増えたのであり、翌年にはニコライエフスク事件が発生して、両国関係はさらに悪化した。1919年には露領亜細亜向けに少量多品目の輸出が行われており、前年に比べて比較的目立って輸出が伸びた商品を列挙してみれば、精米17万円(前年比 1.9倍)、緑茶10万円(同 5.6倍)、清酒(3.5倍)、ガーゼ・脱脂綿・包帯150万円(16倍)、その他の薬材・製薬120万円(2.5倍)、縞木綿200万円(1.4倍)、綿フランネル200万円(1.6倍)、羅紗及びセルジス320万円(3倍)、綿メリヤス肌着430万円(20.5倍)、洋服400万円(77.4倍)、石炭290万円(6.2倍)等である。当然のことながら、戦時下における日本兵のための食料品、医療品、衣類の輸出が目立っている。

 1920年代に入ると社会主義建設のためにまずソ連の輸出が重視されるようになり、日本との貿易にも反映されて、日本の露領亜細亜向け輸出は年と共に減少していった。停滞する日露貿易にやっと光が差し始めたのは1925年に日ソ基本条約が締結されてからのことである。

 露領亜細亜向けの港湾別輸出をみれば、当然のことながら日本海港湾の利用度が高い。特徴的なことは1900年代前半には函館の輸出額が圧倒的に大きく、1914年から1920年にかけては敦賀港の重要性が際立って高いことである。函館の輸出額が増加し始めたのは1894年(明治27年)からであり、1903年には日本の対露領亜細亜輸出の50%弱を占めるほどになった。しかし、その後輸出は1906年の90万円( 対露領亜細亜輸出額の8.4% )をピークとしてほとんど振るわず、かつての繁栄は風前の灯火となった。函館港が再び活況を呈するようになったのは、日ソ基本条約が成立し、函館に通商代表部支部が設置されてからのことである。函館は露領亜細亜からの輸入で、1900〜1903年には日本のこの地域からの輸入額の4割を占める程であった。この時期に主として塩鮭及塩鱒、魚糟が輸入されている。

 第二次世界大戦前の日露貿易で主導的な役割を演じたのは敦賀港である。とくに、1914年から1920年にかけて日本の対露領亜細亜輸出額の半分近くを敦賀一港で占めている。表〜8から表〜11には1913年までの敦賀港の輸出入額が計上されていないが、1902年にはウラジオストクから敦賀に寄港する船が就航しており、日露戦争の中断後、1907年には敦賀〜ウラジオストク直通定期航路が大阪商船によって開設された。