2.農村技術革命 − 機械化、化学化政策

 

金日成政権は1950年代後半に農業集団化を強力に推進し、個人農を協同農場( 以下、協農または農場 )に統合した。この制度基盤に立脚して同政権は、60年代に入って農業の飛躍的発展を図った。「 機械化実現令 」( 1960年 )、「 化学化促進令 」( 1961年 )、「 社会主義農村問題に関するテーゼ 」( 1964年 )はその表れであった。同「 テーゼ 」において金日成は農村の後進性を認め、農村3大革命 − 技術革命、文化革命、思想革命の展開を指示した。技術革命は、農業と連関した工業発展にもとづいて農村の水利化、電化、機械化、化学化を推進することを目指した。ここで機械化とは、耕起、田植え、除草、脱穀などあらゆる農業労働を機械によって代替することを意味し、なかでもトラクターの導入( tractorization )が重要な位置を占めた。化学化は肥料の化学化、すなわち自給肥料に代わる化学肥料の使用を意味した。こうした目標−集団化、 tractorization、 化学化にもとづく大規模農業の建設−設定は、明らかにソ連のつよい影響を受けていた。

「 テーゼ 」のなかで金日成はつぎのように述べた。

「 今後、トラクターの台数を7−8万台( 15馬力を1台とする )に、トラックは3万 − 3万5000台にそれぞれ増やし、その他各種の農業機械を決定的に増やさなければならない。」

「 近い将来に、農耕地の町当り化学肥料の施肥量を500キログラムに増やし、ゆくゆくは1トン以上の水準にひきあげるべきである。」

この目標はどれほど達成されたのであろうか。この点にかんする北朝鮮政府の統計は、ごく断片的なものしか存在しない。以下、入手可能な他の機関の推計値と合わせて、統計を整理する。

 

A.機 械 化

    政府統計を収録する『 朝鮮中央年鑑 』( 各年版 )には、つぎのような記載がある。

    − 1961−69年間に農村部門のトラクター台数は3.3倍、貨物自動車台数は6.4倍に増大した( 1971年版 )。

    − 1974年、ほぼ50%の田で機械田植えを行う( 1975年版 )。

    − 1975年、耕地100町歩当り、平野地帯では4台、中間・山間地帯では3台のトラクターがある( 1976年版 )。

    − 1975年、運搬作業、耕起は100%、田植えは92%機械化された( 1976年版 )。

    別の統計では、1972−3年にはトラクター生産は年3万台の水準に達した(表1)。さらに金日成は1974年の演説で、「 現在、農村にトラクターが7−8万台ある... 100町歩当り6−8台は必要である 」と述べた。 当時の総耕地面積はおよそ200万町歩と見積もられるので、総数7−8万台は約25町歩に1台に相当した。

    以上のように北朝鮮政府の発表によると、正確な数値は把握できないが、 60年後半から70年代にかけて農業機械化が急速に進展した。

 

B.化 学 化

    周知のように、植民地期以来北朝鮮には、高い肥料生産能力をもつ化学工業コンビナートが存在した。表2はこうした基盤をもつ北朝鮮の化学肥料の生産量、および施肥量( 北朝鮮政府統計 )を示す。それによると総生産量は着実に増大し、同時に施肥量も急増した。1975年には、金日成が目標とした1町歩当り1トンの水準を記録した。他方表3はFAOの資料にもとづいて、北朝鮮の化学肥料消費実績を韓国、日本と対比させたものである。北朝鮮の同実績総計は韓国とほぼ等しかった。穀物収穫面積を勘案すると、北朝鮮の化学肥料消費量は韓国と同等、日本の約半分となる。これは、前記1970年代の数値を大幅に下回った。前記の数値は実現値でなく、計画値に過ぎなかった可能性がある。 またFAOの統計において、北朝鮮の化学肥料消費が窒素肥料に偏っていた点は興味をひく。これは、北朝鮮の窒素肥料生産能力が大きい反面、リンやカリ肥料生産能力が低いという事実と符合する。もっともこうしたFAO統計の出典は不明であり、各数値をそのまま受入れることはできない。