2.国際資本移動の推移:概観

 まず豊かな国から貧しい国にどの程度の資本移動が行なわれたかを概観してみよう。

図1は1960年以降についてデータが利用可能な国を高所得国、中所得国、低所得国に分け、各グループの経常収支総額を名目 GDP 総額で割った値の推移を示している。グループ分けは1960年から7年毎に Summers and Heston の一人当たり実質 GDP(国際価格)が米国のそれの 50%以上の国を高所得国、50%未満 20%以上の国を中所得国とした。図2では第二次大戦前について、ほぼ同様の基準で高所得国(表1参照)の経常収支総額の対名目 GDP 総額に対する比率の推移を示した。

 これらの図を見るにあたっては次の点に留意する必要がある。

 第一に、会計上の恒等関係によって経常収支黒字はキャピタルゲインを除く対外債権の純増に等しく、したがって広義の資本流出額を表しているはずだが、現実には経常収支はすべての経常取引を漏れなく記録してはいない。このため、世界全体の経常収支の和は本来ゼロになるはずなのに、例えば MF (1991) によればデータの利用できる国について1990年の経常収支を集計すると844億ドルの赤字になるという。同書によれば、不突合の最大の原因は利子所得がしばしば支払国でのみ記録されることによる。先進国間では活発な相互投資が行われているから、これは国際収支統計における先進国の経常収支黒字を実際より過小にする。また資産隠しや通貨価値下落による損失回避のため途上国からは資本逃避が行なわれ、その多くは途上国側では記録されないから、途上国の経常収支赤字は過大に評価されている可能性が高い。7 第二次大戦前についても Pollard (1989, pp. 62-63) がまとめているように国際投資統計には様々な問題がある。

 第二に特に低所得国の場合、経常収支の赤字が民間資金の流入でなく戦前は宗主国政府による投資、戦後は経済援助融資など公的資金の流入でファイナンスされている場合も多い。

 国際収支統計には以上のような問題はあるものの、図12から次の事実が確認できると言えよう。

 

(1) 金本位制の黄金時代とも言える第一次大戦前と比べると第二次大戦後は豊かな国から貧しい国への国際資本移動が格段に小さくなった。

(2) もう少し短く10年程度の単位で見ても、豊かな国から貧しい国への資本移動には時間を通じて大きな変動がみられる。1920年代以降高所得国からの資本流出は次第に減少していった。第二次大戦後についても、中所得国の経常収支赤字の推移からわかるように1970年代から80年代初頭にかけての時期や1990年代には比較的活発に資本が移動したが、それ以外の時期には低迷した。

(2) 途上国について所得グループ別にデータの利用できる戦後については、GDP 比で見た資本の流入はおおむね中所得国の方が低所得国よりも大きかった。

 

 第一次大戦前における高所得国からの多額の資本流出は際立った現象である。例えば Cairncross (1953) の推計によれば最大の投資母国である英国の場合、対外純投資残高の国内に蓄積された再生産可能有形資産に対する比率はピークの 1913-14 年において 43%にのぼった。これは米国がピーク時である1949年前後に記録した 5%や日本の1995年末の値7%(国民経済計算年報)より格段に大きい。Bloomfield (1968) が指摘するように一時は、一部の投資受入国が国内資本形成の半分以上を資本輸入で賄ったり、英国のように国内貯蓄の半分以上を対外投資に回すこともあった。

 第一次大戦前の途上国への膨大な資本移動についてはこれまでいくつかの理由が指摘されてきた。

 まず第一次大戦前においては、ヨーロッパ列強の途上国向け投資のかなりの部分は植民地向けであった。例えば Feis (1930) によれば、1914年における英国の投資残高で見てアジア向け投資の 76%、アフリカ向け投資の 90%が植民地向けだったという。また反植民地主義を標榜した米国の場合も、その中・南米への投資は政治的、軍事的介入を伴った (Foreman-Peck 1995)。植民地に対する宗主国からの投資は、国際資本移動に関する規制や法制度の違い等の障害が少ないこと、開発のため社会資本整備を行ったこと等により活発であったと考えられる。Lucas (1990) は宗主国が独占的な資本供給者として収益率を釣り上げるために資本供給を過小にしたのではないかとの仮説を提示しているが、宗主国にとっては徴税や交易条件のコントロール等植民地を搾取する方法は数多くあったわけだから、資本供給の削減が意図的に取られたとは考えにくい。

 なお、宗主国による植民地への投資と今日の国際投資とは単純には比較できないことに注意しよう。そもそも宗主国と植民地間の国際収支統計は必ずしも額面どおりに受け取れない。たとえば帝国維持のための現地軍事支出は通常、植民地政府の支出とされたが、今日的な国際収支統計の視点から見れば外国駐留軍の支出として派遣母国の派遣先国からの財・サービスの購入として記録すべきかもしれない。また植民地の貿易はその多くが同一帝国内との取引であったから、宗主国の貿易政策等により交易条件が市場価格から乖離していた可能性もある。8 9

 第一次大戦前に国際投資が活発であった第二の理由として、当時は民間の国際投資の形態として新発の債券への投資が中心であったが、10 債務者が返済を拒否した場合の制裁は戦後のそれよりも重い傾向があった。一般に国際貸借においては、債務者が返済を拒否しても債権者は債務者の資産の多くが他国に在るためこれを差し押さえることができない。このため債務残高が制裁よりも大きくなると、債務者は返済能力があるにもかかわらず返済を拒否する誘因が存在する。そして投資家はこのような事態を予想するため、返済拒否時の制裁が小さいシステムのもとでは途上国が国際借入れできる額は小さくなる (Cohen and Sachs 1986、Eaton, Gersovitz, and Stiglitz 1986、Sachs 1989、河合 1994)。11 この当時はある国が返済を拒否すると、今日と同じように国際資金市場を再び利用することが難しくなるだけでなく、中国やエジプトが経験したように関税をはじめとする徴税権を列強に支配されたり、トルコや中南米の一部の国のように列強から砲艦外交により威嚇や侵略を受けるなど、より厳しい制裁を受けた (Feis 1930、Diaz Alejandro 1983、Foreman-Peck 1995)。

 次に第二の、国際資本移動が時間を通じて激しく変動する事実について考えてみよう。

 Obstfeld and Taylor (1997) は 19世紀末以降について先進諸国間の国際資本移動の緊密さの推移を比較し、国際資本移動が第一次大戦前と1970年代の主要国の変動レート制移行期以後に活発であったことを、国際通貨制度が持つトリレンマの問題と関連させて論じている。トリレンマとは、どの国際通貨制度も(1) 為替レートの安定、(2) 自由な資本移動、(3) 各国独立な金融政策、を同時に達成することはできないという問題を指す。単純化すれば、第一次大戦前は、(3) 「各国独立な金融政策」が放棄され、1973年以降は(1) 「為替レートの安定」が放棄され、その間の時期は(2) 「自由な資本移動」が放棄されていたというわけである。しかしこの分析は先進国間の国際資本移動を対象としたものであり、途上国への資本移動については図12で見たように移動が活発であった時期さえ先進国間のそれとは異なっており、そのまま適用することは難しい。12

 高所得国から低所得国への資本移動の変動の原因としては、第一に高所得国と低所得国の経済成長のズレや交易条件の変化等による影響があげられよう。例えば Bloomfield (1968) は第一次大戦前について、投資受入国の経済が好調な時期に資本移動が増える傾向にあったとしている。Cairncross (1953) や Pollard (1989) が指摘するように、第一次大戦前の英国の多額の対外投資は国内投資が奮わなかったことと密接な関係がある。また1970年代から80年代はじめにかけての中所得国への資本流入は、石油価格の引き上げ成功により産油国が大きな黒字主体となる一方中南米等の中所得国が対外借入によって高成長政策を持続させる政策を選択したことに主因があろう。

 第二に、投資母国や受入国の国際投資に関する政策も国際資本移動の変動に影響した。

 例えば第一次大戦以降、国際資本移動が縮小していった主な原因については、今のところ定説と言えるものがある (Eichengreen 1991, 1996、James 1992、Feinstein and Watson 1995、Feinstein, Temin and Toniolo 1997)。この時期、主な黒字主体が英国から米国やフランスに代わったにもかかわらず、新しい黒字主体からの資金還流が円滑に進まなかった。米国やフランスは金をはじめとする流動性の高い資産の流入に対して、金融拡張や対外長期投資でなく不胎化政策によって対応した。これは英国をはじめとする他の諸国に金本位制を防御するために対外投資を抑制する政策を採らせた。

 受入国の政策も重要な要素である。例えば図3に見られるように1980年代後半以降途上国への長期資金流入に占める直接投資の比重が急速に上昇したが、これは深尾・程 (1996) が示しているようにこの時期、途上国が対内直接投資に関する規制(配当政策に関する規制、現地調達率に関する規制等)を急速に自由化したことに一部起因していると考えられる。深尾・岳 (1997) は日本の電機産業企業の国内および海外における立地選択を分析し、投資受入国の規制が立地選択に有意な負の効果を持つとの結果を得ている。

 国際資本移動の変動を規定する要因としては、第三に自らが直面しているリスクに関する投資家や借手の認識の変化があげられよう (Eichengreen 1991)。1980年代はじめの米国の高金利政策とそれによる途上国交易条件の急速な悪化が一因となった累積債務問題の経緯について Diaz Alejandro は、神がボルカーを作りたまうことを誰も予想できなかったと表現したが、問題が起きるまでは借手は多額の対外債務を短期ドル建て融資の形で負うことのリスクを十分に認識していなかった可能性が高い。

 図1に示された国際資本移動の特徴として三番目にあげた第二次大戦後に見られる低所得国への資本流入が中所得国への流入に比べてむしろ少ないという事実は、第二次大戦以前の国際資本移動についても United Nations (1949)、Bloomfield (1968)、Adler and Kuznets, (1970)、Lewis (1978) 等が指摘するようにあてはまる。19世紀末から第二次大戦前にかけて投資の大部分は、ヨーロッパの辺境や資源が豊富で実質賃金の比較的高い新大陸へ向けられたのであり、アジアやアフリカへの投資は少なかった。13 例えば Bloomfield (1968) によれば第一次大戦勃発時の対外長期投資残高を国際連盟統計で見ると、投資母国としては英、仏、ドイツが中心で他に米国、ベルギー、オランダ、スイス等が比較的重要であり、投資先としては規模で見てロシア等ヨーロッパ内の後進地域、北米大陸、中南米の順であったという。また United Nations (1949) は大戦間期において世界人口の40%を占めるインドと中国向け投資が、世界人口の1%しか住んでいないアルゼンチンとオーストラリア向けの投資とほぼ同額であったと指摘している。

 資本流入額の対 GDP 比が、低所得国の方が中所得国よりも少ないという事実は、低所得国グループが世界の人口の過半を擁すること、分母の GDP が極めて小さいことから見て意外な結果である。低所得国では資本蓄積が少なく資本の限界生産力が高いかも知れないことを考慮すると、この現象は資源配分上重要な意味を持っている。また世界の所得分配の均等化という視点で見ても深刻な問題である。次節ではクロスセクションデータを使ってこの事実を詳しく検討してみよう。