5 投資信託とファンド・マネージメント産業の育成

(1)国営ユニット・トラストとブミプトラ政策

 1990年代の民間資金フローの変化は、資本市場への資金調達・運用のシフトであった。民間主導成長への方向転換と公営企業の民営化の受け皿として年金基金を活用することの矛盾を縮小するための一つの解決策は、自発的貯蓄とくに資本市場を介した投資手段の活用のある。その代表的なものが保険や投資信託である。

 マレーシアの投資信託は、「ユニット・トラスト」であり、運用会社は信託契約の規定にしたがってユニットを販売し、ユニット・ホールダーが売却したいときには投資信託会社がつねに買い取りの義務を負う「オープン・エンド」型商品である。

 マレーシアの投資信託(ユニット・トラスト)の歴史は長い。独立直後の1959年に民間投資信託会社(Malaysian Unit Trust LTD)が設立された。しかし、その後は低調で、1968年までにさらに3社設立され、1980年末にはさらに2社を加えた5運用会社21ファンドとなったが、資産規模は1億6200万リンギ(預金残高は1619億リンギ)にとどまった。

 投資信託産業が本格的に成長を始めるのは、1981年4月に国営投資ユニット・トラスト計画が実施されてからである。1981年末に国営ファンドASNが初めて売り出された。最初の発行額は、5億4000万単位(5.3億リンギ)発行されたが、1990年末現在、110億単位(108億リンギ)に成長し、全投資信託資産の93%に達した。(12) 表11は、1995年末における投資信託産業の概略をまとめたものである。1996年末現在、279億単位(489億リンギ)であり、依然として投資信託資産の81.%を占め、投資信託産業の中心となっている。

 国営ユニット・トラスト計画は、ブミプトラ政策が開始された1970年代末には、ブミプトラの資産形成と資本所有ための手段として設計された。(13) リスク分散投資の手段として導入されたとはいいがたく、その最大の目的は、@プミプトラ社会に証券保有の形での貯蓄習慣を植え付けることと、A動員した貯蓄を企業株式所有に向けるという2点にあった。(14) ASNは投資信託の形をとってはいるが、広く零細貯蓄を動員し株式を保有させるために、多くの優遇措置が付けられた「プレミア・ファンド」であり、次の特徴をもっていた。

 第1に、形態的には売買可能な株式リンク資産だが、「固定価格」による買い取りが保証されている。ブミプトラ社会は強い危険回避傾向があり、農村地域の知識をもたない住民の貯蓄を動員するためには、やむを得ない方法とみなされてきた。

 第2に、ポートフォリオの「運用面での優遇」措置である。当初、国営企業の株式が簿価でASNに移転される形で運用されたが、EPFと同様に、1980年代における公企業民営化に際してはその受け皿となり、優遇的な低価格でポートフォリオに組み入れられた。すなわち、資産運用の面でも、その実態はきわめて政策的な意図で設計されたポートフォリオであって、リスク分散投資手段とは言い難いものであった。

 第3に、少額で保有可能とするために、「初期投資額」をきわめて低い水準に押さえる工夫がなされた。1個人に100単位の保有枠がもうけられたが、初期投資の最低額は10単位(1単位1リンギ)であり、残り90単位は将来の配当支払いやボーナスを当てればよい。

 第4に、保有インセンティブを与えるために、投資収益率は預金金利をはるかに上回る高くい「優遇プレミアム」が賦され、さらに、「所得税非課税」措置が与えられた。ここで表12に目を向けよう。同表は、配当とボーナスを含む国営ユニット・トラストの投資収益率を、代替的な自発的貯蓄手段である商業銀行預金利子率と民営ユニット・トラストの利子率と比較したものである。1989年まで、ASNの投資収益率は、預金利子率のみならず、民営ユニット・トラストをはるかに上回っている。つまり、固定価格での買い取りを保証された安全資産でありながら、きわめて高いプレミアムが賦されてきたことがわかる。

 これらの優遇措置の結果、国営ユニット・トラストはまさに政府保証付き高利長期債ともいうべき資産として設計され、広くブミプトラ貯蓄の動員に大きな役割を担い、ブミプトラ社会に定着した。表4の数値にもとづけば、1981−90年間に家計貯蓄の平均7.2%を占めている。保有枠を考慮すれば、この比率はきわめて高いといえる。



 


(2)資本市場整備と国営ユニット・トラスト改革

 1990年代に入って、資本市場の整備が本格化し、公営企業の民営化が積極的に推進された。これと並行して国営投資信託スキームの見直しが行われた。政府は1990年1月にクアラルンプール証券取引所はシンガポール取引所との相互上場を廃止し、資本市場の基盤整備を軸とする金融制度改革に乗り出した。また、1991年2月には、公営企業の民営化を促進するための「民営化マスター・プラン」(the Privatization Master Plan)が導入された。民営化に耐える本格的な資本市場の成長を望むならば、ブミプトラ社会にもリスク投資の意識をもたせる必要があるし、証券保有を一般投資家に広げる必要がある。より具体的には、公企業の放出株式を吸収する受け皿として、投資信託の基盤を拡張する必要がある。こうした認識にもとづき、1989年10月から、新しい国営ユニット・ファンド・スキームが導入された。その内容は、次のようである。

 第1に、「市場連動型ファンド」の導入である。ブミプトラ専用の固定価格ファンドであったASNを市場連動型ファンドに転換し、一般投資家の売買を可能とする。

 第2に、若年層を含む新たな「ブミプトラ優遇スキーム」の導入である。ブミプトラの投信保有を促進するために、新たにブミプトラ向け固定価格型ユニット・トラストASBを導入し、若年層に保有を広げることにした。若年層(12−18歳未満)に特別の保有枠を設定したのは、貯蓄基盤を広げると同時に、投資教育のためであった。(15)

 第3に、「初期コストの引き下げ」である。ASBへの投資奨励のために、初期投資をユニット当たり10リンギまで国営投資信託会社ASNの親会社PNBが肩代わりすることにした。

 第4に、1990年1月には、ASN保有者に対してリスク負担に応じて自由に固定価格型ファンドであるASBに乗り換えることができる「オプション」を導入したのである。

 この新しいブミプトラ向けユニット・トラスト・スキームにより、1991年1月、ASNファンドはクアラルンプール証券取引所で売買が開始された。同時に、市場価格ファンドASNから固定価格ファンドASBへのシフトが一挙に進んだ。(16) その理由は、第1に上記のブミプトラ優遇措置にあったが、それだけでない。表12で示されるように、市場連動型ファンドに転換されるや否やNSBの投資収益率は激減したからである。1991−93年においては、国営ファンドASNの投資収益率は、同じ時期の民営ファンドの平均収益率をもはるかに下回っている。

 すなわち、プミプトラがリスクを好まないというよりも、ASNとASBのパフォーマンスの差が固定ファンドへのシフトを加速したと思われる。投資収益率(配当プラスボーナス)は、1992年にASN8.25%、ASB12.5%と法外な差があり、これは当然であった。ところが、1993年以降は、ASNがASBに収斂する形で縮小しており、ともに預金利子率との差を拡大している。1990−93年の民営ユニット・トラストの収益率と比べても特異な動きであり、ASNの実勢化は失敗したといえるだろう。

 そもそも、国営投資信託の設計そのものが、市場ベースで行われてきたのではない。国営企業の株式放出は、ブミプトラ株式保有目標を優先課題としているところから、公開価格が市場価格より低い水準に設定され、割り当て売出しがなされてきたのである。個人や機関投資家は労せずして割安な株式を所有でき、公開企業はその分だけ高い資金調達コストを払ってきた。これは公営企業の利潤がユニット・トラストを通じてブミプトラ社会に移転されたわけであり、「所得再分配政策」に他ならない。

 他方で、1989−91年にかけて実施された投資信託改革は、若年層を含み広く全国的に投資信託保有を拡大したという点では成功であった。表13は、ブミプトラ向けファンドASBの地域別貯蓄動員率(ABS保有者数/適格者数)を示したものであり、表14はASB保有者の性別・年齢別構成を示したものである。1997年6月現在、国営ユニット・トラストの動員率は、保有適格者の56.6%に達し、36−55歳の壮年層についてはほぼ80%が保有している。地域差はあるが 全国規模で保有されているのみならず、1991年に始まる若年層への割り当て開始により、12−17歳人口の3分の1は保有し、投資信託保有基盤の拡大に貢献している。 

 この点に関連して、表15を参照されたい。これは、国営と民営を含めた投資信託の販売経路を示しており、1995−96年には50%以上が金融機関の窓口を通して販売されていることがわかる。表13では、地域別動員率の低い順に地域を並べている。動員率と金融機関店舗当たり適格者数を比べると、店舗密度が高い方が動員率は高いという傾向が見られる。すなわち、金融機関の窓口が、ユニット・トラストの普及に大きな役割を果たしている。商業銀行の支店ネットワークは、投資信託販売においても大きな役割を果たしてきたということである。

 国営ユニット・トラスト政策を、どのように評価すべきだろうか。その直接の目的は、明らかにブミプトラの地位向上を目的とする社会政策であり、そのための所得再配分と資本所有分散の手段である。しかし、それのみのとどまらず、優遇措置による社会的コストを負っても、全国規模にわたり若年層から貯蓄習慣を付けて潜在的な貯蓄基盤を確立しようとする、教育効果に一定の役割が期待されることも確かである。この点に関連して、1990年代の国営ユニット・トラストの伸長は、一般投資家向けの投資信託を含むファンド・マネージメント産業の振興に大きな影響を与えたことも確かである。この点については、次節で詳しく論じることにしよう。



 


(3)ファンド・マネージメント産業の育成

 貯蓄動員政策の面で1990年代に生じた新しい変化は、資本市場を通じた貯蓄動員政策へのシフトであり、そのためのファンド・マネージメント産業の育成である。ファンド・マネージメント産業とは、投資信託(ユニット・トラスト)、年金基金、資産運用会社、マーチャント・バンクなどを含む投資機関に対する包括的な概念である。表16は、ファンド・マネージメント産業の構成をまとめたものである。ファンド・マネージメント産業は、1990−95年に、運用資産規模で約3倍に成長し、預金残高を超える規模に達している。最大のファンド・マネージメント機関は年金基金であり、1995年現在、運用資産の半分をしめる最大の機関投資家である。その規模は縮小傾向にある反面、投資信託は増加し2割を超える。

 ここでとりわけ注目されるのは、国営ユニット・ファンドの成長に触発された民間投資信託の伸長である。1990年代初頭まで、国営ユニット・トラストによるブミプトラ優遇ファンドが成功する一方で、民営ユニット・トラストは低迷していた。1990年9月に、民間ユニット・トラストの設立を促進する目的で、「ユニット・トラスト・ファンドに関する包括的ガイドライン」が公表された。中央銀行の監督下にある金融機関子会社にユニットトラストの設立を認め、運用を弾力化するなどの措置が講じられた。さらに、1991年4月には正式に資本発行委員会(その後証券委員会へ吸収)の監督下におかれ、10月に詳細な「新ガイドライン」が発表されて、マネージャーとトラスティーの責任の明確化など規制の枠組みが明確にされた。1995年には、規制緩和政策の一環として一定の条件付きで外資系資産運用会社の設立が認可され運用規制もさらに弾力化される一方で、投資家保護のための情報開示義務が強化された。(付表参照)

 こうして政府が産業としての制度化を積極的に進めた背景にあるのは、国民の間に国営ユニット・トラストの定着だけではない。マレーシア経済社会がブミプトラ政策から新たに「社会融和政策」に転換する段階に入ってきたことがある。1992年に社会的融和政策の一環として新たに非ブミプトラも利用可能な最初の一般向けファンド(ASM)が売り出され、それを契機に民間ユニット・トラスト産業は急成長を始めた。表11で示されるように、投資信託産業は、1996年末には純資産600億リンギの産業に成長し、KLSE時価総額の7.4%を保有する代表的な機関投資家となっている。しかし、民間運用会社は19社47ファンド、純資産71億リンギであり、いまだ資産規模では国営ユニット・ファンドの7分の1にすぎない。

 ファンド・マネージメント産業の中でもユニット・トラストの特徴は、資本市場における個人零細投資の動員にある。実際、表17で示されるように、ユニット・トラストの95%は個人保有であり、投資額の88%は株式がしめるリスク・ポートフォリオである。問題は、ユニット・トラスト資産の80%以上をしめる国営ファンドの大部分が固定価格商品であり、パフォーマンスがリスクを反映していないところにある。

 マレーシアでは、証券市場における資産運用を特徴とする投資信託もまた、政策金融機関として利用され、政府主導の発展をとげてきた。貯蓄動員機構として見れば、国営投資信託はブミプトラの社会的地位と意識の向上に一定の役割をはたしたことは確かであろう。だが、投資機関として見れば、あまりにも多くの問題を抱えている。

 マレーシアにとって、政府主導型金融システムから脱却するためには、銀行部門の競争化とともに、リスクの社会的配分機能と長期資金動員機能を担うファンド・マネージメント産業の育成は大きな課題である。投資信託はファンド・マネージメント産業の核である。その観点に立てば、国営ユニット・トラストは、いまや存在意義が問われなくてはならない時期にきていると言わざるをえない。投資信託のリスクを実質的に国が肩代わりするスキームや、年金基金に実質的な短期融資機能をもたせたせるスキームは、健全な資本市場の育成と矛盾する。今後の課題は、機能による金融機関の組み替えである。投資信託は小規模個人投資家を証券市場に動員する手段としてこれまで以上に重要となる。国営投資信託スキームを維持したままで、ファンド・マネージメント産業の成長を促進することは不可能であろう。