4 強制貯蓄機構としての年金基金

(1)貯蓄手段としての被雇用者年金基金

 第1節で指摘したように、マレーシアでは銀行部門とならんで、社会保障基金とりわけ年金基金が、家計の長期資金を安定的に政策金融に動員する上で決定的な役割を果たしてきた。なかでも独立以前の1951年に低所得被雇用者を対象に設立された被雇用者年金基金(EPF)は、強制貯蓄機構として突出した役割を果たしてきた。表9は、1995年末現在における年金基金の構成とポートフォリオの特徴をまとめたものである。1995年末現在も、EPFは年金資産の87%、年金加入者の約50%をしめる最大の組織である。

 ここであらためて、強制貯蓄機構としてのEPFの貢献を見てみよう。表10は1970−96年における家計のEPF拠出額を、グロスとネット(引き出し分を控除)に分けて表示したものである。政府は、退職時の生活の安定とインフレヘッジの手段として、低コスト住宅所有を目的とする退職前の給付金引き出しを認め、福祉政策として退職前死亡時の親族への給付金受け取りスキームの拡充を続けてきた。住宅投資のための引出は、住宅所有を奨励するブミプトラ政策の一環でもあった。

 EPFの拠出金払込額は、グロスで見れば加入者の増加と拠出金率の引き上げともに順調に増加した。1970年代から、頻繁な拠出金率(月当たり賃金支払いに対する拠出金)の引き上げが行われてきた。拠出金率は、1975年7月までは10%であったが、75年8月、その後4回の引き上げにより、1996年には23%という高負担率となった。(付表参照)

 しかし、引出額を控除したネットで見れば、1980年代後半から90年代初頭にかけて減少ないし停滞している。つまり、拠出額ベースは拡大しているが、それをさらに上回る引き出しが生じていたわけである。実際、表10で示されるように、1985年以前は、拠出金に対する引出額はほぼ安定して4分の1程度にすぎなかったが、1985年以降は、3分の1から半分程度にまで上昇している。1990年代初頭に引出率は低下しているが、これは表10で明らかなように新規加入者の増加による。EPFの役割は、1980年代後半から大きく変わりつつあるといえよう。

 第1に、「金融仲介機能」の変化である。EPFは、政府の主要な資金調達手段であり、1951年被雇用者年金基金法(Employees Provident Fund Act)によって基金の70%を政府証券へ投資することが義務づけられてきた。1970年代まで、投資資金の実に90%以上が政府証券に投資されてきたのであった。1980年代半ばにおける民間主導型成長と政府部門の縮小への政策転換により、EPFに課せられた政府証券投資の規制は徐々にゆるめられ、預金や民間証券投資が拡大した。

 この点を表9で確認しよう。1995年末現在、政府証券への投資比率は33%にまで低下し、預金と企業証券への投資比率はそれぞれ29%と27%に達している。(11) EPF投資資金は、預金を介して間接的に、証券投資を通じて直接的に民間投資に振り向けられるようになった。しかし、民間証券への投資比率の上昇を、必ずしも運用規制の自由化と受け取ることはできないであろう。後で触れる国営投資信託とともに、公営企業民営化の受け皿としての役割を担わされたからである。

 第2は、「長期資金動員機能」の低下である。すでに指摘したように、拠出金に対する退職前の引出金の比率が急増しており、長期資金の供給という本来の役割は後退している。社会的安定の一つの手段として政府は個人の住宅所有を奨励し、EPFに対しても退職前の引出を認めてきた。その結果、個人にとって預金と類似の流動性の高い資産となり、退職後の年金ベースは縮小し貯蓄手段としての機能に問題が出てきている。

 第3は、企業負担の増加による「モラル・ハザード」である。拠出金比率(対賃金支払い)は、当初は被用者・雇用者の等分負担(5%ずつ)であったが、1975年から雇用者負担を増す形で引き上げられてきた。1995年末現在、雇用者12%、被雇用者10%である。その結果、被雇用者負担に耐えきれず、安易に支払い不能に陥る企業が増加していると指摘されている。(10) このことも、長期資金の動員機構としての機能の低下をもたらしている要因といえよう。



 


(2)強制貯蓄機能と社会保障機能の矛盾

 年金基金の貯蓄動員機能の低下に対処して、運用を効率化し長期資産としての魅力を高めるため、資金運用・調達両面での自由化を進める制度改革が実施された。(付表参照)すでにふれたように、1991年の新EPF法施行により、政府証券への投資規制が70%から50%に引き下げられ、自主運用の範囲が広げられた。同時に退職前給付上限の引き上げが合わせて実施され、調達面では預金機関との類似性を強めている。

 民間主導型成長政策の転換に対応した金融制度改革の大きな流れの中で、マレーシアの年金基金は、政策金融の原資を調達する強制貯蓄機関から投資機関へと変貌せざるをえないことは確かである。証券の保有比率から見れば、EPFはいまや資本市場の代表的プレーヤーである。運用規制緩和とともに、資産運用の効率化を図るために外部ファンド・マネージャーへの運用委託も始まっている。(11) 投資機関として、投資信託などの資産運用会社やマーチャント・バンクとの競合性が高まりつつある。

 ところが、年金基金は、加入者にとっては国家が受託責任を負ったファンドであり、その最大の特徴はパフォーマンスの安定性と投資期間の長期性にある。投資規制緩和によって長期投資のリスク分散効果が期待される一方で、退職前給付の弾力化にも対応せざるをえないという実態は、社会保障機関としての機能と長期投資機関としての機能との矛盾を強めているといえよう。