2 金融制度改革と資金フロー

(1)金融制度改革と貯蓄動向

 マレーシアでは、1959年に中央銀行が設立されて以来、中央銀行主導による金融制度構築が積極的に進められてきた。そのプロセスを要約すれば、@輸入代替工業化を支えるための低金利政策と国内銀行部門の育成(1960年代)、B輸出促進工業化への転換とプミプトラ政策(マレー人の地位向上のための社会経済政策)を実現するための金融部門への公的介入の強化(1970年代)、C公営企業による重工業計画と財政危機・銀行経営危機への対処(1980年代前半)、D民間主導型成長への転換と対応する金融規制の再構築(1980年代後半)、E外資導入のための資本市場の基盤強化と対外開放への準備、の6つの段階に分けることができる。

 後で触れるように、GNP成長率と1人当たり所得のいずれの指標で見ても、マレーシア経済は1960年代を準備期間として1970年代から成長を開始した。その後、最近に至るまで長期にわたって、比較的順調な成長と社会経済的安定性を維持してきた。活発な国内投資を支えてきたのは、潤沢な国内貯蓄とそれを投資に結びつける金融仲介システムであった。まず、マレーシアの金融仲介システムと資金フローを概観しよう。

 表1は、1960年から現在にいたる金融仲介システムの構造的特徴を、機関別資産構成の形で要約したものである。これから金融仲介ルートの変化を追うことができる。1960年代には政府出資によって大規模商業銀行が設立され、商業銀行と被雇用者年金基金(Employees Provident Fund:EPF)を2つの柱とする金融仲介システムが確立された。商業銀行のシェアは60年代に上昇し70年代にはさらにシェアを高めたが、1980年以降は、ファイナンス・カンパニー、マーチャント・バンクなどの非貨幣機関の成長が始まった。1990年代には、非銀行部門とくに投資信託の伸びが注目される一方、強制貯蓄機構として政策的資金配分の原資を供給してきた被雇用者年金基金は停滞し、郵便貯金を引き継いだ国営貯蓄銀行の後退が著しい。

 次ぎに、表2および図1に目を向けよう。これらの図表は、この間の国内貯蓄投資ギャップとマクロ・パフォーマンスを要約したものである。国内貯蓄率(対GNP)は1970年代前半までは徐々に、1970年代後半から急速に上昇し、1990年代前半には平均34%という驚異的な水準に達した。

 政府部門は、1960年代から80年代までは一貫して貯蓄不足部門であり、1960−70年代は、民間部門が国内貯蓄の70−80%を生みだしていた。とくに1970年代後半は、民間貯蓄率は平均22.7%とピークを迎え、平均19%という高い成長率を実現した。ところが、1980年代前半に国内資金フローは大きく変化した。それまで安定的に伸びて国内貯蓄を下支えしてきた民間貯蓄が激減し、政府貯蓄の上昇が貯蓄率の低下をくい止めた。1980年代前半の政府投資の膨張と民間貯蓄の減少は政府貯蓄の増加をはるかに上回り、財政引き締めと政府部門の縮小を余儀なくされた。1980年代後半に民間貯蓄が回復すると政府貯蓄は減少したが、1990年代に入ると、政府貯蓄は再び増加し、高貯蓄率の約半分は政府部門が支えている。ところが、民間貯蓄が伸び悩む一方で民間投資は膨張し、民間部門の貯蓄・投資ギャップは政府貯蓄の伸びでカバーできないほどとなった。

 すなわち、図2から明らかなように、1970年代末から民間貯蓄はきわめて不安定に動き、それを政府貯蓄が補う形で国内貯蓄の高位安定が維持されてきたのである。マレーシアにおいては、政府貯蓄が国内貯蓄形成にたいして民間貯蓄と並ぶ大きな役割を果たしてきた。

 民間貯蓄と政府貯蓄の動員ルートをフロー・ベースで見てみよう。1970年代のブミプトラ政策と80年代前半の重工業化計画は政府部門の膨張を招いたが、表3はその後の期間、すなわち、1985−95年について、民間部門、政府部門、海外部門の資金フローを項目別に分解したものである。民間貯蓄の動員ルートは、貨幣機関(主として商業銀行)を経由する部分、年金基金や保険ファンドなど社会保障基金を経由する部分、および、貯蓄機関を含むその他金融機関を経由する部分に分けられる。

 1988年までは年金基金・保険などの社会保障ファンド経由の流れが貨幣機関経由よりも大きく、強制貯蓄部分が民間貯蓄の最大の項目であった。ところが1989年からは、貨幣機関を含む金融仲介機関経由の自発的貯蓄部分が増大し、資金移転のルートは政策金融機関から金融仲介機関へと変化したことがわかる。

 政府貯蓄は主として公的部門余剰である。民間主導成長への転換と並行して、1980年代末から政府余剰は拡大を続けている。海外部門の資金流入は主として直接投資である。海外調節投資の受け入れも1990年代に入って成長を続けているが、それからやや遅れて1992年から短期資金の流入が活発化している。表2で示されているように、この間、経常収支赤字は年々拡大を続け、外資依存経済の特徴が明らかとなってきた。

 1990年代のマレーシアは、外資導入を促進し高い国内貯蓄をさらに上回る投資を行い、平均13.5%の高い経済成長率(表2参照)を実現した。しかし、高い国内貯蓄の大きな部分が政府余剰に支えられ、実質的には依然として政策的資金配分に依存した政府主導型成長であったといえよう。



 


(2)家計貯蓄の構成要素

 1970年代末以降の民間貯蓄の不安定化は何に起因しているのだろうか。民間貯蓄の源泉は、主として家計貯蓄であり、家計の貯蓄行動が民間貯蓄を左右する。しかし、家計貯蓄と法人貯蓄を分割した公表データは得られない。ここでは、家計の資産を積み上げて家計貯蓄を計算し、その動向と構成比を見ることにしよう。表4は、家計貯蓄の主要構成要素についてデータが利用可能な1980−92年について、預金(銀行、非銀行)、年金基金、生命保険、現金、国営ユニット・トラスト(ASN and ASB)を集計して家計貯蓄を求め、その構成比を計算したものである。(1) 厳密な数値とはいえないが、少なくとも家計貯蓄の動向を見るのには役に立つだろう。 同表から、次の事実を読みとることができる。

 第1に、家計貯蓄は景気動向に左右されて変動が大きく、1980年代に入って民間貯蓄の変動が強まった原因は家計貯蓄にあると推測できる。預金は家計貯蓄の30−40%以上を占める最大の要素だがその比率は不安定であり、家計貯蓄の調整項目となっていることが分かる。

 第2に、年金基金による強制貯蓄は、少なくとも1990年代初頭まではもっとも安定した要素であり、家計貯蓄の「ビルト・イン・スタビライザー」として重要な貢献を果たしてきたといえる。(2) とくに、1984−88年の景気後退期には、預金の形をとる自発的貯蓄は激減し、年金基金による強制貯蓄部分が民間貯蓄の低下をくい止める決定的な役割を果たしたことは注目される。その理由は、被雇用者年金基金の拠出率は月当たり賃金支払い総額に対する一定比率と定めされており、1980年と93年にかなり大幅な引き上げが行われてからである。(付表を参照されたい)

第4に、生命保険や国営投資信託(ASN/ASB)は、比率はそれほど高くないものの、家計にとって預金と代替性の高い自発的貯蓄部分となっている。



 


(3)政府貯蓄の構成要素

 政府貯蓄の大部分をしめる公的部門余剰は、政府一般会計余剰と非金融公営企業(NFPEs)の営業余剰から構成される。ブミプトラ政策が正式に採用された1970年代には、政府貯蓄は低水準にとどまる一方で公共投資が急増し、財政赤字が累積した。(3) ところが、すでに指摘したように、政府貯蓄は1970年代末から徐々に1980年代前半から急速に増加し、政府部門の資金不足は解消に向かった。

 1980年代前半の政府貯蓄の上昇は、ゴム、パーム・オイル、石油など主要一次産品の国際価格の上昇と、政府石油公社Petronasによる石油資源の発掘に代表される国営企業による重化学工業化政策によって、公営企業の営業余剰が増加したことに起因する。(4) また、1980年代後半の上昇は、1982年に始まる不況に対して採られてきた拡張的財政政策から緊縮財政へと転換したこと、公営企業の民営化と業績改善のためのリストラ措置や経営監視機関が功を奏して政府支出の縮小に成功したことによるといえよう。(5)

 政府部門のリストラと公営企業の民営化が一段落すれば政府貯蓄は縮小し、政府部門に国内貯蓄の下支えを期待することはできなくなるだろう。海外資金への依存が金融システムの不安定性を高めると懸念されることから、マレーシア経済が引き続き高い水準での安定成長を維持しようすれば、民間貯蓄の動員はこれまで以上に重要な課題となることは明らかである。