2.Blyn、Heston、Sivasbramonian、Islam の推計

 

 英領期の農業生産の変動についての最も体系的な統計的考察としては、ジョージ・ブリン(George Blyn)の Agricultural Trends in India, 1891-1947: Output, Availability, and Productivity がある。この研究の特徴は、第一に、主として、Estimates of Area and Yield of Principal Crops in India に依拠した推計であり、従って毎年の作柄指数についてもその影響を排除することなく利用していることで、この点は、後にヘストンによる批判の対象となる。第二は、推計の対象を英領地域に限定し、従って藩王国に含まれた地域の農業生産は推計の対象から除外していることである 3)。 

 ブリンはこの研究をとおして、1891年から1947年までの期間について食糧穀物作物の生産高の平均年成長率は僅か0.11パーセントに過ぎず、食糧穀物のインド国内への一人当りの供給量は減少したこと、食糧穀物以外の作物の生産は、全体として年平均1.31パーセントの成長率で増大し一人当りの生産量も増大したが、作物間の差異が大きいこと、全体としての農業生産は、ほぼ人口増大率に等しい速さで増大したことを明らかにした。

 ボンベイ地方の農業生産の変化をたどったアラン・W・ヘストン(Alan W. Heston)の研究は、一人当りの食糧穀物収量の低下を示したブリンの見解に修正を加えようとするものだった。ボンベイ管区では、「県平均エーカー当り標準収量」が1897年から1946年の長期にわたって改訂されず、従って、この間の Season and Crop Reports や Estimates of Area and Yield 統計における単位面積当りの収量の変化は、専ら「作柄指数」が変化した結果で決まった。ヘストンは、これらの収量データは徴税行政上の副産物であって、それをそのまま現実として理解してはならない、という。その根拠として、「作柄指数」の年次的変動が、降水量など天候の変動と相関していないこと、「作柄指数」は平均が100になるはずなのに、実際に発表された指数の平均値は100をかなり下回ることを指摘する。この指数が低下傾向を示したのは、初期は行政上の理由で、後期には政治的圧力や反地代運動の結果である。さらに、「県標準エーカー当り収量」にもバイアスがあった。特に1886年と1897年の間にはそれは高めに設定されていた。それは、行政官が実際の収量について十分な知識を持っていなかったことと、総生産量に対する地税負担の比率が大きく表示されないようにするためであったという。ヘストンは、1886年から1947年の期間に、面積当り収量が低下した、あるいは逆に増大したという、いずれの主張についてもそれを裏づける証拠はないと主張した 4)。 彼は、Cambridge Economic History of India 5) において英領期インドの農業生産を推計している。そこではエーカー当り収量が増大した sugarcane、tea、coffee および cotton については、政府の生産量を採用するが、エーカー当り収量が減少した、主要な食糧穀物たるrice、wheat、jowar、bajra、barley、maizeとgram については、政府統計の数値を採用せず、これら7作物については1900年から1947年の間の平均エーカー当り収量は1952-53年から1954-55年の全インドの坪刈調査の数値に等しいとの仮定に基づいて、農業生産量を算出している。その際、この期間のそれぞれの作物について、年々の変動を維持しつつも、これら作物のエーカー当り収量が傾向的に下落したと考える根拠は乏しいとの理由に基づき、収量の下降傾向は消去されるよう計算した 6)

 このヘストンの議論には、いくつかの反論が寄せられた。例えば、シュミット・グハなどは、次のような批判を行っている 7)。まず、降水量の変動と相関がないから「作柄指数」は実態を反映していないというヘストンの主張に対して、「作柄指数」と降水量とはある程度相関しているし、降水量はその年の作柄に影響する複数の要因の一つに過ぎないのだから、それとの相関がなくても「作柄指数」が実態と関係しないとはいえない。また、農産物価格の上昇の結果、1907年以降にはすでに地税の生産物に対する比率はかなり低くなっていて、あえて「作柄指数」を引き下げなくてはいけないという行政上の必要はなくなっていたし、地代反対運動を行った小作人にとって地主が支払っている地税を引き下げられても何の利益にもならないのだから、小作運動の影響で「作柄指数」が下がったというヘストンの主張は根拠がない、などである。

 シヴァスブラモニアン(S. Sivasubramonian)も、ヘストンを批判する一人である。彼はすでに、1960年に、植民地期のインドの農業生産の変動を推計している 8)。 彼の推計は、英領および藩王国を含むインドを対象としており、その分だけブリンよりは広くカヴァーしていることになる。その後、彼は英領期インドの国民所得の計算を行い、その中で農業生産についても改訂した方法によって計算している。その際、彼は、エーカー当り収量の減少がなかったというヘストン推計の仮定は根拠がないとして、ヘストンの推計方法を否定し、基本的には政府の推計に依拠して計算を行った 9)

 面積当り収量が減少した証拠がないとの理由で「作柄指数」が低下傾向を示した場合にはその採用を否定するヘストンの見解に問題があることは、筆者のタミル諸県の米作統計の検討も示すところである。タミル諸県については、インドの他の地域とほぼ同様に、1945年-49年に Indian Council of Agricultural Research (ICAR) による、ランダム・サンプリング方法に基づく坪刈調査が行われ、さらにほぼ同様の方法に基づく調査が1955年以降はマドラス政府の農業省によって行われた。これらランダム・サンプリング方法に基づく坪刈調査が示す米の収量の絶対値と、「作柄指数」と「県標準エーカー当り収量」との積で計算される政府統計の数値との間には明らかな差異があるが、両者の変動の仕方はかなり近似しており、「作柄指数」の示す収量の傾向が現実の動向をかなり反映していることを示している 10)

 以上のように、政府農業生産統計が示す傾向的変動を現実の変動を反映したものと認めることができると考えられるが、そのことは政府統計の数値がバイアスをもっていなかったことを意味しない。パンセ(V.G. Panse)は、主として1945年から1949年に行われたICARによる坪刈調査との比較によって、それ以前の政府発表農業統計には次のようなバイアスがあったことを主張した。第一に、伝統的方法では、ほとんどのケースで過小推計をしていること、第二に、しかし、不作の年にはむしろ過大推計が行われたことである。例えば最もデータの多い作物である米の場合、1945-46年から1948-49年の4か年について、ビハール、ボンベイ、マディア・プラデーシュ、マドラス、クールグ、オリッサの諸州ではマドラスの1か年を除いてすべての年次において政府推計は過小推計となっていた。ウッタル・プラデーシュでのみ4年間すべて過大推計がおこなわれたが、ここでも、6つの行政区分のうち2つの区分では4か年間すべてで過小推計であった。1943-44年から1948-49年のデータが得られる小麦の場合は、パンジャーブ州とデリー州では常に過小推計となっており、ビハールは常に過大推計であった。ボンベイ州では過大推計であったが、それはこの期間に起こった同州における赤サビ病による不作の結果である。マディヤ・プラデーシュも同様に赤サビ病の影響で過大推計となった、とパンセはいう 11)

 他方、ベンガル地方についての政府統計は、過大推計の傾向を持っていたようである。イスラームによれば、1944-45年に、当時の開発コミショナー、A.H.M. イサク (Ishaque)が指導して作成した「地片別計算による農業統計」が最も信頼性の高い推計であるが、このほかインド統計研究所によるサンプル調査や県査定調査報告書が依拠すべき推計である。これらを基準に判断すれば、それ以前のベンガル地方の農業統計においては、作付け面積について過小推計が行われ、他方、「標準エーカー当り収量」と「作柄指数」は過大推定となっており、従って面積当りの収量は過大に推定されていた。イスラームによれば、作付け面積の過小推計を改める方向が追求され、冬作と秋作の米については1941-42年から、その他の作物については1942-43年から作付け面積を増大させ始めたという。イスラームは、以上の認識にたって、1944-45年の政府統計とイサク調査の数値との比率を計算し、その比率によって政府統計の数値を改訂する方法を採って、ベンガルにおける農業生産推計を行った 12)

 以上のイスラームの方法は、全インドの農業統計の処理に当たっても、ある程度適用することが可能であろう。すなわち、前述のように、ベンガル以外の地域については、少なくとも米と小麦については、ICAR がその調査結果に基づき従来の方法による面積当り収量の推計のバイアスを測定しており、これによってブリンおよび シヴァスブラモニアンの推計を改訂することができよう。