3.『中国工業調査報告』の概要




前節の簡単な紹介からわかるように、工業生産額特に近代部門のそれを推計する作業は、すべて劉大鈞『中国工業調査報告』から出発している。それに値する調査であることは確かであり、われわれもベンチ・マークとなるデータとして『中国工業調査報告』の数字を採用する。そこで本節以下三つの節で同調査についてその精度などについて詳しく吟味してみよう。

当初の調査計画案によると4種類の調査票にもとづく調査が予定されていた12。それは、東北を除く全国1800余の県政府が記入し返送するよう求めて送付した「工業地方概況調査票」(以下Aとする)、 Aの受領後に改めて県政府に送付することにしていた「工業分業調査票」(B)、工場法適用対象となる条件(原動力使用・職工30人以上)を満たす各工場(除外資工場)に調査員が直接赴いて担当者に面接調査して記入することにしていた「工廠調査詳表」(C)、工場法適用対象外工場に対してサンプル調査を行うための「工廠調査略表」(D)の4種である。

しかしこの当初計画はそのまま実施に移されず、最終的には以下のような経過をたどった。まずCについてはほぼ目標を達成し、その結果が中冊として公表された。それに対しAとBは回収率がきわめて悪く(1年を経てもAの回収は100余県分に過ぎなかったという)誤記も多かったので、利用するのを諦めざるを得なかった。またDは、1162工場の分について調査し記入していたが、独自の統計表を作成するためには用いなかった。その代わりに、各調査員がC、B、D等を参考にしながら推計を進め、「分業估計表」(業種別見積表)をまとめた。これが下冊に収録されている。

中冊には全部で14の統計表が掲載されている。表1はそのタイトルの一覧である。

これらの表を作成するに際しては、原料投入量・産出量・機械台数・労働投入量の4項目相互の比率が計算され、調査結果に矛盾が生じないよう厳格な審査が行われた。各表はまず産業別に分類され、さらに最下級の産業を単位に地域別に編制されている。産業は4つの級(レベル)に分類されている。第1級はILOの分類方法に基づいた大分類で16の産業(木材製造業、家具製造業、冶煉業、機械・金属製品業、輸送用機械製造業、土石製造業、建築材料業、水道・電気、化学工業、紡織工業、服用品製造業、皮革・橡膠製造業、飲食品製造業、製紙印刷業、飾物儀器製造業、その他工業)から構成されている。第2級もやはりILOを例にそれに中国の実状を加味した中分類の87産業に分かれる。第3級は中国の習慣を根拠とした小分類161産業から成る。この小分類までに適合しない場合、第4級として28の細分類産業が加えられている。地域は5市(上海・南京・北平・広州・青島)と17省(江蘇・浙江・安徽・江西・湖北・湖南・四川・河北・山東・山西・河南・陝西・察哈爾・綏遠・広東・広西・福建)の計22分類である。

下冊には146の市・県ごとに、@工場数・資本額・職工数、A生産総額と販売先構成、B主要生産品数量、C主要原料投入量、D主要作業機数量の5つの表が掲げられている。各表の数字は前述した第2級の産業ごとに示されている。ただしそれは中冊の産業分類と一致しない。下冊における産業の呼称は各地の習慣のものをそのまま使ったという13

以上の説明からわかるように、『中国工業調査報告』には工業生産額、ないしはそれに近似した数字を扱った統計が3種類存在する。


    @) 中冊第11表による1932年の「各種銷售産品総値」(販売総額)

    A) 中冊第14表による「各種主要産品価値」(主要製品生産額)

    B) 下冊による産品総値(総生産額)



@)とA)は対象年次も数値の概念も異なっているため当然一致しない。生産額概念を採用しているA)とB)との間には、以下の四つの相違点があった。第1に、調査対象となった県・市の数である。すでに述べたように中冊では126の県市が対象であったのに対し14、下冊では146の県市に拡大している。第2は、調査対象工場の範囲である。中冊の工場が「原動力使用・職工30人以上」という工場法適用工場であるのに対し、下冊の工場には、原動機の使用の有無にかかわらず原則として機械を使用するすべての工場が含まれていることになっている15。さらに後の4節で詳しく論じるが、下冊は職工30人以上の手工場も含んでいる可能性が高い。したがって、もしその通りに実施されていれば、下冊は中冊の工場法適用工場に不適用工場(職工30人未満で原動機を使用する工場および職工30人以上で原動力を使用しない工場)が追加された調査結果とみなしてよい。第3は生産品の範囲である。中冊の生産額が主要製品に限定されているのに対し、下冊には総生産額が掲げられている16。第4は産業分類方法である。第2級レベルまでに関しては、中冊はILOの分類方法を基準にしているが、下冊は全く調査地点における呼び名をそのまま利用している。

『中国工業調査報告』に含まれる上記3種類の統計表と前節で紹介した既存の近代工業部門の生産額推計作業との関係は以下の通りである。まず劉大鈞自身は意味のある数字として上記 @)の総額を提示した17。11億1266 万元(1932年)という数字がそれである(水道・電気供給産業を除く)。A)は巫宝三等によって1933年の国民所得推計作業の一部に採用された。彼らは原数値に若干の部分的な補正を加えた。それが12億2916 万元という数字になる18。なお呉承明らも基本的には同じ考え方を踏襲している。他方、Liu and Yeh は、最もカバレッジが広い数値として B)をほぼそのまま採用し、部分的な修正を施し、1933年の生産額を17億7140万元と推計した19

この3種類の推計結果を、どう評価すべきだろうか。まず中冊と下冊の調査結果全般についての劉大鈞自身の評価を探ってみよう。上冊第1編(調査概要)第1章の中で、中冊については、その普遍性・精密性に関し過去の工業統計および英米両国の統計に比し勝るとも劣らないことを自負している20。また同第6章の「統計表の編制」の解説も中冊だけを対象にしている。これに対し下冊については、調査概要を記述した上冊第1編ではほとんど触れられず、第3編・工業分地略説(地方別概要)の冒頭で簡単な説明が与えられているに過ぎない。中冊と下冊の取り扱われ方には明らかに大きな差がある。これはそのまま両調査結果に対する彼自身の評価を意味すると判断してよいだろう。

工業生産額の評価に戻ろう。カバレッジが広い点において Liu and Yeh 推計は魅力的である。しかし既に述べた調査の経緯から判断して、B)の数字は最も信頼性の低く、統計の対象となる工場の範囲も地方ごとに大きくばらついている。だからこそ、調査をまとめた劉大鈞自身は最も信頼性の高い中冊11表の数字を用い、調査の経緯を熟知する立場にあった巫宝三らも、下冊ではなく中冊14表の数字を用いたものと思われる。

しかしながら、工場数を指標に採れば下冊の情報量は中冊の約8倍にも達する(後掲表2参照)。しかも、下冊の統計表を編制する際に「苟も原料と製品、作業機と製品、製品と製品価格、職工と作業機等の数字が相互に合致しないようなことがあれば、必ず調査員をして再度調査せしめた」と述べられているように21、相当の配慮が加えられていることも確かである。したがって下冊を利用しないことは、将に「宝の持ち腐れ」の誹りを免れない。われわれにとっては、下冊の調査結果を十分検討し、問題があればそれに適当な修正を施して利用することが最も望ましい選択だろう。

最後に『中国工業調査報告』の調査対象から外された重要な工業部門についてふれておこう。それは軍工廠と造幣廠である。巫宝三推計は、別の資料に依拠して造幣廠の生産額を算出しているが、軍需工場についてはそのような手続きを行っていない。巫宝三らは、政府公共部門の経済活動の中に軍需工業の生産も含まれており、そこできちんと算入されるならば国民経済計算の総額には問題が生じない事を理由にして、工業部門の生産総額を求める際、敢えて軍需工業生産額を算入しようとはしなかった。Liu and Yeh、及び呉承明らのその後の研究においても、こうした巫宝三らの手続きについては修正されていない。したがって本研究にとって重要な課題の一つは、軍需工場の生産額算定を試みることである。





 


12.以下の記述は劉(1937)上冊第1編第2章による。





 


13.劉(1937)上冊第3編3頁(邦訳大塚(1942)205頁)。





 


14.中冊の126という数字は、劉(1937)上冊1編4頁(大塚(1942)6頁)の記述による。





 


15.劉(1937)上冊第3編1頁(大塚(1942)203頁)。





 


16.実際には製品範囲の相違に起因する生産額の格差はほとんど無かった。





 


17.劉大鈞が Institure of Pacific Relations の第9回コンファレンスに提出したとされる論文の中に、中冊11表の販売額の由来する数字が提示されている(Liu (1946) pp.45-46)。





 


18.巫(1947a)上冊64頁1表(水道・電気供給産業を除く)。





 


19.Liu and Yeh(1965) p.428. これに水道・電気供給産業は含まれていない。





 


20.劉(1937)上冊第1編3頁(大塚(1942)4頁)。





 


21.劉(1937)上冊第3編3頁(大塚(1942)205頁)。