2.民国期中国の工業統計と推計作業




辛亥革命後に成立した中華民国政府は、近代的な経済行政を進めるための必要性から、全国的な経済統計の編成作業に着手した。その結果、1912年から21年にかけて工商部(後に農商部と改名)によって行われた10回の全国的調査に基づき『農商統計表』と呼ばれる9冊の経済統計表が発行された。しかしその調査方法と調査結果には多くの問題がある。当時の中央政府には、調査員を各地に派遣し実地に調べるという用意も力量もなかった。この時工業調査のために実際に行われたのは、工場側の自記式調査であった。北京の中央政府は、各地の県政府がとりまとめて報告してきた自記式調査の回答結果を、ただ単純に集計したに過ぎなかった。したがって政府に経営の実情を知られ、課税の際の資料にされるのを警戒した工場側が調査票へ正確に記入しない場合も多かったと見られ、調査の信頼性には疑問が残る。また中央政府の実効支配領域が狭まっていったことにともない、調査がカバーする地域も漸次縮小する傾向にあり、1921年には全国22省のうち収録されたのはわずか6省にとどまった。このように『農商統計表』には多くの問題が含まれている

その後、国民革命を経て国民政府が全国を統治するようになると、改めて全国的な経済統計の編成が試みられた。工業調査の試みに限って言えば、全部で5回を数えた。といっても1920年代末の政府成立当初の時期は十分な統計を作成するだけの行政能力が不足していたし、1937〜45年は日本の中国侵略によって、また1946〜49年は国共内戦によって、全国的な統計を作成する作業は困難を極めた。したがってある程度の信頼性とカバレッジを持つ全国的な工業統計は1930年代前半にのみ存在した。それが後に述べる『中国工業調査報告』である。その内容の検討に入る前に、国民政府によるその他4回の工業統計調査の試みと日本が占領地で実施した二つの調査について一瞥しておく

最初の統計編成作業は1930年、国民政府工商部が実施した「全国工人生活及工業調査」である。これは訓練を受けた調査員による面接調査であり、その結果は『全国工人生活及工業生産調査統計』として公刊された。しかし生産額のデータは一部の工場について断片的に記録されるにとどまっている上、調査対象地域も全国の主要都市に限定されているので、工業生産の全体像を把握するための資料にはなり得ない。なぜならば調査の目的が工業生産の実態解明よりも労働者の生活実態を確認し、社会政策の資料として利用するところに置かれていたからである。

次いで1932年から36年にかけ、国民政府実業部(工商部の後身)の国際貿易局が「全国実業調査」を進めた。これは各省に同局員らを派遣し、地方政府や同業団体等の協力を得て実業関係の資料を収集整理したものであり、その中には機械工業・手工業の調査も含まれていた。調査結果は江蘇、浙江、山東、山西、湖南の各省ごとにまとめられ、5冊の『中国実業誌』として順次公刊された。手工業関係の資料が豊富なこと、個別工場の情報を知り得ること、各地の主な産業分野ごとに発展過程が概観されていることなど、参照に値する情報も多い。しかし結局まとめられたのは上記5省分だけにとどまり、全国をカバーする調査にはならなかった。また上記のような方法で進められた調査であるため、多種多様な工業統計の作成基準が必ずしも統一されていないし、調査員が各工場へ実際に赴いて調べた訳ではないので、調査精度にも疑問が残る。しかし他の統計と組み合わせるなら、それはかなり利用価値がある。

一方、日中戦争期に行われた工業調査としては、国民政府経済部(実業部の後身)が1943年に実施した後方地域(日本軍に占領されず重慶国民政府の統治下にあった四川、雲南、貴州、広西、陜西などの諸省)の工業調査があった。これは主要企業約2300社に対し調査票を郵送して行った調査であり、1400社ほどが回収され、『後方重要工鉱産品統計』として整理されている。工業調査としては不備なものだが、戦時期の後方地域における工業発展を知るための貴重な資料となっている。

民国期の最後の工業調査は、やはり同じ経済部により1947年に実施された(「全国主要都市工業調査」)。経済が発展していた地域の工場を対象にした調査票郵送方式によるものであり、回収率は約80%であった。これも工業調査としては十分な内容を備えておらず、戦後の経済状況を窺う一資料という程度にとどまっている。なお調査結果はその一部が政府の部内資料としてまとめられた。

日中戦争の期間中、日本はその占領下にあった中国華北地区の近代工業について、2回にわたり全般的な工場調査を実施した。調査対象工場は職工数10人以上もしくは電動機使用の工場で、後述する『中国工業調査報告』中冊より広範囲でしかも外資工場も含まれている。サンプル数は、1939年を対象とする1回目が 3,157、1942年を対象とする2回目が 6,413で、工場所在地・経営者名・資本金額から職工数・生産量・生産額にいたるまでの詳細な情報が、前者は合計1300頁以上、後者は合計2000頁以上の名簿と統計表に整理・印刷されている。すなわち、第1回目調査分は、北支工場調査委員会編『華北工場名簿 昭和14年』および北支工場調査委員会編『華北工場統計 昭和14年』で、第2回目調査分は、北支軍参謀部・在北京大日本帝国大使館事務所『北支工場名簿(昭和18年度調査)』および北支軍参謀部・在北京大日本帝国大使館事務所『北支工場統計 昭和18年』、である。調査対象地域が限定されているとはいえ、『中国工業調査報告』にまとめられたデータを除くと、これに匹敵する工場調査は存在しないと言っても決して過言ではない。『中国工業調査報告』の疑問箇所の訂正とそれの延長推計作業をする上で、この日本側調査機関による戦時華北の工場調査がきわめて重要な意味を持つ

以上の6回の工業調査に比べ、1933〜34年に実施された全国工業調査は、最も厳密な調査方法によるものであった。調査は国民政府参謀本部の国防設計委員会(1935年に所属と名称が変更され、軍事委員会の資源委員会となった)が中国経済統計研究所に実施を委託し(代表者・劉大鈞)、訓練を受けた調査員たちが実際に各工場を訪れ、担当者に対し面接調査する形で進められた。詳しくは次節で述べるが、外国資本の工場に対する調査が実施されなかったこと、辺境諸省及び日本の占領下にあった東北地区も対象から外されたことを別にすれば、ほとんどの対象工場に対し調査が実施されたものとみられる。結果は『中国工業調査報告』上・中・下の全3冊にまとめられた

以上のような工業調査の状況を踏まえた近代工業部門の総生産額の推計作業として、検討に値する先行業績は以下の4つに絞られる。

    @)劉大鈞『中国工業調査報告』。

      前述のとおり、民国期に実施された何種類かの工業調査のうち、信頼すべき内容を備えた実質上唯一の調査である。

    A)巫宝三推計

      @)の劉大鈞『中国工業調査報告』を基礎としつつ、他の多くの統計類および日本側調査を渉猟し、『中国工業調査報告』の遺漏分、手工業生産額、および外資工場・東北地区の工場の生産額など推計した。これは、国民政府直属の研究機関である中央研究院が国民所得推計のために総力を結集した研究成果であり、作業時期が1940年代半ばという時代背景に鑑みれば、驚嘆すべき事業と言わざるを得ないほど充実している。その後巫宝三は、汪馥孫が行った外資工場の生産額についての新推計を利用して、その分のみを修正した結果を発表した

    B)Liu and Yeh 推計10

      基本的にはA)と同じ立場の作業である。ただし@)の劉大鈞調査の利用の仕方や工業分類の方法などに相違があるため、推計結果の数字には相当の開きがある。

    C)呉承明推計11

      A)をもとに1920年と1936年に関する工業生産額の推計を行っている。







     


    2.これについては、工業班に属する関権氏が改善を試みており、その成果が公表されることになっている。(関(1997))。





     


    3.満州を対象とした調査は含まない。





     


    4.以下本稿で使用する「職工」という用語は、中国語の「工人」に相当する。





     


    5.中国社会科学院経済研究所には4タイトルすべて所蔵されているが、日本では『華北工場名簿』が東大・東洋文化研究所に、『華北工場統計(第4巻 山東省ノ部)』が一橋大学・経済研究所に所蔵されているに過ぎない。





     


    6.これら2回の調査についての検討は久保(1997)が行っている。





     


    7.劉(1937)。国立国会図書館・東洋文庫には本書の上・中・下3冊のコピー本(原本はアメリカ議会図書館所蔵)がある。ただしこれには下冊の2ページ分(126-127頁)が落丁になっている。われわれは、中国社会科学院図書館所蔵原本からこの欠落した2頁を補った。一橋大学・経済研究所には、マイクロフィルム版からのコピー本(ただし上・中2冊分のみ)がある。





     


    8.巫(1947a)。





     


    9.汪(1947)、巫(1947b)。





     


    10.Liu and Yeh (1965)。





     


    11.許・呉(1990)、同(1993)。