3. 推計結果の検討

3.1 原データとの比較

以上のような手順によって修正された結果(名目生産額)が,原データと比較する形で図2に示した。この図から次の3点が読みとれる。まず第1に原データの変動に大きなこぼこがあったのに対し,修正データは滑らかに推移している。これはわれわれの第1ステップの効果(一種の移動平均効果)といえよう。また第2の特徴としては,1913年以降修正値が原数値を上回っており,明らかに原データの欠落部分を補った効果が現れている。これは第2ステップで推計された数字である。第3点は原数値の動きである。1916年と1917年は生産額の増加が著しい。すでに述べたようにデータの欠落は1916年(第5回)以降次第に大きくなる。従って原数値の生産額は1916年以降低下することが予想されるが,それとは逆の動きが見られる。これは確かにその間に成長があったことを示唆する。従って第1ステップで推計するとき,ある程度これらの年次のデータを尊重した。逆に最初の1912(民国1)年では,数値が高すぎる傾向にある。この年の生産額がなんと42億元にものぼっていることは,いくら考えてもおかしい13。この数値は,われわれが推計した数値(20.4億元)の倍にもなっている。







3.2 他の推計との比較

それでは,われわれが推計した数値はどんなレベルのものであろうかを,他の推計結果と比較検討しなければならない。劉佛丁によれば,この時期の国民所得の推計としては,1914年に関する劉・王推計,1914〜18年に関する K.C.Yeh 推計,D.H.Perkins 推計,T.G.Rawski 推計,1917年に関する張東剛推計,1920年に関する唐伝泗推計,呉承明推計など数多く存在する14。それらが工業の生産額をどこまで詳しく推計したかは,現在入手できないものもあるのではっきりした判断は下せない。またその中に本推計と比較しにくいものもある。例えば,D.H.Perkins 推計は戦後の1957年価格表示なので,比較のためには価格換算を行わねばならない。またすでに強調したように,この時期の工業に関する調査は『農商統計表』以外に存在しないし,他の適当な資料もないので,『農商統計表』以外の資料を利用して工業生産額を推計した可能性は極めて低い。従って,各推計は恐らく1933年の劉大鈞調査に基づいた巫宝三推計,あるいは Tachung Liu・Kung-chia Yeh 推計をもとに延長推計したものと推測できよう15

この中から,われわれは呉承明推計を紹介しながら,本推計と比較検討をしよう16。その前に,まず避ることができない問題に触れねばならない。一般に中国の経済史学者は,『農商統計表』の数字を手工業として取り扱っている。この点についてわれわれの見解とは異なる。3.3節で詳しく述べるが,一部の品目を除いてこの調査は「工場数」については7人以上の工場,「生産量・生産額」などについては7人以上の工場と7人未満の家内工業の両方を含めている。従って少なくとも生産額に関する限り,悉皆調査に近いものになっているはずだから,中国の経済史学者の処理は誤っている。「工場数」については産業分類を取り,「生産額」については品目別になって,機械産業などの生産額はほとんどない。あえていえば五金製品及び時計ぐらいである。これが問題といえば問題である。篠原三代平が『鉱工業』を推計したときにも,『工場統計表』や『鉄鋼参考資料』などの資料を使って推計したのである17

呉承明推計が基本的に巫宝三推計の延長であることをすでに紹介した。彼は1920年の工業生産額を巫宝三と同じように近代工業と手工業に分けて推計した。近代工業については,巫宝三推計の工場生産額をそのまま John.K.Chang 指数を使って延長計算をしたが,業種別の詳しい推計は行わなかった。一方,手工業については製綿,綿紡績,綿織物,食料油,製粉など一部の品目(いずれも重要な品目)を除いて,巫推計にすべて1.126という倍率を乗じた。この倍率は,65種類の輸出品の輸出額(海関両)を輸出価格指数で調整して得たものである18。1920年と1933年との間にほとんど物価の影響がなかったので,国内の価格指数による調整は行われなかった。ただし,輸出価格が多少変わったので,輸出価格指数で調整してからこの倍率を計算した。しかし呉承明推計は手工業に限定しているので,われわれの推計と直接比較できない。従って本推計と比較するためには近代工業部門の品目別生産額を別途推計する必要がある。それが表3の(B)列・調整済み巫推計である。

総額についての比較は次節で行うこととし,まず呉承明推計の一部重要な品目について本推計と比較しよう(表3)。一見さまざまで1に近い数値もあれば1から離れたものもある(表3の(E)欄)。しかし,綿織物や食料油及び製粉などのように,金額的に(或いはシェア的に)大きい品目はかなり1に近づいている。もちろん,大きく乖離した品目が半数を占めていることも無視するわけにはいかない。それらについては,両推計のどちらがよいかは即断できないが,呉承明推計は基本的に巫宝三推計の延長であるため,巫宝三推計にも全く問題がないわけではない。例えば,玩具について巫宝三推計では30万元にすぎないのに対し,『農商統計表』(情報の最も多い前の4回)では140〜170万元になっている。







3.3 補充推計

われわれの推計した総生産額も考察しなければならない。1920年だけみれば,呉推計が42.6億元で,本推計が26.5億元で,本推計の方が遥かに低い数字になっている。しかも呉推計は手工業に限定しているのに対し,本推計は概念的に近代工業をも含むなら,さらに低い数字になってくる。そこで,まず『農商統計表』は近代工業を含んでいるかどうかを検討せねばならない。すでに述べたように一般的に経済史の専門家は,手工業を議論するときにのみ『農商統計表』の数字を使う傾向がある。それは果たしてよいのか。われわれは違う意見をもっているが,この点についてまだ検討する余地がある。

われわれの理由は次のとおりである。『農商統計表』には品目別製造戸数,職工数,生産量・生産額の調査とは別に,7人以上の工場をも同時に調査している。その中には動力使用工場も職工30人以上の工場も入っており(いわゆる工場法適用工場),これが巫宝三推計では近代工場として定義される。また,日本の『農商務統計表』にも全く同じような問題が存在する。しかし,日本ではこの統計数字を手工業として取り扱ってはいない。従ってわれわれは,『農商統計表』が手工業と近代工業の両方をカバーするものだと一応判断している。ただし,当時中国工業の特徴の1つでもある外資企業が調査に含まれていないことは,前に触れたとおりである。

一方,この判断については,多少保留する必要がある。なぜなら工場数の調査には機械器具工業や金属工業などが含まれているが,品目別の生産額には必ずしもこれらの工業の製品が全部含まれていない。例えば,機械器具工業としては時計,金属工業として五金製品(金銀銅鉄製品)のみの生産額しか分からない。この点に関して,日本の『農商務統計表』も同じようなことがある。篠原三代平は特に明示的には指摘していないが,長期経済統計『鉱工業』を推計したとき,機械工業と金属工業については『工場統計表』及び『鉄鋼参考資料』などを利用したのである。機械工業と金属工業を近代工業と定義すれば,『農商統計表』の生産量・生産額は基本的に手工業製品であるといってもさしつかえないかもしれない。

以上の議論を踏まえて,われわれはここで暫定的にこの調査は近代工業と手工業の両方を含むものだと結論づける。図3は,これを表すために描いた。すなわち,『農商統計表』は近代工業と手工業の一部を含んでおり,工業全体の数字を得るために,残りの部分を補わねばならない。ちなみに『農商統計表』の分類細目を付表に示した。

次に,この補充すべき部分について検討してみる。巫宝三推計(及び劉大鈞調査)の産業分類からみれば19,以下の産業及び品目が『農商統計表』に含まれていないと,大まかに判断できる。製材,鋳造,機械製造,貨幣製造,電気用具,琺瑯,人造脂,製綿,綿紡績,製糸,ゴム及びゴム製品,精米,製茶,製塩,飲料,製蛋,その他飲食品,印刷などがそれである20。すなわち,われわれはこれらの製品の金額を計算して『農商統計表』の修正結果に加えねばならない。しかし,これらの製品に関する情報はほとんどないので,本格的な推計作業はほぼ不可能である21。やむをえず,われわれは呉承明にならって巫宝三推計を利用して補わざるをえない。具体的に以下のように行われた。

巫宝三推計の近代工業部分について John.K.Chang 指数を使って,手工業部分については以下述べるような方法で,それぞれ延長推計を試みた。すなわち,呉承明の方法を使って推計するのである。すでに紹介したように,呉承明は巫宝三推計(1933年)を使って1920年の手工業生産額を推計した。彼はまずこの両時点の価格変動がなかったと仮定した(その間は価格の上昇があったが,満州事変によって価格が1920年レベルに下がった)。そして,65種類の手工業輸出品の総額(海関両)を輸出価格指数で実質化した(輸出価格が変動したため)うえで,両時点の倍率(1.126)を求めた。この方法は,生産量(=生産額)の変動(成長率)が輸出量の変動と一致すると仮定している。

われわれもこの方法を使って延長推計してみた。しかし,われわれの推計は1912〜21年に関するものであるので,国内価格の変動は無視するわけにはいかない。従って,まず1933年の巫宝三推計を国内の価格指数で延長する。その次に呉承明の方法と同じように,輸出金額の変動を使って生産額の変動を代替する。輸出金額にも価格の変動があるのでその実質化をせねばならない。ただし,われわれは65種類の手工業輸出品でなく,全輸出額を使った。『農商統計表』は手工業と近代工業をカバーしていると考えているからである。さらに1933年を100として各年の指数を求める。それを国内価格で延長した巫宝三推計に乗じて各年の生産額を得る。また輸出金額の変動と比べるために,直接巫宝三推計を輸出数量指数で延長させてみた。それらの結果は表4図4に示されているが,われわれの推計に補充部分を入れれば,かなり巫宝三推計に近づいていることが明らかである。

 最後に,戦前中国の手工業はどのような発展(或いは後退)をしたのかに簡単に一言触れよう。この問題に関する確かな研究が存在しないし,いま結論を下す段階ではない。呉承明たちによれば阿片戦争から1920年前後まではかなり発展したが,その後次第に衰退していったという。しかし手工業輸出の統計からみれば,1930,1931年が最高であった。また最近では,1912年を手工業の最も発展した時点であると主張する研究者がいる22。後者が主張するように,この問題は1つの論争テーマである。





 


13 手工業の発展は1912年に頂点に達したという主張がある。前掲『中国資本主義発展史(第2巻)』900頁を参照。





 


14 各推計は、劉佛丁・王玉茹「中国における国民所得推計の現状と展望」一橋大学経済研究所、1997年(COE Discussion Paper No.D96-14)に紹介されている。





 


15 それぞれ、劉大鈞『中国工業調査報告』経済統計研究所、1937年。巫宝三主編『中国国民所得(1933年)』中華書局、1947年。Ta-chung Liu and Kung-chia Yeh,The Economy of the Chinese Mainland : National Income and Economic Development, 1933-1959 Princeton University Press,1965.なおこの3つの資料については、牧野文夫・久保亨「中国工業生産額の推計(1933年」(COE Discussion Paper 近刊)で検討を加えている。





 


16 前掲『中国資本主義発展史(第2巻)』第6章付録乙、1076〜1088頁。





 


17 詳細の解説については、篠原三代平『鉱工業』東洋経済新報社、1972年、57〜125頁を参照。





 


18 彭澤益編『中国近代手工業史資料(第3巻)』生活・読書・新知三聯書店、1957年に、1912〜37年67種類手工業品の輸出額(海関両)が収録されている。呉承明は植物油など2種類が満州事変の影響を受けたので削除し、結局65種類を使った。





 


19 前掲 劉大鈞『中国工業調査報告』(中冊、下冊)、巫宝三『中国国民所得』(下冊)を参照、劉大鈞の分類については、その日本語訳(大塚令三監訳)『支那工業綜観(上巻)』生活社、1942年、268-274頁にわかりやすくまとめてある。





 


20 車両・造船や塗料などは一応『農商統計表』に含まれていると判断している。実際に車両・造船は木製品の一部であった。しかし巫宝三推計の車両・造船には鉄道車両・自動車の修理や自転車、人力車の製造も含まれているので両社は必ずしも対応していない。ほかの品目についても似たようなことがある。





 


21 巫宝三や呉承明は、一部の製品についてその原材料から推計している。例えば、酒造はその原料である米や高梁の生産量から、製粉は小麦粉の生産量から推計する。しかしこの時期の農産物の情報も少ない。あるとすれば、やはりこの『農商統計表』の農業の部にある。それも工業と同じように、修正しなければ利用できないだろう。





 


22 以上いずれの観点についても、前掲『中国資本主義発展史(第2巻)』、900頁に紹介されている。