第1章 独立後インドの金融制度の歴史


    (1)第1期:分離独立にともなう金融統合の準備期


    (2)第2期:第2次5ケ年計画〜第3次5ケ年計画期の金融制度の整備期

       1.『全インド農村信用調査委員会報告』とSBIの国有化

       2. 工業金融機関の整備拡張


    (3)第3期:インド型金融システムの確立

       1.商業銀行国有化と金融統制の強化

       2.農業・農村金融機関の拡充およびその他金融機関の整備


    (4)インド金融組織の概観と特徴




第1章 独立後インドの金融制度の歴史

独立後インド金融史の特徴は、なによりもまず金融諸機関の国有化拡大の歴史である点に求められる。その歴史は大きく5つの時期に分けることができる。

第1期は、パキスタンとの分離独立から1950年までの、独立に伴う金融制度整備の準備期である。第2期は、第1次五カ年計画から第3次5カ年計画期にあたる、1951年から1965年にいたるまでの時期である。ネルー首相の指導下で、五カ年計画の遂行にそった金融機関が整備された時期である。第3期は、1965年から1985年までの20年間である。この時期の特徴は、1969年の主要商業銀行の国有化によって代表される。「インド型金融構造」の定着期である。1985年から1992年にかけての第4期は、金融改革への準備期あるいは移行期として特徴づけることができる。1992年から現在にまでつらなる第5期は、「金融の自由化」をめざす金融部門改革期としてとらえることができる。

本章では、第1期から第3期までの金融制度の歴史を概観する。





 


(1)第1期:分離独立にともなう金融統合の準備期

1934年3月6日のインド準備銀行法 (Reserve Bank of India Act) によって、1935年4月1日、英領インドの中央銀行としてインド準備銀行(RBI)が発足した。ただしRBIの通貨および銀行の監督者としての機能は英領インドだけでなく、藩王国でも広く認められていた。

1947年8月15日にインド・パキスタンが分離独立した。これに伴って、それまで両地域で共通して使用されていた通貨をどうするかという問題が生じた。両国は、48年3月31日まで、インド・パキスタン双方にとって従来の通貨・鋳造を存続するということで合意した。そして48年4月から9月までは「移行期」とされた。

「移行期」においては、パキスタン地域では「パキスタン」と印刷された紙幣だけが発行される。しかしパキスタン地域ですでに流通しているインド紙幣は法貨とする。パキスタンでの新貨幣の鋳造は48年3月1日から開始される。インド準備銀行は、この時期も双方の地域にとっての通貨当局として存続する。48年10月1日から、インド準備銀行はパキスタンの中央銀行であることをやめる。またインド通貨もパキスタンの法貨であることをやめる、という合意である。しかし実際には、パキスタン側からの不信感によって、合意よりも3カ月前の48年7月1日から、RBIはパキスタンの中央銀行としての機能を中止した(RBI[1970] Ch.18; da Costa[1985] Ch.5)。

独立に伴う問題はパキスタンとの取り決めだけではなかった。かつての英領インドと藩王国との統合が図られたためである。47年から48年にかけて「藩王国(いわゆる "Part B State")」がインド連邦に組み込まれはじめた。

49年には、リザーブ・バンク・オブ・インディア(RBI)が国有化され、また銀行業規制法 (Banking Regulation Act) が制定された。銀行業規制法は、インドで銀行業務をおこなっている株式会社 (joint stock companies) に一定の規律を課すものである。この法律によって不健全な銀行の整理が行われ、またRBIによる銀行業データの収集が開始された。50年1月にインド憲法が発効するのに伴って、51年にはインド準備銀行法が改訂され、RBIは藩王国政府に対する銀行としても認められることになった。しかし金融統合の過程がほぼ完成したのは1956年である。この年の11月1日に州再編法 (State Reorganisation Act) が発効し、" Part A State/Part B State" という区分がなくなった。





 


(2)第2期:第2次五カ年計画〜第3次五カ年計画期の金融制度の整備期

1.『全インド農村信用調査委員会報告』とSBIの国有化

独立後インドの金融制度が形をととのえてくるのは、第2次五カ年計画が着手される1950年代後半からのことである。50年代でもっとも重要な改革は、1955年にインド帝国銀行 (Imperial Bank of India) がステート・バンク・オブ・インディア (SBI: State Bank of India) として再編され、公共部門銀行として設立されたことである。この流れはさらに拡大し、1959年までにはかつての藩王国内に設立された州立銀行7行 (State Bank of Bikaner & Jaipur; State Bank of Hyderabad; State Bank of Mysore; State Bank of Patiala; State Bank of Saurashtra; State Bank of Travancore; State Bank of Indore) が準SBI銀行 (SBI Associates) として再編された。

SBIの設立は、1954年の『全インド農村信用調査委員会報告 (AIRCS : Report of the All India Rural Credit Survey)』 の勧告に従ったものである (RBI[1954-57] Vol.2)。インドでは20世紀初頭から協同信用組合 (co-operaive credit societies) が発達していたが、その実際の機能はまったく不十分なものであった。AIRCSは、農業信用組合はその長い歴史にもかかわらず農業信用のわずか3%しか満たしていないこと、そして農民の借り入れの大半は依然として農村のマネーレンダーに依存していることを明らかにした(表1ー1参照)。そしてAIRCSは、農村金融の近代化を推進し農民の債務問題を解決するためには、協同組合銀行制度を州レヴェル、地域レヴェル、および村落レヴェルでの3層のシステムとして整備・強化することが必要であることを勧告した。また同時に、「ひとつの強力で統合された国家によって支持された、また国家をパートナーとする商業銀行制度 (one strong, integrated, State-sponsored, State-partnered commercial banking institution)」(AIRCS, Vol.2, p.404) としてSBIを設立し、もって協同組合銀行への送金業務を強化し、農村・準農村地域へ銀行業を拡大することを勧告した (RBI[1983] pp.166-171; RBI[1985b] Ch.2; da Costa[1985] Ch. 11)。

AIRCSからSBIの設立にいたる一連の過程で注目されるのは、優先分野への信用供与(農業・農村金融の強化)を計画的に実行するという考えの萌芽がみられることである。第2次五カ年計画から第3次五カ年計画期にかけて、この考えはますます強まっていった。農業・農村金融に関しては、1963年に農業リファイナンス公社 (Agricultural Refinance Corporation) が設立された(その後ARCにはリファイナンスだけでなく、農業の開発と促進の役割が賦与されて、1975年には農業リファイナンス・開発公社 (Agricultural Refinance and Development Corporation: ARDC) となった)(RBI[1983 pp.198-209)。また話しは前後するが、1960年には小規模工業部門に対する優先的信用供与制度として、信用保証制度 (Credit Guarantee Scheme: CGR) がスタートした。この制度は、従来無視されてきた小規模工業部門への信用供与を、政府の代理人としてRBIが「保証」するというものである。小規模工業部門に信用供与することによって金融機関に生じるかもしれない損失を、RBIが保証するという制度である。その後CGSは、1971年にインド信用保証公社 (Credit Guarantee Corporation of India) に引き継がれた (RBI[1983] pp.258-265)。




2. 工業金融機関の整備拡張

農村金融制度の整備と並んで重要視されたのは、工業金融機関および投資機関の整備である。1948年には、いちはやくインド工業金融公社(IFC)が設立された。1950年代以降になると、あらたに工業金融機関と投資機関の設立があいついだ。1952年からは州金融公社(SFCs)の設立が始まり、55年にはインド工業信用投資公社(ICICI)が、56年には当時245あった民間の保険会社を合併する形でインド生命公社(LIC)が、58年には工業リファイナンス公社(RCF)が、64年にはRCFを接収してインド工業開発銀行(IDBI)が、そして64年にはインド信託公社(UTI)が、それぞれ設立された。

工業金融機関および投資機関は、インドでは「銀行」にではなく、「非銀行金融機関 (non-bank financial institutions)」に分類されている。銀行には預金業務が備わっているが、非銀行金融機関には預金業務が備わっていない。「非銀行金融機関」は、長期工業金融機関としての「開発銀行」と「投資機関」、およびその他の特殊金融機関とに分類される。さらに開発銀行(あるいは工業金融機関)は、全国レヴェルでの機関 (All-India financial institutions) と州レヴェルでの機関とに分類される。

インドで最初に設立された開発銀行はIFCである。「1948年インド工業金融公社法」によって設立された。通常の銀行融資が不十分で、また資本市場が十分に発達していない環境を考慮して、工業部門への中長期信用の供与を目的として設立された。債券発行と外貨取り入れによって資金を調達している。ICICIは会社法によって設立されたという意味で、民間の開発銀行である(実質的には公共部門の金融機関として機能してきた)。またICICIの主要業務は外貨貸付にあるという点に特徴がある。設立にあたっては世界銀行が重要な役割を果たした。主要な目的は民間企業への工業投資の促進である。RCIも会社法にもとづいて設立された機関である。RCIは、1964年にIDBIに接収された。IDBIは、「1964年工業開発銀行法」に基づいて、RBIの完全子会社として設立された。五カ年計画で設定された諸目標を達成するためには、従来の開発銀行だけでは不十分であるという考えに基づいて設立された。IDBIは工業金融機関間の業務調整を担当し、また下位の金融機関に対してリファイナンスを行う頂点銀行 (apex bank) として位置づけられただけでなく、工業化を計画し、促進し、実行するための開発機関としても位置づけられた。1975年にIDBIはRBIの子会社であることをやめ、独立した中央政府機関として存続している。IDBIは、いわば工業金融分野での「最後に頼るべき貸し手」である。IDBIの設立によって、インドの工業金融システムは一応の形を整えることができた。

投資機関として位置づけられるLICは、56年に100%政府所有機関として、民間の保険会社245社を統合・国有化することによって、設立された。調達資金の最低75%まで政府証券および政府認定証券に投資すること、また民間企業株式への投資は10%を上限とすることが定められている。一方、UTIは「工業成長と生産的投資のために、最小の危険と最大の利益の下に少額投資者の資金を調達すること」を目的とした投資機関である。ユニット販売による信託機関である。以上の機関は、いずれも主に大中規模企業向けの中長期融資をおこなう全インド・レヴェルでの金融機関である。これに対し小企業向けの融資を目的とする州レヴェルでの工業金融機関として、1952年以降SFCsの設立があいついだ (Avadhani[1978] Chs.7-8; Khan[1980] Chs.6-13; RBI[1983] Ch.7; RBI[1985] Ch.7; Morris[1985] pp.9-16))。





 


(3)第3期:インド型金融システムの確立

1. 商業銀行国有化と金融統制の強化

1965年から始動する第3期は、「インド型金融システム」の確立期である。最大の画時は1969年に断行された主要商業銀行14行の国有化である。この時期に確立したインド型金融システムは、1992年まで存続する。1992年から始まった「金融自由化」の波は、この時期に確立した「インド型金融システムからの転換」としてとらえることができる。

1960年代中葉から、商業銀行(を通じる大企業)に対する統制強化の動きが顕著になった。最初の徴候は1965年に導入された「信用認可制度 (Credit Auhorisation Scheme)」の実施である。大規模の借手に対する銀行信用規制を目的とした措置である。指定商業銀行からの1000万ルピーを超える新規融資は、すべてRBIからの事前承認が必要であるとされた。1967年になると、「銀行業に対する社会的統制」を目的として銀行法が改訂され、1968年から実施に移された。「銀行業に対する社会的統制」の目的は、大企業の利益になるような銀行融資配分を引き下げ、農業および小規模工業といった優先部門(従来無視されてきた社会の弱小部門)に対する銀行融資配分を増加させることとされた。すなわち、五カ年計画(プランニング)で打ち出された政策に添うように銀行制度を抜本的に再編成し、銀行業を経済開発のより有効な道具にすること、である (GOI[1972] pp.37-41; da Costa[1985] Ch.9)。

プランニングに添った金融政策の実施というアイデアは、1949年にRBIが国有化された時点からみうけられる。また1955年にSBIが国有化されたことによって、プランニングで設定された優先部門への銀行融資の優先的配分および農村・準農村地域への銀行業の浸透という考えが実行に移されたことも事実である。しかし、こうした措置にもかかわらず商業銀行の大半はいわゆる財閥系大企業によって支配され、銀行融資の大半は大企業向けであり、また大都市集中型であった(表1−2表1−3表1−4参照)。たとえば、セントラル・バンク・オブ・インディア (Central Bank of India) の場合はタータ財閥、ユナイテッド・コマーシャル・バンク (United Commercial Bank) の場合はビルラ財閥、パンジャブ・ナショナル・バンク (Punjab National Bank) の場合はダルミア=ジャイン財閥と密接な関係を保持していた (da Costa[1985] p.97)。

「銀行業に対する社会的統制」というアイデアに従って、1967年12月には国家信用評議会 (National Credit Council) が設立された。国家信用評議会は開発における信用計画の役割を象徴する機関であり、その業務内容は、(a)経済の諸部門からの銀行信用需要を査定する、(b)銀行貸付および投資の優先度を決定し、また優先部門(とくに農業および小規模工業と輸出)に対する資金必要額を決定する、(c)商業銀行、協同組合銀行および特殊金融機関都の間の貸付政策と投資政策を調整し、総資金の最適かつ効率的な利用を確保する、とされた。「銀行業に対する社会的統制」案によってRBIの権限は大幅に拡張した。RBIは大蔵省の権限下に置かれていたので、銀行政策はほぼ全面的に大蔵省の権限下に置かれることになった。

「銀行業に対する社会的統制」の声が高まる中、1969年6月インディラ・ガンジー首相によって、商業銀行上位14行が国有化された。"Banking Companies (Acquisition and Transfer of Undertakings) Ordinance 1969" による措置である。この措置を契機に、国民会議派は長老派とインディラ派に分裂した。国有化の対象になったのは、1969年6月最終金曜日時点で預金額が5億ルピー以上の商業銀行であった。外国銀行は対象外とされた。預金額の大きい順にみると、

1. Central Bank of India;
2. Bank of India;
3. Punjab National Bank;
4. Bank of Baroda;
5. United Commercial Bank;
6. Canara Bank;
7. United Bank of India;
8. Dena Bank;
9. Syndicate Bank;
10. Union Bank of India;
11. Allahabad Bank;
12. Indian Bank;
13. Bank of Maharashtra;
14. Indian Overseas Bank、

の14行である。国有化の目的は、「経済の高地を統制し、国家的な政策と諸目的に合致する経済開発のニーズにますますこたえ、それによりよく尽くすこと」とされた。銀行業に対する社会的統制案の目的を、はるかに超えるものであった。より具体的には、(a)店舗数の拡大、預金額の増大、貸出額の増大という形をとって制度金融を農村・準農村地域へと浸透させバンキング・ハビットを定着させること、(b)優先部門あるいは社会の弱小部門(農業、小規模工業、輸出)への信用供与を増大させること、(c)全般的な国家開発計画の中で公共部門銀行が経済開発の触媒的な役割を果たすようになること、(d)銀行業の地域格差を縮小すること、にまとめることができる(RBI[1978] p.7; Shetty[1978])。主要14大商業銀行国有化によって、全商業銀行に占める公共部門商業銀行の割合は、預金額の84%、貸出額の83%、店舗数の81%となった(絵所[1987]第2章)。

ところで、1960年代後半は独立後インドにとっての大きな歴史的転換期にあたっている。60年代中葉、インドは独立後最悪の政治経済危機に直面した。パキスタンとの国境紛争が再燃し、また2年間にわたって深刻な干ばつに見舞われた。第3次五カ年計画が終了したものの第4次五カ年計画の見通しがたたず、3年間にわたって年次計画(「プラン・ホリデー」と呼ばれている)で急場をしのがざるをえなくなった。それだけでなく、以降1970年代中葉にいたるまでの10年間、インド経済は長期にわたる停滞を経験した(絵所[1991]第2章; Nayyar ed.[1994])。1960年代中葉の危機は、公共部門主導・重工業投資偏重・輸入代替工業化中心の政策体系(ネルー=マハラノビス開発戦略)が、資源不足・外貨不足による財政危機・国際収支危機という内的な弱さによって破綻したことを告げるものであった。

インド政府は世界銀行からの借款に依存して、この政治経済危機を乗り切ろうとした。世界銀行は借款の見返りに経済自由化措置の採用を要求した。その結果、1966年6月にはルピーは57.5%切り下げられ、また相前後して製造ライセンス品目の一部規制緩和、輸出補助金の削減、輸入関税の引き下げを含む一連の自由化措置が採用された。世界銀行は第4次五カ年計画の終了時点までに、年間約15億ドルの援助を供与することを非公式に約束していた。しかしパキスタンとの関係悪化を理由に、アメリカはインドへの援助を打ち切り、その結果世界銀行からの援助額も大幅に削減された。一連の経済自由化措置による経済再建策は、ほとんど成果をあげることができなかった。アメリカの「裏切り行為」の結果、インド国内では一挙に反米・反世界銀行の声が高まった。インディラ・ガンジー政権の下での1969年から73年にかけて、一転して「社会主義路線」の強化に向けて戦略転換が起こった背景である。1969年に始まった第4次五カ年計画では、外国からの自立のためには食糧の自給が不可欠であることが強調され、「緑の革命」戦略が導入された。外に向かっては反米路線が鮮明になり、内に向かっては「貧困追放(ガリービー・ハタオ)」が旗印として掲げられた。統制強化の波は、69年から73年まで継続した。この間、独占・制限的取引慣行法(MRTP法)が制定され、73年にはジョイント・セクターの導入(ジョイント・セクターとは民間企業と政府企業とが出資をし、合弁ベースで新設される企業のこと)と転換条項(公共部門金融機関が民間企業に融資した際に、数年後に貸付金を株式に転換できるという条件を付す措置)とを盛り込んだ産業政策が公布され、外国為替規制法(FERA)が強化された。いずれの措置も国内の財閥系大企業と外資に対する規制強化措置である。主要商業銀行の国有化措置も、規制強化政策の不可欠の一環であった(伊藤編[1988]第1章)。商業銀行の国有化によって、公共部門への資金供給を確保し、緑の革命戦略を支えるための農業金融の強化を目指したのである。

1980年4月には、6商業銀行が追加国有化された。預金額20億ルピー以上の商業銀行が対象っとなった。すなわち、1. Andhra Bank; 2. Corporation Bank; 3. New Bank of India; 4. Oriental Bank of Commerce; 5. Punjab and Sind Bank; 6. Vijay Bank、の6行である。この措置によって、全商業銀行の預金額、貸出額の9割強が政府の直接コントロール下に置かれることになった。




2. 農業・農村金融機関の拡充およびその他金融機関の整備

主要商業銀行の国有化を転機とするこの時期には、農業・農村金融機関が拡充され、またその他の金融機関の整備も進んだ。

主要商業銀行の国有化によって商業銀行業務は農村地域へと深く浸透することになったが、それと並んで農業・農村金融機関が一層拡大された。1968年には、国家信用評議会の勧告を受けて、主要商業銀行(インド銀行協会)の合弁事業として農業信用公社 (Agricultural Finance Corporation Ltd.) が設立された。1966年に、RBIは「全インド農村信用評価委員会 (All-India Rural Credit Review Committee) を設立し、1954年の「全インド農村信用調査」以降農村信用の分野でどのような発展がみられたのかをレビューした。報告書は69年に発表された (RBI[1969])。その中で、国有化された商業銀行が農村信用拡大のために集中的に努力することが勧告された。さらに1971−72年にかけて、RBIによって大規模な「全インド債務・投資サーベイ (All India Debt and Investment Survey)」が実施された (RBI[1976-78])。

1975年には新しいタイプの商業銀行として「地域農村銀行 (Regional Rural Bank: RRB) が誕生した。RRBは農村の弱者層、すなわち小規模農民・限界農民、農業労働者、職人および小規模企業主の信用需要に答えることを目的にした商業銀行である。RRBの株主構成は中央政府が50%、州政府が15%、スポンサーとなる商業銀行が35%というもので、地域レヴェルで設置されることになった (RBI[1983] pp.215-220; RBI[1985b] pp.70-81; da Costa[1985] pp.132-133) 。

1979年には「農業・農村開発のための制度信用機関評価委員会 (Committee to Review Arrangement for Institutional Credit for Agricultural and Rural Development: CRAFICARD」が設置され、81年に報告書が提出された (RBI[1981])。当委員会の勧告を受けて1982年に国家農業農村開発銀行 (National Bank for Agricultural and Rural Development: NABARD) が設置された。NABARDの設立によって農業・農村金融機関があらたに整備されることになった。NABARDは農業・農村金融分野での頂点銀行とされ、工業金融の分野でIDBIが占める位置を、この分野で占めることになった。NABARDの設立によって、農業リファイナンス開発公社(ARDC)はNABARDに接収された。NABARDは、州協同組合銀行、RRB、商業銀行等による農業・農村金融業務に対して短期・中期・長期のリファイナンスを行う機関である。

農業・農村金融以外の分野でも、いくつかのあらたな機関が設立された。1971年にはインド工業再建公社 (Industrial Reconstruction Corporation of India Ltd.: IRCI) が設立された。赤字企業の再建を目的とした金融機関である。IRCIは1985年にインド工業再建銀行 (Industrial Reconstruction Bank of India: IRBI) に改組され、さらに97年にはインド工業投資銀行 (Industrial Investment Bank of India: IIBI) となり、赤字企業の再建という設立当初の目的から脱皮して、通常の工業金融機関へと衣替えした。

1972年にはインド損害保険公社 (General Insurance Corporation: GIC) が設立された。民間の損害保険会社4社 (1. National Insurance Company Ltd.; 2. New India Assurance Company Ltd.; 3. Oriental Fire & General Insurance Company Ltd.; 4. United India Fire & General Insurance Company Ltd.) を国有化し、子会社として傘下におさめる形で設立された。さらに1982年には、非伝統的製品の輸出奨励を目的としてインド輸出入銀行 (EXIM Bank of India) が設立された。





 


(4)インド金融組織の概観と特徴

以上独立以降1980年代までの金融組織の発達を概観してきたが、ここで今一度金融組織の構造を概観し、そのおおづかみな特徴を整理しておきたい。

インド金融システムの第1の特徴として指摘できるのは、その二重構造である。独立後、近代的金融機関(組織的金融市場あるいはフォーマル金融市場)はかなり整備されてきたが、依然として他方で農村を中心にマネーレンダーを核とする膨大な前近代的金融市場(未組織金融市場あるいはインフォーマル金融市場)が広がっている。また都市にはいわゆる「土着銀行」と呼ばれるさまざまな伝統的金融組織がみうけられる。マネーレンダーが貸出業務だけを行うのに対し、土着銀行は貸出業務だけでなく預金業務をもおこなう。またフンディと呼ばれる手形を降り出す。近代的金融組織・市場と伝統的金融組織・市場とは、顧客、利子率およびその他融資条件、ビジネス慣行等々の点で、明らかに分離されている。近代的金融市場と前近代的(あるいは伝統的)な金融市場との間にどのような関係があるのか、また前近代的金融市場の大きさがどの程度であるのかについては正確なことはわからない。都市の土着銀行を構成する主要なものは、ムルターニ・バンカー(あるいはシカルプーリ)とグジャラーティ・シュロッフである1)

組織部門の金融制度には、RBIの管轄下にある銀行部門と非銀行金融機関の他に、株式取引所と政府(大蔵省)の管轄下にある郵便局貯蓄銀行と各種積立基金・年金基金がある(図1−1参照)。インドでの郵便局貯蓄銀行の歴史は古く、その起源は1882年にまで遡ることができる。大蔵省の委託によって郵便通信局 (Post and Telegraph Department) と国家貯蓄機関 (National Savings Organzization) によって運営されている。郵便局貯蓄銀行では、(1)普通預金、(2)積立預金、(3)定期預金、(4)国民積立基金 (Public Provident Fund)、(5)国民貯蓄証券 (National Saving Certificates)、によって預金を集めている。

第2の特徴は、近代的金融市場をとってみても、その機能はまだ十分に発達しているとはいえないことである。短期・長期を問わず、証券市場(マネー・マーケット、キャピタル・マーケット)が未整備である。たしかにボンベイ株式取引所(BSE)の歴史は長く、また1997年時点での全インドでの証券取引所の数は22にのぼるとはいえ、取引証券監視局 (Securities Exchange Board of India: SEBI, 1988年設立。1992年に"statutory body"になる)、ナショナル・ストック・エクスチェンジ (National Stock Exchange: NSE, 1992年11月設立)、Credit Rating and Information Services of India Ltd.(CRISIL)、Investment Information and Credit Rating Agency of India Ltd.(ICRA)、Credit Analysis & Research Ltd.(CARE) といった債券格付け機関の設立等は、いずれも金融自由化への動きが始まった80年代後半からのものである。独立後インドの金融制度は商業銀行を中心とする金融仲介機関を中心に発達してきた制度である。家計の金融形態での貯蓄は商業銀行に集中しており、また企業金融制度も間接金融に依存した制度が支配的である。

独立後インドの金融制度は、金融仲介機関を中心に発達してきた。金融仲介機関は銀行部門と非銀行金融機関から構成される。銀行部門は、中央銀行としてのリザーブ・バンク・オブ・インディア (RBI) を頂点にして、商業銀行(地域農村銀行をふくむ)と協同組合銀行から構成される(図1−2参照)。商業銀行は指定商業銀行と非指定商業銀行から構成される。1982年時点で商業銀行総資産の99.9%が指定商業銀行のものである (Morris[1985] p.4)。指定商業銀行は公共部門商業銀行と民間商業銀行(外国銀行の支店を含む)から構成される。一方、協同組合銀行は短期融資業務をおこなう協同組合銀行と長期融資業務をおこなう土地開発銀行から構成される。協同組合銀行は基本的に3層制度 (three-tier system) となっている。すなわち、「村・都市単位−地域単位−州単位」という3層構造である。銀行部門は異なった観点から、指定銀行 (scheduled banks) と非指定銀行 (non-scheduled banks) とに分類される。指定銀行とは、(1)払込資本および準備金の合計が50万ルピー以上で、(2)RBIによって預金者の不利にならないような仕方で業務を行っている銀行、と定義される。「指定」という形容詞は、1934年のインド準備銀行法の "second schedule" に含まれる資格をもった銀行ということからきたものである。指定銀行の中には指定商業銀行のほかに、地域農村銀行および州協同組合銀行が含まれる。指定銀行になると無料あるいは低額の送金便宜やRBIからの資金融通などの特典が得られる一方で、RBIに一定の法定準備金を預け入れる義務が発生する (RBI[1978] pp.9-11)。

非銀行金融機関は、開発銀行(長期工業金融機関)、投資機関、特殊金融機関、住宅金融機関に大別することができる。開発銀行には、全国レヴェルでの機関 (All-India financial institutions) と州レヴェルでの機関がある。全国レヴェルでの開発銀行としては、IDBIを "apex bank" として、他にIFCI、ICICI、IRBI(1997年からはIIBI)、SIDBIがある。また州レヴェルでは、SFCsとSIDCs/SIICsがある。投資機関に分類されるのは、UTI、LIC、GICの3機関である。

以上の他に「非銀行金融会社 (non-bank financial companies: NBFC)」と「非銀行非金融会社」がある。NBFCには、南インドで伝統的金融組織として発達したチット・ファンド (Chit funds)をはじめとする相互扶助金融組織や、金融会社、割賦払い金融機関、リース会社などが含まれる。すべて民間の金融機関である。「非銀行非金融会社」とは公企業あるいは民間企業のことである。一部の企業には「会社預金 (company deposit)」制度があり、資本金の25%未満であれば、直接大衆から預金を集めることが認められている。





 




注1)

都市の土着銀行に関しては、インド政府による1972年の「銀行委員会報告」で検討された(GOI[1971];GOI[1972]Ch.18)。69年の主要商業銀行国有化以降の土着銀行(都市インフォーマル信用市場)に関しては、ティンバーグ=エイヤーによる詳細な調査がある(Tinberg & Aiyar[1980])。ゴールドスミスは、1970年前後の時点で都市部門における土着銀行からの資金供給は商業銀行および都市共同組合銀行からの資金供給の5%未満ではないかと推計している(Goldsmith[1983]p.190-191)。

アチャリヤ=マデュールの研究は、フォーマル金融部門での金融・信用政策がインフォーマル信用市場に顕著な影響を与えていると結論している(Acharya & Madhur[1983])。民間企業に対するフォーマル部門での金融引き締めが、インフォーマル部門での金利を高める影響があるという主張である。一方スンダラム=パンディットはアチャリヤ=エイヤーの結論に批判的である。(Sundaram & Pandit「1984」)。

農村のマネーレンダーに関しては数多くのモノグラフがあるが(絵所[1987]第1章)、全インド的規模でのサーベイは1951年にRBIが実施した「全インド農村信用調査」(RBI[1954-57])および1971−72年に実施した「全インド債務投資調査」(とくに『農家債務と制度金融の利用可能性報告書』(RBI[1977])があげられる。