4.推計道具箱


1).単位

2).欠損値

3).名目値、実質値、そして基準年

4).支出データ

5).サービス産業

6).「雑業」の重要さ

7).指数問題(Index Number Problems)

8).粗(総)と純

9).付加価値

10).コモ法

11).フローとストック

12).フロー・ストックの概念と生産函数



この節では、統計系列の作成や推定のための参考事項を記すことにする。これらのなかには、筆者の見解にすぎないものも含まれており、いずれにしても体系的に展開されたものではないことをあらかじめ断っておきたい。 なお、Tukey(1977)や Floud (1979)およびその類書には、 研究作業にとって参考になるところがあるかもしれない。










1).単位

統計データを採取・整理するにあたって、その単位を明記することはいうまでもない。さらに、最終成果として報告される際のデータの単位は、時系列的かつ国際的に比較が容易なように、たとえば年次については西洋歴年に、物量についてはメートル法で、経済価値については第二次大戦後(1960年代以降)の貨幣表記に、それぞれ統一する。

国民国家における単位の統一は、経済圏の勢力範囲だけではなく政治力の強さと深い関係がある。日本でも、明治初年には各地の物量表記やその単位はバラバラで、その統一には時間がかかったことが想起される。統一単位に転換するのは、ときに調査を要する場合もあり、その際には、調査の結果(つまり、単位換算表)を研究ノートとして残すのが望ましい。










2).欠損値

統計値には虫くいの穴があることがある。調査がされなかった場合はもちろんであるが、不注意によって記録もれや統計の紛失が発生することもある。統計作成者側の理由によって、特定の数値が故意に公表されない場合もある(サンプル規模が小さいとき、プライヴァシー保護を目的とするなど)。

しかし、時系列統計の推計にとっては、数値は連続的に得られることが望ましく、虫くいだらけでは利用に不便であるから、欠損値は極力これを埋める努力をするのが当然の基本方針である。

欠損値を埋めるために、特別の手だてがあるわけではない。一番簡単なのは単純な内挿(interpolation)である。これは、シリーズの途中にポッカとあいた穴を、その直前・直後の期間中、年々等差(もしくは等比)による変化を仮定して接続する方法である。*5

たがいに密接に連係して動く二系列がある場合には、欠損値は、密接した相手の数値の動きにあわせて補うことも考えられよう。系列の開始ないし最終値が欠けているときにこれを埋めるのは、橋ゲタの片方がないだけにちょっと覚束ないが、必要とあれば、欠損直前数年間と同一の平均成長率を仮定して延長(外挿、extrapolate)する等の方法もある。










3).名目値、実質値、そして基準年

財サービスの生産・消費の時系列統計の解釈やその(国際)比較にあたって問題となるのは、名目と実質との区別である。物価変動をどう扱うか、の問題がこれである。価値表示の系列は、当然名目、実質の双方で表現されなくてはならない。もしこれらが指数の形で現わされるのであれば、基準年次におけるその貨幣額も同時に記載される必要がある。

参照年に何年をとるかは一義的にきめられる問題ではなく、その決定には何がしかの総意性を伴うが、とりあえず、戦前については1934/36年を、戦後については1960年採用したい。(戦前の、もっとも古い時期についていま一つ基準年が必要とすれば、第一次世界大戦直前の好況期という意味で1913年を選ぶことが考えられよう。これら三時点は、いずれも日本LTESが基準年として選んだ年次である。それぞれが、比較的安定した好況期であるという共通の特徴をもつ。)










4).支出データ

支出に関する直接的なデータは、もちろんそれぞれの経済主体の会計簿(支出記録)から求めるのが一番よい。すなわち、家計簿もしくは企業出納などがこれである。資料的には、前者は家計調査(family budget survey、日本では都市勤労世帯と農村世帯として別々に実施される)、後者は企業統計(現代の日本では工業統計表、法人企業統計さらには有価証券報告書など)から求められる。これらは必ずしも全数調査ではなく、また国によっては毎年調査されるとは限らない。しかし、仮にそのような不備があるとしても、きわめて貴重な統計情報であるのは間違いがない。たとえば家計調査からは、貴重なサービス品目(教育費、文化娯楽費、個人サービス費等々)への支出額を求めることができるし、生産の統計からは得難い商業マージンも含まれている。

一般に、企業会計関連の情報は、これを入手するのが簡単ではない。もちろん、第一次的には、政府(中央もしくは地方)が定期的に収集する官庁統計を利用する努力が払われねばならない。しかし、歴史統計の場合は、企業の記録がある場合には積極的にこれを利用する工夫が試みられてよい。もっとも、代表的な大企業ならばともかく、中小企業や、家内工場の場合には、古い時代には大福帳程度の記録すら残されていないのが通常である。だがその場合でも、代表的な企業の情報が得られるならば、それを核として、適宜その数値をふくらませた推計を試みる意義は十分にある。(余談だが、西川(1995)によると、日本の大福帳的簿記システムのなかにも、複式簿記的会計論理への志向がすでに認められるという。)










5).サービス産業

サービス産業の生産額は、頭の痛い最大の分野の一つである。この事実は、統計調査が整備された現代の諸国の場合も変わらない。しかし、これらの国でも、ちょっと時代を遡ると、推計の根拠とすべき生産(ないし支出)の直接の資料が全く存在しない場合も珍しくない。

もっとも、輸送費、通信費、エネルギー費などの場合には、それぞれの産業が自然独占体であることが多いので、当該の企業記録を利用すればある程度は必要な情報が得られる。(たとえば鉄道収入は、路線延長キロ数、列車運転頻度、それぞれの稼動率(平均運転距離など)等を採用して推定することができよう。)教育費の一部は、学校数、生徒数、教師数、推定授業料などを使って求めることができる。

しかし、商業サービス一般については、金融保険不動産業も含めて、店舗数と従業者数とを基礎とし、それぞれに推定商業マージンならびに賃金を乗ずるなどによって推定しなくてはなるまい。

こうして、ともかくも名目ベースのサービス生産額系列が求められたとしても、その実質額をいかにして推計とするかは、いま一つ頭が痛い難題である。










6).「雑業」の重要さ

工業化の初期に、「雑業」とか「雑工業」とか「その他の職業」とかいうたぐいの表現で一括されて、統計書の片隅に押しやられているもろもろの活動のなかには、意外に重要で無視できないものが含まれていることがある。それらが「雑」とか「その他」などと分類されているのは、その時代の通念に照らせば「正統的」(「主流的」)な活動でなかったり、あるいはまだもの珍しくほんの僅かしか存在しなかった等々の理由で、当時の分類原則では整理しかねたからにすぎない。その意味では、「雑」はまさに「ガラクタ」にすぎない。

けれども、時代の変り目には、「ガラクタ」としか認識されないもののなかにこそ、次の時代を担う要素が含まれている可能性も少なくない。あるいは逆に、在来工業の一部としてさしあたり「雑業」として分類されたものの、その後本格的な工業が始まるまでの移行期には、一時期とはいえきわめて重要な役割を果たすことになる分野もあるかもしれない(工芸品とか玩具など)。

同様のことは、「鉱業」や「化学」工業についても発見されよう。鉱業は、工業化以前からの永い歴史をもっているので、初期における工産活動----たとえば金属品製造、機械補修など----の少なからぬ部分は、潜在的にここに発見されることがある。

ちなみに、補修とか修理とかは、厳密にいえばモノの生産ではなく、むしろサービス業である。しかし、だからといってこれらを工業に含めないわけにもいかない。財とサービス生産との間に本質的な差を画し難い理由がここにもある。

ついでにいえば、工業活動のなかには、素材ないし中間製品の工程加工のみを受注するものがある。これも、新しいモノを作るというよりは、特殊専門的なサービスを切り売りしているというにふさわしい。

他方、「化学」の概念は、近代後期の東アジアの諸国においては、きわめて広い範囲の諸活動を網羅するので注意が肝要である。(産業分類の根拠にやや斉合性を欠く部分もあるかもしれない。)原材料を、物理的な力によって変形・加工・塑製するのが機械工業で、光・熱・薬品などによって化学変化を施すのを業とするのが化学工業であるとすれば、精錬業は基本的には無機化学工業だし、化学繊維産業はもちろんのこと、食品工業のあるものも化学工業といえる。(事実、日本では、食塩生産は化学工業に分類されていたことがある。)醸造業も広義の化学工業である。皮革製造も化学工業に分類されていることがある。

しかしながら、産業分類の歴史をみると、「化学工業」の中味は時間がたつにつれて次第に分化し、財そのものの用途や性格などから判定して別立てのグループとして独立させられるものが相つぎ、現代における(狭義の)化学工業の分類が成立するにいたったのである。今後も、分子化学や分子生物学、物性学などの進展に伴い、「化学」の内容はさらに分化もしくは統合を遂げる可能性が十分にある。










7).指数問題(Index Number Problems)

指数を作成するときは、集計操作が避けられない。われわれの場合のように、いくつかの商品サービスや複数の産業をまとめた集計量を扱わざるをえないときには、数量ならびに価格の加重平均を作ってこれを観察する操作が必至である。

ところが開発の過程では、当然のことながら商品構成や産業構造が変わる。古い財サービスで廃するものがあり、新種の製品が登場することもある。同名であっても品質が変わったり、材料が改善したりすることはとちろん、しばしばみられる。したがって、何をウェイトに使って加重平均を作るかは、計算の結果に大きな影響をもつだけでなく、数値の意味にも重要な変化をもたらす(いわゆる指数問題;なお、太田(1980)をも参照)。

この難問は、ディヴィジア(Divisia) 指数を使うことによって解決することができる(Allen 1975を参照)。しかし、歴史統計については各年ごとのウェイトは使えない場合が多いので、固定ウェイト指数を利用する場合も依然として少なくないだろう。この意味では、指数問題がすべて解消したわけではない。国際比較可能のためには、商品の標準化が必要だという問題もある (Kurabayashi and Sakuma (1990)を参照)。










8).粗(総)と純

日常感覚では、粗野であるよりは純朴である方がいいとされる。しかし、国民経済計算では、 このどちらもが重要である。それどころか、「純(net)」よりも「粗(gross)」こそ興味があるという場合もある。

「粗」というのは、減価償却(D)こみという意味である。(その意味で、日本の官庁関係で採用されている「総」よりは「粗」の方が適当である。ちなみに、かつて篠原教授が経済企画庁で「粗」の妥当性を主張されたのに、その主張は通らなかったとのことである。)

Dは、物的生産施設の物理的ないし経済的摩耗(obsolescence)に対処するため、つまり単純再生産を保証するために行われるのだから、その意味ではいわば「後むき」の活動である。新しく生み出された経済価値という点からすれば、Dを除去した残り、つまり純概念(たとえばGDPではなくしてNDP)こそが肝要だということになる。しかし、経済のパワーを総合的に把えるという点からすれば、Dも含めた粗概念こそがふさわしいと考えられる。

毎年の生産物のなかには、Dに充てられる部分が当然含まれている。毎年の産物の一部を取りのけてDに充当するのがD投資というわけである。ところが、Dを推定するのはそう簡単ではない。

元来Dは、税務に深くかかわっていて、税法上、設備や構築物の種類や目的によって、毎年これに充当できる上限額が税法上きまっている。(すなわち、法定償却速度が定められている。)その算出公式には、大別して定率法と定額法との二種類がある。算定の基礎として、 Kの簿価を使うかそれとも代替品(replacement)の購入価格を使うかによって、計算結果は大いに異なる。

そのようなわけだから、ややこしい計算をして苦労の結果求めたNDPよりも、GDPの方が数値として確からしいという感想が生まれるのはもっともなことである。かつては、純概念が欧米の主流であったが、最近のSNAや世界銀行の統計ではもっぱら粗概念(GDP)が採用されているのは、同じ様な感想がその背後にあったのかもしれない。

ともあれ、純投資(net investment I net)とは、一年間のうちに生じた純資本ストック(Kt)の増分のうちから、前期の純資本ストック量を除去した残りである。すなわち、

     net = K − K

純投資は、理論的には負値をとることもあり得る。さらに、かりにInetがプラスであったとしても、その全部が初めて開拓された分野等への「新」投資(new investment Inew)から成るのではない。既存の生産耐久施設(後出)(PDE、 producers' durable equipment)の拡張や、 性能がすすんだヨリ高価な設備への乗りかえ、事故等で崩壊した機器建造物の再建なども含まれる。 つまりI netは 、I newよりも広義の概念である(統計上は、I newのみをマクロ的に検出するのは難しい。)










9).付加価値

国民経済計算の長期経済統計は、それが完成した暁には、おおよそ表1の内容をもつ。これらは、経済の歴史を辿る上で、どれも必要な情報ばかりであるから、これらのシリーズが相互に斉合的な(矛盾しない)形で提供されるのは、アジア経済史の研究・分析のために不可欠だといわなくてはならない。これらの情報があれば、経済の再生産構造、貿易構造、産業構造等々を初めとする各種の構造分析が可能になる。

ところで、表1において、生産活動が農業、鉱業、工業等々の産業分類別にまとめられ、それらを合算する形で国内生産の総額が求められているのには重要な意味がある。つまり、それぞれの産業内部における(産業間・企業間の)相互取引は相殺され、さらに他部門や海外から購入された原材料や中間製品などは差し引かれている。すなわち、ここにいう生産高とは、国内産業のそれぞれが(一年間に)新たに作りだした付加価値の合計なのである。*6

この意味での生産高は、個々の企業や事業所でいう(ミクロの意味での)生産高とはずいぶん違う。工場の生産高といえば出荷高と製品在庫との合計であって、その中には原材料費や部品購入代金も含まれている。これに対して、集計量における(マクロの意味での)生産高とは、二重計算を回避する操作を経たうえでの数値である。出荷額から(粗)付加価値を求めるこの操作はちょっとやっかいであるけれども、経済の再生産構造を知るためには避けることができない。なぜなら、経済内部で生産の迂回度が向上すればするほど、あるいはまた分業による協業が盛んになればなるほど、企業間取引も盛んになる(したがって中間生産物の量もまた増える)からである*7。そして迂回度の上昇は、経済発展の特質の端的な表現の一つである。

付加価値は、経済分析にはきわめて重要な数値だけれども、企業経営にとっては必ずしも第一義的な意味をもつ情報ではない。だから、その収集に困難が伴うのは不思議ではない。

付加価値はどのように計算するか。生産の側面からこれを求める場合は、次の定義によればよい:

  産業別付加価値額=産業別生産額−産業別中間投入額

           =産業別生産額(1−産業別中間投入率)

           =産業別生産額×産業別付加価値率

ここに、 中間投入率=中間投入額/産業別生産額、また

     付加価値率=(1−中間投入率)

いうまでもないが、付加価値が生産額中に占める割合(これを所得率と呼ぶ)は、集計の程度によってさまざまだし、時とともに変化もする。この値を知るためには、投入産出構造がわかれば理想的である。もし付加価値率を毎年知るのが困難な場合には、次善の策として、一定の基準時点(ベンチマーク年)ごとに所得率を求め、 ベンチマーク間のその値は内挿(interpolation)によって推定することが考えられる*8。あるいは、ベンチマーク時点における産業別GDPを、産業別生産指数を使って縦に引き延ばすという便法もあるが、この方法では、所得率不変という暗黙の前提をおいているのはいうまでもない。

付加価値額の推定は、生産面からだけではなく、所得、支出の二面からも接近することが出来る。しかし、資料の制約を考えるとき、とりわけ第二次世界大戦終了以前の時期については、ほとんどの地域において生産接近が主な推計戦略とならざるを得ないであろう。

ところで、国民経済計算体系における個々の産業の(理論上の)産物(つまり付加価値)は、それに対応する値段をもっておらねばならない。そこで、付加価値の価格をどう求めればよいかという重大な問題が発生する。ふつう、これはダブル・デフレーション法によるほかはないとする。つまり、一方で名目生産高Qから実質生産高qを(生産物物価指数Pで除することによって)計算し、他方では原料および中間生産物等(名目)購入額Rから同様にして実質額rを求めておいて、その後

     (QーR)/(q−r)

をもって付加価値生産物の物価(デフレーター、実際には指数の形で表現する)とみなすのである。実際には、ほとんどの場合付加価値を取引するのではないのだから、これはもちろん擬制である。*9

なお、産業別付加価値推計の実際については、経済済企画庁作成の手引書がある(経済企画庁経済研究所国民所得部(1986a))。










10).コモ法

モノの供給ルートを用途別に追いかけ、その国内最終需要を消費か投資かに仕分けするのがコモ法(コモディティー・フロー法、 commodity flow method)である。この方法では、まず主要製品の最終生産高を確定する。二重計算は取り除き、輸入高を加算し、輸出高と仕掛品(未完成品)とはもちろん除外する。そのうえで、各品目を、その最終用途別に仕分ける。

たとえば綿織物であれば、輸入品を加え、輸出品は除いた後、在庫にまわったもの以外の全品がその年の消費に費やされたと考えてよいだろう。ちなみに、在庫には、意図された部分と意図せざる部分(すなわち売れ残り)とがある。

たとえば、綿織物品の原料(木棉)が全品輸入品だったとすれば、その商品の生産は、輸入された原料の価額と国内でつけ加えられた付加価値とから構成されているわけである。あるいはまた、輸入鉄鉱石を国内で鋼材に加工し、これを材料として国産の工作機械を製造した場合には、その出荷総額に完成品ならびに部品の輸入額を加え、同じく輸出高を控除したあと、国内販売高は生産者耐久設備(PDE、producers' durable equipment)として、また生産者の手元に残った分はPDEの在庫投資として、分類される。同じ機械でも、たとえば乗用車の場合には、分類はその用途によって異なり、自家用であれば消費(耐久消費財consumers' durables)に、業務用であれば投資(PDE)に、仕分けられる。*10

同様の仕分けを商品ごとに繰り返し、その結果得られる数値を積み上げることによって、その年の消費額、資本形成(投資)額が決定する。

この推計過程からして明らかなように、コモ法を利用するときには、消費(C)と資本形成(I)とを同時並行的に算出することによって、これら両支出項目相互間の斉合性を維持するのがかんじんである。*11

なお、コモ法の実際については、経済済企画庁作成の手引書がある(経済企画庁経済研究所国民所得部(1986b))。個人消費を推定する作業プロセスのヒントは、篠原(1967)から得られることも多いだろう。










11).フローとストック

GDPが一年間に新しく付け加わった生産額の流量であるのに対して、ある一時点現在(たとえば、今日の正午)、一定の国に存在する資産の価値総額は、国富(national wealth)と呼ばれる。 GDPは流量概念の典型だが、これに対して国富はストック量の典型である。フローが一定時間のあいだに展開される映像だとすれば、ストックは映像の蓄積の一瞬間をとらえたスナップ写真である。企業会計でいえば、損益勘定(income statement)はフロー概念で、貸借対照表(balance sheet)はストック概念に対応する。

同様に、投資Iはフロー概念であるが、これに対応するストック概念が資本(資本ストック)Kで、既述のように、

      = K − K

の関係がある。実際には、同じtといっても、期首で評価するのか、期末ではかるかによって無視出来ない差が発生する。

もう一つ重要な例をあげれば、年々の人口増下表(動態人口)はフロー概念であるが、ある一時点における人口数そのもの(静態人口)はストック概念である。

一般に、フロー量よりはストック量の計測の方がずっとやっかいである。ストックは、時間がたつ(ヴィンテージが増える)につれて、利用によって(および/または技術進歩のために)その価値が減耗するのと、その市場価値にも変化が生ずるためである。

資本財でも人的資源でも、原理的には同じ困難がある。それなのに、資本ストックの方がずっと困難度が大きいと思われているのは、資本ストック量は推計しなければ不明であるのに、人的資源の方は人口(N)という数値が比較的ありふれた情報だからであろう。人的資本の場合は、Kとは違って全員を共通の単位で数えてもさしつかえないと(一見)思われること、それだけでなく、現代人にはすべての人は平等である(べきである)という信念があるために、資本財と同様の計算を遂行することに対して無意識のうちにも抵抗感があるのかもしれない。

しかし、人的資源も、性別・年齢別・職業別等々によって市場価値が微妙に異なること、同一人であっても歳をとると価値が下落しやすいこと等を考慮し、経済概念としてその総量を把握しようとすれば、資本財の推計にあたって生ずるとちょうど同種類の集計問題が発生するのに気付くだろう。もっとも、人的資源の場合は、(資本ストックに比べれば)銘柄別の価値(つまり賃金)がかなり明瞭につきとめられるから、計算上の困難がずっと少ないとはいえるかもしれない。










12).フロー・ストックの概念と生産函数

なぜフローとストックとの違いにこだわるかといえば、それにはもちろんちゃんと理由がある。まず、ストック(量)の存在がなければ生産は行われ得ない。この意味で、ストックとしての生産要素は不可欠の存在である*12。しかし、ストック(量)と生産量とは必ずしも一対一に対応しない。ストックが存在しても、それが稼動しなければフローとしての生産量はゼロである。

生産要素とは元来そのようなものであるのならば、工業の生産函数においても、ふつう省略される土地(L)も表現されなくては不都合である。 すなわち、

     Q = f(K、N、L)*13

国際経済学者たちは、リカード以来ヘクシャー・オリーン定理にいたるまで、資源賦存量と貿易の利益との因果関係を問題とし、そのコンテキストで生産函数をとりあげてきた。このなりゆきからみれば、生産函数のargumentに入るべきものはストックとしての生産要素であって、それが供給するところのサービス(フロー)ではないといえよう。

そうだとすれば、ちょっとやっかいな問題がここで発生する。経済学者は、生産要素の雇用量は、限界生産性がその生産要素の実質レンタル・プライスに等しいところに決まるという。しかしストックは、瞬間の世界の次元で測られる量で、一単位ごとに(機械一台とか労働者一人とかいうように)不連続的に増減する。ある瞬間にすべての生産要素が完全雇用の状態にあるとすれば、もはやどの生産要素も増加させることはできないから、生産量(Q)もそれ以上変化させることはできない。

しかし、この状態にあっても、稼動率(労働強度)を変化させることはできる。つまり、ストック量は不変だが、その下でフローの投入量を変化させることはでき、それに応じて生産量も(微少ではあれ)変化し得るのである。この場合も、ストック量と生産とは一対一の対応関係にないということになる。

いずれにせよ、ディメンジョンが合うからというだけの理由にもとづいて、生産函数のQとKとをともにフロー量で定義する試みには問題が残されているというべきであろう。

生産函数をめぐる議論にストック概念がつきまとうとすれば、次には、そのストックをいかに表現するか(評価するか)が問題となる。というのは、全商品が単一財から成るような世界に棲むのでないかぎり、それぞれのストックは、異なる年齢(ヴィンテイジ)や異なる性能の生産要素の集合であって、これを集計するためには何らかの価値尺度で表現せざるをえないからである。












*5

これらの操作を実施した際には、その趣旨だけではなく、その方法についても具体的かつ十分に詳細に注記しておく必要がある。












*6

付加価値の合計は、規模の経済が存在しない場合には、つまるところ、各産業に働く生産要素(労働、資本、土地など)に対して支払われた報酬の総額に等しい。この点は、モノの生産もサービスの生産もまったく変わるところがない。モノの生産とサービスの生産とを区別し難い理由がここにもある。












*7

かつてマルクスは、この現象を生産の有機的構造の高度化と呼んだ。












*8

典型的な企業の原価計算に関する情報が得られれば、所得率の値のおよその見当をつけるぐらいは出来よう。












*9

純粋の対人サービスにおいて、資本設備が皆無で材料費が顧客もちである場合には、付加価値額そのものが取引されているといっていいだろう。












*10

耐久財が否かは、一年以上の耐用年数をもつとみなされるかどうかで決まる。税計算のための法定耐用年数は、財の物理的な寿命の長さとは必ずしも対応しない。たとえば、ワイシャツは数年にわたって使用されるかもしれないが、国民経済計算上はすべて消費財として扱われる。












*11

ちなみに、日本LTESの一つの欠点は、その消費と投資とが(コモ法によって)独立に推計されたために、両項目間の斉合性の保証がないことだという意見がある。












*12

この意味で、生産要素としての資本の意義は、ただ存在することが必要なのだといったHaavelmo(1960)はたしかに正しい。












*13

Qは、、粗生産量のこともあれば、付加価値で定義される場合もある。もしQが付加価値であるとすれば、説明変数(arguments)のなかに原料や中間生産物が加えられていなくてはならない。