戦前期の鉄道統計






近代中国における鉄道の建設は、欧米諸国はもちろん日本と比べても非常に遅れた。とはいえ、日清戦争以降二つの鉄道建設ブームの時期を経て、1949年に中国の鉄道延長距離は2万3000キロに達した。現在の中国の平原部における主要幹線は、ほぼこの時期までに完成したといってよい。

このような鉄道の発展は、近代中国の経済発展を促した。たとえば、東西横断線(隴海鉄路)は、西北地域の綿花などの農産物を沿海地域の工業都市に運び出し、逆に綿製品を始めとする工業製品を大量に都市から西北地域へ運び込む重要なルートになった。南北を縦断する京漢線や津蒲線などの開通によって、鉄道沿線地域の商品作物の栽培や鉱業資源の開発が急速に進んだ。鉄道の発展は鉄鋼業・機械工業にも貢献した。たとえば、中国最初の製鉄所(漢陽鉄廠)は、鉄道レール供給のために設立され、唐山や長辛店の鉄道修理工場は、多くの熟練労働者を養成する場になり、中国機械工業の発展に大きく寄与した。近代中国の経済発展の研究・分析に際して、鉄道建設の状況を把握することは必要不可欠であろう。

また、各国の経験によれば、鉄道の営業距離数や客・貨物輸送量と1人当たり国民所得・経済成長率との間には高い相関関係があることが知られている。したがって、COEプロジェクトの性格や中国班全体の枠組みから見ても、鉄道関連統計の整備は重要な意味を持つ。

率直に言うと、作業を始める前のわれわれの見通しは非常に楽観的であった。鉄道は近代産業でしかもその大部分が国有だから、統計データが他の産業と比べて多く残されているに相違ないと予想していた。また日本の鉄道については南亮進教授の推計があるから、それを手本にすれば作業が容易だろうと、いささか高をくくっていた。しかし、実際の作業に着手すると、われわれは大きな困難にぶつかった。近代中国の鉄道に関する資料の欠落と研究の遅れは、事前の予想あるいは期待をはるかに越えていた。




近代中国鉄道産業に関する資料

中国の鉄道は1880年代に入ってから建設がはじまったが、それ以後の30年間は成長が非常に緩慢であった。当然ながら、建設資金、路線距離や輸送状況等に関する数量的な記載も若干存在しているが、そのいずれもが各種の公文書や書籍の中に散在しているため体系的には把握できない。

当時の鉄道行政の主管部門であった中央政府郵伝部は、初めての鉄道統計ともいうべき『郵伝部路政統計表』を1907年に刊行した。しかし清王朝が辛亥革命によって崩壊したのに伴い、刊行はわずか3年で中止されてしまった。また、その内容は当時の実際の状況を客観的に反映していないので、完全な資料とはとてもいえない。

民国初期、中央政府の交通部、鉄道部が、年1回鉄道関係の統計資料(『中華国有鉄路会計、統計匯編』、ただし年次によって異名あり)を刊行するようになった。その後、路線毎に設置されていった国有鉄道管理局の一部も、それぞれの管轄下の路線に関する会計、統計報告書(表)を年ベースで公表するようになった。しかし、1937年の日中戦争の勃発により、この種の統計資料の刊行は中止せざるを得ない状況に追い込まれた。したがって、収集されたデータの最終年は1936年ということになる。それ以降1949年までの10数年間、いくつかの年次については中央政府の主計部、あるいは財政部、交通部などの発行した年鑑や統計資料の中に鉄道関係のデータが含まれていた。しかしそれらは時間的連続性や質の面で、1936年以前に発行された専門的な統計資料には遠く及ばなかった。

上記の各種統計資料の中には様々な問題や不備が存在する。たとえば、時期からみれば20世紀初頭からおよそ30年間しかカバーされていない。また、その内容から見ても国有鉄道しか調査の対象にならず、そのうえ従業員数や賃金水準などは不明である。しかしそのような制約があるにもかかわらず、それらは中国の鉄道輸送業の歴史を知る上でのもっとも重要な資料と評価できる。

他方、諸外国が中国で設立した鉄道管理局も彼らの独自の統計資料を作成していた。たとえば、中東、膠済、満鉄等の鉄道管理局が作成した出版物の中には、各局の管轄下の路線運行状況に関するデータのみならず、管轄外の路線についての記載もあった。とくに満鉄の調査活動が管轄下の南満州鉄道に限らず広範に及んだことは周知の事実である。また1930年代の初めから40年代半ばまでの間に、日本が中国における軍事占領地区内で設立した組織、たとえば華北交通株式会社は、『統計年鑑』、『北支蒙彊年鑑』等の書籍及び各種の調査報告を刊行した。それらの中にも中国近代鉄道に関する資料が若干含まれている。

以上、中国近代鉄道輸送業に関する資料について簡単に紹介した。率直に言ってそれらは不完全であるが、うまく利用すれば有益な情報を得ることができるといえよう。




中国近代鉄道に関する統計資料の研究現状

1953年中国科学院経済研究所は故厳中平の主宰の下、中国近代経済史全般に関する資料の編集に着手した。その成果が1955年に出版された『中国近代経済史統計資料選輯』(以下『選輯』と略)である。その中に収められた鉄道輸送業に関する統計資料は、前述した資料に若干の加工を施したものである。ただし、その大部分は、当時においてさえ収集されるどころかその存在すら知られていなかった。したがって、当然ながら『選輯』の編集に際しても、それらは利用されることが少なかった。たしかに『選輯』は鉄道のみならず近代中国経済統計資料の整備に関する唯一の研究として評価すべきであるが、当時のさまざまの客観的条件から課せられた制約によって多くの不備があったことは否定できない。

1997年の夏、われわれは『選輯』の鉄道部分の担当者で、中国鉄道研究の第一人者である泌汝成先生(中国社会科学院経済研究所)を訪問した。泌先生は『選輯』の鉄道部分の不備を認め、その後何度もそれを補足・修正しようとしたものの、費用や政治状況の変化などの理由で結局それが実現できなかったことを話してくれた。また現在、中国において戦前期の鉄道を研究するものはごく少数で、しかも鉄道統計についての専門家は一人もいないとのことであった。われわれが同図書館で調べた鉄道資料の最後の借出人は泌先生で、その日付も1950年代(『選輯』編集時)であった。これこそまさに中国鉄道統計の研究の現状を物語っている。

『選輯』が出版されてから今日に至るまでに、海外(主に日、米、英、旧ソ連など)で、中国近代鉄道事情に関係する論文や著作などが多く出された。これらの研究は時に独創的な見解を示したが、全面的かつ系統的な統計資料を作り上げるまでには未だ至らずといわざるを得ない。




作業の進展状況と今後の課題

作業の最初の段階ではまず資料の所在状況を調べることに努めた。戦前鉄道に関する資料は各種文書に散在するだけにとどまらず、その所蔵自体も戦争が原因で各地に散逸してしまっている。そのためわれわれは北京や西安など各地に足を運んで資料を探索した。また図書館の目録情報からだけでは資料の収集は非効率にならざるを得ない。そこでわれわれは現物を手にすべく様々な「工作」を施し、昼なお暗き書庫に潜り込み、懐中電灯を片手に埃にまみれながら必要な資料を探し回った。このような悪戦苦闘の末に、ようやく数十点の資料を入手することができた。

つぎに推計作業であるが、われわれは戦前期鉄道営業キロの推計から着手した。営業キロ数は鉄道に関するもっとも基礎的な統計であるが、戦前中国ではそれすら存在しなかった。原資料の中には、ある年次の営業キロが記録されているが(もっとも資料によっては多少の食い違いがかなりある)、時系列データは存在しない。また『選輯』もこれを推計していない。したがって、作業の第一着手としてこれを推計することにした。この作業は実に地味で苦労ばかりの作業だった。次にデータが比較的に得られる1912-1936年(国民政府が成立してから日中戦争が始まるまでの時期)について、鉄道事業の発展状況(客貨物輸送量など)の推計を試みた。推計結果は97年11月の中国部会例会で報告した。この結果にはまだ修正の余地があるが、当時の実状にもっとも近いと我々は確信している。

今後の課題として、第1に、上述の推計結果を改善するとともに、1912-1936年の鉄道事業の所得データ推計を試みたいと考えている。GDP推計のためには所得データが必要だからだ。しかし所得の推計に当たっては原資料から情報が得られない。これから関連資料を探す必要がある。第2に、資料の制約による困難が大きいかもしれないが、1936年から1949年までの間にも推計を延長したいと思っている。




(Hao Renping 東京理科大学諏訪短期大学助教授)