文献案内

「満洲国」マクロ経済統計について

山本 有造

はじめに

「中国東北地区」、その戦前期における呼称を歴史的用語として「満洲」と呼ぶことにする。ここでは「満洲」に関わる経済統計を一般的に概説することが目的ではない。いわゆる「満洲国」期(1932ー1945年)における、そのマクロ経済的パフォーマンスを知るうえで不可欠だと思われる2つの統計――国民所得および国際収支――の既存資料について、現在知られるところを要約的に述べる。国民所得統計については山本[1993a]および山本[1996]、国際収支統計については山本[1980]および山本[1993b]で論じたことがある。詳しくはそれらをあわせて参照されたい。

1.国民所得統計

今日知られている「満洲国」国民所得統計は、作成者により3つの系列に分類される。これを整理し、参考文献表にしたがって主要関係文献を示せば次のようである。(文献目録において「張公権文書」所収と記すものはスタンフォード大学フーヴァー研究所文書室に所蔵される文書である。張公権および張公権文書については、アジア経済研究所[1986]を見よ。)

 満鉄経済調査会系列 :満鉄経済調査会[1933]
            満鉄経済調査会[1934]
 満洲国経済部系列  :満洲国経済部[1938b]
            満洲国経済部[1940]
            満洲国経済部[1941]
            満洲国経済部[N.D.a]
 満洲調査機関聯合会系列:満洲調査機関聯合会[1944a]
             満洲調査機関聯合会[1944b]

満鉄経済調査会系列

満鉄経済調査会が1933(昭和8:大同2)年に行った、1930年度を対象とした国民所得および国富調査である。その目的とするところは、「経済調査会第5部第1班の今次の業務計画たる満洲国租税体系立案の一資料として……満洲国国民所得竝に国富の概数を算出しようとした」(満鉄経済調査会[1933]緒言)ものであり、建国草創期の立案調査の一環として行われたものと思われる。したがって本調査では担税能力の判定資料とするところに力点がおかれ、国民所得を定義して、「国内に於ける官公竝に私人の企業利潤、取引利益、利子、地代、一般賃貸利得及び労務報酬の総計」とされた(同上、凡例)。

ただし、同推計は「当時未だ治安確立せず其の調査地域も旧東三省に限定せられ、剰へ貨幣価値の変動、度量衡単位の相違等よりして極めて悪条件の下に施行され」(歳川[1941]129頁)たために、その結果にやや特異な性格を与えることになった。

(1)個人所得総和としてのいわゆる「人的・主観的」国民所得推計を意図しながら、産業及び収益源別推計を積み上げる「客観的」方法に倣った「百パーセントの机上調査」であった。(人的・主観的方法と物的・客観的方法については山本[1993a]参照。)

(2)調査の地域的範囲は旧東三省に限り、熱河省、満鉄附属地は含まない。(ただし満鉄附属地については簡易推計を行い、付録として掲載する。)

(3)金額はすべて現大洋元に換算表示する。(昭和5年の平均換算率は日円100円=現大洋166.35元であった。)

こうした特殊性のため後年の推計と直接接続して使うことができず、「満洲国」建国直前の貴重な資料でありながら参考資料的な地位にとどまっている。

満洲国経済部系列

満洲国経済部により行われた公式調査である。1938(康徳5)年に実施された1937(康徳4)年度分の調査を第1回とし、その後隔年に行われたものと思われる。

調査マニュアルである『満洲国国民所得調査要綱』(満洲国経済部[1938]、同[1940])によれば、調査目的を、「満洲産業開発五ヶ年計画」の発足期にあたって「本邦国民経済ノ飛躍的発展過程ニ於ケル経済及之カ内容構成ニ現ハレタル経済力ノ分布状態ヲ調査シ以テ爾後ニ於ケル経済及財政諸政策ノ樹立ニ資セントス」るためとし、また調査方法としては実地調査・照会調査・既存資料を総合し、「国民経済における純生産物」を「物的・客観的方法」で把握するとした。したがって調査は産業別に行われ、1農業、2水産業、3鉱業、4鉱業、5商業、6交通業、7公務及自由業の7産業分類に、8国際投資及事業利得差額、を加えた8項目である。

満洲国経済部が行った国民所得推計は、今日、康徳4(1937)、康徳6(1939)、康徳8(1941)の3年分の数値が知られ、康徳10(1943)年分についてはその概算と思われるメモが残っている。

満洲調査機関聯合会系列

満洲調査機関聯合会による本系列については、その第1回の康徳8年度調査報告の冒頭にかなり詳しい説明がある(満洲調査機関聯合会[1944a]はしがき、調査要綱、等)。これによれば、本調査の目的と方法は、「国民所得ヲ主観的方法(人的方法)ニテ算出シソノ所得構成ヲ把握シテ資金配分ノ策定ニ寄与シ併セテ綜合国力ノ判定ニ資セントス」というところにあった。

ここで「資金配分ノ策定」とは、いわゆる「国家資金計画」と呼ばれるものであって、日本に追随して満洲国においても康徳11(昭和19)年度分から本格的に策定されることになった国家計画である。そしてその準備過程として、国民の消費資金と貯蓄資金の配分を調査する目的から、「主観的・人的方法」による国民所得調査が行われることになったのである。この方法を具体的にいえば、「推計ノ便宜上右ノ十項目ニ分チ各項目毎ニ企業者所得額(利潤)、財産所有者所得額(地代、利子)、被傭者所得額(俸給、賃金)並ビニ租税公課ヲ調査シ所得総額ヲ計算ス」というものであり、調査10項目は次のとおりである。1農業、2水産業、3鉱業、4工業、5商業、6交通業、7自由業家事従事、8政府(地方団体を含む)より受ける個人の所得、9官公利得、10国際投資及び事業利得差額。

さて、人的方法による本系列は、物的方法による経済部系列を改訂・補完するものとして康徳8(1941)年分が推計されたが、以後満洲国国民所得推計はこの人的方法に統一されて経済部に引き継がれたらしく、康徳10年(1943)分は経済部の手で行われている。ただし、つづく康徳12(1945)年調査は終戦により作業が中止されたものと思われる。

2.国際収支統計

満洲国の国際収支関係統計については、康徳6(1939)年以前について満洲国が公式に調査・公表した国際収支統計と、康徳7(1940)年以降について満洲中央銀行が行った外国為替収支統計の2系列に分けられる。前者を「満洲国公式統計」、後者を「満洲中央銀行(満中銀)為替統計」と略称し、順次解説を加える。

満洲国公式統計

公式統計として公表された「満洲(関東州ヲ含ム)国際収支調査」の生涯については、次の一文によって要を得た説明がえられる(満洲中央銀行為替課[1942]備考)。

満洲国際収支調査ハ我国[=「満洲国」ー山本]金融経済国策ノ基礎資料ヲ得ル目的ヲ以テ康徳二年(大同二年度及康徳元年度分)財政部・満鉄協力ノ下ニ第一次調査ヲ行ヒタルニ始マリ翌康徳三年(康徳二年分)ヨリ財政部(現経済部)専任トナリ爾来同部ニ於テ毎年調査ヲ継続シ来レルカ都合ニ依リ康徳六年度ヲ以テ中止セラレ今日ニ至レリ

ここに述べられた「康徳六年度ヲ以テ中止セラレ」の意味は実はあまり明確ではない。現存する資料から類推するに、調査は康徳6年分まで行われたが、調査書の公表は康徳4年度分をもって中止されたというのが正確であろう。この調査報告書自体が今日ではかなり希少であるので、その一覧を参考文献表に従って示せば次のとおりである。

 1.満鉄経済調査会[1935]:内容は1933(大同2)年および1934(康徳1)年分
 2.満洲国財政部[1936] :内容は1935(康徳2)年分。
 3.満洲国経済部[1937] :内容は1936(康徳3)年分。
 4.満洲国経済部[1938a]:内容は1937(康徳4)年分。
これら現存する1933年から1937年分の『満洲(関東州ヲ含ム)国際収支調査書』に関するかぎり極めて詳細な調査報告書であって、当時の世界的水準を抜く出来映えといっても過褒ではない。

なお今日『調査報告書』としては見いだされていないが、1938(康徳5)年・1939(康徳6)年分についても総括表の形でその結果が残されている。それらを含む各年統計は諸書に散見されるが、最もよくまとまったものとして次を挙げる。

5.満洲中央銀行為替課[1942]:内容は1933年から1939年までの総括一覧表。

満洲中央銀行為替統計

さて満洲国経済部による公式推計が中止された後、すなわち1940(康徳7)年以降については、満洲国の「対日本収支」(1940ー1944年)および「対華北収支」(1941ー1944年)という形で大分類総括表が存在することがかねて知られていた。まず、この統計を掲げている戦前期の代表的統計書を挙げる。

イ.満洲国経済部[各年]

ロ.満洲国国務院総務庁(統計処)[N.D.]

文献(ロ)の注記によれば、当該「対日本収支」統計は「為替管理法ニ依リ各外国為替銀行ヨリ提出セル報告書ニ基キ之ニ通貨収支ヲ加算推計セルモノニシテ為替外収支ヲ含マズ」(第51表備考)という。また同じく「対華北収支」については「為替管理法ニ依リ各外国為替銀行ヨリ提出セル報告書ニ基キ之ニ国幣兌換ヲ考慮シ推計セルモノニシテ為替外収支ヲ含マズ」(第52表備考)という。

これらのうち「対日本収支」については、戦後に編纂された

ハ.東北物資調節委員会[1948] にまとめて収められて、利用に便利であったが、「対華北収支」を欠くなど不完全な部分もあった。最近になって、「張公権文書」内に見いだされた3種の鉛筆書き統計表(終戦直後に上部報告用に作成されたものと推定される)によって既存数値がほぼ完全に復元できることになった。

ニ.編者不詳[N.D.a]

ホ.編者不詳[N.D.b]

ヘ.編者不詳[N.D.c]

なお文献(ニ)の注記(附注2)によって、この統計が満洲中央銀行の調査にかかる対外資金収支であったことが確認される。

民国29年[=1940年:康徳7年ー山本]以後、依拠偽満中央銀行調査、以匯兌統計及貨幣回収額合算加以中央銀行円資金収支実績之考慮

むすび

以上でひとまず「満洲国」の国民所得および国際収支に関する統計解題を終わる。マクロ統計として不可欠の生産指数については現在研究中であり、その一部は、山本[1996]で検討した。生産指数その他物的生産に関わる統計解題については別の機会を得て、本稿の続編としたい。

[参考文献]

アジア経済研究所[1986]『「張公権文書」目録』。

満洲中央銀行為替課[1942]『自大同2年度至康徳6年度満洲(関東州ヲ含ム)国際収支一覧表』康徳9年7月(「張公権文書」R3-45、所収)。

満洲調査機関聯合会[1944a]『康徳8年度満洲国国民所得調査書』(「張公権文書」R3-55、所収)。

――[1944b]『康徳8年度満洲国国民所得調査参考附表』(「張公権文書」R3-55、所収)。

満洲国経済部[1937]『康徳3年満洲(関東州ヲ含ム)国際収支調査書』康徳4年11月10日調製。

――[1938a]『康徳4年満洲(関東州ヲ含ム)国際収支調査書』康徳5年9月27日。

――[1938b]『満洲国国民所得調査要綱(康徳5年2月)』。

――[1940]『満洲国国民所得調査要綱(康徳7年7月)』。

――[1941]『康徳6年度満洲国国民所得総括表』康徳8年7月(「張公権文書」R3-54、所収)。

――[N.D.a]『康徳10年度満洲国国民所得調査書(案)』(「張公権文書」R3-56、所収)。

――[各年]『金融情勢参考資料』。

満洲国国務院総務庁(統計処)[N.D.]『満洲経済参考資料』(調査時点は、康徳10年5月現在と推定される)。

満洲国財政部[1936]『康徳2年満洲(関東州ヲ含ム)国際収支調査書』。

満鉄(南満洲鉄道株式会社)経済調査会[1933]『昭和五年満洲国国民所得竝に国富計算書』。

――[1934]『国民所得及国富調査に関する研究ー特に満洲国に於ける場合の考察ー』。

――[1935]『昭和8・9年度満洲(関東州ヲ含ム)国際収支調査書』(「立案調査書類」第25編第2巻第1号)。

東北物資調節委員会[1948]『東北経済小叢書』第19巻『金融』(本書は、台北・学海出版による1971年復刻版がある。)

歳川満雄[1941]「我国の国民所得」『調査』第1巻第1号。

山本有造[1980]『「満州国」国際収支に関する既存統計について』神戸商科大学経済研究所研究資料No.27。

――[1993a]「「満洲国」国民所得統計について」溝口敏行(編)『第2次大戦下の日本経済の統計的分析』平成2ー4年度科学研究補助金・総合研究(A)研究成果報告書。

――[1993b]「「満洲国」をめぐる対外経済関係の展開ー国際収支分析を中心にー」山本有造(編)『「満洲国」の研究』京都大学人文科学研究所(本書は、山本有造(編)『新版「満洲国」の研究』緑蔭書房、1995、として再版されている)。

――[1996]「「満洲国」生産力のマクロ的研究・序説ー「満洲国産業生産指数」の検討を中心にー」『経済研究』47ー2。

編者不詳[N.D.a]『満洲(関東州ヲ含ム)対日本国際収支(大同2〜康徳11年)』(「張公権文書」R3-51、所収)。

――[N.D.b]『満日国際収支実績累年比較表(民国22〜33年)』(「張公権文書」R3-53、所収)。

――[N.D.c]『東北対華北貿易及貿易外収支実績表(民国30〜33年度)』(「張公権文書」R3-52、所収)。 ALIGN=RIGHT>(やまもと・ゆうぞう 京都大学人文科学研究所教授)