■ESSAY■

私と中国研究

南 亮進

私の中国とのお付き合いの始まりはそう古いことではない。ある日、私の日本経済論の講義に出席しておられた南開大学(天津市)の薛敬孝先生が研究室を訪ねてこられ、ぜひ自分の大学で講義して欲しい、よろしければ国際交流基金に援助を要請するということであった。その頃私は中国にほとんど関心がなかったが、未来の土地に対する興味と薛先生のお人柄に引かれて簡単に引き受けてしまった。

こうして初めて中国の土地を踏んだのは1984年の秋である。それからちょうど1ヵ月間講義をし、その後北京、西安、上海の各市をまわって帰国したが、この時の経験は私にとって忘れられないものになっている。

帰国してすぐ『日本経済新聞』の「やさしい経済学」欄に「中国経済点描」というエッセイを書き、翌年には『経済セミナー』に「どこへ行く中国経済」を1年かけて連載した。これをまとめたのが『どこへ行く中国経済』(1985年)である。

この書は、明治以降の日本の経済発展と比較しながら解放後の中国経済を論じたもので、良くも悪くも、中国専門家でない学者が書いた中国論の“はしり”であったと自負している。ここでは私は中国についてかなり厳しいことを書いた。要するに中国の教育、インフラ、経済制度等経済成長の基盤がまったく整備されておらず、これではいずれ経済成長は壁に突き当たってしまう、というものであった。このような見解は私の中国滞在中の印象を、各種統計データで確認した結果でもあった。

教育については当時まだ義務教育が行われていなかった。文盲率は31.9%(1982年)に達しており、インドの64%に比べればはるかに低いが、タイやフィリピンの20%程度に比べればかなり高い。日本の義務教育は早くも明治初年(1872年)に開始されたが、これは近代経済成長の開始(1880年代中頃)に先立つ点で世界的にもユニークな経験であった。もっとも重要なことは、徳川時代にも寺子屋で初等教育が事実上普及していたという事実である。中等・高等教育についても中国の現状はひどいものであった。中国の大学の設備の悪さを見て、これでは経済成長に不可欠な優れた企業管理者や技術者の大量の養成は難しい、という感じを持ったのである。大学の就学率は1%(1981年)で、これはインドの8%、タイやフィリピンの20〜30%に比べて極めて低いものである。

文盲率や就学率のデータによると、その頃の中国は1900〜20年の日本に相当するものであった。

インフラの未発達は中国滞在中私を悩ました最大の問題であった。どこの都市でもタクシーを拾うのは至難のわざであったし、国内の旅行では、汽車や飛行機の切符を手に入れることと旅館を探すことの困難さを身にしみて感じた。北京、西安、上海を回遊する切符は存在せず、北京から西安への切符は北京で長い列に並んで買わねばならないし、西安から上海への切符をとるためにも西安で同じ事を繰り返さなければならない。交通機関の発達の度合いを鉄道を例にとって見ると、面積千平方キロ当たり営業キロ数は0.5にすぎず(1983年)、これは日本では19世紀末に相当する。

旅館の予約は電話では受け付けてもらえず、直接フロントに行かないとだめだという。結局北京では旅館は取れず、たまたま知り合った日本人のアパートに転がり込むはめとなった。観光地の西安では3時間くらいあちこち探した挙げ句、結局中国人専用の安宿に泊まるはめになったが、私の部屋は共同便所の隣で、悪臭といろいろな騒音に悩まされた。しかも共同便所のドアを開けると、開けっぴろげの場所で大勢の人が並んで用を足している強烈なシーンが眼前に広がり、思わず飛び出してしまった。

電話も当時はまったく普及しておらず、大学の先生たちの大半は電話がない。しかも先生方は研究室がないために仕事は自宅でされるので、連絡をとることさえ難しい。電話の普及率は千人当たり1.3台(1982年)で、これはインドの4台、タイやフィリピンの10台程度と比べてはるかに低いものである。また日本の歴史と比較すると、この普及率は1900年代の日本に相当するものである。

このように教育とインフラの発達は、中国は日本に比べて60〜80年、時には1世紀の差があり、これでは順調な経済成長は難しいと考えたのである。しかしそうだろうか。その後、中国は猛烈な成長を開始し、このままで行くと21世紀には世界最大の経済大国になると予想される。私の予想は完全に間違っていたのである。その間違いの原因は何かを考えてみると、経済成長はその基盤が出来上がった後に初めて可能になるというのではなく、経済成長がいったん開始されると、その過程において除々に基盤整備を進めることによって、成長がボトルネックに突き当たることを防ぐことが出来るということであろう(もちろん成長の開始にはある程度の基盤整備が必要である)。

中国ではここ10年間の高度成長の過程で、教育の普及とインフラの整備は急速に進行した。義務教育は1986年に始まり、都市から農村へ普及していった。そのため文盲率は22.2%(1990年)にまで下がっている。大学教育もかなり改善され、就学率は2%にまで達している。日本の就学率が2%を越えたのは1920年代の前半であった(『世界の統計』1995年版)。

電話も急速に普及し、今では大学の先生方の多くは自宅に電話を持っている。普及率は千人当たり15台(1993年)にまで上昇している(UN,Statistical Yearbook,1993)。これは日本の1930年代末に相当する。交通機関の改善もめざましい。80年代初めにはなかった高速道路はあちこちで建設されており、特に北京空港から市内までの高速道路のありがたさを実感した人は多いことだろう。タクシーは街にあふれ、市内の交通は飛躍的に便利になったし、列車、航空機の発達のお陰で切符の購入はかなり容易になった。

日本でも基盤整備は、近代経済成長の開始前に完成していたわけではなく、成長の過程でも行われた。義務教育の早い開始にもかかわらず、初等教育の就学率は1880年代中頃ではまだ50%に達しておらず、それが90%を越えたのは20世紀の初めであった。高等教育の就学率も19世紀では0.5%に達せず、それが1%に達したのはやはり20世紀の初めであった。鉄道の営業キロ数は1880年代中頃からの20年間にもっとも大きな増加を示し、20世紀に入ってから全国網の完成を見たのである。

基盤整備と経済成長との関係は、初期の工業化と農業の成長との関係について展開された有名な論争を想起させる。この論争は、トーマス・スミスやジェームス・ナカムラ等の「初期条件仮説」と、大川一司の「同時成長仮説」の対立である。前者は、農業が1880年代中葉における工業化の開始に先立って、比較的高い水準に達していたことが工業化の基盤になったとするものである。これに対して後者は、農業が工業化に並んで比較的に順調な成長を遂げたことが、工業化を容易にしたと主張する。すなわち私が中国研究から学んだことは、この論争に引っかけて言えば、「初期条件仮説」を強調しすぎることへの反省である。これは発展途上国が基盤整備をしながら成長しうる可能性を示すものであり、これらの国にとっては明るい材料と言えるかもしれない。もっとも経済成長の開始には、ある程度の基盤整備が前提となることは言うまでもない。この意味では、「初期条件仮説」を完全に否定することは別の誤りを犯すことになる。

このように私は、つたない中国研究によって、日本に対する認識を新たにさせられた思いがしている。他国に対する研究が日本研究の参考になるという一つの例でもあろう。COEプロジェクトでアジアの歴史研究が進むことによって、日本研究も大きく前進するという、思いがけない効果も期待されるように思われる。

(みなみ・りょうしん 一橋大学経済研究所教授)