戦後世界の人口爆発とアジア

プロジェクト幹事 斎藤 修

 

出生力とナンバー・プロブレム

 世界の人口は、いま58億である。その半分以上、正確には60パーセントはアジアの人びとである。しかも2025年までに、さらに15億の増加が見込まれている。地球環境と世界の食糧事情に与えるアジアの人口動向の影響はきわめて大きい。
 別のいい方をすれば、“ナンバー・プロブレム”がアジア人口問題の中核にあり、それを解決する唯一の途は、出生率の引下げ、出生力転換の促進と考えられている。そのために、多くの国では国連などの国際機関の援助の下で家族計画プログラムが導入され、避妊法の講習、用具の配布・指導などが行われている。このような地道な努力は徐々に成果を上げている。しかし、それらの効果は必ずしもはかばかしいとはいえないのも事実である。
 そこで強制的な方法がとられる場合がでてくる。インドの故ガンジー首相の試みた強制的避妊手術の実施はその一例であり、さらに壮大な実験が中国の「一人っ子政策」である。

歴史の教訓

 

 しかし歴史を振り返ってみると、このような強制を伴った政策とその背後にある考え方は少し単純すぎることがわかる。
 (1)その考え方の基本図式は「人口転換論」と呼ばれる。多産多死から少産少死への転換をいう。その前提の一つは、過去の人びとは避妊法を知らないから、彼らの出生力は生物学的にみてマクシマムの水準にあったというものである。
 しかし、これまでの歴史的な研究の成果はこの前提が誤りであることを示している。たとえば、近代以前の英国では、結婚が調節弁となることによって、マルサスがいうところの「予防的」な人口制限が行われていた。また、いわゆる未開社会の多くでは、文化的・宗教的な制度によって、結果的に出生間隔を広げることに成功していたといわれる。
 過去のトータル・ファティリティ(人口学者のいう「合計特殊出生率」=1人の女性が20歳から50歳までの間に生むであろう子供の人数)を知りうる国は、アジアでは非常に限られているけれども、それが8人から9人というところは存在せず、日本の徳川時代も含めて、5,6人かそれ以下の水準であったと考えられている。
 (2)それゆえ、近代経済成長がスタートした初期段階には、様々な理由によって、逆に出生率が上昇した例がみられるのである。たとえば英国では、結婚年齢が低下して出生が増加した。またドイツでは、都市化や近代化の結果として母乳哺育が減少し、人工乳による哺育が増えたため、出生間隔が縮小し、出生率の上昇が観察された。理由は別であるが、わが国の徳川から明治時代にかけても、僅かながらの増加が推測されている。
 この点、アジア諸国ではどうであったのか。いくつかの研究は、婚姻内での出生力上昇を示唆しているが、まだ十分にはわかってはいない。しかし、経済発展にともなう社会変化が出生率増加への圧力となる可能性は少なくない。
 (3)人口転換のもう一つの構成因は死亡率、とりわけ子供の死亡率である。一般に、出生率の低下に先立ち死亡率の低下がくることが経験的に知られている。これを裏返していえば、出生力を引下げたければ死亡率、とりわけ子供の死亡率を低下させなければならないということである。
 しかし他方、歴史的経験が教えてくれるのは、経済発展とか都市化にともなって、「5歳未満死亡率」(出生1000人のうち満5歳前に死亡する人数)が自動的に低下してゆくわけではなかったということである。たとえ1歳以上の子供の死亡率が順調に下がっても「乳児死亡率」(出生1000人のうち1歳未満で死亡する人数)は下げ止まり、場合によっては増加することすらあった。あるいは、1歳未満の乳児のなかでも、新生児の死亡は減少しても、環境要因が強く影響する1ヵ月以降の乳児の死亡率は上昇することが珍しくなかった。経済変化に伴う新しい病気の増加や、都市化のなかで起こるスラムの形成、住環境の悪化が、多くの場合その原因である。それゆえ、政府の出生力低下プログラムが抵抗なく受け入れられるためには、このような乳幼児・母性の健康に関する面への配慮が同時になされている必要がある。

対照的な経験:インドと中国

 インドも中国も人口大国であるが、第二次大戦後50年の変化は対照的である。インドも中国も、1950年代、60年代初め、トータル・ファティリティーはまだ6人程度であったが、1992年になると、インドが4人、中国は2人という差がついた(表のA).
 しかし、その差をすべて政府の政策の違いに帰することはできない。中国の場合、忘れてはならないのは、出生率の低下は一人っ子政策の実施に先立って1970年代初頭からすでに始まっていたこと、そして、さらにそれ以前から子供の死亡率減少も始まっていたことである。乳幼児死亡率は、戦争直後は中国のほうが高かったのであるが、いまでは逆転してしまっている(表のB・C)。
 さらに興味深いことに、インドのなかでも北と南では大きな違いがあった。北では家族計画が遅々として進まないのにたいし、南の諸州、たとえばケララ州では、中国以上に急速な出生率低下が実現したのである。北部と南部では文化が異なり、北インドでは伝統的に女性の地位が低く、女児の間引がいまでも行われている。これにたいし南インドの女性は、東南アジアの女性のように農業や他の生産活動に関わり、家庭内での地位も低くない。専門家は、このような女性の地位の差が出生行動に決定的な影響を与えてきたとみている。
 インド全体と中国とのパフォーマンスの相違にも、このような要因が効いたようだ。表のDは女性の教育面で両国のあいだに顕著な差があったことを示しているが、中国共産党政府の行ってきた政策では、強圧的な一人っ子政策よりも、普遍的な初等教育投資のほうに、高い評価を与えることができそうである。

インドと中国の比較

A. トータル・ファティリティ(合計特殊出生率)
B. 乳児死亡率
C. 5歳未満死亡率
D. 女子の小学校就学率(%)
インド 中国
1965-70   5.7   6.0
1985-90   4.2   2.4
1992     3.9   2.2
インド 中国
1945     151  204*
1960     144   140
1992    83   35
インド 中国
 
1960    236   209
1992    124    43
インド 中国
 
1960    44   90
1986-91  83  100**

*は1944-49年。  ** 両国で定義が若干異なる。

 

おわりに

 乳児死亡率は、賃金や1人当りGNPなどよりも、「真」の生活水準を反映するといわれる。子供や母性の健康改善による死亡率の低下は、短期的な“ナンバー・ゲーム”の観点からみればマイナスの効果をもつが、当該国の人口政策が長期的に良好なパフォーマンスを示すためには、無視できない重要性をもっているのである。

(さいとう・おさむ 一橋大学経済研究所教授)