インドネシアの歴史経済統計
――その連続と変化


ピエール・ヴァンデルエング

 アジアの低開発国では、過去に作成された統計の質は低いとしばしば考えられており、また、一貫した時系列は1950年代より以前のものは得られないことが多い。しかし、インドネシアの場合、Changing Economy in Indonesia: A Selection of Statistical Source Materials from the Early 19th Century up to 1940(1975-95)が示唆するところによると、たとえば人口、貿易、食料生産等に関する、比較的に近代的で一貫したデータが、19世紀初頭にまでさかのぼって得られるようである。
 インドネシアの歴史統計の質をめぐっては、論争がたえない。その質を評価する一つの方法は、統計が収集された理由をよく考え、作業に投入された資金と技術とを吟味することである。植民地期インドネシアの統計報告の歴史は、データの質の低さが次第に改善されていったということよりも、むしろ、マクロ経済政策の策定に際しての経済統計利用機会の増大を示唆している。だから、その種の政策の形成過程の歴史的な変化を理解することは、統計データの質の変化を理解するための一助となる。

1.「集計」から「年次報告」へ

 19世紀初頭における統計データ収集の最初のこころみは、直接植民地支配下にあったジャワ地域のみを対象とし、ジャワ経済における課税可能対象についての感触を得ることを主目的としていた。たとえば、世帯数のデータは、商品作物栽培の強制割当てのために用いられた。しかし、1816年から24年にかけての統計的「集計」(opnemingen)は、主として,各州ごとに異なる方法で編纂がなされていたために、ジャワの包括的な統計的外観を示すことはできなかった。
 これらの「集計」は、後に標準化され毎年行われるようになったが、統計報告の改善は、強制栽培制度の背後にある、ある思想のためにさまたげられた。その思想は、現地首長を通じた間接的な植民地支配(およびデータ収集)を旨とし、地方植民地行政官と現地人との広範な接触を禁じていたのである。
 人口や現地経済の諸側面にかかわる不完全な統計データは、1834年以降に出された、一連の「年次報告」の付録中に収録された(1)。データは、統計専門家ではなく主に地方植民地行政官によって、広範な標本調査や全数調査にもとづいて編纂された。1850年ごろには、データの精度には疑問があるというのが、一般に流布する認識となっていた。
 植民地行政は、財務部(設立1855年)、公共事業部(同1855年)、教育・宗教・産業部(同1866年)、司法部(同1870年)、農業部(同1905年)などの専門部局の手に次第に委ねられるようになり、統計データの収集もそれらの部局に移管されていった。「年次報告」も、地方植民地行政官よりも、むしろそれらの部局の統計データにもとづいて編纂されるようになった。入手できる統計データは急速に豊富になっていったが、データの正確性は依然として疑わしいものであった。一般に官吏は、その種のデータを収集し、その正確さを点検するための訓練を受けていなかったからである。実際、「年次報告」は、これらのデータを「かなり正確」「推定」「憶測」の3種類に分類していた。
 1900年ごろには、ほとんどのデータは、諸部局によって収集されただけでなく、ジャワ銀行やジャワ国有鉄道会社のような公共企業体、あるいは諸島間海運会社(KMP)のような私企業によっても収集されていた。これらのデータの精度と調査範囲とは、それらが収集された目的に依存するところが大きい。たとえば、食糧生産のデータは、依然として地税査定のために収集されていたから、地税が徴収されない地域(すなわち、ヨグヤカルタ、スラカルタなどの公国およびジャワ以外のすべての島)は、その調査対象には含まれなかった。

2.集中化と専門化

 1900年以降も、インドネシアの経済的・社会的発展を反映して、行政上の業務がますます増加する専門部局に割り当てられるにともない、統計の調査範囲は拡大し続けた。各部局は、その業務に備えまたそれを執行するために、より広範でかつ正確な数量的情報を必要とした。
 「植民地報告」から集計されたデータは、『オランダ統計年鑑』の一項目として、オランダ統計局によって改めて公表されていた(2)。しかしこれは、1920年に、農・工・商業部(設立1911年)が、同局のさまざまな部署による統計データ集収を一本化するための暫定的な企図として、専門統計事務所(Statistisch Kantoor)を設立したときに、終了した。
 食糧供給への関心の広がりに対応して、統計事務所ははじめに、食糧生産の検査体制を再組織化した。すなわち、それまではジャワにおいて、地税徴収のための行政的支援として検査が行われていたのであるが、ジャワ,バリおよびロンボクにおいても、作付面積および収穫面積の正確な査定が月ごとに行われるようになった。事務所は早くから、都市と農村での卸売り・小売物価指数のような新種の重要なデータの収集を行っており、後には、プランテーションその他の農場での商品作物の生産や対外貿易に関するデータにも責任を持つようになった。植民地政府はさらに、あらゆる統計の収集を集中化する方針を決定し、1925年に中央統計事務所(Centraal Kantoor voor de Statistiek;CKS)を設立した。CKSの業務は明確に法により規定されたことはなかったが、その役割は急速に拡大していった。
 1930年代の経済危機をへて、景気変動を綿密に監視する必要が増大するとCKSの業務も、より緊急性の高いものとなった。CKSは、データ収集をより迅速かつ合理的なものにし、景気変動を計測する方法を発達させ、たとえば食糧生産の計画化などにおいても先駆的業績を残した。その活動には、たとえば標本抽出法のような統計技術の未熟さによる制約はあったものの、CKSはすぐに経済事情部(設立1934年)の中核的部署となった。一連の政令により、CKSは、私企業が提出するのをしぶる物価、賃金、雇用、工業生産などに関するデータを収集する権限を与えられた。CKSは、ますます多くのデータをみずから収集・加工するようになったが、依然として他の諸部局にデータの供給を依存する場合もあり、それらに統計報告の改善を勧告していた(3)。1941年ごろには、CKSは約700名の人員を雇用していた。

3.間奏と序曲

 1942年から45年にかけての日本占領時代には、インドネシアは3つの行政区画に分割されていた。外島(ジャワ以外の諸島)での統計報告については不明の点が多い。ジャワの日本軍政当局はCKSを存続させ、1944年にはそれを「調査室」に統合した。統計データの公表は中断された。詳細は不明であるが、統計データの収集はとにかくジャワでは続けられていたらしい。しかし、1941年から46年にかけてのジャワでの食糧生産に関する完全な時系列を除くと、断片的な統計データしか残っていない。
 1945年から49年にかけての独立戦争は、さらに深刻な途絶をもたらした。1945年8月以降インドネシア共和国は、「調査室」をKantor Penjelidikan Oemoem(KPO)として存続させたが、1946年にはそれはヨグヤカルタに移された。1947年には、CKSがジャカルタに再設立され、次第に統計報告を再開したが、その対象はオランダ占領下の地域にかぎられていた。1949年12月にオランダがインドネシアの独立を承認したのち、CKSとKPOとは合併してKantor Pusat Statistik(KPS)となったが、それは依然として経済事情部の一部署であった。
 新生インドネシア共和国は、1930年代と1940年代の困難と不足の時期に植民地当局が作りあげた行政機構を受け継いだので、経済の大部分が強い統制下にあった。インドネシア政府は、経済発展の方向と速度を指導しようとして、その統制を維持・拡大した。政府にとって適切かつ最新の統計情報を入手することは、その目的のための至上命令であったが、技術をもったオランダ人職員の多くはKPSを去っており、資金も1950年代中にはますます不足するようになっていた。
 KPSは新たな方向へと進んだ。たとえば、農業部を指導して、食糧生産統計の調査対象を外島にまで広げ、また漁業統計も改善させた。KPSはまた、1954年の調査以降の工業生産報告も改善した。しかしKPSは多くのデータを他部局からも収集し続けた(4)。たとえば、依然として、地税機関および農業改良普及機関から提供されたデータをもとに食糧生産を推定したり、保健局から提供された人口動態統計をもとに人口を推定したりしていた。工業とサービス業の生産報告は、鉄道会社のような公企業から提供されたデータによって大きく制約されていた。
 KPSは、提供されたデータの精度を独自に点検する手段をもっていなかった。最初のインドネシア人所長サルビニ・スマウィナタ(在任1955−65年)が後にのべたところによると、経済状況が悪化し始めた1950年代後半には、行政現場での怠惰や綱紀の緩みなどがデータの信頼性に影響を与えるようになってきたという。KPSが各部局に送った質問票に対する不回答率は増し、意志疎通が疎遠になるにつれて、回答に要する時間も増大した。
 1955年以降KPSはますます多くの困難に直面するようになる。そのひとつは、適切に訓練された人材を得ることであった。KPSの雇用人員は従来700名前後であったが、事務員と「低級」職員の比重が増え続け、訓練と経験をつんだ人材が不足していた。人材を養成するため、KPSは1958年に統計学院(Akademi Ilmu Statistik)を設立し、他大学から講師を招き、高校卒業者に3年間の教育を行うことにした。
 政府はKPSの拡張を計画していたので、学院の設立は時宜にかなったものであった。拡張計画のひとつの理由は、より多くの資材を必要とする1960年人口センサス(1961年に延期)のための準備である。もうひとつの理由は、1959年にスカルノ大統領が「指導された経済」(Ekonomi Terpinpin)開発戦略を開始したことにより、経済計画のためのより広範で正確な統計の重要性が認識されたことにある。


4.再組織化と拡張

 1960年の法律第6号はKPSに、人口その他の経済計画に必要とされる全数調査を実施する権限を与え、同年の第7号により、それは内閣に直接に責任を負う独立した機関であるBiro Pusat Statistik(BPS)として再組織された。BPSは、各州の事務所と県(kabupatan)段階の支部をもち、人口3000人以上の郡(kecamaten)には現地調査員をおくものとされた。このような拡張をしたのは、下位の行政機構に頼らずに、全数調査や標本調査を行える体制を必要としたからであった。
 BPSは依然として各部局からのデータの提供に依存していたが、それらの部局の原データの収集は、旧来の方法に依拠していた。しかしいまやBPSは、データ収集の組織者・調整者としての機能も期待されており、そのうえ、報告されたデータの一貫性と信頼性を点検し向上させるために、全数調査と標本調査の形式について、あらたな創意工夫をなす権限をも与えられた。BPSの雇用人員は1961年875名、1963年1490名、と急速に増加していった。
 1961年人口センサスの準備は、国連によって派遣されたドイツの人口学者によって指導された。国連はまた、全数調査や標本調査を発展させるために、1962年にBPSの内部に統計調査開発センター(SRDC,Pusat Penelitian serta Perkembangan Statistik)が設立されるのを支援した。国連はまた、SRDCに助言したり統計学院で教えたりするために、外国人の顧問を任命した。たとえば、V.O.カニストとK.ウエダとは1961年人口センサスの遂行、分析に関与していたし、K.N.C.ピライはBPSでの国民経済計算の基礎を築いた。
 インドネシア人職員の俸給の減価その他の困難にもかかわらず、SRDCは1963年に農業センサスを実施した。SRDCはまた、工業統計を改善し、1964年10月に広範な工業調査を行った。なかでも重要な成果としては、1963/64年度にジャワで、1964/65年度に全国で、それぞれ行われた、世帯(Susenas)段階での社会経済統計データの収集を目的とする全国標本調査があげられる。これらの調査ははじめ、雇用、住居および土地利用に関するデータを含む、非常に広範なものとして設計されていたが、のちに調査対象は家計予算に限定された。
 1965年に、混乱した状況の中でインドネシアが国連を脱退すると、この種の計画に対する支援も削減された。BPSは、SRDCが収集したデータを加工し公表するのに十分な資金さえ、もっていなかったのである(5)。

5.再度の拡張

 1965年から66年にかけての劇的な政変(スカルノからスハルトへの政権交代と、暴力による共産党圧殺)は、インドネシアの経済、社会だけではなく、BPSに対しても新たな出発を迫ることになった。新政府は、インドネシア経済の復興にとっての、良質な経済統計とBPSの事業の重要性を承認した。そして、全数調査の際に現地事務所として機能してきた州統計事務所は、1968年に、すべての州でKantor Sensus dan Statistikとして正式に改組された。
 このとき以来、統計報告の進歩と、BPSの機構の拡大と複雑化は、加速化したインドネシアの社会、経済の発展と、全面的に並行して進んでいくようになる。BPSは、依然として他部局や公共企業体の提供するデータに依存していたものの、それらのデータの収集法の改善にますます深くかかわるようになり、そのうえ、一部の領域では、BPSが、報告されたデータを増補あるいは修正するために、独自の調査を行うことも多くなった。たとえば、食糧生産データの質は、BPSがより適切な坪刈りの方法を導入したために、大幅に改善された。
 BPSの活動の拡大は、その人員が1971年の4,334名から1995年には12,415名にまで増加したことや、その刊行物が急増したことからうかがうことができる。BPSは、1971年、80年および90年に人口センサスを、1973年、83年および93年に農業センサスをそれぞれ実施しており、それらは、労働力その他、関連領域における標本調査の基礎ともなった。もうひとつの進展としては、工業、建設業など、以前には断片的な調査しかなされていなかった部門において、(工業では1975年以来、建設業では1989年以来)生産データが毎年公表されるようになったことがあげられる(6)。

6.おわりに

 過去100年の間に、インドネシアの経済統計の質は向上し、その調査範囲が拡大し続けてきたことはまちがいない。しかし、1960年以来、データ収集の方法が公開されなくなったことは見逃せない。その理由は推測するしかないが、BPSの上級職員にとっては、正確な統計の作成だけでも困難であり、その手順や結果を分析する余裕はほとんどないのかもしれない。あるいは、そのような分析は、専門家が各部局に散在していた過去には、より公然と行われていたのに、BPSが多数の熟練した専門家を擁している現在では、方法論の評価はその内部で行われるのかもしれない。方法論とデータの背景の詳細が公表されていない場合、利用者がデータの質を評価するのはむずかしい。「アジア長期経済統計データベースプロジェクト」の参加者は、インドネシアで異なる時期に推計された時系列においてみられる諸定義を一致させようと試みる際には、このことを心にとめておかなくてはならない。

 注
(1)Verslag van de Direkteur over de Kultures[耕作部長報告](1834-50)およびKoloniaal Verslag[植民地報告](1851-1949)。
(2)Jaarcijfers voor het Koninkrijk der Nederlanden- Kolonien(1887-1921).
(3)CKSは植民地インドネシアにおいて統計的情報普及のための拠点となった。それは、「年次報告」の編集を受け継ぎ、Statistisch Jaaroverzicht voor Nederlandsch-Indie(1922-30)およびIndisch Verslag Vol.2(1931-41)として刊行した。
  より詳細な統計および分析は、1920年以来刊行されていたシリーズMededeelingen van het CKS中の約200点のモノグラフおよび週刊誌Economisch Weekblad voor Nederlandsch-Indie/Indonesie(1932-53)にみられる。
  他の諸機関も関連する刊行物を出している。たとえば、人民会議議事録の付録(Bijlagen tot de Handelingen van de Volksraad, 1918-40)は政府予算の詳報を含んでいるし、ジャワ銀行の年次報告(Verslag van den President van de Jawasche Bank, 1828-1954)は金融に関するデータを掲載している。
(4)Statistical Pocketbook of Indonesia(1956-68)には、KPSに基本的なデータを提供した、その数が次第にふえている他部局の一覧が掲載されている。KPSは定期的に、貿易、農業生産あるいは月別経済指標などに関する各種の個別シリーズ(Ichtisar Bulanannan Statistik,のちにStatistik Konjuktur)を刊行している。それらの内容と採用された推計方法については、Van de Graaf(1955)で要約されている。
(5)BPSの資金が不足していたことは、1964年から67年にかけての間、Statistical Pocketbookの刊行が停止されていたことからもわかる。この期間の困難については、Nugroho(1965, 1967)の、統計刊行に関する概観からも推察される。SRDCによって実施された全数調査と標本調査の一部は、のちに1960年代に入ってから公表されたが、Susenas I-IIのデータの一部はいまだに公表されていない。
(6)BPSの発展については、インドネシア独立以降50年間のBPSとその前身の役割を記念したBPS(1995)に、広範に記録されている。


 参考文献
BPS(1995), Statistik dalam 50 Tahun Indonesia Merdeka: Peranan dan Aktivitas.[自由インドネシア50年間における統計:役割と活動]Jakarta: Biro Pusat Statistik.
CKS(1928), 'De Arbeid van het Centraal Kantoor voor de Statistiek, in het Bijzonder met Betrekking tot de Welvaart der Inheemsche Bevolking'[CKSの活動,特に現地住民の繁栄に関連して], Mededeelingen der Regeering omtrent Enkele Onderwerpen van Algemeen Belang , pp.99-129.
CKS(1946), 'Het Centraal Kantoor voor de Statistiek'[CKS], Economishe Weekblad voor Nederlandsch-Indie, 12, pp.225-226.
Creutzberg, P. and J.M.T. van Laanen(1987), Sejarah Statistik Ekonomi Indonesia.[インドネシア経済統計の歴史]Jakarta: Yayasan Obor.
Encyclopaedie(1919), 'Statistiek'[統計], Encyclopaedie van Nederlandsch-Indie, Vol.4. pp.103-108 and Vol.6 pp.750-754.
深見(1988),「日本軍政下ジャワにおける調査研究機関」『日蘭学会誌』13号,21−36ページ。
Nugroho(1965), 'Dua Puluh Tahun Perkenbangan Statistik di Indonesia'[インドネシア統計調査の20年], M. Makagiansar (ed.), Research di Indonesia 1945-1965. (Jakarta: Dep. Urusan Research National RI) Vol.4, pp.354-375.
Nugroho(1965), Indonesia: Facts and Figures. Jakarta: Terbitan Pertjobaan BPS.
Patnaik, P.B.(1967), The Statistical Research and Development Centre, Djakarta, Indonesia (UN Special Fund Project)(インドネシア政府むけ非刊行報告)SRDC-BPS, Jakarta, 1 April, 1965.
Sarbini Sumawinata(1992), 'Recollections of My Career', Bulletin of Indonesian Economic Studies, 28, No.2, pp.43-53.
Van de Graaf, E.A.(1995), De Statistik in Indonesie[インドネシアの統計]The Hague/Bandung: Van Hoeve.

(Pierre van der Eng・オーストラリア国立大学 Lecturer in
(Economic History)[訳・杉野 実]

COEプロジェクトの研究成果