アジアの長期統計プロジェクトの困難とそれへの期待


市村 真一




 数年前、「アジア長期経済統計」の研究プロジェクトが組織されると聞いた時、先に一橋グループが完成した日本長期経済統計の偉大な貢献を知る故に、それに大きな期待を寄せたが、同時に四十年近く東南アジア経済の計量的研究に従事して来た者として、その仕事の困難を予感した。その気持は、このプロジェクトの『ニュースレター』(1997年10月号)にハリー・オーシマが「サイモン・クズネッツの夢の実現」として書いたクズネッツの判断と類似している。クズネッツ教授は、フォード財団の要請により、アジアの戦前の経済状況を把握する可能性を探る旅をしたが、日本以外では不可能と判断し、むしろ統計調査の専門家の養成から始めることをフォード財団に提言したという。オーシマ教授は、今のこのプロジェクトが嘗てクズネッツが断念した夢を四十年後に実現するものと期待されたらしい。成果はどうだったのだろうか。以下、東南アジアの統計を扱った経験のいくつかを記して、参考に供したい。

1.戦前と戦争直後の統計事情

 私は、1969年京都大学の東南アジア研究センターの所長に就任した直後、東南アジア各国を歴訪して経済研究の可能性を真剣にさぐった。その時点での私の判断は、それより十数年前のクズネッツ教授の判断と大差なかった。従って、私は専門家の養成と自ら統計作成を実施して見せることから始めた。その最初の実例は、「南スマトラ州の社会経済調査」(1975)であり、次いでインドネシアの「産業連関表」の作成であった。前者の最大の協力者・貢献者は、総理府統計局の水野坦氏であり、後者の協力者は、故金子敬生教授であった。インドネシア側の協力者は故ハルシャ・バクテヤール博士(社会経済研究所長)ほか数名の優秀な学者と中央統計局の数名の専門家――その人々をこの数年前に大阪大学時代から養成していた――であった。この二つの作業を通じて、インドネシア統計の実態をつぶさに知った。その後事情は改善されたが、長期統計となると、当時の事情と同じ問題が残るから、困難は想像するに難くない。 

 1970年代の初め、インドネシアの国民所得統計、産業生産統計等をいじって気づいた点がいくつかある。第一は、当時のインドネシアの統計が、なおオランダ統治時代の形式を残し、それから大きく変わっていなかったことである。この点は、今ではオランダの専門家が明らかにしたA Selection of Statistical Source Material form the Early 19th Century Up to 1940 (1975-95) 16巻によって明らかになったと思われる。だから戦前と戦争直後、大体1975年頃までの統計の吟味にはオランダの専門家の協力が不可欠である。台湾韓国について日本の専門家の協力が不可欠なように、旧宗主国の専門家を動員する必要がある。

2.国民所得統計と産業連関表

 当時のインドネシアには、国民所得統計で消費を推定する統計も、第三次産業での付加価値を推計する統計も殆ど存在しなかった。1975年頃に家計調査(SUSENAS)が実施されて消費は残差項ではなくなったし、商業センサスが実施されて曲がりなりにも、国民所得統計に誤差脱漏という項目が意味を持つようになった.。従って、1980年頃までのインドネシアの国民所得統計は、注意深く解釈されねばならない。このため南スマトラ州の調査では、消費も商業活動の付加価値も全部水野氏がデザインしたサンプリングで推計した。この優れたデザインは、多少ともその後のインドネシア統計の改善に貢献したと信じる。当時苦労を共にした人の一人は、現中央統計局長スギト氏とそのスタッフの人々であり、また当時社会経済研究所のスタッフであった現在も元気なテー・キャン・ウィー博士とヨンカー・タンバ博士である。1970年代、80年代の統計については、彼等が元気な間に十分整理しておくことが望ましい。同様の事情は、他の国についてもある。

 第三に、インドネシアの産業連関表を作るという作業は、当初無謀なように見えた。だが強引にやれば、むしろ同国の統計の「穴」を見つけられると判断して、金子教授と共に強行した。その前提には、既にフィリピンのIO表が完成していて、その情報を活用できるいう安心感があった。その表は、フィリピン政府の要請によって、大阪大学時代に訓練したフィリピン中央統計局のスタッフが帰国して完成していた。彼等から、一番詳しいフィリッピンの連関表を手に入れて、その投入係数を利用して各産業の投入高を推計し、それと産業別の生産高の対応をチェックし、その整合をはかる努力を重ねた。その差は当初各部門生産高の20パーセント・30パーセントにも及んだが、驚かなかった。日本でも最初の連関表の時には、米の年産高6000万石に対して、需要合計は7000万石であり、その差の1千万石は屑米だと農林省が公式回答した記憶があったからである。この仕事は、当時インドネシア大学にアメリカから派遣されていたアラン・ストラウト教授を驚かし、彼の紹介でインドネシア当局者や各国大使館の評判となり、廻り廻ってインドネシア国家開発庁のウィジョヨ長官以下の日本チームへの信頼を高くした。やがてインドネシア政府が、1975年に工業統計を公式統計として作成するようになって、本格的な産業連関表を作成が可能になった。それを指導したのはアジア経済研究所の三平氏であった。

 以上のことから判るように、国によって事情は多少とも異なるが、戦前の統計と1945年から1975年頃までのアジア各国の統計は、極めて不備であり、その数字の確定と吟味は注意深い作業が必要である。しかもその仕事は急がないと、事情を知った人がいなくなってしまうというのが現状であると思う。一橋の今回のプロジェクトは、タイミング上は最後のチャンスとなるのではないか。近く一応終結されると聞くが、特定の国別のプロジェクトとして再建される事を希望したい。

3.貿易と投資統計の問題点

 1970年代の半ば以後になると、各国とも経済統計は急速に整備されるようになる。それぞれの調査の信頼度には問題があり、調査範囲もだんだんとしか拡大されなかったが、先ずは一応使用に耐える統計の水準に近づいたと思われる。しかし周知のように、東南アジア諸国の貿易統計には、大きな問題点がある。それは仲継貿易と闇貿易の問題である。シンガポール・香港という二大仲継貿易港を持つアジアは、この二港を通じての貿易の扱いを避けて通れない。シンガポールはインドネシアとの貿易の中身を一切発表していない。聞くところによれば、当局はそれを掌握しているという。インドネシア側の数字は発表されているが、過少である。恐らく漏れている「闇貿易」の部分が大きいと思われる。香港の数字には、そのような問題はないし、輸出入とも再輸出入は、本来の輸出入と区別して挙げられているが、その信頼度をチェックする作業を、過去に遡ってやらねばならない。そのような作業がやられたという話を聞かない。他の各国とも相当の闇貿易がある。それは昔へ遡れば、今以上であったであろう。アジ研が国連に協力して作成した世界の「貿易マトリックス」には、シンガポール・インドネシア貿易の推計が含まれているいう話を聞いたことがあるが、それは何年までさかのぼれるのであろうか。

 更に、投資については公式統計に漏れている部分が極めて大きいと思われる。台湾のように、概して信頼度の高い統計を持つ国でも、投資となると信頼できる数字は皆無に近い。今でもそうなのだから、過去は言うまでもない。更にインドネシアの投資統計には、石油開発関係の数字が完全に欠落している。だから米国の対インドネシア投資は小さく出る。世銀もIMFも、銀行経営の透明性はやかましく言うが、石油関係の不透明さは見て見ぬ振りである。これを抜きにしてインドネシア経済の発展を語ることは、長期発展の半分を曖昧にすることである。これ等の点について、過去に遡ることには大きな制約があろう。にも拘わらず、何らかの努力が必要である。それは発展の機微を語る貴重な資料だからである。

4.政府財政統計の信頼度

最後に一言したいのは、政府財政統計の信頼度の低さである。マルコス政権の末期、一体どれくらいのドルが、マルコス一党の腐敗によって海外に流出したかを、フィリピンの専門家の助力を得て推計しようと努力したことがある。結論だけ言うと、その額約50-70億ドルであったが、その時気づいたのは、政府投資として記録されていて、実態が政府消費であったものが極めて多いことであった。それは予算上、投資項目になっていたが、実態は消費であったことがある。要するに、予算だけで、決算が判らない。結果として起こることは、国際総生産の成長率を投資率で割って推計する「限界資本係数」ICORが急に大きくなることである。マルコス末期には明らかにそれが起こっている。勿論国民所得統計の推計には、決算によらねばならないが、それが正確にはわからない。主要な国の政府の補助金や予算外支出のなかに巨額の「腐敗」と結びついている支出があるが、その実態を知ることは至難である。しかしそれなくしては、本当の国民総生産の推計はできない。1945-75年の実態についても、それ以後についても腐敗の源泉は主としてここにあると思われる。

(いちむら・しんいち 国際アジア研究センター所長)