インドネシアの都市カンポンにみる人口統計

「トナリグミ」の実態調査から


倉沢 愛子



行政の末端組織としての隣組・町内会

 インドネシアには、行政の最末端を補佐する組織としてRT(エル・テー)というものがある。これは、日本軍が第二次世界大戦中、占領下のジャワで導入した「トナリグミ」(隣組)を起源とするもので、独立後もそのままずっと残存していた。それが、スハルト体制になって、住民を統制して政情の安定化をはかり、また住民を「開発」や与党ゴルカル支持に向けて動員するための有効な制度として注目され、法律で整備・強化されたものである。

 条例によれば、RT(以下、隣組と訳す)は、30ないし50戸をひとつの単位として形成され、それがさらにいくつか集まってRW(エル・ウエー、以下町内会と訳す)という組織を構成する。しかし、ジャカルタのような大都市の隣組では、どんどん人口が流入してくるために、現実には100戸とか150戸もの世帯をかかえこんでいる場合が多い。特に、都市カンポンといわれる、いわゆる庶民が住む密集地域ではそうである。カンポンというのは、本来「田舎」とか「ムラ」というような意味であるが、都市の路地裏に展開するムラ社会と同じような生活形態をもった集落を指す言葉としても使われる。1000万といわれるジャカルタ市の人口の8割は、○○通りというようなちゃんとした名前がつき、整然と並んだ表通りの家ではなく、こういった入り組んだ路地裏の密集地帯に住んでいるのである。

 さて、行政の正式の機構ではなく、住民の自発的組織ということで、隣組や町内会の長は無給であるが、現実には日本のそれとは違って、行政を補佐する重要な役割を担っている。これらの上に最末端の行政組織、村(desa 村落部の場合)と区(kelurahan 都市部の場合)があり、隣組も町内会も、その首長の厳しい監督を受ける。

 本来統制のための手段として作られたこの隣組は、どの程度有効に機能しているのだろうか。私は三年ほど前からこのテーマに取組み、ジャカルタ市南郊のある隣組を中心に調査を続けている。そのような一連の調査のなかでこのたび、隣組が住民の動静や人口をどの程度正確に把握しているのかを、近々実施されるインドネシアの総選挙登録作業との関連で考察してみた。

 

隣組による住民統制

 この隣組は、パサル・ミングという昔からの大きな市場町と、インドネシア大学のキャンパスが10年ほど前に移転したデポック町(ボゴール県の北端に位置する)との中間にあるレンテン・アグンという区に属している。ジャカルタとボゴールを南北に結ぶ通勤鉄道の線路と、それに平行した形でこの二つの都市を結ぶチリウン川との間に挟まれた地区である。この中の第7町内会、第6隣組というのが私の調査地である。線路沿いの大通りから、400メートルくらい奥に入ったところで、チリウン川に面している。

 いわゆる都市カンポンの典型のような地域で、住民は下級公務員、私企業職員、警察官、市バスの運転手などごく一部の給与所得者を除くと、あとは日雇いの建設労働者や雑役夫、行商や露天商、あるいは自宅で食べ物を調理して販売したり、自宅の軒先で小規模なよろず屋を開いているなど、いわゆるインフォーマル・セクターで働く者である。現在の経済危機の影響をもっとも深刻に受けている社会層であるといえよう。

 それでは、住民の統制という意味で隣組は、現実にどのような役割を果たしているのだろうか。隣組長は、出生証明書、善行証明書、居住証明書などさまざまな証明書類を発行する権限をもっている。つまり、就学、就職、パスポート取得、事業の許認可申請、土地売買など、フォーマルな世界で何かしようとすれば、必ずまず組長を通さねばならないのだ。だから組長のおぼえめでたくないものは、なかなか推薦状や証明書がもらえなくて苦労するといわれる。そういう意味で組長は住民に対し強力な影響力を持っており、政府の方から見れば、政府の意図をよく理解し、その方針にそって住民を率いてくれる組長を擁立しておけば、住民へのコントロールがいきわたるというわけだ。だから、組長が政府に協力的な人間であるか否かは非常に重要なファクターになる。

 そのような重要なポストである組長は、三年に一度ずつ住民の直接投票によって選ばれるのであるが、その選挙は区長の監督のもとでなかなか仰々しい形でおこなわれる。すなわち区役所の役人を含む外部の者5名からなる選挙管理委員会を設置して実施され、その結果は区長によって承認されねばならない。私もたまたま最近調査対象とする隣組での選挙を見学する機会があったが、それはある土曜日の夜、隣組内にあるイスラムの共同礼拝所で実施された。選挙権があるのは、この隣組で家族登録カード(kartu keluarga、後述)の登録をしている世帯だけで、決して住民全員ではない。各世帯1票で、原則として家長(男性)が投票するのだが、不在の場合は妻その他が代行してもよい。

 

選挙のための家族登録とその実態

 会場となった隣組内の礼拝所の前には、野次馬も含めて山のような人が集まっていた。その中でどうやって有権者をチェックするのだろうかと興味津々だった。投票所の前には隣組の書記がノートを開いてすわり、そこに書かれた名簿に従ってやってきた有権者を一人ひとりチェックしている。あそこに書かれた名前はおそらく家族登録カードを提出していて選挙権のある一家の一覧表なのだろう。家族登録カードを提出しているような住民は、ほとんど組長以下の役員とは顔見知りなのだろうか、投票用紙を渡す際には特に身分の確認などは行なわれなかった。用紙を受け取った者は、そこに自分が推薦する人物の名を書き込み、まわってきた大きなザルの中にそれを放り込む。開票は黒板を前に、一票ずつ読み上げられて書き込まれる。今回は実質的には、現職の組長と、前組長との一騎討ちとなった。

 前組長というのは、古くから野党民主党の支持者で、若者たちの間では絶対的な人気があった。しかし与党ゴルカル系ではないというので、任期中区役所との間に軋轢が絶えず、仕事はスムーズに進まなかったということだ。そして挫折して、現職の組長と交代したのだが、スハルトが倒れ、「改革」が叫ばれるいま、もう一度復活を期待して、若者たちが票をいれたのである。しかし残念ながら、結局現職のゴルカル系の組長に敗れてしまった。家族登録カードを提出している者というのは、住民の中でも持ち家居住者など相対的に裕福な人が多いので、いまなお現状維持的なのかもしれない。もしもその日暮らしの長屋の住民も含めて、居住者全部が投票に加わったなら、結果はどうなったであろうか。

 以上は隣組レベルでの小規模な選挙だから、記憶に基づいて住民をある程度正確に認知できているのかもしれないが、それでも公正に実施するにはまず有権者を公的に把握しておくことが必要である。ましてや、まもなく6月7日(1999年)に行なわれる予定の国会の総選挙は、スハルト退陣後の民主化への動きの中で、選挙法が改正され、それに基づいた新しいやり方で初めて行なわれるものであるからたいへんな作業である。

 これまでの選挙では、住民登録をしている場所でしか投票できなかったのだが、今回からは登録手続きをしさえすれば現実に居住している所で投票できることになった。選挙人の登録は、これまでは選挙管理委員会の者が一軒一軒まわって行なうのだったが、今回からは有権者が最寄りの登録所へ自ら赴いて手続きをするのだという。その期間は4月5日から12日までと定められ、その旨を住民に通達するため隣組の臨時の会合が、3月末に急遽召集された。しかしこの会合に招かれたのも家族登録カードを提出している世帯だけだったので、これで情報が正確に伝達されるのかどうか気になった。今回の登録は、身分証明書がなくても、本人であることを証明する何らかのもの(運転免許証、婚姻証明書など)をもっていけばそれでよいのだという。もともと選挙人名簿台帳のようなものがあって、照らし合わせるわけではないから、どこまで正確な登録作業が可能なのだろうか。少なくとも区役所や隣組レベルでは、居住者の実数や名前をある程度正確に把握しているのだろうか。私は調査地の隣組でその確認作業をやってみることにした。

 そもそも隣組の重要な役割のひとつが、人口移動を把握し、不審者や反政府分子の流入を防いで、安定を保つことであった。従って隣組条例によれば、転入者・転居者はかならず、組長に届けなければならない。また子供が生まれた、家族が死んだ、結婚した、というような人口移動もすべて届け出なければならないことになっている。日本でもこれらは市役所や区役所に届けるが、インドネシアでは、住民が直接役所に届けるのではなく、組長を仲介として届けるのである。より厳密にいうと、新しくこの地に移ってきた者は、すでに前の居住地で発行してもらっている(はずの)身分証明書(KTP)をもって組長に挨拶に行き、彼の紹介状をもらったうえで、区役所へ行き、三枚一組になった家族登録カードの用紙を買い求める。そこには、家族全員の名前、出生地、生年月日、宗教、職業などを細かく記入する欄がある。それを記入したのち、再び組長のもとに戻り、組長のサインを三枚全部にもらったうえ、うち一枚を区役所に提出する。またもう一枚を組長が保管し、残りの一枚は本人が保管する。そして、転出していく時には再びその旨を届け出て、区役所や組長のもとにあるカードを破棄してもらわねばならない。

 だから、区役所ならびに組長の手もとにある家族登録カードの数は一致しているはずで、しかもその数を数えれば、現在この隣組に正式に登録している世帯数や人口が分かるはずだ。そこで、私はその双方が保持しているカードを見せてもらって突き合せてみた。すると、区役所には105世帯分、一方組長のもとには44世帯分のカードがあり、おおきなズレがあった。さらに細かくみてみると、双方に重なっている分もあるが、いずれか一方にしかない者も多い。実に頼りないのだ。そこで、私が自分の目と足で直接居住者を確認するべく一軒一軒まわって調べることにした。

 この隣組の広さは1.5ヘクタール、だから端から端まで歩いてもほんの一、二分の距離である。ただし、不規則に枝分かれした小さな路地の奥に間口2メートルほどの小さな家が密集しているから、数を数えるのはたいへんである。しかし一軒一軒訪れ、名前を尋ねて名簿を作ってみた。始めはうさんくさそうに見ていた隣組長も、「それができあがったら、ぜひ俺にもくれ」と途中で乗り気になってきた。何日かかかって作り上げた名簿によれば、小さな長屋も含めてここには160軒の住居があり、うち7軒は空家だが、残りには人が住んでいることが分かった。だから"少なくとも"153世帯が住んでいるわけだ。"少なくとも"というのは、地方から出てきて、知人や親戚の一家に居候している家族も多く、実際には153世帯以上いるはずなのだ。

 さて、この手製の名簿と、区役所や組長からもらった家族登録カードを照らし合わせてみると、区役所の方には、すでにここに住んでいない世帯のカードが大量に保管されており、それを除くと有効なカードは51枚。一方組長の手元には、さすがにもう住んでいない人の分はなかったが、前述のように数は44枚しかない。それを総合して、現在なお居住中の世帯のうちどちらか一方にでもカードがあった者を数えてみると63世帯だった。一方、私の調べでは登録をした覚えがあると答えた世帯は81あった。ということは、その差の18世帯分のカードはどこへ行ってしまったのだろう。

 さらに問題なのは、隣組長も家族登録カードを出しているのは、現実に住んでいる人間の一部でしかないことを承知していて、最近区役所へ提出した報告書の中で、「カードを全く提出せずに居住している者を加えるとこの隣組には全部で133世帯575人が居住している。」と述べているが、これもまた、私が調べた153世帯という数字との間には、なお20の誤差があるということだ。

 

信頼できない集計能力

 組長にしろ区役所にしろ、正確な数を把握するのはほとんど不可能に近いということが言えよう。都市部では、田舎から出てきて一年のうちある時期だけ働き、農繁期には故郷へ帰る者も多い。また賃貸住宅に住む者は、より良い家がより安く手に入るとなると、ひとつの地域から他の地域へ比較的簡単に転居する傾向がある。私の調査地の隣組でも、私が世帯調査をしている数ヶ月間にも約1割が、家を移動していった。定着率が極めて悪いのである。となると、毎年統計局から出されるこの国の人口統計は、いったいどこまで信憑性があるのだろうか。10年に一度実施される国勢調査はまた別のやり方でチェックするのであろうが、毎年の統計書の数字は、区役所からあがってくるものを基にしているはずだ。そうなるとかなり実勢とかけ離れた数字なのではないだろうか。

 こんな状態だと、選挙登録に際して本籍地と現住所での二重登録はどうやって防ぐのだろう。隣組のような末端の組織ですら、人口を正確に把握しきれていない現状で、今後のインドネシアの運命を決定するといわれるこの選挙の登録作業はうまくゆくのだろうか。

 さて統計といえば、この国の職業統計や失業率に関する数字も、どのように読み取ったらよいのか確信がもてない。私の調査地でも給与所得者何人かが最近経済危機の中で職を失った。そして、その多くは、あっという間にいわゆるインフォーマル・セクターに転身していた。あるいはブローカー的な仕事にも手を出している。もちろんインフォーマル・セクターもそのような新参者の侵入によって今やさらに競争が厳しくて、各自が実際に手にすることができる収入は微々たるものである。しかしそれでもそのことにより彼らは何とか命を繋いでいる。そういう状態は失業しているといえばしているし、していないといえばいえる。いわゆる不完全失業の状態の者が極めて多いのである。おそらく統計上彼らは有職者ということになっているのだろうが、一時的にインフォーマル・セクターでしのいでいる者を単純に有職者と数えてよいのだろうか。実態は複雑で、実情は数的にはつかみにくい。

 

おわりに

 この経済危機のなかで、貧困者というカテゴリーに入る人間の数をどう数えるかということに関し、インドネシア当局が海外からの援助を望むあまり、故意に大げさな数字を出していたとして、最近現地の新聞で問題になったことがあった。そのように政治的意図をもって数字が操作されることもあるのだろうか。操作というのは言葉が悪いかもしれないが、どのような方向を強調したいかによって、統計の取り方はずいぶん違ってくるわけだ。

 そういえば常々私は、異常に高い小学校の就学率にも疑問を感じていた。現実に、町にはストリート・チルドレンがあふれているし、村でも学校をドロップ・アウトした子供たちの特別勉強会が、役場にはっぱをかけられて頻繁に行なわれている。にもかかわらず小学校の就学率はほとんど100パーセントに近かったのだ。問題はどの時点で統計を取るかであるが、おそらく小学校一年生の入学時で数え、中退数を無視しているのであろう。各小学校は人数を多く報告しておく方が、補助金などももらいやすいだろうから、村役場も同意のもとで都合のよい数字を報告するというような傾向があったのかもしれない。

 こういったことを考えると、残念ながら、インドネシアの統計は集計能力の問題に加え、何らかの意図で故意に数字が操作されることもあるということで、どこまで数字をそのまま使ってよいのだろうかと不安になる。近代的産業部門の数字などはともかくも、都市カンポンのような混沌とした世界を巻き込むような数字に対しては、社会の仕組みを理解し、そのうえでどのような状況の中でどのような方法で調査が行なわれたのかを、熟知しておくことが必要かもしれない。

 

 

(くらさわ・あいこ 慶應義塾大学経済学部)