アジア通貨危機と 「アジア長期経済統計プロジェクト」


 

工業班リーダー  伊藤隆敏

 

 1997年7月2日のタイ・バーツの切り下げに始まるアジア通貨危機は、日本にとって、アジアがいかに大切か、また逆にアジアにとって日本がいかに大切か、ということを思い知らせた。アジア通貨危機の発生で、欧米も、日本も、国際金融を専攻している学者を中心に、経済学者は一斉にアジアの研究を始めた。アジアに対する関心を高めたのは、通貨危機の不幸中の幸いである。通貨危機関連で、アジアを訪れる日本の学者・官僚の数は、1997年以降激増したのではないだろうか。アジアで開催されるアジア通貨危機に関する学会や研究会などは引きも切らさず、私も過去半年のあいだに、バンコク(4回)、クアラルンプール、シンガポール、ジャカルタ、韓国、北京、を訪問した。

 このわれわれの「アジア長期経済統計データベース・プロジェクト」はアジアの通貨危機の起きる前からアジアを研究しているという意味で先見の明があった、と言えるだろうか。必ずしもそうではないかもしれない。

 このプロジェクトは、尾高煌之助所長のもと、アジアの長期統計を収集して分析するという目的で開始された(1996年度)。その当時は、まだ、世銀の「東アジアの奇跡」(長期にわたる高度成長)の余韻さめやらぬときであった。いかに、アジアの発展モデルが優れているかを説明しようとしていた。しかし、いまでは、アジアの奇跡ではなく、アジアの危機が、世界の注目の的となっている。では、欧米の識者が好んで口にするように、このアジア通貨危機は、アジアの奇跡の成長を否定するものなのだろうか。私は、そうは思わない。それは、アジアの奇跡にあげられている要因とアジアの通貨危機の要因は、全く異なるからである。

 アジアの奇跡の要因として挙げられるものを、多くの識者の共通項から取り出すと、高い貯蓄率、質の高い労働者、外国資本導入による技術移転、輸出振興政策、であった。これらの要因が、高い投資を実現し、産業の高度化を通じて成長を実現していった。日本に続いて、4匹の虎(韓国、シンガポール、香港、台湾)、さらに、ASEAN諸国が、つぎつぎに工業化に成功、軽工業から重化学工業、電子・機械産業へと産業高度化させる様子は、「雁行形態論」(一橋大学の大先輩、赤松要博士の使ったオリジナルな意味ではなく、新しい意味)と呼ばれた。奇跡の要因は、いずれも、「実体」経済に関するものである。いわば、生産関数に入る生産要素から、成長が説明されている。

 一方、アジアが、通貨危機に陥った原因として諸説あるが、私は、次の3点が、共通の要因であると考えている。

 第一に、アジア諸国は、ドル・ペッグ(ドルに対する固定為替制度)を採用していたのだが、円・ドルレートの変動により、実質実効ベースの為替レートが大きく変動して1994年の輸出急増、1996年の輸出急減という変動を招いた。

 第二に、金融セクターが不良債権を抱えるなど脆弱であった。タイの場合には、バブルの発生と破裂により、日本と同じような不動産を中心とするバブルが発生してしまった。インドネシアの場合には、国営銀行から、政治がらみの融資が不良債権化していた。

 第三に、巨額の短期資本流入があげられる。タイでは、危機の前二年間、経常収支の赤字はGDP比で、8%に達していたが、その赤字を補って余りある資本流入があり、外貨準備が増加していた。その多くが、銀行システムを通じた短期資本であり、いったん通貨危機が始まると、急速な勢いで短期資本は流出していった。韓国も短期の銀行借入の借り換え拒否により、一気に外貨準備を失ってしまった。

 これら第一から第三までの要因は、いずれも、国際金融・国内金融市場の問題点である。

このように、実体経済の現象である「アジアの奇跡」と、金融市場の問題点の集積としての「アジアの通貨危機」は、本質的には、区別して考えることができるのではなかろうか。もちろん、ドル・ペッグは、それが過大評価にならない限りは、安定的な直接投資を呼び込むことに貢献していたし、通貨危機は実体経済に大きな負の影響を与えるなどの関連があるが、いずれも、金融政策が、弾力的で、注意深いものであったならば、危機は防ぐことができたという意味で、金融と実体の間には、大きなトレードオフ(二律背反)はないと考える。

 「雁行形態」のトップを走っていた日本が金融でつまずき、それに続いてアジアも金融でつまずいたのも、高度成長のなかで、金融の改革を怠っていた(日本は規制を長く続けすぎた、アジアは規制緩和の順序を間違えた)、ということである。せっかく汗水垂らして作り上げたアジアの製造業製品の利益を、愚かな金融借入・投資によって失ったのが、日本とアジアのこの10年間のパターンだったのである。

 伝統的な成長理論では、成長関数の動学経路に沿って、自動的に、貧しい国は高い成長率を実現しつつ先進国に追いついていくとされている。しかし、現実には、1950‐60年代の日本、1980‐90年代のアジアのように、10%近い成長率を実現して、急速に先進国の仲間入りするキャッチアップ型新興市場国と、いつまでも停滞しているアフリカ諸国、のように大ざっぱに分けることができよう。なぜ、いくつかの途上国がキャッチ・アップの経路に乗ることができるのか、ほかの国は乗れないのか、これが、「東アジアの奇跡」のごく自然な延長研究であろう。

 世銀の「アジアの奇跡」では、成功の要因が丹念に拾われていたが、一番肝心な「産業政策」の部分は、曖昧に終わっている。それが政策の結果かどうかは別として、産業の段階的高度化が、中期にわたる成長を支えてきたことは事実である。この点の研究が、日本とアジアから、経済成長論、経済発展論に貢献できる分野であろう。かつては、経済成長は量的な拡大、経済発展論は経済構造の質的変化というような分野の仕切があったが、ポール・ローマー流の新しい経済成長論では、成長モデルで、経済発展も切っていこうということであろう。しかし、このようなモデルの大半は、先ほど問題提起した、中期的な高度成長ができた国と、できなかった国との違いを説明できない。

 今後の研究課題の最大の問題は、産業構造の変化を伴いつつ発展していく過程の解明であろう。この一端に、我が工業班が貢献できれば、幸いである。この工業化をともなう経済成長・発展の解明は、一橋大学が日本の経済学界に、日本の学界が世界の経済学界に、そして経済学が途上国の経済発展に大きく貢献できる分野である、と私は考えている。

 

 最後に、私事にわたる余談。私が最初に香港・シンガポール・バンコックを訪れたのは、高校1年生の時であった。このころ、経済発展とか経済協力などに興味をもつ「ませた」高校生だった。しかし、その後、学部では経済成長理論、博士課程ではマクロ理論モデルを研究、そこには、アジアも、データもなかった。しかし、高校生から数えて30余年。私の研究テーマは、経済学のなかで紆余曲折をとげ、最近アジアに回帰してきた。本プロジェクトやアジア通貨危機のなかに身を置くのに、運命的なものを感じている。

 

 

(いとう・たかとし  一橋大学経済研究所/タイ王国大蔵大臣特別顧問)