韓国の統計制度史


朝鮮王朝から米軍政時代まで



黄 仁相




 はじめに

 一橋大学経済研究所の「汎アジア長期経済データベースプロジェクト」の重要な一環として統計制度史の研究が位置付けられている。1998年には、その重要性を認識し、統計制度班が発足した。清川雪彦氏の「統計制度の各国比較」(本誌、No.10,1998)によると、政府統計や大標本調査の制度や統計組織などについて、各国の相違を明らかにし、個別特殊な統計制度自体についての国際比較研究の必要性を提案しているように思われる。

 特に、旧日本帝国と植民地朝鮮と台湾の統計制度史の研究は、当時の統計制度・組織と統計データの性質を理解するために、また当時の経済状況を理解し分析するためにも欠かせない重要な研究であると思われる。なぜなら、現在の発達した統計学や統計システムではなく、それぞれの地域の特殊な制度的、経済的な事情があったことを顧慮することなく、現代のような統計として取り扱い、分析することは危険であり、その結果から間違った判断を導き出す恐れがあるからである。今後さらに統計制度史の研究が進み、植民地期の経済状況を現代経済学にもとづいて再分析することはとても大事であると思われる。その知識とは、私にとっては、市場経済の働きとして植民地期の経済をどう解釈するのかということである。

 私は、特に植民地朝鮮の統計制度及び統計データの性質に関心を持っているので、今回は朝鮮王朝から大韓民国の樹立までの統計制度史を概観してみることにした。しかし、植民地期の韓国においては膨大な資料はあるものの、この作業のために参考となるまとまった資料は勿論のこと、植民地期から現代韓国までの統計制度史を体系化し整理し分類した参考資料はほとんど存在しない。しかし幸い1990年代に入って、韓国財経部(日本の大蔵省に当たる)の統計庁が『韓国統計発展史』(T・U、1992)を刊行した。これは現時点では、まとまった貴重な資料であると考えられる。

 以下では、本書第U巻の主要な部分(22-38頁)の内容を要約し、紹介してみよう。

 今後の植民地経済統計制度史の研究、特に韓国統計制度史の研究のために参考になれば幸いである。

 

1. 朝鮮王朝時代から大韓帝国時代:1392−1910


 戸口調査及び土地調査

 朝鮮の戸口調査制度は人口調査に当たるもので、新羅以来の高麗末期の戸口調査制度が踏襲されている。しかし、戸口調査が全国的な規模で一般人にまで実施されることになったのは朝鮮時代からである。そして、より体系化され完成されたのは、成宗(朝鮮王朝8代目王、在任1470-1494年)の時であった。この時期の戸口調査を含めてあらゆる朝鮮王朝の法体系がまとめられた法典が経国大典である。

 戸口調査とともに戸籍調査は、朝鮮王朝の中央官署の一つである「戸曹」(大蔵省に当たる)が担当した。戸曹は、戸口、貢物、田糧、租税、食糧などを所管し、その傘下の官署として版籍司を置いていた。また、戸曹以外に戸口と租税などの業務に関わっていた官署として、「兵曹」(防衛庁に当たる)、「工曹」(通産省に当たる)が一部の機能を果たしていた。また「承政院」(国王の秘書室)傘下の官署の一つであった戸典を管掌する「戸房」もあった。

 地方の官署の傘下においても、戸房を置いて戸典、戸籍、田糧に関する郷里の仕事を担当した。戸口調査は3年ごとに実施され、その台帳はそのつど改編されて戸曹、漢城府(首都)、各道(県)・各邑などに備えられた。

 調査方法は、現在の戸籍謄本に似たような台帳に、住居地、役職、姓名、年齢、本貫(姓の源流を表す地域名、本籍とは異なる)及び4租(4代前までの先祖)、妻と妻の年齢、本貫及び4租、同居子女と奴婢の年齢を付記し、邑、道、漢城府にこれを報告した。

 土地調査は20年ごとに実施されたが、これは新羅以来の田品制慣行(農産物の収穫に対する税制)に従ったものである。世宗(4代目王、1419−1450)時代の貢法詳定所、田制詳定所で土地調査を行うことになった。田品制から年分法、大同法、均役法などはこの時代の産物である。これらの調査は申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な女子、賎・奴などの疎外層は調査対象から除外されたり漏らされたりした。

 

 朝鮮末期(開化改革期)の統計制度及び組織

 次に、戸口調査と土地調査などの変化について見てみよう。甲申政変(1884)の時に官制改革が始められ、租税業務所管が統合されるなど、あらゆる制度上の改革過程を経て、甲午更張(1894)時に戸口調査と租税業務が「度支府」(戸曹の近代化)で統一されることとなった。甲午更張とは、東学農民革命(1894)と日清戦争(1894)の中で実施された官制改革のことである。特に、中央官庁(府、部、衙)の業務分掌規定の中に現代的な意味の用語で統計業務が明文化された。1908年には、度支府官房内に正式に統計課が設置された。全国の土地測量事務のために、量地衙門が設置(1898)され、米国から測量技師も招聘されている。

 1896年からの太陽暦の採用に伴って、1897年には国号を大韓帝国と改め、光武年号を使い始め、1899年に大韓帝国国制が発布された。そして議政府軍国機務処(総理大臣兼務)に記録局を置いて中央官署の業務及び統計事務を担当させ、その後、外務、度支部の総務局にあった記録(行政と統計)業務も廃止して、その業務を議政府軍国機務処の記録局に集中させた。

 従来、戸曹に属していた版籍司は甲午更張の後、8個府(以前8衙門)中の内府(前内務衙門)の版籍局となり戸籍事務だけ担当させ、戸籍を戸口(内府)と田地租税(度支部)などとは独立させた。度量衡は朝鮮開国503年(1894年)10月1日からの内務衙門令で「新式才尺斗制」で統一し、貨幣も新式兌換銀本位貨幣制の両・銭・分に改革した。戸口調査は1890年の新しい戸籍令公布と1896年には戸口調査規則と同細則が制定に従い、内部に自己申告させ、以前の3年間隔の調査を毎年調査させた。1905年以後では日本人警務顧問が、そして1910年以後では総督府警務総監府(後に警務局)が戸口調査を実施した。

 以上の改革の過程で日本の勧告、強圧、監視または黙認などの影響力の使用があったのは事実であるが、大韓帝国政府の自主的な努力が根底にあった。1900年になって日本人の経済利権強化が露骨になり、新式貨幣(金本位制)の導入と日本貨幣の通用など、日本人の銀行設立、日本人学校の乱立などがこの時代を象徴する。やがて日露戦争(1904)後の乙巳条約(1905)を結んだ年に、土地調査事業を日本人測量技師に行わせ、1910年3月には大韓帝国政府が土地調査法を公布した。同時に土地調査局を設置し、本格的な土地調査事業の準備に着手する。同年8月に日韓合併になり朝鮮総督府はこれを臨時土地調査局に改編し、この事業を引き受けた。この時に司法権移譲、軍部廃止とともに警察権を日本に移譲した。

 

2. 旧日本帝国の植民地期:1910−1945


 1910年の合併後、旧大韓帝国官制にあった統計課は廃止され、統計調査業務は総督府官房文書課(総務課)と警務総監府などの総務行政、警察行政の一部として後退することになった。植民地時代の統計課は1918年以後4年余り維持されただけだった。そのかわり日本帝国は植民地経営に必要な計数上の把握のために、報告例を定めて人口および産業を含めた各種の統計を一般官署と地方官署から徴収し、最終的に総督府官房文書課で総合・編纂した。この場合、人口調査は総督府官房文書課とともに警務局が主管になって取り扱った。

 

 総督府の総人口調査(国勢調査)

 人口調査は1920年の実施を目標に、1918年に総督官房に臨時国勢調査課をおいて各種規定・規則と国勢調査評議会などを準備していたが、1919年3月1日の独立万歳運動で中止され、実際には1925年「簡易国勢調査」から始まり、その後5年ごとに実施され、総督府の国勢調査は1940年までに4回行われた。

 この国勢調査は報告例によって把握された年末常住人口調査数を補完することになる。総督府は国勢調査事業を間接的に支援する団体として、1924年9月29日に総督府官房庶務部の調査課に本拠をおいた朝鮮統計研究会を設立し、その機関誌として「朝鮮の統計」を刊行させることとした。この団体は国勢調査を遂行する前に全国を巡回しながら国勢調査の重要性を啓蒙・宣伝することによって国勢調査実施を支援したが、同調査が終わると同研究会は自然消滅した。

 1935年に朝鮮総督府官房文書課長を会長とし、府・道・邑・面(植民地朝鮮の地方組織)の統計職員を中心に朝鮮統計協会が設立された。その機関紙として年3回または4回『朝鮮統計時報』を刊行した。これは上記の朝鮮統計研究会が主に上級官署の統計職員で組織され比較的レベルの高い研究をさせたのに比べて、第一級職員及び一般民衆に目標を置いて編集されたものである。協会創立当時の会員数は約6千名に上った。1944年には1929年の資源調査により戦時人的資源確保のためにいきなり人口調査を実施したが、その結果は極秘文書で速報が2巻しか出ず、敗戦によって詳細な資料は発刊できなかった。

 

 土地事業調査

 1910年8月の日韓合併後、日本は植民地支配に必要な政治体制を確立させると同時に、経済支配体制も整備した。合併後の収奪政策は土地調査事業と会社令の二つに大別される。特に、土地調査は植民地朝鮮支配の基礎になり、植民地経済収奪における主要な骨子であった。

 土地調査事業の核心部分は、一定期間内に土地の所有主は所定の手続きをへて朝鮮総督府の臨時土地調査局長に申告しなければならなかったことである。申告された土地が正確に調査・測量され、一定の申告手続きが認定されれば、近代的な私有権が確定される。しかし、手続上の問題で土地申告の処理がなされない場合が多かったので、多くの農民の私有地は国有化されることになった。したがって、相当部分の私有地が、国有地として没収されるケースが多かった。しかも、1911年8月には、森林令で国有山林のすべてが朝鮮総督府の所管となった。また、1918年には林野調査令を公布し、朝鮮総督府の所有林野をさらに拡充していった。

 1929年には資源調査法(令)を公布し、すべての部門の資源調査を道知事責任下に申告式で調査させた。総合的な調査結果は刊行されなかったが、部門別工業資源調査実態は秘密事項とせず広報目的で広く分析結果の公表が認められた。

 その調査結果に関する協議のために、総督府は数回の資源調査委員会を開催し、日本からも資源局長官はじめ陸・海軍及び拓務省の関係官が参加した。また会議後に現地を視察することもあった。

 

 臨時国勢調査

 1930年代に入ると土地調査・産米増殖などの一連の経済施策により小作農が急増した。この時期には労働者が増加したが、その反面、失業者も増えた。総督府内務局は1930年代から毎年邑・面・町の長と警察官憲を動員し失業者調査を実施した。1938年には、いわば国家総動員法施行という非常措置が取られた。この国家総動員法施行に依拠して、1939年には臨時国勢調査が実施された。この臨時国勢調査は人口調査ではなく経営体を対象とする調査で、現在の総事業体調査にあたる。この調査結果は極秘とされたので、現在韓国にはその報告書がほとんど存在しない。反面、1939年6月1日にから、国民職業能力申告施行規則が公布され、職業能力所有者16−50歳の男子は毎月末に自己申告することとし、植民地朝鮮人を強制的に徴発し軍需工場及び各鉱山などに強制的に就役させる資料として利用した。1941、42、43年には朝鮮労働・技術統計調査を3回にかけて実施しこれを補完した。

 

3. 米国の軍政時代から大韓民国樹立まで:1945−1948


 解放直後の混乱期には米軍占領下の軍政と過渡政府の時期を経て政治的、社会的不安は継続した。しかも経済的には日本経済圏から米国経済、ソ連経済圏に分断された。南北分断は人文活動、国民経済力、産業構造などを麻痺させ、結果として生産力不在、生活必需品不足、通貨インフレに加え、北朝鮮及び海外からの同胞の流入で人口急増も重なった。

 解放後、植民地期に発刊された調査報告資料を含むすべての記録は、旧日本帝国の朝鮮総督府によって廃棄され、また専門知識をもつ人も存在しなくなったため、統計活動はほとんど不可能に近かった。

 この時期の統計に関する組織は次のように変更された。

 旧日本帝国時代を通じての内閣官房、大臣官房及び総督官房の文書課、庶務課系統(旧日本帝国末期の総務課)の行政統計業務は新しくできた調査研究会が担当したが、旧大韓帝国末期に出現した統計課(度支府)と旧日本帝国の国勢調査または調査課系統(旧日本帝国末期の企画課)の調査統計業務は、庶務処統計署の所管となった。後に、この庶務処統計署は上記の調査研究会を吸収した。統計署には一室(統計官室)と庶務、人口・家計及び管理課が置かれた。

 人口動態調査は当時保健厚生部に、また労働力調査は労働部に移管した。農林水産統計は日本帝国時代に作った農林統計報告書式よって地方の邑・面での各種統計を作成報告してきたが、1947年6月に米軍政庁は法令第143号を公布して、農業統計委員会を設置し、農産物生産量及び各種農林統計を審議決定させた。その執行機関として農林部調査統計課を設置し、その下に各級行政機関には統計士、統計員など1928名を配置し独立した調査機構を置いたが、政府樹立とともにその機構は解体され、そこに所属した統計専門員は地方行政機関に転出した。このときに朝鮮銀行(現韓国銀行の前身)の統計活動が顕著に行われたことは特筆すべきである。また、解放前後にわたって命脈を維持してきた商工会議所と金融組合連合会(現在の農協の前身)などの民間機関の統計活動は、当時の官庁より活発になったといえる。

 

4. おわりに


 以上、朝鮮王朝から韓国政府樹立までの大雑把な韓国統計制度史を、『韓国統計史』の一部をもとに紹介した。詳しい説明がないため多少理解しにくいところもあると思われるが、今後、統計制度班によって、これに代わる体系的な研究がなされることを期待したい。

 

 

(Hwang, Insang 一橋大学経済研究所)

 

 

参考資料

統計庁『韓国統計発展史(I)時代別発展史』、1992年。

統計庁『韓国統計発展史(II)分野別発展史』、1992年、24−38頁。

清川雪彦「統計制度の各国比較の意義―統計制度班の発足に際して」、『アジア長期経済統計データベースプロジェクト』(ニュースレター)、No.10、August、1998年。