植民地期ヴェトナムの経済統計

●第T部 1895-1954年の為替レートと為替政策

 

        報 告:Jean-Pascal Bassino (Universiteé Paul Valeéry)

        司 会:尾高煌之助(一橋大学経済研究所)

        討 論:斎藤 修(一橋大学経済研究所)

            高田洋子(千葉敬愛短期大学国際学部)

            高濱美保子(国立公衆衛生院保健統計人口学部)

            田近栄治(一橋大学経済学部)

            Tran Van Tho(桜美林大学国際学部)

            中川浩宣(一橋大学経済研究所)

            深尾京司(一橋大学経済研究所)

                           (五十音順)

 

 

はじめに

尾高 どうも皆さん、お忙しいところをお集まりいただいてありがとうございます。

今日は、我々の「アジア長期経済統計データベース・プロジェクト」で、戦前期ヴェトナムの経済統計について協力していただいておりますバッシーノさんが執筆されたディスカッション・ペーパー2点(DP98-7:“Estimating population and labour force in Vietnam under French rule,1900-1954”by Maks Banens, Jean-Pascal Bassino and Eric Egretaud,およびDP98-8:“Exchange rates and exchange rate policies in Vietnam under French rule,1895-1954” by Jean-Pascal Bassino)にもとづいて、二つの主題で報告をお願いすることにしました。

第T部「為替レートと為替政策」、第U部「人口と労働力」という順序で、今日の会を進めたいと思います。また、それぞれのセッションについて、若手研究者の中川さんと高濱さんにバッシーノさんの報告に対するコメントをお願いしております。

 

 

第T部 1895−1954年の為替レートと為替政策

 

[報  告]

ヴェトナムの歴史的特徴

Bassino  ヴェトナムの19世紀末から1954年(フランス植民地支配の終り)までの経済史について、私たちの研究成果を報告したいと思います。

ヴェトナムの19世紀末から1954年までの時期は、アジアの経済史研究にとっては非常に興味深い時代だと思います。というのは、ヴェトナムは中国文化圏に属しながら、地理的には東南アジアに位置する国であったからです。

経済発展の過程で見ると、第二次大戦前のヴェトナムと日本・韓国とはお互いに似た特徴を持っていますが、一面では東南アジアに共通する特徴があります。東南アジアの経済発展の中での華僑の役割は非常に大きかったし、ヴェトナムの場合も華僑の影響は大きかった。しかし、日本・韓国、またある意味では台湾等と同様に、ヴェトナムのエリートは、自国の経済発展を強く意識してそのための努力をしています。例えば、諸外国から技術を移入したり、外国に留学したりしています。そういう点で、日本や韓国に非常に似たところがありました。時期的には19世紀末頃から、エリ−トたちはまず中国や日本に、またヨーロッパでは主にフランスに、場合によってはアメリカにも留学しました。

私が会ったヴェトナムの東南アジア研究所所長の言葉によると、ヴェトナムは基本的には東南アジアの国であるが、その上に中国の文化・価値観・技術をうまく融合させたところに国の特徴があるということです。

 

ヴェトナムの為替レート政策

Bassino では、為替レートと為替レート政策の話に入ります。私は先に挙げられたディスカッション・ペーパー(DP98-8)でこの問題を研究しましたので,今日はそれをもとに話します。

為替レートは、いろいろな面で重要な問題ですが、ここではヴェトナムの戦前の為替レートだけではなくて、もう少し視点を広げて研究しようと思って、為替レートと為替レート政策について調べてみました。その結果からすると、為替の管理はフランスの総督府にとって一番重要な問題だったようです。

なぜかというと、総督府が一番よく管理したのは貿易です。総督府は、貿易の相手国別もしくは品目別の変化には非常に敏感だったようで、為替レートの影響をよく調べたらしい。ところが、為替レートのモニタリングは主にインドシナ銀行によって行われていました。インドシナ銀行は、中央銀行の役割を果たしていた民間銀行ですから、その資料はあくまでも民間の資料なので、簡単に調べることができないのです。もちろん、総督府への民間銀行の報告のデータは結構そろっています。しかし、民間企業自体のデータはなかなか調べられません。

私たちは、19世紀以降の為替レートのデータを全部そろえたいのですが、実際に入手できるのはフレンチ・フランとピアストルの為替レートで、他の通貨とピアストルの為替レートは20世紀に入ってからしか分かりません。1910年代に入ると、年平均だけではなくて、毎月の平均為替レートがそろっています。貿易の面ではいろいろな国と関係がありましたから、フランとスターリングだけではなくて、アジアの主要国――東南アジア、中国、日本、インド等――の為替レートもあります。しかもおもしろいことに、当時、中国にあった複数通貨のうち、主に上海と香港それにユンナン(雲南)の通貨の為替レートの記録もあります。というのは、フランスのヴェトナム侵略の最終目的は「南の中国」への侵略だったからです。19世紀のフランス政府はユンナンと中国の南海岸の獲得を考えていたのです。

尾高 初歩的な質問ですが、基本的にはピアストルとフレンチ・フランとの間の関係を押さえれば、そのほかの通貨とピアストルの関係は、例えばシンガポールとか香港の相場を利用すれば大体わかるわけでしょう。

Bassino 貿易赤字が大きかったし、銀と金の国際移動は自由ではなかったので、それだけでは十分ではないだろうと思います。でもベンチマークとして、東アジア全体の毎月の為替レートとして使っていいと思います。

尾高 ピアストルと諸外国の為替レートをグラフにしたものがディスカッション・ペーパーに載っていますが、それぞれの通貨がどういう制度の下にあったかがわからないと、このグラフの解釈はできませんね。たとえば、銀本位制だったのか、金本位だったのかとか……。

Bassino それは少し調べました。インドシナ全体、特にヴェトナムの相手国として一番重要だったのは香港ですが、30年代まで香港ドルとピアストルは両方とも銀通貨だった。しかし、香港にあったピアストルは香港で使って、香港とインドシナの間ではそれぞれの銀通貨を自由に輸出入できなかったのです。正式には、1904年ごろから銀通貨(メキシカン・ダラー)は自由に移動できなかったのです。

尾高 なぜ金と銀は自由に動けなかったのですか。

Bassino それはフランス政府が決めた植民地商法の規則で、インドシナ銀行は一応中央銀行の役割を果していたけれども、銀貨の鋳造(mint)は自由ではなかったのです。そのうえフランス政府は、最初にメキシカン・ダラーに似せて銀のピアストルをつくったのですが、両者の間に少し差があったから、投機(speculation)できたのです。そこで、投機をとめるために銀通貨の国際移動を禁止しました。

通貨の規則は複雑で、ヴェトナム人が使っていたのは銀で、紙幣(note)を使っていたのは主にフランスの企業と中国人です。

尾高 紙幣というのは兌換券だったのですか。銀行へ持っていけば銀と換えてくれたのですか。

Bassino はい。華僑はそういうnoteに信用を持っていたから、あまり問題はなかったのです。ただ、経済の発展と同時に銀コインの流通を増やす必要があったのですが、フランスでは第一次世界大戦の混乱ですぐに銀のコインはつくれなかったのです。

尾高 銀のコインはどこでつくったのですか。

Bassino パリです。インドシナ銀行は、銀が必要だと思うと、最初にインドシナ総督府にお願いして、次にインドシナ総督府がフランスに申し込む。その間2〜3年ぐらいかかります。実際には、戦争中にインドシナ銀行の持っていた銀とnoteの流通の割合はどんどん差が広がりました。最初は通常1対3程度だったのが1対10までになったのです。ただ、ヴェトナムでの影響はあまり大きくなかった。銀の輸出・輸入は禁止されていました。

尾高 そうだとしたら、密貿易があったでしょうね。

Bassino それは結構ありました。前からメキシカン・ダラーはありましたから。特に第一次世界大戦中は、メキシカン・ダラーは密貿易で輸入したりしていました。

尾高 その資料がありますか。

Bassino もちろんありますけれども、それはあくまでも総督府側から見た問題です。

インドシナ通貨(ピアストル)は銀だったけれども、もともとはフランスがヴェトナムに来たときにすでに使っていた通貨、つまりメキシカン・ダラーを最初に使って、だんだん固有の通貨をつくろうと考えた。これはイギリスの経験を真似して考えたのです。

ところがこれは、フランスの帝国主義全体から見ると例外です。他のフランスの植民地と保護領は、どこでもフレンチ・フランを使っていました。フレンチ・フランは金通貨だったからスターリングに近い扱いをされたし、1913年までは本当に強い通貨だった。フランスが銀を使ったのは主に中国との貿易の関係でした。というのは、金の通貨に変えるとすごくデメリットがあると、はっきりわかっていましたから。ところが、19世紀末から、東南アジア・東アジアでは銀本位から金本位に変わって、複雑な状態になった。

フランスの為替レート政策の中で、インドシナは例外です。ヴェトナム通貨があるのだから、インドシナの経済発展にとって、あるいはフランスにとってメリットがあるのは、その通貨を使用することであるとフランスは考え始めたのです。第一次世界大戦までは、フレンチ・フランを導入するのはそんなに難しくなかったけれども、実際にはその必要性はあまりなかった。1902年の金融制度改革委員会(Commission for the Monetary Reform)の発足から第一次大戦まで、総督府でも為替政策や通貨制度についての意見がまとまらず、結果的に、そのまま銀を選んだということです。

この状況が変わったのは、第一次世界大戦のせいです。第一次世界大戦の影響は、基本的にフレンチ・フランの金本位制の維持を困難にしたからです。そこで、1914年に金輸出禁止政策を打ち出しました。その結果、フランスの貿易は黒字になり、逆にインドシナ全体、特にヴェトナムの貿易は赤字になって、その後もそれが持続したのです。

その後、フレンチ・フランの為替レートは急速にフラン安・ピアストル高になっていきます。ただ、スターリングとUSドルは少ししか変化しませんでした。これは世界全体の動きだったといえます。もっとも、ドルとスターリングの為替レートは、1921年ごろに大体戦前のレベルに戻りました。

戦争が終わっても、フレンチ・フランの為替レートはそのままで、フラン安が続いていましたが、フランスの植民地省(もしくは外務省・大蔵省)は、その原因はフランスではなく、インドシナにあると考えたのです。ですから、フラン安をめぐっては、インドシナ・ピアストルの危機とか、インドシナで起こる動きが異常であるとか、おもしろい表現でいろいろな報告が書かれています。

貿易だけではなく、国際収支にも問題がありました。フランスは戦後すぐに、インドシナにある金はフランス帝国全体の国際収支の改善に役立つと思って、インドシナにフランを導入しようと思ったのです。20年代になると、その意見が、特にフランス国内で目立つようになりました。おもしろいのは、インドシナ総督府でも、アジア諸国との貿易に一番重要なのは為替レートが安定している銀であるけれども、将来的に、フランにペッグしてピアストルを金通貨にしようと思ったのです。しかし実際には、アジア貿易を考慮して銀本位制を維持していたのです。

ところが30年代に入ると、全く違う状況になります。結局フランスは1930年にフレンチ・フランを選ぶ。そのときにフランスは苦労して金を解禁した。それにより、インドシナがフラン・ペッグを選べば、同時に金通貨になれると思われたのです。しかし30年代の不景気で、その予想は全然あたらなかった。各国が金輸出禁止政策をとり、各国通貨が安くなって、インドシナ全体、特にヴェトナムの貿易に非常に影響を与えました。ヴェトナムで生産されたコメなどがアジアの市場であまり売れなくなったので、商社はフランスに売りこもうとしたのです。30年代に入ってインドシナとフランスの貿易は非常に増加しました。

以上は為替の長期的な動きですが、この他に、短期的な為替変動の分析も試み、月別の平均のデータを使ってボラティリティ(volatility)をはかってみました。その結果、20年代の銀通貨のころはそれぞれのアジアの通貨とのボラティリティは、銀通貨にしても金通貨にしても、わりと低かったのです。スターリングとUSダラーとのボラティリティも、そんなに大きくなかった。30年代に入ると、逆にフランとのボラティリティはなくなるけれども、ほかの相手国とのボラティリティは非常に高くなった。

しかし、いろいろな輸出品目の1年間の輸出期間は限られていたので、輸出会社は、香港とかシンガポールの通貨、為替レートの月別の動きの予想はあまりできなかった。このような全体の動きがありましたから、逆にフランスへの輸出を促進する結果になったと考えていいと思います。

 


 

Summary(1)Discussion Paper D98-8

 

Exchange rates and exchange rates policies in Vietnam

under French rule:1895-1954

 

本論文は、インドシナの通貨ピアストル(piastre)の為替レートの長期的・短期的動向の分析に立脚して、フランス統治下のヴェトナムにおける通貨体制と為替政策の考察を行ったものである。

当時、インドシナにおける通貨体制は、本国フランスおよびインドシナ双方の官僚,民間人の複雑な思惑が交錯する中で形成されていた。その産物としてのインドシナにおける為替政策は、フランスの植民地の中でもユニークな位置を占めていたのである。つまり、フランスの支配下にありながら、他の植民地とは対照的に、統治国とは独立色の強い、銀通貨を軸とする金融システムを維持していたのである。19世紀後半から各国が金本位制度に移行していく中で、インドシナが銀通貨体制に固執したのは、同じく銀本位であった香港,上海、雲南を中心とする貿易を重視していたからである。

しかしながら、第一次世界大戦後の混乱に伴うフレンチ・フランの減価もあり、1930年には、ピアストルはフレンチ・フランにペッグされるにいたった。この選択の結果、@ヴェトナム経済は皮肉にもアジアの貿易網から切り離されると同時に、Aおりからの世界的な通貨切り下げと金輸出禁止政策との影響を被り、対輸出国・アジア諸国のピアストルの為替相場のボラティリティが顕著に助長されたのである。

 


 

[コメント]  中川浩宣

 

尾高 それでは、バッシーノさんのディスカッション・ペーパーと今日のご報告をふまえて、中川君にコメントをお願いします。

中川 まず、ディスカッション・ペーパーの手法として、歴史的アプローチと経済分析を軸にして数量的なアプローチがとられていますが、そのバランスが十分とれているところにこのペーパーの特徴があると思います.。

一般的に、例えばブレトンウッズ体制崩壊以前の発展途上国の為替政策ですとか為替レートに関するリサーチは、とかく記述的で逸話的な話に終わりがちですけれども、ここではもう一歩踏み込んで、データを使って計量的に分析しようという姿勢が強く反映しています。つまり、情報的価値プラス計量的分析結果を提供しているというところに意義があると思います。

情報的という意味では、もうバッシーノ先生がおっしゃっていて、皆さんもお気づきだと思うのですが、非常に新鮮な発見が数多く見られます。

分析のほうは、もちろんそれを可能にならしめているのは、ここに含まれた為替データで、しかも月次別のデータなので、時系列分析にも十分耐え得るという貴重なものだと思います。最後にも述べますけれども、ほかのデータ・シリーズがそろえばいろいろな計量分析ができると思います。

ここでは、名目為替についての動向を、主にボラティリティという点から分析し、ヴェトナムの為替体制等の評価を行っています。要するに、1930年にフレンチ・フラン・ペッグに移行したことで、結果的には変動幅が拡大して、メリットよりもデメリットが多かったのではないかということが指摘されているのですが、一般的にご存じのように、固定為替制度に移行するということは、自国の金融政策を放棄することに等しいわけです。その一方で、戦後のブレトンウッズ体制のようにドルというしっかりした通貨があったケースで、しかもそれに各国がペッグすればもちろん通貨として安定するわけですが、1930年代はそういった国際通貨体制も整備されていませんし、折しも通貨切り下げ戦争ということだったので、そのあおりを受けて、結果的には為替のボラティリティは顕著にあらわれたわけです。

私が思ったのは、ペッグに移行したことについて――もちろん移行したことである意味でピアストルもフラン、そして金に連結されたわけですから、それによってボラティリティの影響も受けたということは言えると思うのですが――、もしもほかの手段をとっていったらどうだったかということです。おそらく通貨切下げの影響で、為替政策のいかんにかかわらずボラティリティが増えたのではないか、と思います。

もう一つ、名目為替レートだけではなくて、実質為替レートに関する分析もここで言及されていますけれども、信用し得るデータがまだそろっていないので、実際の分析はこれからだと思いますが、国際競争力という面からも、実質為替レートのダイナミックスを見ることは非常に重要なので、ぜひそちらのほうもやっていただきたい。ペーパーの「結論」部分にもありますように、いわゆる最近のテクニック、例えばコーインテグレーション(cointegration、共和分)とかいろいろあるのですが、そういったテクニックを使って名目為替と物価の長期的関係を見たり、あるいは購買力平価の理論が長期的にどれほど成り立つものかということを統計的に処理することも可能なのではないでしょうか。

それから、これは発展系だと思うのですが、もしも何らかの長期的確率的なトレンドが見出された場合、エラーコレクション(error correction、エラー修正モデル:長期の関係から短期の変動も説明できるというモデル)を用いれば、短期分析も興味がもてると思うのです。そちらのほうも名目為替ですとか物価の短期的な動き及び調整速度、あるいは2つの変数間の因果関係なども推定できる。いずれにしろ、こうした最近のテクニックを使って、ここで扱っているようなデータを分析した研究は皆無に近いと思いますので、そのようなことも含めて、今後このリサーチを拡大していく方向性が見出されたということで、そこにバッシーノ先生たちの研究の大きな貢献があるのではないかと思います。

 

[討  論]

 

尾高 ありがとうございました。何かお答えがありますか。

Bassino コメントをいただき、ありがとうございました。いままでは名目為替レートだけを分析してきましたけれども、それと同時に実質為替レートの分析にも興味があります。国際連盟のデータを使えば20年代・30年代についてはある程度分かるのですが、特にインドシナとか中国に関してはあまりデータがそろっていないので、インフレのデータの入手は難しいと思ったのです。ですからそれは現段階ではやめました。今後このプロジェクトでそれぞれの国のデータが成果としてそろったら、それを使って2年後ぐらいに実質為替レートの分析ができると思います。

尾高 では、ほかにご意見のある方はどうぞ。

田近 為替のことはよく知らないですけれども、植民地時代のヴェトナムの主要な輸出品はゴムとコーヒーですか。

Tran コメと石炭です。

田近 一番目がコメ、それから石炭ですね。

Bassino ええ。でも、石炭はコメに比べたら大したことはないです。

田近 あとはゴムとコーヒーですか?

Tran はい。

田近 いずれにしても、植民地政策としての為替政策は、なにか特別にあったのですか。そういうのはあり得るのですか。

Bassino 植民地為替政策というよりも、まずヴェトナムは完全な意味での植民地ではなかったのです。つまり、ヴェトナムは他の植民地とは異なり、被統治国としては独立色の強い、銀通貨を軸とする金融システムを維持していたからです。

田近 ヴェトナム自身は為替レートを自分では決定できなかった。

Bassino そうです。しかし、ヴェトナムを支配したフランス人も、為替レート政策を一つに絞りきれなかったのです。総督府の中でも商人の間でも、ばらばらだったのです。特にコメの輸出商人とか商社は銀に賛成していました。銀本位制派だったのです。フランスとの貿易を専門にやっていた商社はフラン・ペッグ寄りだった。総督府の中でもばらばらだったのです。その結果、20年代にはフラン・ペッグではなくて、銀のままと決めたのです。

Tran ばらばらというのは、どうしてですか。

Bassino いまの段階では未だあまりはっきりと言えないのですが、おそらくフランス人でありながら、植民地の経済発展に役立つ経済政策・為替政策を選ばなければならなかった。それと、もちろんヴェトナムが経済発展することによって、フランスに利益がもたらされると考えられたからです。また短期的に見ると、特に第一次世界大戦と20年代には、ヴェトナム・インドシナ全体の貿易赤字のおかげで金の輸入ができたから、その金をフランスのために使うことができた。

為替レートの会議の議事録を読むと、2つのタイプの官僚がいたことがよくわかります。短期で考えると、フランスにとってはフラン・ペッグにしたほうがいい。逆に長期で考えると、ヴェトナムの経済発展のためにはビジネス・オポチュニティーが多い銀を選んだほうがいい。この2つのタイプが民間にも官僚の間にもあったのです。

Tran 当時、ヴェトナムとフランスとの交易条件はどうだったでしょうか。

Bassino ヴェトナム全体は黒字だった。しかし、対フランスは赤字だった。

Tran 貿易収支はそうですね。でも、交易条件はどうだったでしょうか。

Bassino それは、財価格のデータがそろっていないので、これからの研究課題です。

高濱 フランスからすると、ほかの植民地はすべてフランス・フランを使わせて、ヴェトナムでだけピアストルを認めたというのは、ヴェトナムにとって有利なようにというフランスの計らいだったのですか。雲南と言われましたね。ヴェトナムにとって南中国などと貿易取引をしやすいように、ピアストルを残しておいたということですか。

Bassino 19世紀の終わりには、東南アジアは銀通貨圏だったので、銀が一番簡単だったのです。ヴェトナムにいままで全然知られていない通貨を無理に入れると、もっと複雑になるおそれがあったのです。

尾高 ほかにご質問がありますか。

深尾 1920年代・30年代というのは、投機が行われたり、流動性がなくなったり、通貨切り下げ競争があったり、異常な時期ですね。そういう国際資本移動とか投機のことはあまり触れられてない。貿易のことが中心的ですね。投機についてはどういう問題が起きたのですか。例えば、フランスが植民地に対する債権を持っているとして、その価値が減価しないように通貨の下落を防止するとか、そういった側面はあったのでしょうか。

Bassino もちろん、それもありました。

資本移動については、フランスからの直接投資はよく把握されています。フランスの企業は、20年代にはヴェトナムで儲かっていたので、さらに投資をしてフラン・ペッグのためにプレッシャーをかけたフランス企業もありました。ただ、貿易黒字に比べてそんなに大きい金額ではない。しかも、もう一つの資本移動があった。つまり華僑の資本移動ですが、それは全然わかりません。

尾高 時間がきましたので、次のセッションに移りましょう。